2013年10月10日木曜日

目次

 異変 本能寺の変 三日天下 清洲会議 茶頭宗易 滝川一益 秀吉の懐柔策
 誘い水 北ノ庄城 宣伝力 毛利一族 家康立つ 腹の探り合い 情報戦
 小牧の戦 不機嫌な秀吉 信長転生 滝川一益の弁明 信長の幻 宗易の説得
 秀吉の術中にはまる 関白秀吉 茶の湯外交 悩む輝元 家康臣従 九州平定
 対外政策 聚楽第 茶々 後継者 それぞれの城 四面楚歌 小田原征伐
 戦わず勝つ 天下統一 利休隠居 信長と利休 暗殺計画 暗殺の時 辞世の句
 思春期 藤原惺窩 秀吉を呪う 名護屋城 文禄の役 無防備 秀吉落胆 休戦
 拾丸と秀次 繁栄の手本 小早川隆景の決意 秀次事件 事件の結末 秀秋の処分
 再び朝鮮出兵 出港 朝鮮上陸 秀吉の暴走 困難な救出 救援部隊 清正と秀秋
 対立 兵法 よみがえる悪夢 秀吉の威光 家康との対面 家康と三成 リーフデ号
 大谷吉継の行動 島津義弘 吉継、動く 秀秋の家臣 伏見城籠城 揺らぐ計画
 戦闘準備 決戦の地 主戦場 無血入城 三成と吉継の思い 落胆 合戦開始
 異様な戦闘 逃げ道 軍資金移動 陣羽織の意味 激突 逆転勝利 合戦の余韻
 領地復興 企みごと 学問の実証 毛利家へ 正成の計画 杉原重治 逃亡
 隠遁 春の訪れ 居場所 長嘯子 清原秀賢 問答 確執 前兆 菅得庵 キリシタン
 球形論争 妙貞問答 学問の限界 福の献身 道春 江戸 惺窩との再会 新たな道
 伴侶 易姓革命 秀頼と淀 淀の兵法 デウス号 方広寺梵鐘 知恵者 人心掌握術
 本当の泰平 豊臣家の誇り 法師武者 大坂城、集結 真相 真田家 和睦
 秀頼の本心 戦ふたたび 顔面蒼白 二つの牙 秀頼脱出 説得 武士の終焉
 自然の力 目覚めた龍 群書治要 神号論争 松平忠輝 日光改葬 黄金絵巻
 蚊帳の外 武士の知恵 明と暗 和子の入内 天皇と和子 道春の凶事 家光
 天下泰平の道 将軍、家光 家光の側近 貿易の暗雲 陽明門 戦の備え 江与の死
 復帰 皇子の死 天皇の譲位 私塾 秀忠の憂い 追号論争 家光の改革 弟の死
 目指す世 国書争論 家光の苦境 朝鮮への質問書 天草の予言 島原の乱
 東舟の死 火種 待望の日 大車輪 贈物 去りし者 明の滅亡 損益 疑惑の死
 喜びと哀しみ 家光の死 由井正雪 時の移り変わり 終焉


参考文献

 林羅山...堀 勇雄...吉川弘文館

 金吾とお呼び
  小早川秀秋心象紀行...永井 芳順(自費出版)

 異聞関ヶ原合戦...古川 薫...文藝春秋

 家康の天下取り
  関ヶ原・勝敗の研究...加来 耕三...日本経済新聞社

 小早川秀秋の悲劇..笹沢 左保...双葉社

 小早川金吾秀秋...江竜 喜信...叢文社

 さむらいウィリアム
  三浦按針の生きた時代...ジャイルズ・ミルトン...築地 誠子訳...原書房

 NHK歴史への招待第9巻
  太閤秀吉海外への夢...NHK編...日本放送出版協会

 NHK歴史への招待第10巻
  決戦関ヶ原...NHK編...日本放送出版協会

 決戦関ヶ原
  (戦国のもっとも長い日)...学研...学習研究社

 歴史読本戦国史シリーズ⑥
  天下分け目の関ヶ原...新人物往来社

 関ヶ原の役..旧参謀本部編纂...徳間書店

 豊臣政権の海外侵略と
  朝鮮義兵研究...貫井 正之...青木書店

 新釈老子...守屋 洋...PHP研究所


 参考サイト

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 http://ja.wikipedia.org/
 

 【Household Industries 歴史館】
 http://www.cyoueirou.com/_house/index.htm
 

 日本ロケット館
 http://www.bekkoame.ne.jp/%7Eyoichqge/index.html

2013年10月9日水曜日

終焉

 明暦二年(一六五六)

