2013年4月12日金曜日

清洲会議

 秀吉には落ち着く暇もなく一世一代の大勝
負が待っていた。
 すぐに織田家の今後を決める話し合いがあ
るため、尾張の清洲城に信長の家臣が集まっ
た。
 信長の子には長男・信忠、次男・信雄、三
男・信孝、そして秀吉の養子となっている四
男・秀勝がいた。しかし、長男・信忠は本能
寺の変が起きた時、二条御所で戦ったが敗れ
て自刃した。
 次男・信雄は本能寺の変後、安土城を焼い
たなどと噂されるほど素行が悪く後継候補か
らはずされた。
 三男・信孝は本能寺の変が起きた時、秀吉
と合流して戦った。そこで家臣の中で最有力
者の柴田勝家が後継者として擁立した。
 この時、秀吉は自分の養子とした四男・秀
勝を後継者に選ばず、自刃した長男・信忠の
嫡男・三法師を擁立した。
 他の家臣は権力争いに後込みをしていた。
それは、まだ天下統一が道半ばで、敵対する
島津、北条など各地に手ごわい武将が残って
いたからだ。それらを屈服させるには信長並
みの能力をもってしても難しい。それに民衆
はこれまでの戦続きで武家に反感を持ち、一
揆が続発することは避けられない。それで今
すぐ手を上げるのは得策ではないと考えてい
たのだ。その中の一人、滝川一益などは権力
争いに巻き込まれるのを避けるため、関東地
方へ出陣するという名目で欠席していた。
 誰も手を上げないのを見越して秀吉が三法
師を擁立し、名乗りでたのだ。
 秀吉にはこの機会を逃したら出世の望みは
ない。それどころか、もとの百姓に逆戻りす
る可能性さえあった。
 この時代、有能な人材を身分に関係なく取
り立てることができたのは信長だけだったか
らだ。
 三法師が後継者になることに誰も異論はな
かった。しかし、勝家があえて後継者に選ば
れるはずもない信孝を擁立したのは、百姓出
の秀吉が権力をすんなり握ることに武家とし
て許せず、発言権を失うことを恐れたからだ。
 結局、三法師が信長の直系だとして支持さ
れ、秀吉は光秀を破った功績と民衆の人気を
背景に、一揆などの反乱が避けられるのでは
ないかという一同の目論見もあって、後見人
におさまった。そして秀吉はもう一人、千宗
易を信長から引き継いだ。