2013年5月31日金曜日

事件の結末

 この時の輝元から差し出された、秀次が謀
反を企てたとされる連判状には、秀秋の署名
もあり、秀次と同じように三成、長盛らの詰
問を受けることになった。
 話を聞いた秀秋は、署名したことをあっさ
りと認めた。
 三成が困り顔で話した。
「お待ちください秀秋殿。先ほど話しました
ように、この連判状は偽物です。それをお認
めになられては困ります」
「偽物と言い張れば処罰を免れるのか。それ
では太閤様と輝元殿がお困りであろう。偽物
であろうが本物であろうが、太閤様の認めた
関白様の命に、従わぬ者がおりましょうや。
そう太閤様に伝えい」
 そう言うと秀秋は、何食わぬ顔で席を立っ
た。そして、急いで居城、亀山城に戻り、山
口宗永と稲葉正成に告げた。
「山口は三原の父上に領地を貰い受けること、
すぐに話をまとめてまいれ。稲葉はこれから
浪人が溢れるから、ここに来る者は全て受け
入れるよう用意しておけ」
 秀秋は、この窮地を好機とみて目を輝かせ
ていた。

 文禄四年(一五九五)七月月八日

 秀吉は、秀次を伏見に呼び、木下吉隆の屋
敷に入らせた。そして、弁明の機会も与えず、
関白、左大臣の官職を剥奪して高野山に追放
し、出家させた。
 一時は内乱の危機もあったが、この程度で
治まったのは、三成、長盛らの働きによるも
のだった。しかし、秀吉の怒りは止まること
を知らず、同月十五日に秀次への切腹命令が
出され、秀次はその日のうちに切腹して果て
た。そして、これに関係したとして処罰され
る者がいる一方、家康は東方の統治を、輝元
と隆景は西方の統治をそれぞれ任されるなど、
賞された者もいた。
 秀次に加担したとされても伊達政宗のよう
にうまく弁明して処罰を免れた者もいた。し
かし、濡れ衣を着せられた諸大名は、これ以
降、豊臣家に不信感を抱くようになった。
 秀吉は、怒りが治まってよくよく考えると、
自分のしたことの愚かさに気づいた。
 捨丸を守ろうとする余り、逆に災いを防い
でくれる者を喪った。そして、この全ての元
凶を利休の屋敷がある聚楽第と考えた。
(聚楽第に住む者は利休に呪われる。秀次が
わしに刃向かったのも利休に呪われたからじゃ。
捨丸に災いが及ばぬうちに始末しなければ)
 それから数日後、秀次の一族郎党三十余名
が処刑され、聚楽第も破却された。

2013年5月30日木曜日

秀次事件

 秀次は、秀俊が小早川家に養子として出さ
れたことを知ると、何か嫌な胸騒ぎを感じた。
それに、秀吉と家康が頻繁に会い、そのたび
に五奉行に指示を出すことがあり、自分が政
務の主導権を握れないことにもいら立ってい
た。
 そんな時、秀吉が再度、朝鮮出兵を計画し
ていることが知れ渡り、諸大名から秀次のも
とに不満が寄せられた。
 ところが、その計画は秀次には知らされて
いなかった。さらにその計画では、秀次も出
兵させられることになっていると聞き、秀吉
に不信感を抱いた。
 そんなことはおかまいなしの秀吉は、完成
した伏見城に捨丸を移させた。そして、年が
明けた文禄四年(一五九五)一月には、今も
朝鮮で日本の城を守備している将兵に、城の
周辺を開墾して耕作地にし、兵糧の確保に努
めるように命じた。
 秀次は、秀吉の朝鮮出兵を思い止まらせよ
うと朝廷に働きかけた。
 そんな時に大坂城から多額の金銀が何者か
に盗難される事件が起きた。
 この事件は、去年、名高い盗賊の石川五右
衛門が、子と共に処刑されたことに反発した
残党の仕業ではないかということで、秀吉は
秀次に「治安を良くするように」と叱責した
だけでおさまった。しかしその後、秀吉は家
康の情報から、秀次が朝廷に多額の献金をし
ていることを知ると、秀次に不信感を抱くよ
うになった。
 四月の初めに捨丸が病気になったので、秀
次が伏見城に見舞いに行くと、秀吉はあから
さまに不機嫌な顔をした。
 秀次も秀吉に目を合わせることができず、
会話することもなく、すぐに立ち去った。
 その六日後、秀次の末弟、秀保が変死する
事件が起きた。
 このことで秀吉と秀次の決裂は決定的となっ
た。
 これをすぐに察知した家康は、情勢不安に
なることを見越して江戸に戻った。
 しばらく静かな対立が続き、沈黙を破って
先に動いたのは秀吉だった。

 文禄四年(一五九五)七月三日

 秀吉は、聚楽第の秀次のもとへ、石田三成、
増田長盛ら奉行衆を向かわせ、謀反の疑いな
どで詰問させた。
 詰問の内容は以下のようなものだった。

 酒におぼれ、無用な殺生をして政治をおろ
そかにしたこと
 軍備を増強し、武装した者に市中を行列さ
せたこと
 朝廷に多額の献金をし、謀反を企てたこと

 書状を読みあげられて秀次が反論しようと
すると、先に三成が口を開いた。
「これらのことは私たちにも責任のあること
で、何とでも言い訳は立ちます」
 そう言いながら、懐から別の書状を出した。
それは、秀次に忠誠を誓うという諸大名の署
名が入っている謀反を企てた連判状だった。
「これは毛利輝元殿から差し出されたもの。
署名を見ますと北から回っていたようですが、
前田利家殿、徳川家康殿など主だった方々の
名がありません。これは明らかに偽物ですが、
太閤様がここまでされるとなると処罰を免れ
ることは難しいと思われます」
 三成の言うとおり、この詰問は処罰する手
順のたんなる通過点に過ぎなかった。
 秀次はため息をついた。
「確かに、そうじゃ。わしの覚悟はできた。
しかし、他の者の災いはなんとか食い止めた
い」
「それは私たちも最善を尽くすつもりです。
この後は軽はずみな行動は慎み、心穏やかに
お待ちいただきたく、お願い申し上げます」
 三成ら一同は、秀次に深々と平伏した。

2013年5月29日水曜日

小早川隆景の決意

 輝元に、再び秀吉から秀俊の養子縁組の要
請があると、毛利一族から前にも増して反発
が起きた。
 朝鮮出兵では多数の家臣を失い、輝元や広
家は病に倒れるほどの過酷な状況に追い込ま
れた。
 その間に所領は疲弊して、その再建もまま
ならなかったからだ。
 この時、意を決した隆景は、宍戸元秀の娘
で先代、元就のひ孫にあたる古満姫を輝元の
養女にして、秀俊は隆景の養子に迎え、古満
姫と縁組させたいと秀吉に懇願した。
 小早川家には、隆景の弟、秀包がいたが、
それを廃嫡して相続権をなくさせてまでの隆
景の毛利家に対する献身に、秀吉は感服して
快く同意した。
 この頃に任命された五大老には、徳川家康、
前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、そして小
早川隆景と毛利一族から二人も選ばれている
ことからも、その信頼度がうかがえる。
 秀俊の処遇にめどがついた秀吉は、京・伏
見の徳川家康邸にたびたび入りびたるように
なり、体力の衰えを嘆いた。
 すると以前、捨丸に利休の呪い除けを託宣
した天海が、陰陽道には延命の術があると打
ち明けた。
 秀吉は、すぐに全国から陰陽師を集めさせ
延命の術を施術させた。
 これで利休の死んだ七十歳を超えられると
秀吉は喜び、それだけで気力が回復していく
気がした。
 このことで、さらに家康との信頼関係が深
まった。
 同じ頃、秀俊は、隆景の本拠地、備後・三
原城に旅立った。
 お供には補佐役の山口宗永と新しく豊臣家
から迎えた稲葉正成がいた。
 正成は二十四歳と若かったが、石田三成に
匹敵する才能があり、武勇では三成より上だっ
た。そのため、将来は捨丸の補佐役として出
世することを望んでいたが、秀俊に仕えるこ
とになり暗く沈んでいた。
(なぜわしがこんな目に……。厄介払いされ
た養子など……、小早川家でもどうせ邪魔者
扱いされるのがおちだ。早く新しい出世の道
を見つけなければ)
 正成は、そう思うと余計に気が重くなった。
しかし、十一月十三日に、秀俊一行が三原城
に到着すると、毛利家、小早川家からは意外
にも大勢の出迎えが待っていた。その上、正
成の予想に反して大歓迎を受けたのだ。
 すぐに秀俊と隆景との養子縁組の儀が執り
行われ、豊臣秀俊改め小早川秀秋となった。
そして、連日、秀秋の大好きな鷹狩りや舟遊
びを楽しみ、夜には、近隣の諸大名など、三
千人余りが祝いに集まった。
 その座興の能楽では、輝元が小鼓を叩き、
秀秋が舞うという大宴会が催された。
 三日後には、秀秋の花嫁となる古満姫の一
行、二千人が到着し、三原の城下町をあげて
の盛大な婚儀となった。
 秀秋と古満姫は共に十三歳で、幼い夫婦に、
町内が和やんだ雰囲気に包まれた。
 こうして秀秋は、十一日間を過ごした。
 この盛大な歓待は、毛利一族の意地だった
のかもしれない。
 最後の日、隆景は、いずれ近いうちに所領
の筑前、筑後、肥後を秀秋に譲るという約束
をした。
 秀秋は古満姫と共に、来た時よりも大勢の
人々に見送られて三原城を後にした。

2013年5月28日火曜日

繁栄の手本

 文禄三年(一五九四)

 秀吉は正月明けにいきなり、朝鮮に出兵し
なかった諸大名に、京・伏見の指月山に城を
築城するように命じた。
 秀次はこの越権行為に、関白の座を失うの
ではないかと不安がよぎった。
 それでも秀次は好意的に受け取り、秀吉が
朝鮮に出兵した諸大名の不満を解消するため
に、色々考えていたのだと思うことにした。
そして、秀吉の側を離れず打ち解けるように
努めた。
 二月になると秀吉は、秀次や公家、諸大名
を伴って大和・吉野山で花見を催し、茶会や
歌会で昔に戻って楽しんだ。
 この時、十三歳になった秀俊も呼ばれ和歌
を詠んだ。