 一時は快方に向かっていた亀の容態が日増
しに悪化して、三月二日に息を引き取った。
 先立たれた道春の悲しみは深すぎた。その
ため、葬儀は春斎が喪主となり、亀の生前の
遺言により儒教の葬礼で行われた。そして、
上野の別邸の庭に葬られた。
 しばらくして、亀の看病で江戸に留まって
いた振らが京に戻った。
 道春は、春徳の家族と共に暮らしてはいた
が、亀という大きな存在がいなくなって、心
なしか広く静かになった邸宅で悲しみは増し
ていった。
 時々、春斎の家族がやって来て賑やかにな
ると、次第にもとの道春にかえり、前にも増
して勉学に打ち込んだ。そして八月には、十
四歳になった春斎の長男、春信と一緒に、江
戸城に登城して家綱に拝謁した。
 家綱もこの時はまだ十六歳で、春信とはあ
まり歳が離れていなかったこともあり、話し
相手が出来たことを喜んだ。しかし、補佐役
の保科正之は、家綱が高い教養を身につけ、
学問により天下を治める武士の手本としたかっ
た。そこで十二月に、あえて隠居の道春を呼
び、家綱に「大学」の講義をするよう命じた。
そして、道春の補佐をよくこなしている春徳
には、法眼の位を授けた。

 明暦三年(一六五七)

 江戸城で毎年恒例となった元旦の祝賀に道
春は、春斎と、この時初めての春徳を伴って
登城して家綱に拝謁した。
 こうして儒学者の親子三人が高い地位につ
くことは、清や朝鮮の歴史上でも稀で、蘇東
坡親子三人が老蘇、大蘇、小蘇と称されたの
に倣い、林家の親子三人は老林、仲林、叔林
と称された。
 三人の儒学者の知性あふれる姿により祝賀
を盛り上げることができ、道春にとって誇ら
しい日となった。
 この元旦の夜、江戸・四谷竹町のあたりで
火事が起き、その後も各地で火事が多発した。

 一月十七日に、家綱が紅葉山の東照宮に参
拝するのに道春も供をした。
 その夜、道春は疲れからか気分がすぐれな
かった。

 一月十八日

 今度は江戸・本郷で火の手があがり、町中
に広がった。この時、春斎の邸宅も類焼して
家屋は焼けたが、幸い書庫は焼け残った。
 一旦火の勢いは治まったが次の日、小石川
で再び火の手が上がった。
 これが大火となり、大名屋敷を焼き尽くし、
江戸城の本丸、二の丸までも焼き尽くした。
そして道春の神田にある本宅にも飛び火した。
この時、道春は本宅で「梁書」を読んでいた。
 炎は瞬く間に家屋を飲み込み、もうろうと
した道春は、この梁書一冊だけを持って外に
出た。
 そこに春徳が駆けつけた。
 さらに炎は、新たに移築した書庫にも向かっ
ていた。この書庫は耐火性に優れている倉の
ような建物で、火災には強いはずだが、炎は
容赦なく書庫にも燃え移ろうとしていた。
 道春の使用人らが、慌てて書庫に向かおう
としたが、春徳が叫んでそれを止めた。
「書物を持ち出してはならん。書庫は幕府か
ら火災に強いと言われ賜ったもの。その書庫
から書物を取り出したとあれば、幕府を信用
しておらぬことになる。必ず書物は残る。お
前たちが無理をして無駄死にしてはならん」
 春徳は、梁書一冊を握り締め気を失いかけ
た道春を、使用人の用意した輿に乗せ、上野
の別宅に逃げ延びた。
 この大火は、二十日になってようやく鎮火
した。その被害は、数万人にもおよぶ死者を
出し、後に「明暦の大火」と呼ばれた。
 すぐに春徳は、本宅の様子を見回って戻り、
道春に書庫が全焼し、書物もすべて焼けたこ
とを告げて悔し涙を流した。
「そうか、何もかも、すべて失ったか。しか
し、お前の判断は正しかった。ようやってく
れた」
 書物は春斎や春徳にも分け与えていたので、
すべてを失ったわけではないが、それでも道
春の落胆はひどく、火災の影響もあって、重
い病に倒れた。そして、一月二十三日に静か
に息を引き取った。

