2013年4月30日火曜日

関白秀吉

 朝廷をも動かす力をつけた秀吉は、西国を
支配する毛利輝元と同盟を結ぶことで、四国
の長宗我部元親と九州の島津義久への押さえ
とした。そして、年が明けた天正十三年(一
五八五)三月に紀州の雑賀衆、根来衆の一揆
討伐に出陣した。
 雑賀衆、根来衆は家康に味方していたのだ
が、秀吉は家康の手を借りずに討伐しようと
したため、予想以上の反撃にあい、一旦退却
し、再び兵十万人の大軍を率いて出陣した。
 この時には、小早川隆景にも毛利水軍の出
動を要請した。
 これに対して雑賀衆、根来衆は兵二万人で
応戦した。
 歴然とした兵力の差に加え、雑賀衆、根来
衆は、城に分散して籠城戦を選んだため、奮
戦はするものの次々に落城していった。
 城攻めが得意な秀吉と説得して開城させる
のが得意な弟、秀長の硬軟合わせた絶妙な対
応も戦いの終結を早めた。
 一気に根来衆の本拠地、根来寺に押し寄せ
た秀吉の大軍に、立てこもっていた鉄砲部隊
五百人の奮戦もむなしく寺は焼き払われた。
 一方、雑賀衆は内紛状態にあり、ほとんど
戦うこともなく首領、土橋平之丞の居城、土
橋城を落城させると、最後に残った太田党の
籠城する太田城の周りに堤防を築かせ水攻め
にした。
 すると程なく兵糧がつき降伏した。
 そこに籠城していたのは、ほとんどが百姓
や女、子らだった。
 六月に入ると秀吉は、体調がおもわしくな
かったため、代わりに秀長を総大将とした兵
十万人の大軍を四国征伐に向かわせた。
 四国を支配していた長宗我部元親も家康に
味方していたのだが、この時も家康の手を借
りることはなかった。
 元親は阿波の白地城に兵二万人で防備を固
めた。これに対し秀長は、甥の秀次と阿波に
上陸し、秀吉の養子となっていた宇喜多秀家
は讃岐に向かった。そして、毛利輝元や小早
川隆景らは伊予にそれぞれ上陸した。
 羽柴軍は各地で勝利し、追い詰められた元
親は秀長に説得され降伏した。その後、元親
は土佐を安堵され秀吉に恭順した。
 この間の七月十一日に秀吉は関白に就任し
た。
 民衆は、百姓の身から関白になるという途
方もない夢を実現した秀吉に憧れ、励みとし
た。
 八月になると秀吉は、越中の佐々成政を討
伐するために出陣した。
 すると成政は織田信雄に仲裁役を頼み、富
山城を明け渡して秀吉のもとに投降するとい
うあっけない幕切れだった。

2013年4月29日月曜日

秀吉の術中にはまる

「宗易、ではわしはどうすればいいと言うの
だ。今さら秀吉に許しを請えと言うのか」
「私がここに伺いましたのは、そのことを申
し上げたかったのです。秀吉様は天下を自分
ひとりのものにしようなどとは考えておられ
ません。多くの方々の力を合わせて、天下を
治めようと考えておられます。秀雄様にも、
そのおひとりになっていただきたいのです。
これは茶の湯にも通じる考え方です。茶室に
集い上下の関係なく茶の湯を楽しむのと同じ
ことです」
「しかし、それでは家康を裏切ることになる
ではないか」
「いいえ。家康様にも加わっていただくつも
りです。それにはまず、秀雄様のご決断が必
要なのです」
 秀雄はしばらく考えて宗易に任せることに
した。
 宗易はすぐに家康のもとに向かい、秀吉と
秀雄の和睦が成立したことを伝え、家康に大
義名分のなくなった無用の戦を止めるように
訴えた。
 機転のきく家康はすぐに理解を示し、兵を
退き、秀吉と和睦することを受け入れた。
 しばらくして、宗易から秀吉のもとに「信
雄からは長女の小姫、家康からは次男の於義
丸を人質として送る」との知らせがあった。
 こうして和睦は成立した。
 結局、家康は秀吉に踊らされ、夢を見せら
れただけに終わり、目が覚めると秀吉の思い
通りに進んでいたことに気づかされた。
 気の合わない兄弟のようだが、秀吉は家康
を得て武家と公家の支持を得ることができ、
家康は発言権を増し、秀吉の後継者になる機
会を手に入れた。
 秀吉が、家康、信雄と正式に和睦を締結し
上洛すると、朝廷から従三位、権大納言に叙
任された。この時、秀吉は財力にものをいわ
せて養子にした辰之助改め秀俊を権中納言に
するよう願い出た。
 権中納言になる条件の一つには、参議になっ
た経歴があることなのだが、三歳の子を参議
にするなど前例があるはずもなく、その上、
参議を飛び越していきなり権中納言にするな
ど途方もない願いは一笑にふされた。しかし、
秀吉は「秀俊には信長公が転生している」と、
これまでの経緯を語り「信長公ならば参議ど
ころか権大納言にもなっている」と主張した。
 この時代の朝廷は、祈祷などをして権力の
維持をはかっていたため、霊的な体験をあか
らさまに否定できなかった。まして、破竹の
勢いで天下統一に向かっている秀吉の武力を
無視することはできず、何よりも秀吉の多額
な献金は魅力的だった。
 権中納言の「権」がつくのは正員ではなく
補欠のような立場ということもあり、朝廷は
秀俊を権中納言とし左衛門督の官位も与える
ことにした。
 左衛門督の唐名が執金吾ということで、こ
れ以後、秀吉とねねは秀俊のことを金吾と呼
んで溺愛した。

2013年4月28日日曜日

宗易の説得

 家康は、信雄が秀吉になびかないうちに事
を進めようとあせっていた。
 この頃、家康に味方する香宗我部親泰が、
讃岐を攻略したと聞くと、すぐに家臣の本多
正信を使者として送り、淡路を攻めるように
奨励した。そして家康自身は、伊勢へ進軍し
て上洛を目指すことにした。しかし、秀吉が
美濃へ進軍してきたので、上洛は延期せざる
おえなかった。
 秀吉は、尾張のいたる所に放火させ、家康
を足止めさせた。そして家康の本拠地、三河
を狙う構えを見せた。
 これを機に各地で連鎖反応のように戦が発
生した。
 近畿では、香宗我部親泰の兄、長宗我部元
親が挙兵すると、淡路、摂津、播磨を次々と
攻略した。
 九州では、かつて室町幕府の第十五代将軍
だった足利義昭が、幕府の復興を狙い、毛利
輝元、小早川隆景、吉川元春の毛利一族を介
して島津義久に大友義鎮を討つように要請し
ていた。
 北陸でも、北条氏直が挙兵の準備を進めて
いた。
 こうして秀吉が家康を引き付けている間に、
千宗易が密かに織田信雄のもとに送られた。
 宗易は、秀吉の茶頭、堺商人、茶人という
三つの顔を巧みに使い分けていた。
 信雄の配下にあった叔父の長益は、宗易の
門人であり、茶人として現れた宗易を快く迎
え入れた。
 そこにいた信雄も父、信長の茶頭をしてい
た宗易を歓迎した。
 それに信雄には、宗易にどうしても聞きた
いことがあった。
「宗易も父上が転生したという子のことを存
じておるのか」
「城内でそのような噂があったことは知って
おりますが、今はぱったりと聞かなくなりま
した。そうそう最近、辰之助という三歳にな
るお子が、秀吉様の養子として迎えられ、た
いそうかわいがられておるようです。そのお
子が信長様の亡くなられた年に生まれたとい
うことでそのような噂が流れていたのでしょ
う」
「しかし、その子は父上の南蛮甲冑に金が埋
めてあることを知っておったぞ。もしかして、
父上はまだ生きていて、秀吉の所にいるので
はないのか」
「それは絶対にありません。もしそのような
ことがあれば、秀吉様が小躍りして世間に触
れ回っているでしょう。南蛮甲冑のことは不
思議ではありますが、やはり何者かが知って
いたことを噂したとしか思えません」
「そうであろうか。やはり家康が申しておっ
たように、秀吉の術中にはまるところであっ
たか」
「そうでしょうか。秀吉様は裏表がなく分か
りやすいお方のように存じます。秀吉様は本
心をさらけ出されるので、それを恐れる心が
不信を抱かせるのではないでしょうか。私に
は家康様こそ何をお考えか、とんと分かりか
ねます」
「……」
「明かりは物をよく見せますが、影も作りま
す。その影だけをみて得体が知れないと恐れ
るのはおかしな話。逆に暗がりは影ができま
せんが、そもそも何も見えていません。秀吉
様は明かりのように、良い部分も悪い部分も
見えていますが、家康様は、暗がりではない
でしょうか」

