2013年4月30日火曜日

関白秀吉

 朝廷をも動かす力をつけた秀吉は、西国を
支配する毛利輝元と同盟を結ぶことで、四国
の長宗我部元親と九州の島津義久への押さえ
とした。そして、年が明けた天正十三年(一
五八五)三月に紀州の雑賀衆、根来衆の一揆
討伐に出陣した。
 雑賀衆、根来衆は家康に味方していたのだ
が、秀吉は家康の手を借りずに討伐しようと
したため、予想以上の反撃にあい、一旦退却
し、再び兵十万人の大軍を率いて出陣した。
 この時には、小早川隆景にも毛利水軍の出
動を要請した。
 これに対して雑賀衆、根来衆は兵二万人で
応戦した。
 歴然とした兵力の差に加え、雑賀衆、根来
衆は、城に分散して籠城戦を選んだため、奮
戦はするものの次々に落城していった。
 城攻めが得意な秀吉と説得して開城させる
のが得意な弟、秀長の硬軟合わせた絶妙な対
応も戦いの終結を早めた。
 一気に根来衆の本拠地、根来寺に押し寄せ
た秀吉の大軍に、立てこもっていた鉄砲部隊
五百人の奮戦もむなしく寺は焼き払われた。
 一方、雑賀衆は内紛状態にあり、ほとんど
戦うこともなく首領、土橋平之丞の居城、土
橋城を落城させると、最後に残った太田党の
籠城する太田城の周りに堤防を築かせ水攻め
にした。
 すると程なく兵糧がつき降伏した。
 そこに籠城していたのは、ほとんどが百姓
や女、子らだった。
 六月に入ると秀吉は、体調がおもわしくな
かったため、代わりに秀長を総大将とした兵
十万人の大軍を四国征伐に向かわせた。
 四国を支配していた長宗我部元親も家康に
味方していたのだが、この時も家康の手を借
りることはなかった。
 元親は阿波の白地城に兵二万人で防備を固
めた。これに対し秀長は、甥の秀次と阿波に
上陸し、秀吉の養子となっていた宇喜多秀家
は讃岐に向かった。そして、毛利輝元や小早
川隆景らは伊予にそれぞれ上陸した。
 羽柴軍は各地で勝利し、追い詰められた元
親は秀長に説得され降伏した。その後、元親
は土佐を安堵され秀吉に恭順した。
 この間の七月十一日に秀吉は関白に就任し
た。
 民衆は、百姓の身から関白になるという途
方もない夢を実現した秀吉に憧れ、励みとし
た。
 八月になると秀吉は、越中の佐々成政を討
伐するために出陣した。
 すると成政は織田信雄に仲裁役を頼み、富
山城を明け渡して秀吉のもとに投降するとい
うあっけない幕切れだった。