 道春の葬儀は、二十九日に儒教の葬礼で質
素に行われ、上野の別宅にある亀の眠る墓の
側に葬られた。

 水戸の徳川光圀は、道春の遺志を継ぐかの
ように、二月から「大日本史」の編集を始め
た。

 道春は幕府に対して、それほどの存在感は
なかった。しかし、春斎が道春の跡を継ぎ、
しばらくして、幕府から束髪を命じられた。
 これは、儒学者として幕府に仕官すること
を認められた証で、春斎は「大学頭」と称さ
れるようになり、道春を林家の始祖として、
その功績を世に広め、春徳と共に儒学を官学
とする道筋をつくった。

 こうして徳川幕府の本格的な治世が始まっ
た。

                      終わり

2013年10月8日火曜日

時の移り変わり

 承応二年(一六五三)四月

 春斎は、家光の三回忌に酒井忠勝の供をし
て日光山に登った。
 それより遅れて道春は、八月になって春徳、
人見友元らと共に登り、家光の霊廟を参拝し
た。
 道春は、老いた自分よりも若い家光が先に
逝くなど、想像もしていなかった。
 道春はしばらく拝んだ後、生前の家光を想
い、感慨深げにつぶやいた。
「権現様は、自然の理によって天下を治めら
れたが上様は、自然に苦しめられましたなぁ。
しかし、こうして天下は治まり、お若い家綱
様を良い家臣が補佐して、難局を乗り切って
おりますぞ。これは上様が基礎をしっかりと
築かれたおかげにございます。どうかこれか
らも天下泰平の世をお守りください」
 道春はまた、しばらく家光の霊廟を拝み続
けた。そして、名残惜しそうに日光山を下り
ると、下野の足利学校などを巡って江戸に戻っ
た。

 承応三年(一六五四)四月

 春徳に待望の長男、勝澄が産まれた。その
喜びを打ち消すかのように、しばらくして妻
の吉が亡くなり、春徳の子、一男二女は、道
春が引取り養育することになった。
 九月に、後光明天皇が病のため二十二歳の
若さで身まかられた。
 天皇が病にかかった時、この年に産まれた
ばかりの弟、識仁親王を養子に迎えていたが、
このような事態になるとは想像していなかっ
た。そこで、識仁親王が成長するまでの間、
やはり弟の花町宮が天皇に即位することになっ
た。
 花町宮は、十一月に即位し、後西天皇となっ
た。

 承応四年(一六五五年)

 年が明けてすぐに亀が病に倒れた。
 道春の代わりに春斎、春徳があらゆる手を
尽くして看病した。また、京から娘、振が子
を連れて駆けつけ、振の夫、荒川宗長と亀の
弟、荒川宗竹(宗長の父)も見舞いに駆けつ
けた。
 亀は気丈に振舞おうとしたが、病状は思わ
しくなかった。

 四月に元号が改められることになり、道春
も協議に加わって「明暦」と決められた。
 家綱を補佐する体制は、保科正之のもとで
次第に統率がとれるようになってきた。
 溢れていた浪人の居場所も確保されて落ち
着き、武力での取り締まりは減っていった。
 それに代わって、法制度に従うように教育
する必要があり、学問が振興されたので、林
家と私塾の役割はさらに重要になった。
 道春は、幕府から書庫にうってつけの火災
に強い倉のような建物を賜り、神田の本宅に
移築することにした。これで私塾まで行くこ
となく、亀の看病をしながら勉学に励めるよ
うになったと喜んだ。