2013年4月27日土曜日

信長の幻

 織田信雄は山口重政を呼び、滝川一益の使
者が話したという父、信長が転生した子のこ
とを問いただした。
「信長公が転生したという三歳になったばか
りの幼子は、大坂城で秀吉をはじめ、多くの
家臣らが集まった中、信長公の好まれた謡曲、
敦盛を、堂々と謡ったそうにございます。ま
たその後、家臣の一人が過去の思い出を問う
と、その幼子が申すには、南蛮人から送られ
た甲冑に、槍で突いたような穴があり、そこ
を金で埋めさせたと。それが清洲城にあると
申しておったそうです」
 信雄はハッとして家臣を呼び、城の思い当
たる場所を探させると、子の言ったとおりの
南蛮甲冑が見つかった。
 信雄に呼び出されてこの話を聞いた家康は、
「そのことを知っている何者かが、子に言い
聞かせたに違いない」と、一笑にふした。
 実は家康のもとには、早くから伊賀衆によ
り、信長が転生した子の情報は届いていた。
 すっかり信じ込んでいる信雄が言った。
「これが秀吉の計略なら、なぜ世間に吹聴し
ないのだ」
 信雄の疑問を家康もいだいていた。
「確かに、いつもの秀吉なら大げさに触れ回っ
ているでしょう。しかし今は、己の天下取り
をしている最中。信長公が現れたような話は
混乱を招くだけと判断しているのでは」
 なおも信雄の疑念は消えない。
「もしかして、父上が見つかって秀吉のもと
にいるのでは……。本能寺が焼け落ちた時、
かなりの深手をおっておられるはずじゃ。秀
吉が父上をどこかに閉じ込めて、言いなりに
しているのではないだろうか」
 家康は、このことで信雄が弱気になること
が怖かった。
「分かりました。この家康が十分に探ってま
いりますので、今しばらくご猶予をくだされ。
けっして憶測で動いてはなりませんぞ。秀吉
の術中にはまるだけです」
 信雄は承知したが、浮かぬ表情は消えるこ
とはなかった。
 その頃、秀吉は摂津の有馬にある温泉で、
のんびりと湯治をしていた。

2013年4月26日金曜日

滝川一益の弁明

 家康と信雄の前に引き立てられた一益は、
何食わぬ顔で言い訳を始めた。
「わしは秀吉殿から信長様がお戻りになるの
で、尾張の城を預かるように言われただけだ。
蟹江城の与十郎殿もすでにこのことはご承知
のようで、快く城に入れてくれましたぞ。そ
れで信雄様もご承知と思い、使いの者を大野
城に向かわせた次第」
 信雄はまったく知らないといった様子で、
家康の顔を見て言った。
「いやわしは知らん。与十郎め、秀吉に内通
しておったか」
「なんと。信雄様はご存知なかったのですか。
さては、秀吉が降伏したわしをだまして殺す
つもりであったか。この歳まで生きながらえ
てこのようなたわいもない計略が見抜けぬと
は……。わしも落ちぶれたものよ。家康殿、
わしはこのような恥辱は耐えられん。今すぐ
にでも首をはねてくだされ」
「何を申される。信長公に仕え、数々の武勲
をあげたればこそ、信長公のためとあらば何
の疑いもなく従われた。その忠義者のそなた
を殺せようか。憎っくきは秀吉ぞ」
 一益は肩を落として声を出し泣き崩れた。
 それを見た信雄が声をかけた。
「そうじゃ。一益がどれだけ父上の助けとなっ
たか。幼い頃、よう聞かされたものじゃ。そ
こで一益に頼みがある。裏切り者の与十郎を
討ち取って来てもらいたい」
「ありがたきお言葉、かたじけのうござる。
これを織田家最後のご奉公とし、この後はす
ぐに出家して、信長様を弔う余生といたした
いとぞんじます」
 信雄は一益の肩を叩いてねぎらうように言っ
た。
「それがよかろう」
 それに家康も賛同した。
 一益はすぐに立って、蟹江城で何も知らず
待っていた与十郎を斬り捨てた。
 こうして開放された一益は、すぐに京の妙
心寺に向かい出家して仏門に入った。
 この頃、秀吉は一益が、尾張を首尾よく攻
めれば自らも進撃しようと、近江に待機して
いた。そして今は、美濃の岐阜城に移り、一
益が敗退したという知らせを聞いていた。
「一益め、衰えたな。出家もしかたあるまい。
じゃが、ようやってくれたわ」
 秀吉は尾張を奪い取れなかったが、これで
思い通りに事が運ぶとほくそえんだ。そして、
一益に越前、大野の隠居分、三千石を与えた。
 戦国の世には珍しく、無事に退いた一益は、
茶の湯を楽しみながら穏やかな晩年を過ごす
ことができた。