 芳野山木ずゑをわたる春風も
  ちらさぬ花をいかで手をらん

 君か代は
  ただしかりけりみよしのゝ
    花におとせぬ峯の松かぜ

 秀俊は、身の回りが変化していることを肌
で感じていた。
 秀吉は四月に入るとすぐ、京の前田利家の
邸宅を訪ねた。
 利家も家康と同じく朝鮮出兵を免除されて
いた。
 二人は同じ時代を生き抜いてきたことを懐
かしく話し、お互いの労をねぎらった。そし
て、秀吉は利家に「捨丸の後見人になって欲
しい」と懇願した。
 利家は秀吉より一つ年下で、自分も高齢で
あることを理由に断ったが、秀吉に押し切ら
れ、自分が死んだ後は嫡男の利長が跡を引き
継ぐことを条件に承諾した。
 これにほっとしたのか、秀吉は数日後、小
便を漏らすという老化の兆候がみられるよう
になった。
 死期を悟った秀吉は、悩んでいた秀俊の処
遇を急ぐことにした。
 秀吉が豊臣家繁栄の手本としたのは毛利一
族だ。
 毛利一族は、先代、元就の次男、元春が、
吉川家を乗っ取るかたちで養子となり、家督
を相続した。そして、三男、隆景が、小早川
一族の分家に養子となりその後、本家を乗っ
取って小早川家をまとめた。
 父子、兄弟が争う戦国の世にありながら、
この三家は強い絆で結ばれ、元就と元春が死
去した後も、毛利輝元を小早川隆景、吉川広
家が補佐して、西国を支配していたのである。
 秀吉は以前、まだ子のいない輝元に「秀俊
を養子にするように」と申し入れたことがあっ
た。
 これに毛利一族は猛反対し、特に広家は「本
能寺の変で秀吉に騙された」と、父、元春か
ら聞かされ、警戒するように言い含められて
いたので、不信感が誰よりも強かった。しか
し、隆景は「反対したところで、秀吉に刃向
かうことができない現実をふまえ、うまく回
避する方策を考えるべきだ」と説いた。
 思案した隆景はすぐに動き、自らの弟で穂
井田元清の子、秀元を輝元の養子とすること
が、以前から決まっていたことにした。そし
て、朝鮮出兵のために秀吉が肥前・名護屋に
向かう途中、安芸・広島城に滞在したさいに
秀元を引き合わせた。
 その時に秀吉は、秀元を輝元の養子と認め
ていた。
 秀吉はその後の朝鮮出兵で、秀俊の処遇を
棚上げにしていたが、捨丸が生まれたからに
は、どうしても毛利一族を取り込み、捨丸を
補佐する体制を整えたいと考えていた。

2013年5月27日月曜日

拾丸と秀次

 朝鮮で戦った各部隊が次々と肥前・名護屋
の港に帰還する中、朝鮮の南部に築城した日
本の城を守備するという名目で、一部の将兵
が残された。
 これらの者は、兵糧が乏しくなると多数が
朝鮮に投降していった。
 朝鮮ではこれらの者を「降倭」と呼んで受
け入れ、鉄砲の製造方法や戦闘術を学んで、
再び日本が侵略してくるのに備え始めた。

 秀吉は、今度こそ淀が生んだ嫡男を守ろう
と、異常なほど神経を尖らせていた。
 鶴松丸が利休の呪いで死んだと信じている
秀吉は、生まれた子から利休の呪いを取り払
うため、家康の側近となり陰陽道を極めた僧
侶、南光坊天海を頼った。
 その天海の託宣により、生まれた子は家臣
の松浦重政が拾ったことにして、名も拾い子
ということで拾丸と名付けられた。
 家康はこれをきっかけに、朝鮮侵略の失敗
で日増しに立場の悪くなる秀吉を擁護して接
近していった。
 家康としては、秀吉の影響力が弱くなり、
関白、秀次が正式に後継者になれば、自分の
天下取りが遠のくのではないかとの思惑から
だ。また、国替えで押し付けられた荒廃して
いる領地の開発が始まったばかりで、それを
秀次に邪魔されないようにする必要があった
のだ。
 家康の擁護を秀吉は、朝鮮出兵を免除した
ことを感謝しているからだと信じていた。

 文禄二年(一五九三)九月

 秀吉は、肥前・名護屋から京に帰ると、す
ぐに大坂城にいる淀と捨丸に会った。
 その元気な様子に安心した秀吉は、十月に
は捨丸と秀次の生まれたばかりの娘、菊を婚
約させた。これは、秀次を後継者ではなく他
人として扱うことを意味していた。
 そのかわり秀次には、日本を五分してその
四を与えることを約束した。
 その秀次のもとには、朝鮮に出兵して所領
が疲弊している諸大名からの不満が伝えられ
ていた。
 こんな時、秀長なら諸大名をうまくなだめ
る一方、秀吉に弟としてわだかまりなく進言
できただろう。しかし、今の立場の秀次には
すぐに進言することはできなかった。   
 秀吉は、朝鮮侵略の失敗から逃げるように、
尾張・清洲城の家康のところに入りびたるな
ど、この年末は隠居した太閤として都合よく
振舞った。
 こうして先手を打つかたちで秀次を突き放
したのだ。
 家康は、秀吉と秀次の関係が悪化していく
のを尻目に、江戸に招いた藤原惺窩から、明
に伝わる帝王学「貞観政要」を学び、来るべ
き時に備えた。

2013年5月26日日曜日

休戦

 十一月に肥前・名護屋城に戻った秀吉は、
朝鮮侵攻が順調に進んでいるものと思ってい
た。
 朝鮮の各地で起きている義兵の反撃を日本
の一揆程度に考え、制圧した地域での築城が
進んでいる様子を想像していたのだ。
 余裕を取り戻した秀吉は、連れて来た淀、
松の丸らと名護屋城下の町内を見物して楽し
み、すでに来ていた徳川家康と前田利家を名
護屋城に呼んで、組み立てられた黄金の茶室
で、新しく茶頭にした古田織部に茶を点てさ
せた。
 秀吉は、商人出の千利休を自刃させて以後、
大名の織部が作る斬新な茶器などを流行させ、
織部を茶の湯の改革者にすることで世間の批
判をかわした。そして、身分制度を厳守する
体制を整えた。また、詫び茶特有の狭い茶室
には、茶を立てる主人と茶を飲む客の間に無
意識のうちに師弟関係ができる効果があるこ
とに気づいた秀吉は、諸大名を手懐けること
に利用するため京・伏見に建築する邸宅の趣
向は皮肉にも利休好みにするよう命じていた。
 茶をすすっていた家康が楽しみにしていた
のは、藤原惺窩と会うことだった。
 家康は、以前、秀俊の居城に惺窩が寄宿し
ていることを知ると、秀俊に惺窩との面談を
執り成してほしいと頼んでいた。
 秀俊は快く応じ、この時、名護屋城に来て
いた家康と惺窩の面談が実現したのだ。
 家康は、噂に聞こえた惺窩の学識に心酔し、
惺窩も家康が学問を尊び実践しようとする態
度に感動した。
 意気投合した家康と惺窩は、近いうちに江
戸で会うことを約束して別れた。

 朝鮮では、冬が近づくにつれ、日本軍の武
器、弾薬、兵糧の補給が困難になり、各部隊
は次々に退却をよぎなくされた。
 攻勢を強める明軍は、翌文禄二年(一五九
三)一月に、日本軍が集結していた漢城の近
くまで迫った。しかし、小早川隆景の部隊な
どによる伏兵戦で敗退した。そして、三月に
は加藤清正によって、逃亡していた朝鮮の国
王が捕らえられた。
 このことで明軍の総大将、李如松から講和
の申し出があり、沈惟敬と小西行長が交渉す
ることになった。
 秀吉はこの時もまた、自ら朝鮮に渡ること
を計画していたが、今度は淀の懐妊という知
らせで、またしても朝鮮行きを延期すること
になった。そのため、日本から講和の条件を
出すことにした。
 その講和の条件は、

 明の姫宮を日本の天皇の后とすること
 勘合貿易を復旧すること
 明、日本両国の武官による和平の誓紙を交
換すること
 日本を朝鮮王とし南部四道を与えること
 朝鮮王子、大臣を人質として来日させるこ

 日本は捕虜とした朝鮮の二人の王子を返還
する
 朝鮮は大臣の誓紙を提出すること

 これを受け取った小西行長は、なんとして
も講和を成功させたいと思案し、朝鮮の二人
の王子を返還する替わりに勘合貿易の復旧を
するということだけを条件として、明の沈惟
敬に伝えた。
 長引いていた講和交渉も八月三日に淀が男
子を生んだことで、秀吉は京に戻ることにな
り、朝鮮侵攻はうやむやな状態で休戦に入っ
た。

2013年5月25日土曜日

秀吉落胆

 文禄元年(一五九二)七月二十二日

 秀吉のもとに、大政所が危篤という知らせ
があり、すぐに京に戻ったが、着いたときに
はすでに死去していた。
 老いていたとはいえ、鶴松丸に次ぐ凶事に
秀吉の落胆の色は隠せなかった。
 大政所の葬儀は、しょうすいしきった秀吉
の名代として秀次が執り行った。
 秀吉は八月になると、京・伏見に自らの隠
居所となる邸宅の建築を命じるほど、朝鮮を
征服する意欲を失っていた。
 そうした秀吉を慰めたのは淀だった。
 秀吉は、鶴松丸の死を乗り越えて明るく振
る舞い、自分を元気づけようとする淀を愛し
く思い、やがて気力を取り戻した。
 朝鮮の日本軍は、漢城に集結すると、秀吉
からの命令が一時途絶えたこともあり、軍議
をおこない、各部隊は分散して侵攻すること
になった。

 平安道、一番隊
  小西行長、宗義智、松浦鎮信
  有馬晴信、大村喜前、五島純玄
 咸鏡道、二番隊
  加藤清正、鍋島直茂、相良頼房
 黄海道、三番隊
  黒田長政、大友吉統
 江原道、四番隊
  毛利吉成、島津義弘、島津忠豊
  伊東祐兵
 忠清道、五番隊
  福島正則、生駒親生、来島通之
  長宗我部元親、蜂須賀家政
 全羅道、六番隊
  小早川隆景、秀包、立花宗茂
 慶尚道、七番隊
  毛利輝元
 京畿道、八番隊
  宇喜多秀家

