2013年4月21日日曜日

腹の探り合い

 天正十二年(一五八四)三月

 家康は尾張の清洲城で信雄と会い、その時、
秀吉が兵十万人に膨れ上がった大軍を率いて
出陣の準備をしているという知らせを聞いた。
 家康はすでに同盟していた紀州の雑賀衆と
根来衆、四国の長宗我部元親に羽柴軍の背後
を突くように要請していた。
 雑賀衆と根来衆は、この時代随一の鉄砲傭
兵軍団で、堺は根来の鉄砲鍛冶、芝辻清右衛
門が移り住んだことで鉄砲の生産供給地になっ
たという経緯がある。そのため千宗易は事前
に根来衆の動きを知ってはいたが親交はなく、
制止することはできなかった。
 京にいた秀吉は、雑賀衆と根来衆の陽動作
戦に翻弄されて動けずにいた。これは宗易か
らの知らせで予想されていたことだ。それよ
りもこれに呼応して毛利一族との関係が再び
悪化するのではないかと懸念し、すぐさま使
者を毛利家に送り関係維持に努めた。
 尾張では、すでに秀吉に味方した美濃の池
田恒興が進入し、犬山城を占拠したため、家
康は小牧山に本陣を構えていた。
 小牧山には信長の築いた城があり、家康は
家臣の榊原泰政に命じて大改修をおこない拠
点とした。
 秀吉に先立って尾張に向かった森長可は、
小牧山の近くの羽黒に陣を構えたが、その翌
日、早朝に家康の家臣、酒井忠次、榊原康政、
奥平信昌らの奇襲にあい大敗した。それを知っ
た織田信雄は小牧山の家康と合流した。
 やっとのことで雑賀衆と根来衆の鎮圧をし
た秀吉は、森長可が敗退したという知らせを
聞くと、まず美濃に向かった。
 美濃に入れば犬山城を占拠している池田恒
興と連携がとれ、家康の三河と信雄の尾張を
にらみ、秀吉の本拠地、近江を守ることがで
きるからだ。
 ここで秀吉は、兵糧の調達をして家康の出
方を待った。しかし、家康はいっこうに動こ
うとはしない。それならばと秀吉は尾張に進
入し、小牧山の北東に位置する楽田に布陣し
た。しかし、それでも家康は動こうとしなかっ
た。
 こうして腹の探り合いは延々と続いた。
 二人とも信長に鍛えられただけあって、手
の内を知り尽くし、先に動いた方が負けると
分かっていたので、誘い出す策を思案してい
た。