2013年4月25日木曜日

信長転生

 天下取りがすんなりいかないと予想した秀
吉は、何か度肝を抜く宣伝を用意して苦境の
時の切り札にしようと考えた。
 そこで、信長の死んだ同じ年に生まれてい
た辰之助を信長の生まれ変わりに仕立てるこ
とを思いつき、ねねに頼んでおいたのだ。
 ねねは辰之助が一歳で言葉を話し始めるよ
うになると、何かと信長の話を言い聞かせた。
そして、千宗易にも手伝わせていた。
 宗易は信長の茶頭としての立場上、他の者
が知らない信長の私生活を知ることができた
からだ。
 辰之助は、おとぎ話でも聞かされるように
信長の英雄物語を聞かされ、その話が面白く、
どんどん吸収していった。
 秀吉もそのことは当然知っていたのだが、
まさか三歳で謡曲を謡いこなせるようになる
とは思っていなかった。
 城内では一気に信長が転生した子が現れた
という噂が広まった。
 チベット仏教には、ダライ・ラマのような
活仏がいて、その活仏が亡くなると、その直
後に生まれた赤子に転生するという観念があ
る。
 その赤子は、どこにいるのか分からないの
だが、必ず探し出せるという。しかし、辰之
助は信長が亡くなる前に生まれている。
 そこで秀吉は「不幸にして亡くなると霊魂
がさ迷い、すでに生まれていた赤子にも転生
する」という無理な解釈を押し通すことにし
た。
 魔王とあだ名された信長ならそんなことも
あるだろうと、説得力があった。しかし、秀
吉は、このことを城外にもらしてはならない
とあえて命じた。
 その効果はすぐに現れた。
 尾張、蟹江城は、織田信雄に味方する佐久
間正勝の居城で、信雄の居城、清洲城から西
南のそう遠くない場所にあり、伊勢湾にも近
かった。
 そこで秀吉は、伊勢の長島城にいた滝川一
益に、海から蟹江城を攻めるように命じた。
 一益は天下取りをあきらめ、秀吉に味方し
て以来、いつ隠遁するかを考えていた。
 戦国の世では、武勲のある者が安易に身を
引こうとすれば、敵意があると疑われ、殺さ
れかねない。それを避けるには、戦う力がな
くなったことを示す必要があった。
 この時とばかりに一益は、鉄甲船で名高い
強力な水軍を率いる九鬼嘉隆を伴って、兵七
百人で軍船に乗った。
 蟹江城の城主、佐久間正勝は伊勢に出向い
ていたため、留守役を前田与十郎がしていた。
 一益は与十郎のもとにあらかじめ使者を送
り、信長の転生した子が現れたという極秘情
報を告げさせた。そして、蟹江城を包囲する
と平然と言い放った。
「信長様が尾張にお戻りになる。城を明け渡
せ」
 与十郎は、使者の話の様子からそれを真に
受けて一益に従い、城をすんなりと明け渡し
た。
 次に一益は、蟹江城から西北にある大野城
に主力部隊を向かわせた。
 大野城には、信雄の家臣、山口重政が守備
していた。
 一益の主力部隊は城を包囲し、前田与十郎
の時と同じように使者を送り、信長の転生し
た子の話を聞かせ、開城を促した。しかし、
重政は聞き入れず、密かに、清洲城にいる信
雄と家康に窮状を知らせた。
 知らせを聞いた家康はすぐに動き、海岸沿
いを進んで、奪われていた蟹江城と、これを
守る九鬼水軍を分断した。
 一益の主力部隊が、大野城攻略をあきらめ
て戻った時には、蟹江城は家康と信雄の部隊
に包囲された状態だった。
 家康の猛攻に九鬼嘉隆は命からがら逃げ延
び、なすすべのない一益は、あっさりと降伏
を願い出た。

2013年4月24日水曜日

不機嫌な秀吉

 大坂城では、秀吉の正室ねねと数人の側室
が出迎えていた。
 秀吉は天下を狙うようになって色欲が旺盛
になったのか、京極竜子、南の局など次々と
家柄のよい美女を側室にしていた。しかし、
ねねをはじめ誰にも子はできないでいた。
 普段なら側室のそうそうたる美女の出迎え
に、上機嫌でニヤついて一人ずつ声をかけて
いく秀吉なのだが、家康に敗北したイライラ
がたまり、ねねにさえ目を合わせようとせず、
ムスッと城内に入って行った。
 秀吉の機嫌が悪いことを事前に知っていた
ねねはいっこうに動じず、後について行った。
 廊下をいかにも機嫌が悪そうな足音をたて
て秀吉が歩いていると、障子の向こうから子
の唄声が聞こえた。
 その聞き覚えのある謡曲の節に、秀吉が障
子をぶっきらぼうに開けると、その部屋には、
三歳になった辰之助と横に母が座り、お市の
方の子で十七歳の茶々が、舞う姿勢をして立っ
ていた。
 茶々は越前・北ノ庄城で母、お市の方を喪っ
た悲しみも癒え、秀吉から養女のように迎え
られ、庇護を受けていた。
 いきなり鎧に陣羽織で少し怒ったような顔
をした秀吉が障子をあけたものだから、辰之
助は泣き出し母にしがみついた。そして茶々
は慌ててひれ伏すわで、瞬時に殺伐とした雰
囲気になった。
「あっ、いや、その」
 慌てて取りつくろおうとする秀吉の横をね
ねが割って入った。
「おやおや。驚かすつもりが、そなたらが驚
いたわね」
 ねねは茶々の側に行き、優しく顔を上げる
ように促した。
「いやいや、わしは怒ってはおらんぞ。さっ
きまでは怒った顔をしておったかもしれんが、
今はそなたらを見て上機嫌になったぞ。いや、
ハハハハ」
 秀吉は照れ隠しに作り笑いをして見せた。
「す、すぐに着替えてくるから、もう一度、
じっくり舞を見せてくれ。そうじゃ、皆も呼
ぼう、皆も呼んで驚かそう」
 そう言うと秀吉は、陣羽織を脱ぎながらそ
そくさと部屋を出て行った。
 すぐに着替えをした秀吉は、大坂城の大広
間の上座に座った。
 その側にはねねと側室らが居並び、城にい
た家臣たちも呼ばれて座らされていた。
 そこで茶々が舞い、辰之助が謡うことになっ
た。
 家臣たちは皆、子らがなにやら見せてくれ
るというので、和やかな雰囲気になっていた
が、辰之助が謡い始めると目を丸くして静ま
り返った。
 辰之助が謡ったのは、信長が好んだ謡曲「幸
若舞」の一節「敦盛」だった。

 思えば此の世は
   常の住処にあらず
 草の葉におく白露
   水に宿る月より猶あやし
 金谷に花を詠じ、
   栄華はさきを立って
     無常の風にさそはるる
 南楼の月を弄ぶ輩も、
   月に先だって
     有為の雲に隠れり
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか

 辰之助の謡に合わせて舞う茶々は、織田信
長の妹、お市の方の子だけあって、凛とした
美しさがあり、秀吉は酔いしれ一瞬、信長の
幻覚を見た。
 その場にいた誰もが秀吉と同じような思い
をしていた。ひとりねねだけが、してやった
りといった表情を浮かべていた。
 実はこれを仕組んだのは秀吉自身だった。