 再び侵攻を開始した各部隊は、朝鮮全土を
次々に制圧した。しかし、それがもとで補給
路が広範囲になり、兵糧の確保が難しくなっ
た。
 それでも加藤清正の部隊は、朝鮮の王子二
人を捕らえ明にまで迫った。
 やがて日本軍の侵攻が鈍り始めた。
 これを待っていたかのように朝鮮側では、
各地で正規軍には属さない義兵が組織され、
攻勢に出た。
 海上でも朝鮮の李舜臣が率いる水軍が、態
勢を整えて反撃を開始し、藤堂高虎、脇坂安
治、九鬼嘉隆らの率いる水軍を次々に撃破し
ていった。
 朝鮮の主力として現れた軍船は「亀甲船」
と呼ばれ、亀の甲らのような湾曲した鉄板で
覆われていた。
 この亀甲船には、槍のような突起があり、
天宇銃筒、地字銃筒、玄字銃筒などと呼ばれ
る大砲を十四門も装備していた。
 これに対する日本の軍船は、ほとんどが木
造船で数隻は鉄板で覆った鉄甲船があったが、
それには大筒程度の威力しかない大砲が船首
に三門しか搭載されていなかった。また、不
慣れな海域だったこともあり、逃げるのが精
一杯だった。
 そこで日本軍は、朝鮮水軍の拠点としてい
る港を陸上から攻撃することにした。
 これにより朝鮮水軍の出撃回数は減っていっ
た。
 しばらくすると、朝鮮からの要請にこたえ
て明軍が支援に動き、戦いはこう着状態となっ
た。
 この戦いで日本軍は初めて、明軍が使用し
た大将軍砲、威遠砲などの大砲と火箭(カセ
ン)と呼ばれる火を噴いて飛び、しばらくす
ると炸裂する爆弾(現在のロケット弾のよう
なもの)などの新兵器を目の当たりにし、そ
の威力を身をもって体験した。
 これらは、大友義鎮が使用していた大砲と
は比べ物にならない破壊力があった。

2013年5月24日金曜日

無防備

 朝鮮では、日本の不穏な動きを知りながら
も、戦にはまだならないだろうと警戒をして
いなかった。そのため、あっけなく日本軍の
上陸を許した。
 朝鮮に上陸した一番隊の小西行長、宗義智
らは、釜山城、東來城、梁山城と次々に攻略
した。
 この頃の朝鮮は、鉄砲が普及しておらず、
そもそも戦の仕方が日本とは違うため、日本
軍の鉄砲を使用した攻撃を防げなかったのだ。
 大陸が宋の時代に発明した火薬は、日本が
鎌倉時代の蒙古襲来で使用されてその威力を
示した。その後、西洋に伝わり、鉄砲に使わ
れるようになった。
 その鉄砲を明では、日本よりも早くポルト
ガル人が伝え、その威力を知ってはいたが、
太祖、朱元璋が統一して二百年を超える長期
間の平和が続いていたので、鉄砲の必要性を
感じていなかった。
 それに明では、町全体を城壁で囲む城郭都
市を形成していた。このことが鉄砲ではなく
城門や城壁を破壊する強力な大砲など、攻城
兵器の開発に注がれていた。
 朝鮮でも李氏が統一して二百年以上にわた
る長期間、平和が続いたため、鉄砲を使用し
た戦闘の研究が進んでいなかった。これに対
して、日本は戦国時代の真っ只中で、信長に
よって鉄砲の威力が認められた。
 鉄砲は、これを機に急速に普及し、戦闘方
法も激変した。こうしたことによって皮肉に
も、鎌倉時代の蒙古襲来とは逆の立場で争わ
れることになった。
 日本の部隊は、次々と朝鮮に上陸し、国王
がいる都にある漢城を目指した。
 軍船は、往きに部隊と兵糧を運ぶと帰りは
戦利品と捕虜を運んだ。
 肥前・名護屋城の近くの港には、大量の書
物や陶器、武器などの戦利品と学者、職人、
農民など、多数の捕虜の上陸でしだいに慌し
くなっていった。
 それらを選別するために、朝鮮の言葉が分
かる僧侶が集められ、惺窩と弟子の賀古宗隆
らも筆談でやり取りしてこれに加わった。
 朝鮮に侵攻した部隊は、国王を逃がしたも
のの、五月初めにはすでに漢城を攻略してい
た。
 これに気を良くした秀吉は、もう明まで征
服したつもりになり、明の関白に秀次を任命
し、後陽成天皇を北京に移すなどと決めてい
た。そして、自らも朝鮮へ渡る準備を始めた。
しかし、秀吉の母である大政所が病気という
知らせがあり、秀吉の朝鮮行きは延期となっ
た。
 秀吉は、加藤清正、鍋島直茂に朝鮮の地に
拠点となる城の築城を命じ、毛利輝元には明
への侵攻を命じた。

2013年5月23日木曜日

文禄の役

 文禄元年(一五九二)

 毛利輝元、九鬼嘉隆など、水軍をようする
諸大名が、朝鮮に渡るための軍船を用意した。
そして、他の諸大名にも役割分担が告げられ
た。

朝鮮に経由する地の船奉行
 朝鮮
  早川長政、毛利高政、毛利重政
 対馬
  服部一忠、九鬼嘉隆、脇坂安治
 壱岐
  一柳可遊、加藤嘉明、藤堂高虎
 名護屋
  石田三成、大谷吉継、岡本重政
  牧村政吉

朝鮮に出兵する部隊
 一番隊
  小西行長、宗義智、松浦鎮信
  有馬晴信、大村喜前、五島純玄
 二番隊
  加藤清正、鍋島直茂、相良頼房
 三番隊
  黒田長政、大友吉統
 四番隊
  毛利吉成、島津義弘、伊東祐兵
  島津忠豊
 五番隊
  福島正則、生駒親生、来島通之
  長宗我部元親、蜂須賀家政
 六番隊
  小早川隆景、秀包、立花宗茂
 七番隊
  毛利輝元
 八番隊
  宇喜多秀家
 九番隊
  羽柴秀勝、細川忠興 

 三月に秀吉は京を出陣した。そして、四月
十一日には一旦、安芸・広島城に滞在した。
 秀吉は、広島城が聚楽第を手本に築城され
たことを知っていたので立ち寄り、城内をじっ
くりと見てまわった。
 それから毛利輝元、小早川隆景の歓待を受
けて親交を深め、厳島にも渡り厳島神社で、
九州征伐以来、二度目の戦勝祈願をした。
 四月十九日に朝鮮への渡海命令を発すると、
秀吉自身は、同月二十五日に肥前・名護屋城
に到着した。
 秀吉の後を追うように秀俊も名護屋城に入っ
た。
 秀俊に同行した者の中に藤原惺窩もいた。
 惺窩は、秀俊の居城、亀山城に寄宿して以
来、明や朝鮮から伝わる書物をひもとき、儒
学や帝王学を秀俊に説くようになっていた。
 秀俊と学ぶことで、惺窩の学識も高まり、
その名声は以前にも増して高まっていた。
 惺窩は、秀吉にどうしても言っておきたい
ことがあり、秀吉が京を出陣する前に面会し
た。そして「朝鮮には貴重な書物や儒学の基
礎を築いた姜コウ、朱子学者の鄭希得など有
能な人物、また活字印刷の技術を身につけた
職人などがいて、それらは今後の日本に多大
な貢献をする」と説き、戦をやめるように嘆
願した。
 これに対して秀吉は「戦をやめることはで
きないが、それらの者を日本に運んでくるの
で、惺窩殿は名護屋城へ出向き、選別するよ
うに」と命じていたのだ。

 すでに港からは、朝鮮に向けて軍船が次々
と出港していた。

2013年5月22日水曜日

名護屋城

 秀吉は、利休への怒りがおさまると冷静に
自問した。
(朝鮮出兵をつい口にしたが、これは単なる
思いつきだろうか。いや、九州征伐の時、対
馬の宗義智を介して朝鮮王に服従を勧告した
がその返答がなかった。それが心の中にあり、
燃えかすのようにくすぶっていたのかもしれ
ない。しかし今、朝鮮を相手にしていればそ
の隙に異国がこの国を攻めてくるかもしれな
い。もし異国が攻めてくるとしたら上陸する
のは九州。そうじゃ九州に強固な城を建て、
その備えとしよう。みておれ利休、お前の呪
いなど、跳ね返してくれるわ)
 この年の九月には正式に朝鮮への出兵準備
命令がくだされ、十月には加藤清正が奉行と
なり、肥前に名護屋城の築城を始めた。
 十二月に入って、ようやく北政所は秀吉に
聞いた。
「身は二つに裂けませぬが、日本と朝鮮のど
ちらにお住みになるので」
 すると秀吉は察したのか、関白を辞任して
朝鮮出兵に専念することにした。
 それを受けた後陽成天皇は秀次を関白に任
命した。
 いくら望んでも手に入らない関白の座が、
忘れた頃にポンと転がり込んでくる。
(運命とはあっけないものよ)
 秀次はため息をついた。

 肥前・名護屋城は、わずか五ヶ月で完成し
た。しかし、その規模は大坂城に匹敵し、五
層七重の天守、多数の曲輪などを配置した頑
強な要塞であり、秀吉好みの金箔などで装飾
された豪華さも兼ね備えていた。
 城の周りには全国から集まる諸大名のため
に、庭園などもある邸宅が建てられた。その
数は百二十棟を超えた。
 十六万人を超える将兵を目当ての店も並び、
各地から商人によって兵糧も運ばれた。
 皮肉にもこれによって、戦続きで荒廃して
いた九州全体が急速に復興していった。

2013年5月21日火曜日

秀吉を呪う

 秀長が病死し、利休も自刃させられた後は、
秀次や浅野長政、石田三成、増田長盛、長束
正家、前田玄以の五奉行と大谷吉継などが秀
吉の補佐をするようになっていた。
 陸奥で一揆が起きるなど混乱はあったが、
民衆も新しい法度に慣れると次第に落ち着い
てきた。
 誰もが戦国の世が終わり、平穏な暮らしが
できると思った。ところが、秀吉の嫡男、鶴
松丸が急死して一転、騒然となった。
 秀吉は、戦で負けても、これほどは落ち込
まなかったというぐらい、誰もが見たことの
ない落ち込みようだった。
 そうした様子から、秀吉の隠居は確実と思
われた。

 天正十九年(一五九一)八月五日

 わずか三歳で病死した鶴松丸は、東福寺に
移された。
 あわれな老木のように打ちのめされた秀吉
の脳裏に、利休が書いた辞世の句がよぎった。

 人生七十(年)
   りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣
   租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐる
   わが得具足の一太刀
 今この時ぞ
   天になげうつ

 信長よ、私は七十年の人生だった
ぞ、ざまあみろ

 私のこの茶器の価値に信長は幻惑
され、やがて神仏を崇めず、自らが
神のごとき振る舞いをし始めた
(これは秀吉も同じだ)

 だから、私が茶の湯で得た情報を
駆使して信長を一撃で死に誘う
(それは秀吉に天下を取らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこ
のこと(秀吉の共謀)を知っている
者が秀吉を苦しめるだろう