 十月には、家綱が征夷大将軍になったこと
を祝賀するため、朝鮮通信使、四百八十五人
が江戸に到着した。その三使には、正使・趙
コウ、副使・愈トウ、従事官・南龍翼がなっ
ていた。
 道春と春斎が、朝鮮から家綱に送られた朝
鮮国王、孝宗の国書を読みに江戸城に登城し
た時、三使は道春と会見した。
 三使は、江戸に来る途中の大坂で、道春が
書いた「五花堂記」を読んで感激したと褒め
称え、これまで多数の著書を出していること
に敬意を表した。
 その態度に、朝鮮では道春をよほど恐れて
いることが伺えた。
 道春は、三使に春斎を紹介し、跡継ぎであ
ることを伝えた。
 朝鮮国王からの国書への返書は、道春が起
草した。これと一緒に送られる保科正之、阿
部忠秋、井伊直孝、酒井忠勝、酒井忠清、松
平信綱の書簡は、春斎と春徳が分担して起草
した。
 その後、道春は春斎、春徳、春信を連れて、
三使の滞在している本誓寺に度々出向き、詩
などを交わして友好を深め、林家への評価を
高めることに努めた。
 三使にとっても、林家が幕府の窓口になれ
ば交渉がやり易い。
 こうしてお互いの利害が一致して成果を上
げることができ、三使はひと安心した。
 数日後、朝鮮通信使は名残を惜しみながら
戻っていった。
 道春らは、大役を務めたことで褒美が与え
られ、亀の容態に不安はあったが充実した一
年を終えた。

2013年10月7日月曜日

由井正雪

 由井正雪は、町人の子として生まれ、楠木
正成の子孫、楠木正辰の弟子として軍学を習
い、正辰の娘と結婚して婿養子になった。そ
して、名軍師として知られる張子房と諸葛孔
明から名をとった私塾の「張孔堂」を開き、
正辰の楠木流軍学を広めていた。
 その名声は高まり、諸大名や幕府からも仕
官の誘いがあったが、正雪は断り続け、張孔
堂に諸大名、旗本の子らを集めて門下生とし
ていた。
 その後、浪人が増え続け、幕府の仕官を断っ
てまで軍学を教えている正雪に共感し、ます
ます頼って来る者が多くなった。やがて、三
千人を超す一大勢力になっていった。
 そうした中での家光の死と、松平定政の幕
府に対する捨て身の批判とも受け取れる行動
が、正雪をつき動かした。
 正雪の呼びかけに応えて密かに集まった丸
橋忠弥、金井半兵衛、奥村八左衛門らが話し
合い、江戸の焼討ちを皮切りに、京、大坂な
どで決起することが決められた。これには、
天皇に幕府討伐の勅命を受けることまで綿密
に計画されていた。ところが、この中の一人、
奥村八左衛門は、幕府に内通していて計画の
すべてが幕府に伝えられていた。
 幕府は、七月二十二日に正雪が江戸を発つ
のを見計らって、丸橋忠弥を捕らえた。それ
を知らない正雪は、駿府に到着して、町年寄
の梅屋太郎右衛門の邸宅に泊まった。
 早朝、邸宅の周りには幕府の捕り方が囲み、
正雪は初めて計画が漏れていたことを知った。
「策士、策に溺れるとはこういうことだな。
計画は完璧だったが、人を信じすぎたか。ま
あよい。張子房、諸葛孔明にはなれなかった
が、町人の小僧が幕府を動かせたのだ」
 正雪はそう言うと、自刃して果てた。
 大坂にいた金井半兵衛も、正雪の死を伝え
られると、すぐに自刃した。
 こうして由井正雪の反乱はあっけなく終わっ
たが、張孔堂に残った門下生たちが、一斉に
この計画の顛末を世間に吹聴した。
 その反乱計画の中には、紀州の徳川頼宣が
加わっているとか、天皇の関与も噂されるよ
うなものだった。
 これが幕府にとって大きな痛手となった。
そして、この影響から八月に家綱が征夷大将
軍となる宣下の儀は、京ではなく江戸城で行
われた。
 道春は、家綱のために「大学倭字抄」「貞
観政要諺解」を作り、将軍宣下の儀では、宣
旨を奉じるなどした。これらの褒美に、知行
地を加増され九百十七石となった。

 慶安五年(一六五二)

