2013年4月16日火曜日

誘い水

 天正十一年(一五八三)三月十二日

 秀吉は兵五万人で柳ヶ瀬に進軍し、柴田ら
の部隊と対峙した。
 どちらも相手の戦い方を熟知していたため、
にらみ合いが続き、馬防柵や櫓などの防備固
めに時間を費やした。
 これでは長期戦になるとみた秀吉は、一部
の兵を残して一旦、長浜城へ戻った。そして
一計を案じて滝川一益を使い、織田信孝を再
び美濃で挙兵させて大垣城を攻めさせた。
 秀吉はその鎮圧のため部隊を大垣城に向か
わせた。
 かつて大陸に大帝国を築いたモンゴルのチ
ンギス・ハンは撤退すると見せかけて敵をお
びき寄せ、味方の伏兵に攻撃させるという戦
法を得意としていた。
 これは遊牧民族の長、チンギス・ハンが、
隠れる場所のない大草原に伏兵を隠す術を心
得ていたからこそ少数の部隊を活かすことに
つながったのだ。
 これと同じように秀吉も、織田信長の家臣
として数々の戦を経験していく中で、攻める
だけではなく退くことでも勝てる術を身につ
けていったのである。
 柴田勝家は秀吉が攻撃の矛先を変えたこと
を好機とみて、佐久間盛政の部隊を出撃させ、
羽柴軍の中川清秀や高山右近の部隊が守備し
ていた賤ヶ岳の大岩山にある砦を落として、
なおも進撃を続けた。
 勢いに乗る盛政だったが、前方に見える群
集に心臓が凍りつく思いがした。そこには美
濃の大垣にいるはずの秀吉の部隊が津波のよ
うに押寄せて来ていたからだ。
 秀吉は本能寺の変で見せた備中から京への
神がかり的な速さで帰還した世にいう「中国
大返し」の再現をしたのだ。また、多くの敵
を同時に相手にするところは信長の戦い方と
同じで、よく熟知していた。
 秀吉はたんに信長の意志を名目だけ継承し
たのではなく行動でも実践していたのだ。
 退却もままならなくなった盛政の部隊が、
それでも善戦していると、柴田勝政の部隊が
加勢しに来て、秀吉の部隊と激しい戦闘が続
いた。
 この間に秀吉の別働隊が越前の府中まで進
撃し、前田利家に迫っていた。
 利家は秀吉の部隊が瞬時に現れたことに、
明智光秀の二の舞になることを恐れ、すぐに
降伏した。
 間もなく盛政、勝政の部隊も劣勢になり退
却を始めた。
 やがて柴田勝家に加勢していた他の部隊も
総崩れとなった。
 残った勝家の本隊に秀吉の大軍が迫ると、
勝家はやむなく居城の越前・北ノ庄城に退却
した。