2013年4月11日木曜日

三日天下

 明智光秀は本能寺を襲撃後に上洛して朝廷
工作をしたり、諸大名に協力を求めたりする
など、場当たり的で何の計画性もなかった。
 そんな光秀に同調する者がいるはずもなく、
不安定な政治体制を見透かすかのように各地
で一揆など不穏な動きが起き始めた。
 本能寺の変が起きた時、近くの堺には信長
と同盟関係にある徳川家康がいた。しかし、
家康は茶会に招かれてやって来ていたので数
人の従者しかおらず、光秀を討ち取り、天下
をものにする絶好の機会を失い、命からがら
三河に逃げ帰るのがやっとだった。
 光秀の凶行をいち早く知り、真先に光秀討
伐に動いていたのは羽柴秀吉だった。
「秀吉が備中から帰還している」との知らせ
に光秀は、そのあまりにも速い行動に驚き、
慌てて諸大名に援軍を要請した。しかし、思
うように集まらず、兵一万六千人で摂津と山
城の境、山崎に出陣した。
 秀吉は自らの兵二万人に加え、信長の三男、
信孝や丹羽長秀などと合流し、総勢三万六千
人で対陣した。
 光秀はすぐに使者を出し、秀吉との話し合
いを求めたが、秀吉は兵力差にものをいわせ、
明智軍を三方から攻めて敗走させた。
 一時は逃げ延びた光秀だが、京・醍醐周辺
で一揆の衆に見つかり討ち取られ、あっけな
い最期をとげた。
 その頃、すでにねねたちは避難していた総
持寺から屋敷に戻っていた。
 しばらくして意気揚々と帰ってくる秀吉を
ねねたちは出迎えた。
 秀吉はこの時、四十六歳。日焼けした肌に
艶があり、光秀を討った達成感で精気に満ち
ていた。
「ねねー。無事であったか。皆も無事でなに
よりじゃ。おお、その赤子は辰之助か」
 秀吉は辰之助が生まれたことは手紙で知っ
てはいたが、やっと抱きかかえることができ、
顔をほころばせ小躍りして喜んだ。
 秀吉とねねの間には子がいないので、信長
の四男・秀勝を養子に迎え、この年には秀吉
の姉・日秀の子、秀次を養子に迎えていた。
そのため跡継ぎの心配はなかったが、辰之助
の愛くるしい顔を眺めているとやはり自分の
子が欲しいと思わずにはいられなかった。