 秀吉はこのように解釈していたが、しかし、
信長暗殺に関して誰が真相を知っていようと
天下人になった秀吉には、もはやなんの脅し
にもならない。
 そこで別の解釈が浮かんできた。

 わしは七十年生きたぞ、どうじゃ
 わしの刃は誰だろうと切り捨てる
 受けてみよ、わしの会心の一撃を
 今から死んで天下人、秀吉を呪う

 秀吉は、鶴松丸の死でそう解釈できると感
じるようになっていた。そして、利休に対す
る怒りが前にもましてわいた。
 それは新たな天下取りの野望を呼び起こし
た。
 翌日、秀吉は、諸大名に朝鮮への出兵準備
命令を発した。
 これには皆、耳を疑った。
 秀吉が大義名分としたのは「はるか昔、朝
鮮の南端には任那(ミマナ)という国があり、
日本府が置かれていたが、朝鮮での戦国時代
に滅亡した」という言い伝えで、それを今に
なって取り戻そうというのだ。しかし、任那
は国ではなく、日本人が朝鮮と貿易をする時
に滞在していた区域だった。
 これは明らかに大義名分のない侵略行為だっ
た。しかし、今は秀吉を諌められる者がいな
い。
 「弟の秀長がいたら止められたものを」と
皆、落胆した。
 五奉行は、秀吉が唯一話を聞きそうな北政
所に説得を願い出た。
 北政所は少し考え「頃合いをみて話してみ
ます」とだけ言った。
 今すぐ話をすれば「鶴松丸を死に追いやっ
たのは淀を側室にしたことを恨んでいる者(北
政所)」と、ありもしないことを勘ぐられ余
計に話がこじれると思ったからだ。

2013年5月20日月曜日

藤原惺窩

 秀吉の朱印状で外に出辛くなった秀俊は、
居城の亀山城で退屈な日々を送っていた。
 そうしたある日、一人の男がやって来た。
 その男は、名を藤原惺窩といい、歌道で名
高い冷泉家に生まれ、「新古今和歌集」の選
者として知られる歌人、藤原定家十二世の孫
だった。
 惺窩は、八歳の頃から播磨・龍野の景雲寺
で禅宗を学んだが、父と兄が大名の別所長治
との争いで戦死して生家が没落すると、京・
相国寺に入り僧侶となった。
 一時は、父兄の仇を討とうと、秀吉に訴え
たこともあったが叶わず、寺に戻った。
 寺では、堕落していく他の僧侶を見るにつ
け、仏教の教えにも限界を感じるようになっ
た。
 そんな時、儒教に触れ、傾倒するようにな
り、気がつけば三十歳となっていた。
 惺窩は、明や朝鮮の書物を読みあさる日々
の中で、政治にも関心がわき、その学識は石
田三成も教えを請いたいと願うほどだった。
 それを知った秀吉から、秀俊の講師となる
ように命じられ、亀山城に赴き、寄宿するこ
とになったのだ。
 秀俊は惺窩が、この頃はまだ珍しい儒学者
の装いをして、僧侶らしからぬ風体だったこ
とに興味がわいた。
 惺窩も、巷で噂されている好奇心旺盛な秀
俊に、自分の幼い頃を重ね、相通じるものを
感じていた。
 惺窩は、秀俊に教え諭すということはせず、
自分も学んでいる途中なので一緒に学ぼうと
いう姿勢を見せた。そして、もっぱら明に伝
わる物語を話して聞かせるので、秀俊も飽き
ずに耳を傾け、次第に政治や兵法などにも興
味を示し、惺窩の講義をすぐに理解していっ
た。
 秀吉は、秀俊が勉学に励んでいることを知
ると喜び、次々に書物を買い与えた。
 それは惺窩でさえ手に入れることのできな
い貴重な書物で、これを惺窩も読むことによ
り、儒学者としての名声が高まった。

2013年5月19日日曜日

思春期

 そんなことが起きているとは知らない秀俊。
 その生活は優雅なものだった。
 読み書きや和算などの勉学は難なくこなし
た。そして、公家の作法や蹴まり、乗馬など
もすぐに覚えた。
 やっかいだったのは、生活態度を厳しくし
つける補佐役、山口宗永だが、常に監視され
ているわけではなく、検地があれば秀吉に呼
び出されることが多かったので、その隙に鷹
狩りなどに出かけては遊びほうけていた。
 そんな秀俊も九歳で早くも思春期を迎えた。
 秀俊のような大名の子は、毎日の行事とし
て朝夕にみそぎの湯を浴びて神仏、祖先に礼
拝していた。
 このみそぎの湯浴びをする時は、薄い肌着
だけの女中が世話をしてくれるのだが、その
肌着にどうしても湯がかかり、透けてうっす
らと女の裸体が見え隠れするのだ。
 これに秀俊は心をときめかせるようになっ
た。しかし、毎日同じ女中では飽きてくる。
 ちょうど京には、諸大名の妻子が秀吉の命
令で住まわされている。そこで、秀俊は京の
大名屋敷を巡り始めた。
「誰か居らぬか。汗をかいた。湯浴びを所望
じゃ」
 その声に飛び出した屋敷の者は、身なりの
立派なかわいらしい子が堂々としているので、
これは良家のご子息だろうと、快く湯浴びを
させた。
 そんなことを度々していると、そのうち関
白の子、秀俊と分かり、あちらこちらの屋敷
に出没すると話題になった。
 それはやがて秀吉の耳にも入った。
 ある日、秀俊のもとに秀吉から朱印状が届
けられた。それには、日ごろの生活態度を戒
めた中に「湯浴びは決められた女中の所です
るように」と書いてあった。
 そんな秀俊のやんちゃぶりは、かえって庶
民的な人気を呼び「金吾かるた」などが売ら
れるようになった。

2013年5月18日土曜日

辞世の句

 秀吉は、天下を取る発端となった本能寺の
変やその後の経緯など、何もかも知っている
利休の存在が疎ましくなった。また、堺に帰っ
たことも、徳川家康や伊達政宗など別の大名
に天下を取らせようと計画するのではないか
との疑念がわき、脅威を感じていたのだ。
 そこで、すぐにでも利休を処分しようとし
た矢先、病に倒れていた秀吉の弟、秀長が死
去したとの知らせがあり、利休の処分は保留
にされていた。

 天正十九年(一五九一)

 秀長の病死は、正月が過ぎて間もなくのこ
とだった。
 秀長は秀吉の参謀として多大な貢献をした。
そして唯一、秀吉に忠告できる存在だった。
 もし秀長が生きていれば、利休の助命をし
たかもしれない。
 秀吉は秀長の喪があけると、利休を京に呼
び戻した。そして、利休が聚楽第に入ると、
待機していた軍勢が利休邸を取り囲んだ。
 このことを聞きつけた古田織部、細川忠興
ら利休の弟子たちは、前田利家などに働きか
けて助命を嘆願した。しかし、秀吉には聞き
入れられず、すぐに利休の自刃が命じられた。
 利休はすでに悟っていたのか、取り乱す様
子もなく、その一生を終えた。
 この時、秀吉は利休の遺言として書かれた
歌を見ていた。

 利休めは
   とかく果報のものぞかし
    菅丞相になるとおもへば

 菅丞相とは菅原道真のことで、朝廷に仕え
る学者の身から右大臣にまでなったが、その
ことで藤原氏にねたまれて九州に左遷され、
大宰府の長官にされた。
「利休め、町人の分際で己を菅丞相になぞら
えるか」
 秀吉が苦笑いを浮かべていると、その歌と
共に利休が前日に書いた辞世の句があった。

 人生七十 力囲希咄
 吾這寶剣 祖佛共殺
 堤る我得具足の一太刀
 今此時ぞ天に抛

 人生七十(年)
   りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣
   租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐる
   わが得具足の一太刀
 今この時ぞ
   天になげうつ

 秀吉の脳裏に、信長が好んで舞った謡曲「敦
盛」の一節がよぎった。

 人間五十年
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり

 一度生を受け
   滅せぬ者のあるべきか

 これは、

 人間界の五十年は
   天上界からみれば
     たった一日
 眠って見る夢は長いようでも
   目が覚めれば
    一夜が過ぎているだけだ

 この世に生まれたら
   誰だろうと
     いつかは死ぬのだ

 信長が本能寺で死去したのが四十九歳。
 利休が自刃した時、七十歳。
 信長は、人間界の一瞬しか生きられなかっ
たが、利休はそれに打ち勝って長生きしたと
もいえる。それを、力囲希咄(りきいきとつ)
と表現した。
 力囲希咄とは、剣を振りかざした時の気合
を入れる声や雄たけびのことだが、利休は延
命が叶わなかった信長に「やったぞ」とか「ど
うじゃ」と言っていると秀吉は解釈した。ま
た、利休は茶人らしからぬ「宝剣」「得具足」
「一太刀」などという言葉を使った。
 利休にとって宝剣は茶器、得具足とは自分
の使い慣れた武器のことだが、利休にとって
は茶の湯を通じて得た情報が武器になる。こ
れらを利用して一太刀(一撃)で信長を死に
追いやったと自分の力を誇示している。そし
てこのことを秀吉も知っていて天下を取るこ
とになった。
 利休が辞世の句で本当に言いたかったこと
は、

 信長よ、私は七十年の人生だった
ぞ、ざまあみろ

 私のこの茶器の価値に信長は幻惑
され、やがて神仏を崇めず、自らが
神のごとき振る舞いをし始めた
(これは秀吉も同じだ)

 だから、私が茶の湯で得た情報を
駆使して信長を一撃で死に誘う
(それは秀吉に天下を取らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこ
のこと(秀吉の共謀)を知っている
者が秀吉を苦しめるだろう

 これは秀吉に対する恨みと脅迫の言葉だっ
た。

 秀吉は、苦笑いから一瞬にして顔面蒼白と
なり、次第に赤ら顔になると烈火のごとく怒
り、すぐに従者を呼んだ。
 利休が自刃してまだ遺骸の残る部屋に秀吉
の従者が駆け込み、この後、利休の首は一条
戻橋でさらし首にされた。