 幕府は、尾張、紀伊、水戸の御三家を江戸
詰めとし、家綱を補佐するように命じた。そ
して、浪人対策として末期養子の法度を改め
ることにした。
 これまで大名、旗本が死亡した後での養子
縁組(末期養子)は認められていなかった。
そのため病気などで若くして突然、死亡した
ような止むを得ない事情でも、お家断絶とな
り、これが浪人を増やす原因だった。
 かつて、小早川秀詮が死亡したことで家臣
の平岡頼勝が養子縁組に奔走したが認められ
なかったのはこの法度があったからだ。
 そこで、五十歳未満の大名、旗本には、死
後でも養子縁組を許可することにした。
 それでも再び浪人の別木庄左衛門らが騒乱
を計画していることが分かり、この時も捕ら
えて未然に防ぐことは出来たが、さらに浪人
の処遇改善をする必要に迫られた。

 道春はこの頃、春斎の長男、春信の教育に
生きがいをみつけていた。
 七月には、春徳に次女、乙女が産まれ、に
ぎやかになった。
 九月に元号が改められることになり、道春
も協議に加わって「承応」に改められた。

2013年10月6日日曜日

家光の死

 慶安四年(一六五一)二月

 所帯を持つことを拒んでいた春徳だったが、
長女、菊松が産まれ父親となった。
 それを知った徳川光圀から詩を賜るなど、
道春を喜ばせた。だが、その喜びもつかの間、
四月に家光が病に倒れ、後のことを重臣に託
して、静かに息を引取った。
 家光の後を追って、堀田正盛、阿部重次ら
が殉死した。
 家光から後を託された酒井忠勝、内藤忠重、
松平信綱、松平乗寿、永井尚政、阿部忠秋ら
は、家光の遺言に従い、十一歳の家綱を将軍
として、その補佐役に家光の異母弟、保科正
之を迎えることにした。
 これにともなって大奥がなくなり、側室ら
は出家した。そして、大半の女官も去っていっ
た。しかし、春日局の跡を引き継いだ万は留
まったので、家光の正室、孝子が強い権力を
握ることはできなかった。
 家光の遺骸は、上野の東叡山・寛永寺に移
され、葬儀が行われた後、五月六日に日光山・
輪王寺に葬られた。
 数日後、道春は江戸城に呼ばれた。そして、
酒井忠勝らと家光の追号について協議してい
た。そこに、京都所司代の板倉重宗から、家
光の埋葬が行われた同じ日に後水尾上皇が出
家したという知らせが入った。
 世間の誰もが、家光の死を悼んでの出家と
考えたが、後水尾上皇は徳川家を良く思って
いなかったことから道春は、これはありえな
いと思った。
 忠勝は道春に意見を求めた。
「上皇は、譲位なされた時も、誰にもお告げ
にならなかった。こたびも、周りの者は知ら
されておらぬということは不可解にございま
す。これは、幕府の言いなりにならぬという
だけではなく、いずれ混乱が起きる。それを
見越しての行いではないでしょうか」
「では、この機に乗じて何者かが騒動を起す
ということでしょうか」
「そうかもしれません。その時に上皇は『あ
ずかり知らぬ』ということにされるおつもり
かもしれません」
 忠勝が懸念していることを話した。
「今、巷には諸大名が改易などをされ、多く
の浪人が溢れ、治安が悪くなっております。
これらの者が徒党を組んで騒動を起せば、幕
府はもちこたえられぬかもしれません。早速、
監視を強化いたします」
「それが良いと思います」

 五月十七日に道春らは、日光山・輪王寺で
贈官位の式を行い、家光は大猷院となった。
 七月に入って道春は、三河・刈谷藩主の松
平定政に誘われて、その邸宅に出向いた。
 定政は家康の異父弟、松平定勝の子である。
 邸宅にはすでに、奏者番・増山正利、大番
頭・中根正成、大目付・宮城和甫(まさより)、
作事奉行・牧野成常、町奉行・石谷貞清といっ
た幕府の重責にある面々がいた。
 定政は、皆を一通りもてなして落ち着いた
ところで話し始めた。
「各々方に申したいことがある。わしは亡き
上様に多大なる恩を受けた。この後は、家綱
様に心を尽くして仕えたいと思っておる。し
かし、家綱様を補佐する者らを見るにつけ、
これでは遅かれ早かれ騒乱となるであろうと
察する。このこと、補佐する者らに伝えても
らいたい」
 そう言って、用意していた封書を差し出し
た。
 その封書は、井伊直孝、阿部忠秋宛になっ
ていた。
 この後、定政は、すぐに長男、定知を連れ
て、上野の東叡山・最教院に入り、剃髪して
出家した。そして、号を能登入道と名乗り、
僧侶の姿で江戸市中に物乞いに出て、大声で
叫んだ。
「松平能登入道に、物給え、物給え」
 それを聞いた者は、すぐに三河・刈谷藩主
の松平定政だと分かり、大騒ぎとなった。
 やがて幕府の知るところとなり、定政を捕
らえると、狂人扱いにして改易した。
 定政の奇行は、主君が改易されたことで、
居場所を失っていた浪人たちを刺激し、幕府
への不満が一気に高まった。その中心となっ
たのが、由井正雪の開いた軍学塾「張孔堂」
だった。

