2013年4月23日火曜日

小牧の戦

 総大将、羽柴秀次の兵八千人、池田恒興の
兵六千人、森長可の兵三千人、そして軍目付、
堀秀政の兵三千人が三河・岡崎城に向けて出
発した。
 秀吉は尾張の楽田から撤退したように見せ
かけて尾張と美濃の国境に待機し、一部の部
隊で美濃の加賀野井城、奥城、竹鼻城を包囲
させた。
 家康は秀次勢への奇襲に的を絞り、小牧山
から東南にある小幡城に急行した。
 そうとは知らない恒興の部隊は三河に向か
う途中、小幡城に近い場所にある岩崎城を攻
略して落城させて気勢をあげた。
 その頃、恒興の後を追っていた秀次、森長
可、堀秀政の各部隊は長久手の辺りで分散し
て休息することにし、徳川勢の追撃を誘おう
としていた。その矢先、突然、徳川勢の先発
部隊に奇襲され、秀次の部隊は敗退し、秀政
の部隊は恐れをなして退却した。
 離れた場所に休息していた森長可の部隊は、
秀次の部隊が奇襲されていることを知ると、
岩崎城にいた恒興の部隊と合流して長久手に
引き返した。すると、そこで待ち構えていた
徳川勢と対峙することになり激戦となった。
 戦いは二時間後、森長可、恒興の討死によ
り、徳川勢の勝利で終わった。
 秀吉は秀次の部隊が敗退したという知らせ
を聞いて、初めて小牧山に家康がいなくなっ
ていることを知った。
(やはり格が違い過ぎたか)
 後手に回った秀吉は、兵二万人の軍勢で、
家康の行方を追ったが、その前方に家康の家
臣、本多忠勝が立ちふさがった。
 忠勝は信長から三国志の英雄、張飛にたと
えられるほど武勇に優れていた。
 秀吉は忠勝が義にあつく知略にも長けてい
たことから張飛より上手の関羽だと高く評価
していた。
(家康をものにすればいずれこやつもわしの
家臣じゃ)
 忠勝の兵はたったの五百人だったが、秀吉
の兵二万人にも恐れを抱かず悠然と構えてい
た。
 浮き足立っていたのは秀吉の部隊だった。
そこで秀吉は、力任せに攻めることはせず、
苦戦を装い、秀次らが逃げ延びる時間稼ぎを
した。また、慎重な家康なら策略だと思い撤
退をすると読んでいた。
 小幡城に戻った家康は、秀吉が忠勝の部隊
に手を焼いていると聞き、何かの策略とかん
ぐり、小牧山に移動して探りを入れた。そし
て戦うことをやめ、清洲城に戻っていった。
 それを知った秀吉も大坂城に帰還した。