2013年5月17日金曜日

暗殺の時

 天正十年(一五八二)六月二日の深夜

 何も知らない光秀は突然、本能寺で就寝中
のはずの信長から来るように命じられた。
 そこですぐに兵一万三千人と供に出向いた。
そして理由も告げられず「本能寺の周りの警
戒にあたるように」とだけ命じられ、その任
についた。
 しばらくして寺の内部から異様な物音やう
めくような声がし始めた。
 これを光秀は、信長の身に危険が及んでい
ると察し、音のする一室を覗いた。
 そこで延命の呪術を見た光秀は、宗易の狙
いどおり、「魔王」とあだ名された信長がそ
の正体を現し、天皇を呪っているような術を
していると錯覚して激怒した。
 これまで光秀は、信長のどんな仕打ちにも
耐えてきた。しかし、天皇をないがしろにす
る行為はどうしても許せなかった。
 光秀は発作的に、延命の呪術に気を取られ
ていた信長を襲い、あっけなく討ち取った。
そして光秀は、信長の遺骸を運び出し、残っ
た兵には、本能寺を焼き払うように命じた。
 光秀は、運び出した信長の遺骸を陰陽道の
魔封じの術により、二度と生き返らないよう
に葬った。
 光秀はこの時、まだことの重大さに気づい
ていなかった。だから、この後の政策などが
無計画で、天下をとるという野望があったよ
うには伺えない行動をしていた。
 この計画を知っていた秀吉は、備中の毛利
と最初から戦う気はなく、攻撃目標の高松城
を水攻めにして、退却する時に追撃できなく
した。そして、兵の大多数を備中と京の中間
地点のあたりに待機させ、京の様子をうかがっ
ていた。
 本能寺で異変が起きると、狼煙や灯火など
を使って瞬時に秀吉のもとに伝えた。
 知らせを聞いた秀吉は、待機している兵に
光秀の動向を監視させた。そして自分は、ま
だ本能寺の異変を知らない毛利との和睦を強
引にすすめた。
 和睦が完了すると急いで引き上げる一方、
京の近くに待機していた秀吉の兵は、あたか
も備中から引き上げてきたように見せかけ、
摂津の諸将や堺にいた織田信孝らと合流した。
 これはあまりにも速い行動で、まだ秀吉は
到着していないなど疑念をもたれても不思議
ではないが、信長が襲撃されているという非
常事態に目を向けさせてごまかすことができ
たのかもしれない。
 ともかく、光秀討伐へ向かい、遅れて来た
秀吉と合流して山崎の戦いで破った。
 この時、敗走した光秀は農民に殺害された。
 これが、秀吉を天下取りへと大きく飛躍さ
せたのである。

2013年5月16日木曜日

暗殺計画

 ちょうどこの頃、秀吉は備中に毛利討伐に
出兵することになり、他の信長家臣も各地で
戦をしていて、信長を無防備にしやすい状態
にあった。そこで秀吉は、出兵してしばらく
すると信長に「苦戦している」と訴え出兵要
請をした。
 宗易は、茶人仲間で博多の商人、島井宗室
を信長のもとに向かわせた。そして「宗易殿
からご要望の延命の呪術に必要な供物が揃い
ました。また、宗易殿からの言付けで、揃え
た供物は本能寺に運び、施術の準備をするよ
うに、施術する時は誰にも邪魔されないよう
に警戒を厳重にするように」と告げさせた。
 これに喜んだ信長は、本能寺に向かい、誘
い出すことに成功した。(このような理由で
もなければ、寺の焼き討ちをしていた信長が、
いくら本能寺が武器・弾薬を備えていたとし
ても、寺に泊まるということは考えられない)
 この時、宗易自身は、京にいた徳川家康の
もとで茶会を開き家康の動きを封じた。
 延命の呪術をする時、警戒にあたらせる部
隊として本能寺の近くにいたのは、明智光秀
の部隊だけだった。
 明智光秀は、信長から無慈悲な扱いをされ
ることもあったが、だからといって自分の恨
みごとで軍隊を動かすような性格ではない。
 光秀の部隊がいた理由は、信長に命じられ、
秀吉の援軍に向かう途中、京で「馬揃え」と
いう武者行列を披露することになっていたか
らだ。
 このことからも信長は光秀を高く評価し、
光秀は信長の信頼に応えようと努力していた
ことが伺える。
 宗易が信長に伝えた延命の呪術がどのよう
なものだったかは知る由もないが、光秀がそ
の様子を見れば激怒するような宗教上の禁制
を犯す行為だったかもしれない。
 宗教観が薄れている現在でも、遺伝子組み
換えやクローン人間などの実現は、科学的に
理解できても精神的な抵抗がある。
 ある宗教では、聖書を粗末に扱っただけで
も殺人が起きるなど、宗教を信仰していない
者からすれば理解できないことも正当化され
ている。
 現在よりもはるかに宗教心のある光秀の生
きた時代には、なおさら敏感だっただろう。
その上、明智家は代々、天皇を崇拝して守る
陰陽道を司る家系にあった。
 信長が天皇を否定し、呪うように見える呪
術をしていたとしたら光秀が発作的に行動し
てもおかしくない。それを宗易は延命の呪術
に忍ばせていた。

2013年5月15日水曜日

信長と利休

 時をさかのぼること、永禄十一年(一五六八)

 天下布武を掲げ、勢いに乗る織田信長はこ
の時、三十五歳。
 室町幕府は末期の混乱状態にあり、それを
好機とみた信長は、第十五代将軍に足利義昭
を推したて上洛を果した。
 この頃、信長は、堺商人から軍資金の調達
をしていた。その関係で、今井宗久から千宗
易を紹介された。
 信長は、宗易の茶道具から軍資金を創りだ
す能力にいち早く気づき、茶頭にして茶の湯
を広めさせた。
 特定の金山銀山でしか手に入らない金銀に
比べ、どこでも誰にでも作れる茶器を、あた
かも価値のあるものに見せかけ、流通させれ
ば、自分でいくらでも金銀を作れることにな
る。それを資金に換え、鉄砲などの調達をし
たり、茶器そのものを戦で手柄を上げた兵士
に褒美として与えたりすれば、金銀を減らさ
ずにすむ。
 そう考えた信長は、自らも高価な茶器を買
いあさり、そのことを「名器狩り」と揶揄(や
ゆ)されたが、これは茶の湯の宣伝と茶器の
希少価値を高めるためで、宗易の出身地であ
る堺の商人も加わって茶器の価値をつり上げ
ることに成功した。これがきっかけとなり、
公家や大名を巻き込んだ茶器投機が流行した。
 信長と堺商人との関係を取り持つため茶頭
となった宗易も、自分の地位を高めることに
成功し、最初の頃は信長と利害が一致してい
た。しかし、本来宗易が目指していた茶の湯
は「身分に関係なく誰でも茶の湯を通じて語
り合える世の実現」だったことに目覚めた。
 気がつけば、茶の湯は茶器の値踏みをする
場になり、神のように振舞いだした信長が、
あたかも家臣に神の宝物でも授けるように茶
器を与えることに嫌悪感を増した。
 さらに高慢になった信長は、家臣を使い捨
て、まるで物のように扱うようになり、優秀
で忠実な家臣の明智光秀でさえ理不尽な扱い
をされていることに、宗易は「いずれ自分も
厄介払いされるか、ひどい目に遭うのではな
いか」と恐怖を感じるようになった。
 そこで、百姓から出世を続け、庶民に人気
急上昇の秀吉なら、自分の目指す「身分に関
係のない茶の湯」が実現できると思い、秀吉
にすりより、信長の暗殺を考えるようになっ
た。

 天正十年(一五八二)

 信長は、この時代の平均寿命の四十代後半
の四十九歳になると、自分の寿命を考えるよ
うになった。
 信長が好んで舞っていた謡曲「敦盛」の一
節に、

 人間五十年
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり

 一度生を受け
   滅せぬ者のあるべきか

 とあるがこれは、

 人間界の五十年は
   天上界からみれば
     たった一日
 眠って見る夢は長いようでも
   目が覚めれば
    一夜が過ぎているだけだ

 この世に生まれたら
   誰だろうと
     いつかは死ぬのだ

 と読める。

 信長が今すぐ天下を取ったとしても残りわ
ずかの人生しか統治できない。また、神とし
て振舞う自分が老いていくことが許せず、異
国の若返りや延命の呪術に興味をもつように
なったとしても不思議ではない。
 三国志の諸葛孔明は、自分の死を悟ると延
命の呪術をおこなったとされる。そうした伝
説を信長も知り、延命の術が必ずあると信じ
るようになった。
 もし、肉体の再生ができるのなら、試して
みたいとも思っていた。だから、黒人の奴隷
として日本に連れてこられたヤスケを家臣に
してまでシャーマニズムの延命の呪術を聞き
出そうとしていた。
 このことを茶の湯の会話の中で知っていた
宗易は、ヤスケから延命の呪術を聞きだす役
を願い出た。そしてこのことを秀吉に知らせ、
信長暗殺の計画を練った。

2013年5月14日火曜日

利休隠居

 天下統一という偉業を成し遂げて上機嫌の
秀吉は、聚楽第で千利休による茶会を催した。
 それから摂津・有馬の温泉に行って湯治を
すると、そこでも利休、小早川隆景、津田宗
及らを呼んで茶会をするといった、くつろい
だ日々を過ごした。
 利休は、秀吉の機嫌のいい時を見計らって
突然、暇乞いを申し出た。
「すでに天下も治まり、私も明くる年には七
十になります。これを一区切りに身を退き、
余生を慎ましく暮らしたく思います」
 秀吉は、これまで利休が死力を尽くしてく
れたことをねぎらい、隠居することを認めた。
 堺に帰った利休は、もうひとりの天下人と
して盛大に迎えられた。
 利休が、信長、秀吉に仕えている間、堺に
は莫大な利益がもたらされていたからだ。
 そんな利休を堺商人が放っておくはずがな
い。
 利休が始めていた侘び茶は、庶民でも買え
る安い茶器を使っていた。しかし、その茶器
を利休が使っている、あるいは、利休が選ん
だとなると高額で取引された。
 どこにでもある竹で作った茶せんや茶さじ、
花器なども利休の手の物となると欲しいとい
う者は後を絶たず、値段がはね上がった。
 普通、物の値段は市場の需要と供給で決ま
る。それに希少価値と影響力のある人物が所
有したという価値が加わることによってさら
に値段は高くなる。これと同じことは、かつ
て織田信長が所有したというだけで、名もな
い茶器の価値が上がるということがあり、信
長は、所有する者の影響力で物の価値が決ま
ることに気づき、これで莫大な軍資金を稼い
だ。そのため、利休の軍資金を創りだす能力
は色あせ、信長は次第に利休を重用しなくなっ
ていったのである。