2013年4月23日火曜日

小牧の戦

 総大将、羽柴秀次の兵八千人、池田恒興の
兵六千人、森長可の兵三千人、そして軍目付、
堀秀政の兵三千人が三河・岡崎城に向けて出
発した。
 秀吉は尾張の楽田から撤退したように見せ
かけて尾張と美濃の国境に待機し、一部の部
隊で美濃の加賀野井城、奥城、竹鼻城を包囲
させた。
 家康は秀次勢への奇襲に的を絞り、小牧山
から東南にある小幡城に急行した。
 そうとは知らない恒興の部隊は三河に向か
う途中、小幡城に近い場所にある岩崎城を攻
略して落城させて気勢をあげた。
 その頃、恒興の後を追っていた秀次、森長
可、堀秀政の各部隊は長久手の辺りで分散し
て休息することにし、徳川勢の追撃を誘おう
としていた。その矢先、突然、徳川勢の先発
部隊に奇襲され、秀次の部隊は敗退し、秀政
の部隊は恐れをなして退却した。
 離れた場所に休息していた森長可の部隊は、
秀次の部隊が奇襲されていることを知ると、
岩崎城にいた恒興の部隊と合流して長久手に
引き返した。すると、そこで待ち構えていた
徳川勢と対峙することになり激戦となった。
 戦いは二時間後、森長可、恒興の討死によ
り、徳川勢の勝利で終わった。
 秀吉は秀次の部隊が敗退したという知らせ
を聞いて、初めて小牧山に家康がいなくなっ
ていることを知った。
(やはり格が違い過ぎたか)
 後手に回った秀吉は、兵二万人の軍勢で、
家康の行方を追ったが、その前方に家康の家
臣、本多忠勝が立ちふさがった。
 忠勝は信長から三国志の英雄、張飛にたと
えられるほど武勇に優れていた。
 秀吉は忠勝が義にあつく知略にも長けてい
たことから張飛より上手の関羽だと高く評価
していた。
(家康をものにすればいずれこやつもわしの
家臣じゃ)
 忠勝の兵はたったの五百人だったが、秀吉
の兵二万人にも恐れを抱かず悠然と構えてい
た。
 浮き足立っていたのは秀吉の部隊だった。
そこで秀吉は、力任せに攻めることはせず、
苦戦を装い、秀次らが逃げ延びる時間稼ぎを
した。また、慎重な家康なら策略だと思い撤
退をすると読んでいた。
 小幡城に戻った家康は、秀吉が忠勝の部隊
に手を焼いていると聞き、何かの策略とかん
ぐり、小牧山に移動して探りを入れた。そし
て戦うことをやめ、清洲城に戻っていった。
 それを知った秀吉も大坂城に帰還した。

2013年4月22日月曜日

情報戦

 打つ手が見つからずイライラの募る秀吉の
もとに池田恒興が、羽黒の戦いで敗退した娘
婿の森長可を従えてやって来た。
「家康を動かすには、三河の岡崎城を攻めれ
ば兵が退きましょう。どうか、こやつめにも
う一度、機会をお与えください」
 恒興がそう言うと深々と頭を下げた。森長
可はそれよりもさらに深々と顔を地面につけ
んばかりに頭を下げた。
 秀吉も家康の居城である岡崎城を攻めるこ
とは考えていたが、その先の家康の行動がまっ
たく読めなかった。
 チラッと見た先に養子にした十七歳の秀次
が立っていた。
 その時、二人の目が合った。
 秀次は機転をきかせて秀吉のもとに歩み寄っ
て言った。
「そのお役目、私にお命じください。家康め
をしかとひきつけてご覧にいれます」
 秀吉は後継者にしようと考えていた秀次を
試すには、ちょうどよい機会かも知れないと
決断した。
「よう言うた秀次。お前が総大将となり、家
康をしばらくの間、三河で足止めさせよ。よ
いか、戦うことは相成らん。過信は禁物じゃ
ぞ」
「はっ」
 秀吉の行動は早い。軍目付に選んだ堀秀政
に秀次のことを頼み、自分は撤退準備にとり
かかった。
 一方、家康の陣営では、秀吉が撤退してい
るという知らせを聞き、いつもの策略と判断
して対抗する作戦を練った。
 情報戦では秀吉より家康のほうが上手だっ
た。
 こういった場合、家康はもっぱら伊賀衆を
情報収集にあたらせた。
 伊賀衆とは、諜報活動を得意とした伊賀の
技能集団で、普段は庶民として生活を営みな
がら、武家が知ることのできない最下層の情
報を集めることで、動乱を事前に知り、また
動乱を起こす情報を流してかく乱するなどし
て武家に取り入り、生き延びてきた。
 本能寺の変が起きた時、家康が伊賀越えを
して逃亡するのを事前に知っていた伊賀衆が、
道案内をして助けたことから、家康に厚遇さ
れるようになっていた。
 家康のもとには伊賀衆からの情報が次々に
入り、羽柴軍の動きが将棋盤の駒のように正
確に分かっていた。

2013年4月21日日曜日

腹の探り合い

 天正十二年(一五八四)三月

 家康は尾張の清洲城で信雄と会い、その時、
秀吉が兵十万人に膨れ上がった大軍を率いて
出陣の準備をしているという知らせを聞いた。
 家康はすでに同盟していた紀州の雑賀衆と
根来衆、四国の長宗我部元親に羽柴軍の背後
を突くように要請していた。
 雑賀衆と根来衆は、この時代随一の鉄砲傭
兵軍団で、堺は根来の鉄砲鍛冶、芝辻清右衛
門が移り住んだことで鉄砲の生産供給地になっ
たという経緯がある。そのため千宗易は事前
に根来衆の動きを知ってはいたが親交はなく、
制止することはできなかった。
 京にいた秀吉は、雑賀衆と根来衆の陽動作
戦に翻弄されて動けずにいた。これは宗易か
らの知らせで予想されていたことだ。それよ
りもこれに呼応して毛利一族との関係が再び
悪化するのではないかと懸念し、すぐさま使
者を毛利家に送り関係維持に努めた。
 尾張では、すでに秀吉に味方した美濃の池
田恒興が進入し、犬山城を占拠したため、家
康は小牧山に本陣を構えていた。
 小牧山には信長の築いた城があり、家康は
家臣の榊原泰政に命じて大改修をおこない拠
点とした。
 秀吉に先立って尾張に向かった森長可は、
小牧山の近くの羽黒に陣を構えたが、その翌
日、早朝に家康の家臣、酒井忠次、榊原康政、
奥平信昌らの奇襲にあい大敗した。それを知っ
た織田信雄は小牧山の家康と合流した。
 やっとのことで雑賀衆と根来衆の鎮圧をし
た秀吉は、森長可が敗退したという知らせを
聞くと、まず美濃に向かった。
 美濃に入れば犬山城を占拠している池田恒
興と連携がとれ、家康の三河と信雄の尾張を
にらみ、秀吉の本拠地、近江を守ることがで
きるからだ。
 ここで秀吉は、兵糧の調達をして家康の出
方を待った。しかし、家康はいっこうに動こ
うとはしない。それならばと秀吉は尾張に進
入し、小牧山の北東に位置する楽田に布陣し
た。しかし、それでも家康は動こうとしなかっ
た。
 こうして腹の探り合いは延々と続いた。
 二人とも信長に鍛えられただけあって、手
の内を知り尽くし、先に動いた方が負けると
分かっていたので、誘い出す策を思案してい
た。

2013年4月20日土曜日

家康立つ

 天正十二年(一五八四)一月

 羽柴家は毛利一族との交渉が順調に進んで
いることもあって、穏やかな新年を迎えてい
た。
 この頃、秀吉の主な家臣には武勇に優れた
「賤ヶ岳の七本槍」に加えて、参謀として弟
の秀長、茶頭でありながら外交交渉にもあた
る千宗易、賤ヶ岳の戦いでは武功もあげ、知
略にも長けて徐々に頭角を現し始めた石田三
成と大谷吉継がいた。
 特に秀吉は今年で二十五歳になる三成と、
三成より一つ年上の吉継にもっとも期待して
いた。
 大陸・明の歴史書、三国志によれば、蜀の
劉備玄徳に仕えた二人の軍師、諸葛孔明とホ
ウ統士元は「伏竜、鳳雛」と称され、この二
人を得れば天下を取れるとまで言われていた。
 秀吉はこれにならい、三成と吉継を「伏竜、
鳳雛」になぞらえ宣伝することで、世間は秀
吉の天下統一が実現するかもしれないと感じ
るようになっていた。
 その過熱をいっきに冷ますように秀吉の前
に立ちはだかる巨人、徳川家康が動き出した。