2013年10月5日土曜日

喜びと哀しみ

 ようやく大飢饉からの復興が進み、気がつ
くとまた、庶民の暮らしが派出になり始めて
いた。
 そこで家光は、質素倹約を徹底するように
取締りを強化した。

 慶安二年(一六四九)

 道春は隠居したといっても、重要な訴訟の
裁断には立会った。そして、それにもとづく
法度の施行にも加わった。
 そうしたなに不自由なく落ち着いた生活を
している中、六月になって木下長嘯子の死が
知らされた。
 道春は、長嘯子の風にたなびく草のような
生き方をうらやましく思っていた。
 戦国乱世に武士でありながら力はなく、豊
臣秀吉の縁者として命令されるがままに戦に
参加した。しかし、恨まれることもなく、家
康が天下を取れば、あっさりと武士を辞め歌
人となった。
 あえて質素な生活をしながら和歌や詩を作
り、大名や名立たる文人と交流して、歌仙と
まであだ名される一時代を築いた。
 そのおかげで道春もここまで生き延びられ
たと感謝していた。
 長嘯子は、歌人として影響力のある存在に
なっても、最後まで偉ぶることはなく野にあ
り、潔く去っていった。
 道春は、悲しみよりも清々しく感じていた。
(今ごろ兄上は、好きだった福に恋の歌でも
作っておるのだろう)
 長嘯子が多く作った恋の歌は、福(春日局)
に宛てたものだということは、道春以外に気
づく者はいなかった。

 しばらくして、春斎に長女、久が産まれ、
亀は初めての女子に喜んだ。
 十月になると、幕府に明の鄭成功が再び、
援軍の要請をしてきた。
 鄭成功は、父、鄭芝竜と日本女性との間に
産まれた。
 鄭芝竜が清に降伏した時、逃亡して今まで
反攻する機会をうかがっていたのだ。
 幕府には、もはや鄭成功の要請に応じる気
はなかった。だからといって、日本の血をひ
く者をあからさまに拒否して、もし清に影響
力を持つようになれば不利益になると考え、
日本からの物資を積み出すことは黙認した。
 この後、鄭成功がどうなったかは誰も知ら
なかったが、日本は朝鮮を介して清との交易
をすることになった。

 慶安三年(一六五〇)

 道春の四男、春徳は、予定していた「本朝
編年録」の文武天皇から桓武天皇までの起草
を終えて、その先の宇多天皇までをさらに起
草した。これを合わせた四十巻を家光に献上
した。
 道春は、立派に務めをこなした春徳に所帯
を持たせようと、以前から親交のあった水戸
の徳川光圀のもとに仕えていた伊藤友玄の娘
との縁談を春徳に話した。
「父上、私はまだまだ未熟者にございます。
妻をめとるなど、まだ早うございます」
「なにを申す。お前はもう二十七にもなる。
遅いぐらいじゃ」
「歳は関係ありません。人としてどうかとい
うことです」
「お前はもう立派に務めをこなしておる。妻
をめとれば、さらに力を発揮できるというも
のじゃ」
 納得しない春徳に亀が口を挟んだ。
「守勝。お相手はご立派な家柄の娘さんです。
こんな良いお話はまたとありませんよ。人と
の出会いというのは大切にしなければなりま
せん。私も良い出会いをしたから、お前とい
う立派な子宝に恵まれたのです。お前が所帯
を持ってくれたら、父も母も思い残すことは
ありません。お受けするか断るかは、会って
みてからでもよいのではないですか」
 会えば断れなくなることは、春徳には分かっ
ていたが、渋々承諾した。
 それから間もなく、春徳と伊藤友玄の娘と
の婚礼が行われた。
 八月には、春斎に次女、七が産まれ、二重
の喜びととなった。