 秀吉の耳に、堺で隠居したはずの利休が暴
利を得ているという噂が入ってくるようになっ
た。しかしそれは、利休自身がやっているの
ではなく、堺商人が利休を利用していること
を秀吉は分かっていた。それに、利休のこれ
までの功績を考えると十分見逃せる範囲のこ
とだった。
 そのことより、秀吉が不信を抱いたのは茶
室だった。
 これまでの茶室は、四畳半という広さが最
も狭い空間だったが、利休は庶民の間で広まっ
ていた三畳や二畳といったさらに狭い空間に
した。そして、土塀で囲んで外に声が漏れる
のを防ぎ、後から窓を開けることで、射し込
む光が独特の雰囲気を作り出した。
 この茶室に入ると、異空間の中に閉じ込め
られた状態になり、密談をしていても外部に
漏れることがなく、招き入れる主ともてなさ
れる客の間に主従関係が生まれやすく、ある
種の幻覚のような状態で人の心を操ることさ
えできるのではないかと思われた。
 それを示すかのように、利休に心酔した古
田織部、細川忠興らの諸大名までもが弟子に
なっていた。
 この頃、秀吉は、士農工商の身分制度を確
立しようと考えていた。そうした中で、武士
が町人である利休の弟子になることなど許せ
るはずがなかった。また、利休の詫び茶が、
一種の宗教のような広がりをみせていたこと
も秀吉には脅威となっていた。
 秀吉は、九州征伐の後に起きた一揆を、キ
リシタン信者の扇動によるものと考え、宗教
を警戒していたのだ。
 つい先ごろも前田利家から、出羽で一揆が
起こったと知らせがあったばかりだ。しかし、
秀吉が利休を恐れた本当の理由は別のところ
にあった。

2013年5月13日月曜日

天下統一

 小田原城内では、豊臣軍に内通する者が見
つかり、お互いに疑心暗鬼になっていた。ま
た、このまま籠城し続けるか降伏するかで意
見が別れ、将兵の士気が低下していった。
 家康のもとにはこうした北条軍の内情がつ
ぶさに入り、それに対する説得工作を続けて
いた。
 家康は「これ以上、籠城が長引けば領民が
苦しむだけで、得をするのは秀吉だ」と説い
た。そして、石垣山で秀吉が毎日、何をして
いるかを伝えるだけだった。それだけで十分
だった。
 北条軍の間では、秀吉が女や子らまで呼ん
で茶会や宴会を開き、攻めてくる様子がない
ことで、降伏しても凶行はしないという見方
がしだいに強くなった。そして、七月に入っ
て間もなく、北条氏直は家康の陣営におもむ
き、自らの切腹と引き換えに家臣と領民の助
命を願い出て降伏した。
 秀吉は氏直の申し出を受け入れると、氏直
を高野山に追放した。その後、北条氏政、氏
照は自刃した。
 こうして北条は事実上滅亡した。
 戦わずして天下を取る秀吉に、秀俊も少し
は貢献したのかもしれない。
 秀吉は、淀、秀俊、利休らを京に帰すと、
自らは陸奥に向かった。
 陸奥・会津の伊達政宗は、小田原の北条が
秀吉に屈服したことを知ると、すぐに恭順の
姿勢を示し秀吉を迎え入れた。
 今まで誰もなし得なかった天下統一が、信
長から秀吉に受け継がれ、やっとここに成し
遂げられたのである。

 秀吉は陸奥から京に戻る途中、駿河の駿府
城に入り、家康と面会した。
 この時、小田原征伐での武勲に対して、北
条の旧領から七カ国を家康に与えると申し渡
した。これは、家康が所領としている駿河、
遠江、三河、甲斐、信濃の五カ国、百五十万
石から北条の旧領である武蔵、相模、伊豆、
上総、下総、上野、下野の七カ国、百八十六
万石への加増と同時に領地替えを意味してい
た。
 百八十六万石といっても、北条の影響が強
い地で、領民が素直に従うとは思えず、石高
の加増は微々たるものだった。
 それに、家康の領地替えには秀吉の企みが
二つあった。
 一つは、家康を京から引き離し、朝廷との
関係を疎遠にすると同時に、まだ疑念の残る
陸奥の伊達政宗への備えとすること。
 もう一つは、家康がこの領地替えを拒否す
るか、難攻不落の小田原城を居城とすれば、
逆心の可能性がありとして討ち果たすつもり
だった。
 これに対して家康は、少し考えて平然と受
け入れ、居城は武蔵にある江戸城にすると返
答した。
 江戸城は、小田原征伐でもすぐに開城した
粗末な城で、その一帯はほとんどが沼地とい
た未開拓の場所にあった。
 家康の明らかに恭順するという姿勢を見て
とった秀吉は、安心して京に戻った。

2013年5月12日日曜日

戦わず勝つ

 この頃、ねねは「北政所」と呼ばれるよう
になっていた。
 北政所は、京に住まわせるようになった諸
大名の妻子と融和をはかり、慣れない生活の
不安解消に努めていた。
 北政所のこうした気遣いがあったからこそ、
諸大名は妻子を人質にとられたという不満も
なく、秀吉に従っていたのだ。
 その北政所のもとに秀吉の手紙が届いた。
「小田原城を完全に包囲して憂いはなくなっ
たが、北条の降伏には時間がかかりそうなの
で千宗易、金吾、淀と侍女らを小田原によこ
してほしい」といったことが書かれていた。
 これは、明らかに淀を目当てにしていると
北政所は読み取った。しかし、秀吉と北政所
は夫婦というより、やんちゃな子とその母親
のような関係になっていたため、嫉妬心など
はなく、淀に伝え「行きたい」と言えば行か
せるだけだった。

 秀吉が石垣山の城で待ちわびていると、そ
こに淀、秀俊、利休らがようやく到着した。
 イライラしていた秀吉もとたんに顔がほこ
ろび、上機嫌で出迎えた。
 それから連日のように茶会や宴会を催して、
戦のことなど忘れているようだった。
 九歳になった秀俊にとって、これが初陣と
いうことになった。
 石垣山から小田原城を望むと、町全体が土
塁や堀で囲まれてその広さに驚いたが、さら
にその周りを取り囲むように秀吉の大軍勢が
集結して、それらが掲げた無数の幟や将兵が
身につけた旗指物がキラキラと錦に輝いて、
まるで祭りでもしているかのように、にぎや
かに見えた。
 秀俊は、総大将にでもなったつもりで目を
見開いて見ていた。
 興味深そうに見ている秀俊の側に、秀吉も
やって来て、小田原城を見下ろした。
「どうじゃ金吾、これが難攻不落の小田原城
じゃ」
 秀吉は自分の城を自慢するかのように言っ
た。
「とと様、いつこの城を攻めるのですか」
 秀俊は秀吉の陣羽織の端をつまんで聞いた。
「この城は攻めても無駄じゃ。よいか金吾、
奪ってはならない土地もある。戦って勝つこ
とよりも、戦わずに相手を味方にすることの
ほうが最善の策じゃぞ」
 秀俊は少し考えた。
「戦わないから私もここにこられたのですね」
 秀吉は、つまらなそうな顔をしている秀俊
の肩にそっと手を置いて言った。
「いやいや、そうともいえんぞ。今は金吾も
皆と一緒に戦っておるんじゃから」
「ふ~ん」
 そう言ってうつむく秀俊の脇の下を秀吉は
くすぐり、無邪気に遊び始めた。

2013年5月11日土曜日

小田原征伐

 天正十七年(一五八九)十一月二十四日

 秀吉は北条氏直に宣戦布告状を送り、諸大
名に相模・小田原征伐の準備を命じた。そし
て、翌年の二月に先発部隊が小田原に向け出
陣した。
 秀吉も三月初めには京を発ち、同月十九日
に駿河に到着して家康の居城、駿府城に入っ
た。
 その家康は、すでに小規模な戦をおこない
戦果をあげて城に戻って来た。
 諸大名の部隊も次々に小田原に向かってい
たが、兵二十万人を超えた大軍による勝ち戦
を確信してか余裕があり、秀俊の兄、木下勝
俊などは歌を詠みながらの旅気分だった。
 その一方で秀次は、秀吉に嫡男の鶴松丸が
生まれて、後継者の道が断たれたこともあり、
この戦に賭けていた。
 秀次は、なんとか手柄を立てて鶴松丸の後
見人になり、かつて秀吉が、三法師の後見人
として天下を取った時と同じ道を歩もうと考
えていた。それにこの戦いには、秀吉の弟、
秀長が病に倒れて参加していなかったことで、
秀次には自分の力を秀吉に見せるにはいい機
会だと思っていた。
 秀次は、伊豆・箱根山の近くに築かれた山
中城の攻略を任された。
 途中、北条軍の奇襲部隊と交戦し、死を覚
悟した北条軍の松田康長らの襲撃に苦しみな
がらも、山中城を攻略した。
 その後、家康の部隊や宇喜多秀家の部隊な
どと合流して、鷹巣、足柄、禰不川などにあっ
た諸城を制圧して、三日あまりで小田原に侵
入した。
 堀秀政、池田輝政、丹羽長重などの部隊も、
伊豆・熱海口から次々と小田原へ集結した。

 天正十八年(一五九〇)四月六日

 秀吉は、伊豆の湯本にある早雲寺に本陣を
構え、小田原城を包囲する時を待った。
 上野では、真田昌幸、上杉景勝、前田利家
の各部隊が松井城を攻略し、小田原に向かっ
ていた。
 海からは、長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂
安治らの水軍が兵糧輸送にあたった。
 やがて小田原城の包囲が完了すると秀吉は、
小田原城の近くにある石垣山に短期間で築い
た城に移り、長期戦をする姿勢を示した。
 北条は、小田原城に籠城すれば大軍も恐れ
ることはないと悠然と構えていた。その矢先、
石垣山に一夜にして現れた城を見て驚愕した。
 秀吉出世物語の語り草になっていた、墨俣
一夜城の再現を見て誰もが恐怖した。
 石垣山一夜城からは小田原城が一望できた。
 その全容に秀吉は驚嘆した。そして、すぐ
に京のねねに手紙を書き、従者に届けさせた。

