2013年4月24日水曜日

不機嫌な秀吉

 大坂城では、秀吉の正室ねねと数人の側室
が出迎えていた。
 秀吉は天下を狙うようになって色欲が旺盛
になったのか、京極竜子、南の局など次々と
家柄のよい美女を側室にしていた。しかし、
ねねをはじめ誰にも子はできないでいた。
 普段なら側室のそうそうたる美女の出迎え
に、上機嫌でニヤついて一人ずつ声をかけて
いく秀吉なのだが、家康に敗北したイライラ
がたまり、ねねにさえ目を合わせようとせず、
ムスッと城内に入って行った。
 秀吉の機嫌が悪いことを事前に知っていた
ねねはいっこうに動じず、後について行った。
 廊下をいかにも機嫌が悪そうな足音をたて
て秀吉が歩いていると、障子の向こうから子
の唄声が聞こえた。
 その聞き覚えのある謡曲の節に、秀吉が障
子をぶっきらぼうに開けると、その部屋には、
三歳になった辰之助と横に母が座り、お市の
方の子で十七歳の茶々が、舞う姿勢をして立っ
ていた。
 茶々は越前・北ノ庄城で母、お市の方を喪っ
た悲しみも癒え、秀吉から養女のように迎え
られ、庇護を受けていた。
 いきなり鎧に陣羽織で少し怒ったような顔
をした秀吉が障子をあけたものだから、辰之
助は泣き出し母にしがみついた。そして茶々
は慌ててひれ伏すわで、瞬時に殺伐とした雰
囲気になった。
「あっ、いや、その」
 慌てて取りつくろおうとする秀吉の横をね
ねが割って入った。
「おやおや。驚かすつもりが、そなたらが驚
いたわね」
 ねねは茶々の側に行き、優しく顔を上げる
ように促した。
「いやいや、わしは怒ってはおらんぞ。さっ
きまでは怒った顔をしておったかもしれんが、
今はそなたらを見て上機嫌になったぞ。いや、
ハハハハ」
 秀吉は照れ隠しに作り笑いをして見せた。
「す、すぐに着替えてくるから、もう一度、
じっくり舞を見せてくれ。そうじゃ、皆も呼
ぼう、皆も呼んで驚かそう」
 そう言うと秀吉は、陣羽織を脱ぎながらそ
そくさと部屋を出て行った。
 すぐに着替えをした秀吉は、大坂城の大広
間の上座に座った。
 その側にはねねと側室らが居並び、城にい
た家臣たちも呼ばれて座らされていた。
 そこで茶々が舞い、辰之助が謡うことになっ
た。
 家臣たちは皆、子らがなにやら見せてくれ
るというので、和やかな雰囲気になっていた
が、辰之助が謡い始めると目を丸くして静ま
り返った。
 辰之助が謡ったのは、信長が好んだ謡曲「幸
若舞」の一節「敦盛」だった。

 思えば此の世は
   常の住処にあらず
 草の葉におく白露
   水に宿る月より猶あやし
 金谷に花を詠じ、
   栄華はさきを立って
     無常の風にさそはるる
 南楼の月を弄ぶ輩も、
   月に先だって
     有為の雲に隠れり
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか

 辰之助の謡に合わせて舞う茶々は、織田信
長の妹、お市の方の子だけあって、凛とした
美しさがあり、秀吉は酔いしれ一瞬、信長の
幻覚を見た。
 その場にいた誰もが秀吉と同じような思い
をしていた。ひとりねねだけが、してやった
りといった表情を浮かべていた。
 実はこれを仕組んだのは秀吉自身だった。