2013年10月4日金曜日

疑惑の死

 秋になって十七歳になった道春の娘、振が、
亀の弟、荒川宗竹の子、宗長に嫁ぐことにな
り、振は京に旅立った。
 春斎は、東舟が住んでいた旧宅を貰いうけ
ることになった。
 守勝は、父や兄と同じように幕府に仕官す
ることになった。しかし、これまで守勝は髪
を切っておらず、仕官にも気が進まなかった。
「父上、私は今のまま、儒学を極めとうござ
います。仕官など、私の性に合いませぬ」
「それは分かっておる。できることなら、お
前の好きなようにさせてやりたい。しかし、
今はまだ天下泰平が磐石とは言えぬ。いつ動
乱が起きるか分からぬでは、お前の儒学を極
めたいという道も断たれよう。それを心配し
ての仕官なのじゃ」
 亀も心配そうに話した。
「父も母もいつまでお前を見守ってやれるか
わかりません。そなただけが気がかりなので
す。親孝行をすると思って、聞き分けてくれ
ぬか」
「そのように言われると嫌とは申せません。
しかし、父上や兄上のようになれるとは到底、
思えません。どうか過大な期待はおやめくだ
さい」
「分かった。分かった。よう決断してくれた。
それだけでわしは嬉しいぞ」
 道春と亀はほっとして喜んだ。そしてすぐ
に守勝を剃髪し、春徳という号を与えた。
 十二月末に、春徳は初めて江戸城に登城し、
家光に拝謁した。

 正保四年(一六四七)

 道春は、江戸城にほとんど登城することは
なくなり、子らが一人前になったので、近い
うちに春斎が東舟の住んでいた旧宅に引っ越
すのを機会に、自分の蔵書を分配して隠居す
ることにした。
 蔵書の中から、春斎には千部余り、春徳に
は七百部余りを分け与え、残りは春斎の子に
いずれ与えるようにと春斎に持って行かせた。

 その頃、大奥では家光の次男、亀松がわず
か四歳で死んだことで、色々な憶測が飛び交っ
ていた。
 正室、孝子にとって亀松がいたのでは、仮
に長男、家綱に子ができないとしても、自分
の影響力がある側室、夏の三男、長松に将軍
の座が巡ってくるのは程遠い。
 そこで孝子が亀松を暗殺したというのだ。
 当然、孝子は否定し、逆に春日局の後任と
なった万の謀略と非難合戦になっていた。
 これに家光は激怒し、亀松は病死として片
付けた。
 この後、側室の里佐が五男、鶴松を産んだ
ことで争いは治まっていった。
 里佐は、孝子の侍女として大奥に入り、家
光の側室となった。

 この年には、江戸で大地震があり、江戸城
の石垣や大名屋敷が倒壊するなどの被害が出
た。

 正保五年(一六四八)

 この年の二月に、元号が慶安と改められた。

 大奥の孝子派と万派の対立は、前年に産ま
れた鶴松の早世によって、再び慌ただしくなっ
た。
 孝子派の里佐が産んだ鶴松の死を万派は自
作自演と主張した。
「孝子が、次男、亀松の死を自分たちの仕業
ではないと思わせるために、あえて鶴松を暗
殺し、窮地にある三男、長松に将軍になる権
利を取り戻そうとしている」
 すると孝子派は万派の陰謀と主張した。
「万派は孝子が亀松を暗殺したと思っている。
その報復として鶴松を暗殺し、その上、孝子
を罪に落とし入れようとしている」
 こうしてどちらも言い訳や作り話の応酬を
して争いが深刻になっていった。
 これに対して家光は、主だった者を集めて
宣言した。
「すでにわしは家綱を世継ぎと決めておる。
その後のことは家綱が決めること。これ以上
争うのであれば、この後の世継ぎは御三家か
ら選ぶことにする」
 これには誰も異論を唱える者は出ず、よう
やく対立は治まった。
 このことがあって、大奥の組織化が一段と
進み、正室と側室が無用な対立を起さないよ
うに、産まれた子の育て方が取り決められて
いった。