 秀吉は織田信雄に大坂城への登城を促した。
それは織田家が羽柴家の家臣になることを意
味していた。
 信雄は弟、信孝の二の舞になるのではない
かと脅威を感じて、すぐさまこれを拒否し家
康を頼った。
 家康にとって秀吉は、信長の足軽として調
子よく動き回っていた頃の印象しかなかった。
 その家康に織田家の相続権がある信雄が泣
きついてきたことで、家康は秀吉討伐の大義
名分を得ることになった。
 明智光秀の三日天下のこともあり、家康は
秀吉を簡単に片付け、自らがいよいよ天下を
取る順番が回ってきたと確信した。そこで信
雄と同盟を結んだ。
 秀吉は家康と信雄の同盟を知ると、すぐに
近江に行き、千宗易の茶の湯によって得た資
金力にものをいわせて鉄砲をすべて買占めた。
そして鉄砲の生産を止めさせた。
 それからもう一方の鉄砲生産供給地、和泉
の堺には堺商人でもある宗易を向かわせ、家
康に加担しないように言い含めさせた。
 商人というのは戦が起きると財産をすべて
失うことがないように敵味方の区別なく双方
に分散投資する。そうすればどちらが勝って
も負けても財産の一部は確実に残るからだ。
それが戦を長びかせ泥沼化させる原因でもあ
る。
 堺商人も宗易が到着した時には秀吉と家康
の双方に投資する準備を進めていた。そのた
め誰も宗易の話に耳をかそうとはしない。
 宗易も説得しようとは思っていなかった。
ただ、家康に直接投資するのではなく、他の
大名や商人を介して投資するように示し合わ
せた。

2013年4月19日金曜日

毛利一族

 秀吉がこの頃、しきりに警戒していたのが
毛利一族だ。
 毛利一族とは、中国地方を支配していた毛
利輝元とその叔父、吉川元春と小早川隆景の
ことだ。
 毛利一族と秀吉は、備中で交戦していた時、
本能寺の変が起き、その直後に和睦していた
のだが、毛利一族は本能寺の変を後で知って、
秀吉に騙されたという恨みがあった。特に元
春は秀吉を追撃しようとまで主張していた。
それを隆景が「誓約を守るべき」として止め
た経緯がある。
 秀吉にしても戦いに決着をつけられず引き
上げたため、屈服させていないという不安が
あった。
 そのため道理の分かる隆景にはしきりに連
絡して、戦いの回避を促していた。
 輝元は秀吉の賤ヶ岳での戦いぶりや大坂城
を築城して湧き上がる民衆の秀吉人気に反抗
するのは不利と感じた。そこで交渉に安芸・
安国寺の僧侶、恵瓊をあてた。
 恵瓊はただの僧侶ではなく、毛利一族の政
治にも口を出し、輝元がもっとも頼りにして
いる相談役で、本能寺の変後の和睦を取りま
とめたのも恵瓊だった。
 そうした恵瓊の重用に納得のいかない元春
とは対立していた。またこの時の交渉でも、
元春の三男、広家と隆景の弟で今は養子の秀
包を人質として秀吉に出すことになり、これ
が毛利一族の亀裂をさらに深めることになっ
た。

2013年4月18日木曜日

宣伝力

 秀吉は宣伝の効力に気づいていた。
 亡骸(なきがら)のない信長の葬儀を盛大
に催したのは、世間に信長の死を認めさせ、
信長政権が終わったことを宣伝するためだっ
た。また、柴田勝家との戦いでは、手柄を上
げた子飼いの家臣、福島正則、加藤清正、加
藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片
桐且元を特に「賤ヶ岳の七本槍」と称して七
福神になぞらえ、あたかも神が味方している
ように宣伝した。
 その効力は諸大名を威圧し、反抗していた
信長の三男、信孝を自刃させても反発は起き
なかった。それどころか、秀吉が近江・長浜
城に凱旋帰城すると朝廷の勅使が城まで出向
き、戦勝を祝賀したほどだ。そして秀吉が天
下統一を宣言することまで正当化させた。
 秀吉はこの権勢を誇示するかのように大坂
城の築城を命じた。
 幾多の城を攻め落としてきた秀吉だけあっ
て城の欠点を知りつくし、各地の城の利点を
活かした堅固で荘厳な城を築いた。
 大坂城が完成した時、招いた諸大名はその
見事さに驚嘆した。ただし、秀吉の考える築
城は敵対する諸大名から防衛するためではな
く、戦続きで貧困に苦しんでいた民衆の雇用
対策と疲弊した領地の復興が真の目的だった。
 秀吉は過去、信長の家臣だった頃に、大風
で清洲城の塀が倒壊していたのを修理する御
普請奉行の役をこなしている。
 その時のやり方は、まず堀を区分けして、
集まった工夫たちに分担して作業させるもの
で、区分けしたそれぞれの作業を競わせ、そ
の能率によって賃金を決めた。そのため、工
夫たちは競って働き、短期間で完成させるこ
とができた。
 大坂城もこうしたやり方で民衆のやる気を
引き出し、特徴的な内堀と外堀を造成した。
 戦後復興を早めたことで民衆の秀吉に対す
る信頼は高まり、敵対する諸国の民衆にも秀
吉人気が広まった。

2013年4月17日水曜日

北ノ庄城

 天正十一年(一五八三)四月二十三日

 秀吉は北ノ庄城に籠城する勝家を包囲した。
 勝家は秀吉に降伏することを選ばず自刃す
ることを決めていた。しかし、問題はお市の
方をどうするかだった。
 清洲会議の時から夫婦になり一年もたたな
いうちにこのようなふがいない状況をむかえ
た。
 勝家とお市の方は、雪に閉ざされて動けな
かったほんのわずかな時間しか心を通わせる
ことはできなかった。だがこのまま秀吉に手
渡すのは口惜しい。しかし一緒に自刃してく
れるとも思えなかった。
(いっそ殺してしまおうか)
 悩んでいる勝家のもとにお市の方が現れた。
「私の命は欲しくはありません。だけど、ど
うか子らは助けてくださいませ」
 お市の方には兄の信長に自刃させられた前
夫、浅井長政との間に三人の娘がいた。
「それでは子らが不びんではないか」
 勝家はお市の方が自らの命乞いをしてくれ
れば逃がそうと思った。
 お市の方は勝家の気持ちを察するように懇
願した。
「私はあなた様に付き従います。そうすれば
あなた様の名誉は保たれます。しかし子らま
で道連れにすれば後世になんと伝えられるで
しょう」
 勝家は自身の名誉などどうでもよかった。
気がつけばお市の方に子らと一緒に逃げ延び
るよう説得していた。
 二人の話し合いは夜明けまで続いた。