2013年5月10日金曜日

四面楚歌

 昔、大陸で、楚の項羽と漢の劉邦が争って
いた時のこと。
 やがて劣勢になった項羽が、垓下という所
に砦を築き立てこもった。そこを劉邦が大軍
で四方を取り囲んだ。
 劉邦は民の心をつかんで漢を起こした人物
だけに、項羽にも兵を失うだけの無益な戦い
をしないようにと、情に訴えることにした。
 ある夜、四方の漢軍の中からいっせいに項
羽の故郷、楚の歌が流れてきた。それを聞い
た項羽は(楚の民も劉邦の人柄にひかれて下っ
たに違いない)と、自分から民の心が離れた
ことを悟り、敗北を認めた。
 これが「四面楚歌」のもとになった故事だ。
 秀吉は家康に、小田原征伐での自分の考え
をささやいた。
「家康殿、氏直はそなたの娘婿であったのう。
それに、氏規はそなたの幼き頃からの知り合
い。武力で攻めるより、ここはひとつ四面楚
歌でいこうと思うがどうじゃ」
「そうしていただければ娘を救う手立てもあ
ります。必ずこの戦、関白様の手をわずらわ
せることなく治めてご覧にいれます」
 今まで殺しあいをしていた者たちが親友の
ようになり、親友だった者たちが殺しあいを
する。それが戦国の世だ。
 そうした中でも、秀吉は敵を味方にして思
う存分働かせる術を心得ていた。
 秀吉と家康は、絡んで傷つけあっていた二
頭の龍がほぐれ、自由活発に活動し始めたよ
うに、秀吉は宣伝力を駆使し、家康は情報力
を駆使して共鳴しあい、天下統一を成し遂げ
ようとしていた。

2013年5月9日木曜日

それぞれの城

 丹波亀山城は、明智光秀が城主をしていた
時、ここから織田信長のいる本能寺に向かい、
歴史を大きく動かす本能寺の変が起きた。
 今この城に八歳の秀俊が城主となって入っ
た。
 信長が転生した子にされた秀俊にとっては
皮肉なめぐりあわせだった。しかし、秀吉は
嫡男、鶴松丸が生まれたからといって秀俊を
見捨てたわけではなかった。
 いずれ鶴松丸の重臣として仕えさせようと
考えていたのだ。そのため、以前から生活態
度のあり方を説いては帰っていた山口宗永が
正式に秀俊の補佐役となった。
 信長には教育係として頑固な老臣、平手政
秀がいたように、山口も秀俊を秀吉の養子と
は思わず、わが子のように厳しくしつけた。
 秀俊にはさらに、日蓮宗・大光山本国寺の
日求上人が法華経を教え、御陽成天皇も師事
された准三宮道澄が和歌を教えるなど、最高
の教育を受けることができた。
 城も改修がおこなわれ、この規模の城では
破格の五層天守閣に造り替えられた。
 天守閣の最上部からは京の町並みが見え、
聚楽第ともそう遠くない場所にあった。
 淀城では、鶴松丸が生後三ヶ月になると、
淀と一緒に大坂城に移った。
 これは「淀城では育てるのに心細い」と言
う淀の希望だった。
 大坂城は以前から慣れ親しみ、ねねにも頼
ることがでる。それに秀吉とも会いやすいか
らだった。
 秀吉は、わが子ができて初めて妻子が心の
よりどころだということを知った。そこで、
一万石以上の諸大名の妻子を京に住まわせる
ことにした。
 これで諸大名を服従させ、将来、鶴松丸の
家臣となる子の育成もできると考えた。

 天正十七年(一五八九)十月

 秀吉は、たびたび奈良の郡山などで、諸大
名や公家衆と鷹狩などを口実にして、お忍び
で会うようになった。その中には徳川家康も
いた。
 秀吉はここで、相模・小田原征伐の方策を
ねったのだ。
 小田原は、北条早雲以来、後北条の五代に
わたって領有している地域で、今は北条氏政、
氏直父子が守っていた。
 秀吉にはすでに、天下統一の既成事実があっ
たので、攻める大義名分は必要なかった。し
かし、北条の居城、小田原城は今までの城と
は違っていた。
 上杉謙信や武田信玄でさえ落城させられな
かったその城は、自然の山、川、海を巧みに
利用し、小田原の町全体を土塁と空堀で取り
囲んでいた。
 これは日本の城の考え方というよりも大陸、
明の城郭都市に近い考え方だった。
 この城に籠城すれば何年だろうが守りぬく
ことができる。
 今の秀吉なら大軍で城を取り囲むことはそ
う難しくない。しかし、得意とした兵糧攻め、
水攻めなどの城攻めが何もできない難攻不落
の城だった。
 そこで秀吉は、「四面楚歌」の秘策を考え
ていた。

2013年5月8日水曜日

後継者

 京で華やかな大茶会がおこなわれていた時、
九州・肥後では一揆鎮圧の凄惨な殺しが続い
ていた。
 一揆に参加していたのは百姓がほとんどで、
たいした武器もないのだが、それでも鍋島直
茂の部隊は手を焼いていた。
 そこで秀吉は、追加派兵として小西行長、
毛利輝元、小早川隆景、黒田孝高らも向かわ
せた。
 この翌年には聚楽第に後陽成天皇を迎える
行幸を予定していたため、一揆の鎮圧を急ぐ
必要があったからだ。
 秀吉は、上洛させていた島津義弘も肥後に
向かわせて、これでようやく一揆鎮圧のめど
がついた。
 何事もなかったかのように、天正十六年(一
五八八)四月に、後陽成天皇が聚楽第に行幸
する日をむかえた。
 この時、秀吉は意外な宣言をした。
 それは、家臣に「皇室領への無道に対する
処罰と羽柴秀吉に対する忠誠」を誓約した起
請文を「金吾侍従豊臣秀俊宛」で提出させた
ことだ。これは、秀吉の後継者は養子の末男、
秀俊にするということを意味していた。
 居並ぶ公家衆や諸大名からは、驚く者、眉
をひそめる者、苦笑する者などさまざまだっ
た。
 誰もが秀吉の後継者は、同じく養子で秀俊
の兄にあたり、武勲もあげている秀次だと思っ
ていたので、これは騒乱になるのではないか
と噂した。しかし、秀次は平静だった。それ
は、起請文を提出した者たちの顔ぶれだった。
 起請文を提出したのは、織田信包、羽柴秀
勝、結城秀康、里見義康、長谷川秀一、堀秀
政、蒲生氏郷、細川忠興、織田秀信、毛利秀
頼、蜂屋頼隆、前田利長、丹羽長重、織田長
益、池田輝政、稲葉貞通、大友義統、筒井定
次、森忠政、井伊直政、京極高次、木下勝俊、
長宗我部元親だ。
 これらの名を見て、これが秀吉得意の宣伝
だと気づいたからだ。
 今まで順調だった天下統一が最終局面にき
て、九州・肥後の一揆で停滞してしまった。
それを挽回するための自分に対する叱咤激励
だと秀次は受け取った。
 秀吉の後継者に選ばれた秀俊は、このこと
で生活に変化はみられなかった。
 もともと秀吉の養子になった時から厚遇さ
れていたので、周りの秀俊を見る目もそれほ
どかわりはなかった。ただ、茶々が秀吉の側
室になったので会えなくなり、秀俊はそのこ
とを寂しく思っていた。
 しばらくして秀俊のもとに、山口宗永とい
う初老の家臣が時々現れるようになり、秀俊
に日ごろの生活態度のあり方を説いては帰っ
ていった。
 秀吉は最近、政務のことは秀長や秀次に任
せることが多くなり、何かといえば茶々のも
とにかいがいしく通った。それでも肥後の一
揆は相当こたえたとみえて、百姓から武器を
取り上げることを狙った刀狩令を発した。
 一揆の頻発が武器を取り上げる大義名分と
なり、秀吉人気もあって、かつて誰もなしえ
なかった非武装社会が実現する機運が高まっ
た。

 天正十七年(一五八九)

 秀吉の側室になった茶々には、京・山城の
淀城があてがわれていた。そのため茶々は「淀
殿」と呼ばれるようになっていた。
 淀が側室の中でも別格に扱われていたのは、
身ごもっていたからだ。
 五十三歳にして子を授かった秀吉は狂喜乱
舞した。
 対照的にこれを知った秀次は力をなくした。
 以前、養子の秀俊を後継者にすると宣言し
たが、生まれる子が男子なら、秀吉は生まれ
た子を後継者にするだろう。しかし、まだ男
子と決まったわけではないと秀次は平静を装っ
た。
 ところが、秀吉はすでに嫡男が生まれると
信じ、「秀俊を後継者にする」と宣言したこ
とをあっさりと撤回した。そのうめあわせと
して秀俊には、丹波亀山十万石を与えること
にした。
 もともと、秀俊を後継者にすることは誰も
賛同していなかったので、このことで混乱は
なかった。しかし、秀次に付き従っている家
臣は、この先どうなるのか不安がよぎり、生
まれてくる子が男か女かで気をもんでいた。
 天下が息をひそめて見守る中、淀は男子を
生み、鶴松丸と名づけられた。

2013年5月7日火曜日

茶々

 秀吉がひとしきり接待をして人だかりがな
くなり、ふと見ると、遠くに六歳になった秀
俊と二十一歳の茶々が、手をつないで楽しげ
にそぞろ歩いていた。
 日々成長を見守っていた茶々が今日は一段
と大人びた色香を漂わせているように秀吉の
目に映り、五十一歳の心をかき乱した。
 秀吉は側にいた従者に命じて、秀俊と茶々
を連れてこさせた。
「金吾はどうじゃ、楽しんでおるか」
 秀俊は浮かない顔をしていた。
「今日は宗易の話が聞けませんでした」
 利休は、あちらこちらの茶室に引っ張り凧
の大人気だった。
「でも、御菓子をいただいたではありません
か」
 茶々が優しく言った。
「御菓子をもろうたか。それでも金吾は宗易
の話がそんなに聞きたいか」
「はい。御菓子の楽しさは食べてしまえば終
わりますが、宗易の楽しい話は長い間残りま
す」
「ほぉう。で、どんな話を聞きたかったのじゃ」
「堺の町人の話です。変わり者やお調子者の
話などつきることがありません」
「ほぅほぅ。それはわしも聞いたことがない
の。今度ゆっくり聞いてみたいものじゃ」
「私も聞いてみたくなりました」
 茶々が笑って賛同した。
「もう足が疲れました」
 秀俊がしゃがみこんだので、秀吉はすぐに
従者を呼び、抱かせて屋敷に帰らせた。
 秀吉は、残った茶々としばらく話し込んだ。
 この時、秀吉は茶々を側室にすることを決
めた。

