2013年4月18日木曜日

宣伝力

 秀吉は宣伝の効力に気づいていた。
 亡骸(なきがら)のない信長の葬儀を盛大
に催したのは、世間に信長の死を認めさせ、
信長政権が終わったことを宣伝するためだっ
た。また、柴田勝家との戦いでは、手柄を上
げた子飼いの家臣、福島正則、加藤清正、加
藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片
桐且元を特に「賤ヶ岳の七本槍」と称して七
福神になぞらえ、あたかも神が味方している
ように宣伝した。
 その効力は諸大名を威圧し、反抗していた
信長の三男、信孝を自刃させても反発は起き
なかった。それどころか、秀吉が近江・長浜
城に凱旋帰城すると朝廷の勅使が城まで出向
き、戦勝を祝賀したほどだ。そして秀吉が天
下統一を宣言することまで正当化させた。
 秀吉はこの権勢を誇示するかのように大坂
城の築城を命じた。
 幾多の城を攻め落としてきた秀吉だけあっ
て城の欠点を知りつくし、各地の城の利点を
活かした堅固で荘厳な城を築いた。
 大坂城が完成した時、招いた諸大名はその
見事さに驚嘆した。ただし、秀吉の考える築
城は敵対する諸大名から防衛するためではな
く、戦続きで貧困に苦しんでいた民衆の雇用
対策と疲弊した領地の復興が真の目的だった。
 秀吉は過去、信長の家臣だった頃に、大風
で清洲城の塀が倒壊していたのを修理する御
普請奉行の役をこなしている。
 その時のやり方は、まず堀を区分けして、
集まった工夫たちに分担して作業させるもの
で、区分けしたそれぞれの作業を競わせ、そ
の能率によって賃金を決めた。そのため、工
夫たちは競って働き、短期間で完成させるこ
とができた。
 大坂城もこうしたやり方で民衆のやる気を
引き出し、特徴的な内堀と外堀を造成した。
 戦後復興を早めたことで民衆の秀吉に対す
る信頼は高まり、敵対する諸国の民衆にも秀
吉人気が広まった。