 天正十一年(一五八三)四月二十四日

 朝早くから秀吉はいつものように懐柔策で
勝家を降伏させようと準備をしていた。しか
し突然、城から煙が立ち上った。
 北ノ庄城はあっという間に炎に包まれ、包
囲していた秀吉の部隊は立ち尽くしたまま、
なす術がなかった。
 やがて焼け出された三人の娘が秀吉の前に
連れてこられた。
「とと様とかか様はどうした」
 秀吉は動揺した口調で娘たちに聞いた。し
かしその答えは返ってこなかった。
 三人の娘を連れてきた兵卒から柴田勝家と
お市の方が自刃したことが告げられた。

2013年4月16日火曜日

誘い水

 天正十一年(一五八三)三月十二日

 秀吉は兵五万人で柳ヶ瀬に進軍し、柴田ら
の部隊と対峙した。
 どちらも相手の戦い方を熟知していたため、
にらみ合いが続き、馬防柵や櫓などの防備固
めに時間を費やした。
 これでは長期戦になるとみた秀吉は、一部
の兵を残して一旦、長浜城へ戻った。そして
一計を案じて滝川一益を使い、織田信孝を再
び美濃で挙兵させて大垣城を攻めさせた。
 秀吉はその鎮圧のため部隊を大垣城に向か
わせた。
 かつて大陸に大帝国を築いたモンゴルのチ
ンギス・ハンは撤退すると見せかけて敵をお
びき寄せ、味方の伏兵に攻撃させるという戦
法を得意としていた。
 これは遊牧民族の長、チンギス・ハンが、
隠れる場所のない大草原に伏兵を隠す術を心
得ていたからこそ少数の部隊を活かすことに
つながったのだ。
 これと同じように秀吉も、織田信長の家臣
として数々の戦を経験していく中で、攻める
だけではなく退くことでも勝てる術を身につ
けていったのである。
 柴田勝家は秀吉が攻撃の矛先を変えたこと
を好機とみて、佐久間盛政の部隊を出撃させ、
羽柴軍の中川清秀や高山右近の部隊が守備し
ていた賤ヶ岳の大岩山にある砦を落として、
なおも進撃を続けた。
 勢いに乗る盛政だったが、前方に見える群
集に心臓が凍りつく思いがした。そこには美
濃の大垣にいるはずの秀吉の部隊が津波のよ
うに押寄せて来ていたからだ。
 秀吉は本能寺の変で見せた備中から京への
神がかり的な速さで帰還した世にいう「中国
大返し」の再現をしたのだ。また、多くの敵
を同時に相手にするところは信長の戦い方と
同じで、よく熟知していた。
 秀吉はたんに信長の意志を名目だけ継承し
たのではなく行動でも実践していたのだ。
 退却もままならなくなった盛政の部隊が、
それでも善戦していると、柴田勝政の部隊が
加勢しに来て、秀吉の部隊と激しい戦闘が続
いた。
 この間に秀吉の別働隊が越前の府中まで進
撃し、前田利家に迫っていた。
 利家は秀吉の部隊が瞬時に現れたことに、
明智光秀の二の舞になることを恐れ、すぐに
降伏した。
 間もなく盛政、勝政の部隊も劣勢になり退
却を始めた。
 やがて柴田勝家に加勢していた他の部隊も
総崩れとなった。
 残った勝家の本隊に秀吉の大軍が迫ると、
勝家はやむなく居城の越前・北ノ庄城に退却
した。

2013年4月15日月曜日

秀吉の懐柔策

 天正十年(一五八二)十二月

 柴田勝家は北陸の越前・北ノ庄城を居城と
していた。
 そのため冬には雪深くなり、動けなくなっ
た。それを待っていた秀吉は、すぐに勝豊が
居城する近江・長浜城を兵五万人で完全に包
囲した。
 ここで秀吉が勝豊を長浜城に迎えた時の宴
会が生きてくる。
 まず秀吉は勝豊にあの時のことを思い出さ
せた。そして味方につけば悪いようにはしな
いと降伏を促した。
 こういった時には秀吉の弟の秀長が裏付け
の役目をして豊勝を信用させた。
 勝豊はあっさりと長浜城を明け渡し、秀吉
の軍門に下ることにした。
 一益が選んだ次の標的は織田信孝だった。
 信長の三男、信孝は本能寺の変が起きた時、
秀吉と合流して戦った。したがって清洲会議
では秀吉が味方になり自分が信長の後継者に
選ばれると思っていた。しかし秀吉は、亡く
なった長男、信忠の子、三法師を選んだ。そ
の不満がくすぶり続けていたのだ。
 信孝は一益から、柴田勝家が秀吉に敵対し
ていることを知らされると、自分を擁立して
くれた義理もあり、勝家に味方することにし
た。
 信孝が秀吉に敵対する姿勢を示すと、秀吉
は柴田勝豊を降伏させたわずか十日後に信孝
の居城である美濃・岐阜城を包囲した。
 ここでも秀吉は懐柔策を駆使して信孝の父、
信長に茶頭として仕えた千宗易を説得に向か
わせるなどして信孝を降伏させた。
 秀吉はこんな慌しい間にも山城に山崎城を
築城していた。そして完成すると凱旋し、ま
もなく新年を迎えた。

 天正十一年(一五八三)一月

 去年の今頃は信長が近江の安土城で諸大名
から年始の祝賀を受けていたのだが、今はそ
んな華やかさはどこにもなかった。
 秀吉は内紛の芽を摘むことを急いでいた。
それは徳川家康が徐々に勢力を拡大していた
からだ。
 家康は本能寺の変が起きた頃、堺にいて、
異変を知るとすぐに三河に逃げ帰り、織田家
の混乱に乗じて甲斐を攻め落とした。それと
同時並行で信濃に侵攻して北条と講和するな
ど、秀吉に対抗する姿勢を示した。
 その勢いにのり上洛の機会さえうかがって
いたのである。
 秀吉は新年早々、次の手を練っていた。そ
して一気に決着をつけようと滝川一益に密か
に命じ、自分に敵対するふりをさせて、秀吉
の支城である桑名城、谷山城、峯城、亀山城、
国府城を次々に攻めさせた。
 これをきっかけに秀吉は出陣し、二月十日
に一益を本拠地の伊勢・長島城に包囲して予
定通り降伏させた。そして、十六日には桑名
城、谷山城、峯城に放火した。また、二十日
にも秀吉は亀山城、国府城を鎮圧して伊勢を
平定して見せた。
 一益を味方だと信じている柴田勝家は一益
が降伏したことを知ると、雪解けを待てず、
二月末に出陣し、前田利家、佐久間盛政らと
合流して兵三万人で近江の柳ヶ瀬に布陣した。
 秀吉は利家までもが自分に反感を抱いてい
たとは思いもしなかったが、これで膿(うみ)
をすべて吸い出すことができると息巻いた。

2013年4月14日日曜日

滝川一益

 滝川一益は羽柴秀吉や柴田勝家と並び称さ
れるほど有能で、織田信長に重用されていた。
 天正十年(一五八二)三月の天目山の戦で
は信長の長男、信忠を補佐し、総大将として
武田勝頼を破り、武田氏を滅亡させた。
 その褒美として上野と信濃の一部を拝領し
たが、領地を褒美としてもらうより、茶器の
「珠光小茄子」をほしがるほどで、領地に執
着するそぶりを見せなかった。
 この三ヵ月後に起きた本能寺の変に乗じて、
北条氏直、氏邦らが兵五万六千人で上野に侵
攻してきた。これに対する一益の兵は二万人
足らず。
 一時的には勝利したがその後敗退して本来
の所領である伊勢・長島城に逃げ帰った。
 このことで織田家の今後を決める清洲会議
に出席できなかったとされるが、これ以前、
本能寺の変が起きた直後に北条氏政から一益
へ「本能寺の変が本当に起きたのか」との問
い合わせがあり、一益は氏政へ「もしそれが
事実だとしても疑心を懐かぬように」と知ら
せているほど親しく、一益は北条一族と真剣
に戦う気などなかったのである。
 一益は清洲会議で必ず内紛が起きると読ん
でいたのだ。
 そこで北条一族との戦いを理由に欠席し、
内紛の混乱を利用して漁夫の利を得ようと企
てた。しかし、予想に反して秀吉が三法師を
擁立して、あっさり後見人に収まってしまっ
た。
 天下取りの野望が潰えた一益は、しかたな
く秀吉に味方することを決めた。ただし、一
益は秀吉より十三歳年上だから単に味方にな
ると言っても信用されず、いずれ厄介払いさ
れる可能性があり、それは死を意味していた。
 こういった世代交代の時がいちばん危険な
ことを一益は熟知していた。
 そこで一益は、茶の湯の師匠である千宗易
を介して秀吉と密かに通じておき、表向きは
秀吉に反抗する姿勢を見せて、秀吉に反感を
抱いている者をあぶりだし、それらの者を一
掃する役目を買って出た。
 まずは柴田勝家の甥で、今は勝家の養子に
なっている勝豊が標的となった。
 勝家は清洲会議で信長の妹、お市の方と秀
吉が築城して居城としていた近江の長浜城を
手に入れ、勝豊に長浜城を与えていた。
 秀吉は勝豊が長浜城に入城する時は快く迎
え、宴会まで催した。しかし、いずれは奪い
返したいと思っていた。それは近江が鉄砲の
生産供給地だったからだ。
 この頃、鉄砲は近江と和泉・堺で生産され、
近江商人と堺商人が主に取り扱っていた。
 秀吉の茶頭となった宗易は堺商人の代表な
ので、もう一方の近江商人を手なずければ天
下取りは盤石の態勢となる。
 一益は秀吉が近江をほしがっていることを
察し、勝家、勝豊を焚き付けて秀吉に敵対す
る姿勢を鮮明にさせた。

2013年4月13日土曜日

茶頭宗易

 後に千利休と呼ばれる千宗易は、商いで国
を治めるとまで言われた堺商人の代表として
信長に召抱えられていた。
 宗易は表向きには茶の湯を取り仕切る茶頭
になっていたが、本当の役割は軍資金を創り
だすその能力にあった。
 戦国時代に名を上げた武将の領地には軍資
金となる金山や銀山があるか、兵糧となる農
産物が豊富にある。しかし、信長の領地では
こうした物を手に入れるのが難しい。そこで
信長は宗易を茶頭にして茶の湯を広めさせた。
そして信長は、どこでも誰にでも作れる茶器
の中から人気が出そうな物を宗易から事前に
聞いて買占めたり、高価な茶器を買いあさっ
た。そのことが「名器狩り」と揶揄(やゆ)
されたが、これで茶の湯が注目され、大名や
商人だけではなく、公家も加わって茶器の値
段は高騰した。こうして信長は茶の湯で莫大
な利益を得ると同時に公家との交流を深め、
潤った堺商人からも支持され鉄砲などを調達
することができたのだ。
 やがて茶器そのものを戦で手柄を上げた者
に褒美として与えたりするようになり、軍資
金を減らさず増やすことに成功した。これが
強大な隣国に囲まれていた尾張の空け者、信
長を天下統一に目覚めさせ導いた原動力の一
つとなった。
 秀吉も宗易を召抱えることで、公家と堺商
人をつなぎとめて関係を深めることができた。
そして民衆は秀吉が事実上、政権を握ったこ
とに拍手喝さいで迎えた。これらを追い風に
秀吉は信長の盛大な葬儀を主催して信長が生
きているという噂を打ち消し、自らの政権誕
生を印象づけた。また人事を独断して勢力を
拡大していった。

2013年4月12日金曜日

清洲会議

 秀吉には落ち着く暇もなく一世一代の大勝
負が待っていた。
 すぐに織田家の今後を決める話し合いがあ
るため、尾張の清洲城に信長の家臣が集まっ
た。
 信長の子には長男・信忠、次男・信雄、三
男・信孝、そして秀吉の養子となっている四
男・秀勝がいた。しかし、長男・信忠は本能
寺の変が起きた時、二条御所で戦ったが敗れ
て自刃した。
 次男・信雄は本能寺の変後、安土城を焼い
たなどと噂されるほど素行が悪く後継候補か
らはずされた。
 三男・信孝は本能寺の変が起きた時、秀吉
と合流して戦った。そこで家臣の中で最有力
者の柴田勝家が後継者として擁立した。
 この時、秀吉は自分の養子とした四男・秀
勝を後継者に選ばず、自刃した長男・信忠の
嫡男・三法師を擁立した。
 他の家臣は権力争いに後込みをしていた。
それは、まだ天下統一が道半ばで、敵対する
島津、北条など各地に手ごわい武将が残って
いたからだ。それらを屈服させるには信長並
みの能力をもってしても難しい。それに民衆
はこれまでの戦続きで武家に反感を持ち、一
揆が続発することは避けられない。それで今
すぐ手を上げるのは得策ではないと考えてい
たのだ。その中の一人、滝川一益などは権力
争いに巻き込まれるのを避けるため、関東地
方へ出陣するという名目で欠席していた。
 誰も手を上げないのを見越して秀吉が三法
師を擁立し、名乗りでたのだ。
 秀吉にはこの機会を逃したら出世の望みは
ない。それどころか、もとの百姓に逆戻りす
る可能性さえあった。
 この時代、有能な人材を身分に関係なく取
り立てることができたのは信長だけだったか
らだ。
 三法師が後継者になることに誰も異論はな
かった。しかし、勝家があえて後継者に選ば
れるはずもない信孝を擁立したのは、百姓出
の秀吉が権力をすんなり握ることに武家とし
て許せず、発言権を失うことを恐れたからだ。
 結局、三法師が信長の直系だとして支持さ
れ、秀吉は光秀を破った功績と民衆の人気を
背景に、一揆などの反乱が避けられるのでは
ないかという一同の目論見もあって、後見人
におさまった。そして秀吉はもう一人、千宗
易を信長から引き継いだ。

2013年4月11日木曜日

三日天下

 明智光秀は本能寺を襲撃後に上洛して朝廷
工作をしたり、諸大名に協力を求めたりする
など、場当たり的で何の計画性もなかった。
 そんな光秀に同調する者がいるはずもなく、
不安定な政治体制を見透かすかのように各地
で一揆など不穏な動きが起き始めた。
 本能寺の変が起きた時、近くの堺には信長
と同盟関係にある徳川家康がいた。しかし、
家康は茶会に招かれてやって来ていたので数
人の従者しかおらず、光秀を討ち取り、天下
をものにする絶好の機会を失い、命からがら
三河に逃げ帰るのがやっとだった。
 光秀の凶行をいち早く知り、真先に光秀討
伐に動いていたのは羽柴秀吉だった。
「秀吉が備中から帰還している」との知らせ
に光秀は、そのあまりにも速い行動に驚き、
慌てて諸大名に援軍を要請した。しかし、思
うように集まらず、兵一万六千人で摂津と山
城の境、山崎に出陣した。
 秀吉は自らの兵二万人に加え、信長の三男、
信孝や丹羽長秀などと合流し、総勢三万六千
人で対陣した。
 光秀はすぐに使者を出し、秀吉との話し合
いを求めたが、秀吉は兵力差にものをいわせ、
明智軍を三方から攻めて敗走させた。
 一時は逃げ延びた光秀だが、京・醍醐周辺
で一揆の衆に見つかり討ち取られ、あっけな
い最期をとげた。
 その頃、すでにねねたちは避難していた総
持寺から屋敷に戻っていた。
 しばらくして意気揚々と帰ってくる秀吉を
ねねたちは出迎えた。
 秀吉はこの時、四十六歳。日焼けした肌に
艶があり、光秀を討った達成感で精気に満ち
ていた。
「ねねー。無事であったか。皆も無事でなに
よりじゃ。おお、その赤子は辰之助か」
 秀吉は辰之助が生まれたことは手紙で知っ
てはいたが、やっと抱きかかえることができ、
顔をほころばせ小躍りして喜んだ。
 秀吉とねねの間には子がいないので、信長
の四男・秀勝を養子に迎え、この年には秀吉
の姉・日秀の子、秀次を養子に迎えていた。
そのため跡継ぎの心配はなかったが、辰之助
の愛くるしい顔を眺めているとやはり自分の
子が欲しいと思わずにはいられなかった。

2013年4月10日水曜日

本能寺の変

 ねねが信長のいる本能寺に火の手があがっ
たことを知ったのは、秀吉から事前に「京の
方角の異変に警戒をおこたらないように」と
の忠告があったからだ。ただし、ねねはてっ
きり以前から信長に反抗していた一揆の衆が
放火したと思っていた。だからこそ自分たち
に危険が及ぶことを恐れて総持寺に避難する
ことを決めたのだ。
 やがて夜が明け、日が射す頃には詳しい状
況が伝わり、信長の家臣で唯一近くにいた明
智光秀が信長を襲撃して本能寺に火を放った
ことが分かり、ねねたちは驚いた。
 光秀といえば信長の家臣の中でも一番忠誠
心があり、信長の信頼もあつかったからだ。
 以前から光秀は、多くの家臣の面前で信長
のたび重なる暴行や無慈悲な仕打ちをされて
いたの目撃されていたのでよく知られている。
しかし、それはあえて叱られ役を演じていた
のだ。
 なぜなら暴行をされている本人より、それ
を見せられた周りの者のほうが恐怖を感じる
からだ。また、その暴行も下っ端の者にする
より実力のある者にするほうが戒めの効果が
ある。
 信長が本当に光秀を嫌っているのなら、信
長のような周りが敵だらけの者が、暴行して
恨みを抱くかもしれないような家臣だけを近
くにおき、無防備な状態で本能寺にいるとは
考えられない。
 そもそも光秀が自分の恨みだけで軍隊を動
かすだろうか。
 その程度の人物なら信長のそばに仕えるの
は無理だろう。
 では恨み以外の大義名分はあったのだろう
か。
 信長のおこなおうとしている政治に不満を
もつ者は多くいる。それは今始まったことで
はなく、光秀はそれを分かって家臣になった
はずだ。また、大義名分があっての暗殺なら
周到な準備が必要になってくる。
 一般的に少人数の暗殺計画でもすぐに発覚
するのに軍隊を動かすことができるだろうか。
 それに圧倒的な数で襲撃するのに、わざわ
ざ夜中に奇襲する必要があったのだろうか。
 本来なら昼間に堂々と攻撃し、天下に「信
長の悪行を懲らしめる」と宣言するのではな
いだろうか。
 こうした謎は多くあるが、とにかく本能寺
の変が起きた事実は打ち消しようがない。
 ねねのもとに来た知らせによると信長はい
まだ行方知れずで、信長の長男、信忠は、誠
仁親王の御座所・二条御所に逃げ込んだとい
うことだった。しかしそのすぐ後には、明智
軍が二条御所を襲撃し、誠仁親王は逃げ延び
たものの信忠は討死したと伝わった。
 時間がたっても信長の行方は分からず、自
刃したとか逃げ延びているとかの噂で京では
混乱が続いていた。

2013年4月9日火曜日

異変

 天正十年(一五八二)六月二日
 琵琶湖の東北に近江・長浜はあり、立派な
屋敷が軒を連ねる界隈も夜の闇に包まれれば
庶民の家と見分けはつかない。
 灯り一つない世では月や星が隠れる曇った
日には目の前にある手さえも見えない一寸先
は闇の世界だ。
 やがて雲の間から月が顔をのぞかせ、屋敷
の瓦屋根と琵琶湖の水面を照らし出した。と、
その瞬間、琵琶湖の西南に小さな光が見え、
次第に空を赤く染めた。
 この時代、夜中の真っ暗闇で遠くに小さな
光の点が見え、空が夕日のように赤く揺らい
でいればそれは火災以外にはない。しかし、
それがどこで起きている火災なのかは分かる
はずもなかった。だがこの時は違った。
 琵琶湖の西南といえば、京・本能寺の方角
で、そこには織田信長がいたのだ。
 長浜には羽柴秀吉の屋敷があり、その近く
にある一軒の屋敷が慌ただしくなった。
 屋敷の廊下を小走りする複数の足音がして、
その音がぱたりと止むと、障子がバタンと開
き、血相を変えた女が数人、部屋に入って来
た。
 そこには母と五人の子らが眠っていた。そ
の末っ子で生まれて間もない赤子が後に小早
川秀秋となる木下辰之助である。
 母はすでに起き上がり、着物の乱れを直し
ていた。
 子らも一人二人と目を覚ましたが、辰之助
はまだすやすやと眠ったままだった。
 部屋に入って来た女のひとりは羽柴秀吉の
妻、ねねで、この時三十四歳。他は侍女たち
であった。
 辰之助らはねねの兄、木下家定の家族とい
うことで秀吉の屋敷の近くに住んでいたのだ。
 ねねが短く事情を話した。
「お館様のいる本能寺から火の手があがった
ようです。さ、早く支度を」
 お館様とは織田信長のことだ。
 ねねは小声で言ったつもりだったが、辰之
助が目を覚まして泣きはじめた。とっさにね
ねが辰之助を抱きかかえて部屋を出た。その
後を追うように母と侍女は寝ぼけている他の
子らをつれて部屋を出た。
 一行が向かった先は長浜の総持寺。
 何かが起きれば避難する場所を決めている
のは戦国の世の常だ。
 この頃、秀吉は備中で毛利軍と交戦してい
て留守だった。また他の信長の家臣も各地に
散らばり戦をしていた。