2013年5月6日月曜日

聚楽第

 秀吉は九州征伐の残務処理を弟の秀長に任
せ、天正十五年(一五八七)七月半ばに意気
揚々と大坂城に凱旋した。
 その後すぐに上洛して、朝廷に九州平定を
報告すると、戦勝祝いで訪れた家康と会った。
そして二人は、完成間じかの聚楽第を視察し
た。
 周囲に堀を巡らせた聚楽第は、秀吉が政務
をおこなう大邸宅だったが、平城として天守
のある本丸や二の丸が建てられ、その威圧を
和らげるため、いたる所に金箔を使った装飾
が施されていた。また、賓客をもてなす時の
ために、千利休の屋敷も造られていた。
 家康は複雑な思いだった。
 秀吉が天下を取ったことは認めざるおえな
いが、これでは信長の二の舞になるのではな
いかと懸念したのだ。
(思えば信長公が安土城を築城した時から天
が見放したような……)
 家康は何か起きた時、秀吉の家臣では不利
になるのではないかと考えをめぐらせていた。
 対照的に秀吉は満足げな顔をしていた。
(この大邸宅なら必ず公家たちは集まる。そ
れらを手なずければ、天皇さえも意のままに
できる)
 そう思うと自然と笑いがこみあげてくる。
だが、その喜びを打ち消すかのように、九月
に入ると九州・肥後で一揆が起こった。
 秀吉は、朝廷に九州平定を報告して間もな
く起きた一揆を、知られないうちに解決しよ
うと、すぐに肥前の鍋島直茂を一揆鎮圧に向
かわせた。
 この一揆が起きた原因は、秀吉のキリシタ
ン禁止令に反発していた領民と、この頃から
始められていた検地によって地位を失った旧
領主の不満が噴出したものだった。しかし、
秀吉はそれを肥後の佐々成政による失政が原
因で起きたと責任を転嫁した。
 秀吉は、こうした不吉な事件が起きる中、
聚楽第へ転居することになった。
 九州で起きた一揆の影響で、公家たちの信
頼を失うかもしれないと秀吉は心配したが、
幸いにして大勢の公家たちが豪華絢爛な大邸
宅を一目見ようと、祝いを兼ねて集まって来
た。
 それに気をよくした秀吉は、さらに公家た
ちの心を引き付けようと京・北野天満宮で大
茶会を催した。
 北野天満宮の拝殿の近くには、秀吉自慢の
組み立て式黄金の茶室が設置され、名だたる
茶器も並べられた。その側には千利休、津田
宗及ら、茶人の茶室もあった。
 この大茶会には、庶民の参加も許されたた
め、その者らの茶室が早朝から建ち始めた。
その数は千棟を超え、茶の湯人気の広がりを
物語っていた。
 大勢の人でにぎわう中、上機嫌の秀吉が、
ねねや側室などを伴ってやって来た。そして、
黄金の茶室の前で公家や諸大名らの出迎えを
受け、挨拶を交わした。ただし、茶の湯の人
気でいえば、利休の茶室に集まった人の数が
上回っていた。
 それは、利休が提唱した詫び茶が、これま
での高値で手に入りにくい唐物茶碗から、庶
民にでも買える瀬戸焼茶碗など質素な物の中
に美を見いだしたからだ。そのため、今まで
高値で茶器をそろえた公家などから茶器の値
が下がったと恨まれることもあったが、それ
にもまして利休の名声は広まっていった。
 秀吉はそんな茶の湯のことはどうでもよく、
庶民が今の世を極楽だと思うように苦心した。

2013年5月5日日曜日

対外政策

 秀吉はしばらく大坂城には戻らず、筑前・
博多に滞在した。
 博多は対馬を挟んで朝鮮を臨む地だ。
 秀吉はこの時、対馬の宗義智を介して朝鮮
王が秀吉に服従しなければ出兵すると勧告し
た。これには二つの狙いがあった。
 その一つは、秀吉が日本の支配者になった
ことを誇示するため。もう一つは、朝鮮が日
本を侵略する意図があるか探るためだ。
 この頃、日本を侵略しようと企てそうな国
は他にもポルトガル、スペイン、オランダが
あった。
 これらの国は、大陸の明を侵略する拠点と
して日本を占領できないか探っていたのであ
る。
 こうした動きはキリシタン大名の松浦隆信
や小西行長らの外交情報や世界的視野を身に
つけた黒田孝高や石田三成らの進言として秀
吉に伝えられていた。
 特にスペインは、当時、最強の艦隊を擁し
て占領政策をすすめ、日本とも同盟して明を
侵略したいと申し出ていた。
 秀吉が博多に滞在した目的の一つには、ス
ペインからやって来たイエズス会の日本準管
区長コエリヨに会うためだった。
 かねてから三成は、スペインが同盟ではな
く、日本を占領する野心があるとみて、コエ
リヨが所有している軍艦の売却を要求して、
その返答で判断するよう秀吉に進言していた。
 秀吉は、九州征伐で大友が装備していた大
砲の威力に魅せられ、コエリヨに大砲を装備
した軍艦の売却を要求した。
 これを拒めばキリシタンに災いが降りかか
ると懸念した小西行長らがコエリヨを説得し
たが聞き入れなかった。
 断りの返答を聞いて激怒した秀吉は、スペ
インに日本侵略の企てありとみて、すぐにキ
リシタン禁止令を出し、宣教師は十日以内に
国外退去するように命令した。
 かつて日本は、広大な大陸を支配する蒙古
に狭い国土を侵略されそうになるという理不
尽な体験があった。さらに今は、大陸を狙う
諸外国の拠点として占領されるかもしれない
という状況にある。
 それを阻止するために、信長が天下統一を
目指し、秀吉が成し遂げようとしていたのだ。

2013年5月4日土曜日

九州平定

 秀吉は、太政大臣に就任した翌年の天正十
五年(一五八七)一月に、宇喜多秀家、二月
には福島正則、細川忠興、羽柴秀長らを次々
と九州征伐に向かわせた。そして、三月にな
ると自らも兵八万人の部隊を率いて出陣した。
 その後も浅野長政、加藤清正など、秀吉と
共に数々の戦いを勝ち抜いた者たちの出陣が
続いた。
 秀吉が備後・赤阪に到着すると足利義昭が
出迎えた。その姿に室町幕府、第十五代将軍
の面影はなく幕府復興は完全にあきらめてい
た。
 赤阪を出発して安芸に到着した秀吉は、厳
島に渡り、かつて平清盛が平家納経を奉納し
た厳島神社で戦勝祈願をした。
 秀吉は平氏の流れをくむ家系と名乗ってい
たので、清盛と同じ太政大臣にまでなったこ
とをしみじみと噛みしめていた。
 三月も終わりの頃、ようやく秀吉は、長門・
赤間の関から豊前・小倉に渡った。
 豊臣軍はすでに九州入りしている兵を合わ
せて二十万人を超える大軍となり、四月に入っ
て間もなく、秀吉は、筑前・厳石城を落城さ
せた。また、別働隊の大谷吉継、吉川広家も
日向・土持城を攻略して進軍していた。
 秀吉の大軍は、四月半ば頃には肥後まで進
軍することができた。
 その後も島津軍の占領地を肥後と日向の二
手に分かれて次々と攻略していった。
 五月に入って秀吉は、薩摩・川内の泰平寺
に本陣を構えた。
 すると間もなく島津義久がやって来て、無
条件降伏を申し出た。
 義久はかねてから秀吉の弟、秀長に調停を
求めて親しくなっていた。そこでこの苦境を
切り抜けるため、秀長に頼った。それが功を
奏して斬首を免れ、島津は薩摩、大隅、日向
の一部を安堵された。
 この戦の間に大友義鎮は死去したため、長
男の義統へ豊後、日向が与えられ、黒田孝高
に豊前、鍋島直茂に肥前、佐々成政に肥後、
小早川隆景に筑前、筑後をそれぞれ所領とす
ることが決められ、九州討伐は終わった。

2013年5月3日金曜日

家康臣従

 九州で一進一退の攻防が続く最中、大坂城
に徳川家康が登城し、秀吉に正式な臣従を誓っ
た。
 家康は、民衆だけではなく公家や天皇まで
も魅了する秀吉の巧みな宣伝戦略に敗北した
ことを悟ったからだ。そして、家康が大坂城
でどうしても見たいものが二つあった。
 一つは組み立て式の黄金の茶室で、家康が
登城すると秀吉は、すぐに天守閣に案内して
披露した。
 家康は、その黄金の輝きよりも短時間に組
み立てられる構造と出来上がりの立派なこと
に驚嘆した。
 秀吉が利休の点てた茶をすすめても気がつ
かないほどだった。
(この茶室に短期間で築城する技術の全てが
こめられている。雑なところがひとつもなく
強固さも兼ね備えている。この城も手抜かり
がない)
 家康もすでに秀吉の宣伝戦略の虜になって
いた。そしてもう一つ、家康の見たいものに
も翻弄されたのだ。
 次の日、家康が大広間で平伏して待ってい
ると、秀吉に伴われて五歳になった秀俊が入っ
て来た。
「家康、苦しゅうない。面をあげい」
 秀俊が口にしたそのぞんざいな言い方は、
信長に似ていた。
 家康が顔をあげると、秀吉の横に公家風の
装束を着せられた秀俊がちょこんと座ってい
た。
 家康は即座に秀吉と秀俊の顔を見比べた。
(小猿。やられたわい)
 家康は、信長より秀吉によく似た猿顔の秀
俊に、今にも苦笑しそうになるのを押しとど
めた。
 思えばこの子に信長が転生したという情報
で振り回され、織田信雄が動揺して今に至っ
ている。
 完全に秀吉の宣伝戦略に敗北したことを実
感し、改めて深々と平伏した。それは、秀吉
や秀俊にではなく、いまだに残る信長の偉大
さにだ。

 家康が秀吉に正式に臣従を誓ったと聞いて、
動揺したのは足利義昭だった。
 京・御所の茶会で「豊臣幕府をおこすには
東国と関東を支配する必要があり、まずは徳
川、北条を屈服させることだ」と言った時の
「もちろん近いうちに」と簡単に返答した秀
吉の言葉が脳裏によみがえった。そして、義
昭をさらに驚かせたのが、秀吉が関白になる
ために養父にされた近衛前久から、今度はそ
の娘の前子を秀吉の養女とし、即位して間も
ない後陽成天皇の女御として、入内させたこ
とだ。
 これは、豊臣幕府を超えて豊臣帝国と呼べ
るものが誕生したことを意味していた。
 義昭はすぐさま島津義久に、秀吉と和睦す
るように伝え、自らも秀吉に恭順する態度を
示した。
 これで大友を孤立させていた島津が、逆に
孤立することになった。しかし義久は、今さ
ら後には引けず、裏切った毛利に対する怒り
もあり、攻勢を強めていった。

2013年5月2日木曜日

悩む輝元

 毛利輝元は大友と和睦するか、今のまま島
津に味方するかで悩んでいた。
 大友とは先代、元就からの因縁があり、こ
ちらから和睦を申し入れることなどとうてい
できなかった。また、大友に味方している秀
吉と島津に味方している足利義昭との板ばさ
みになったことも頭を悩ませる原因になって
いた。
 輝元には叔父で補佐をしている吉川元春と
小早川隆景がいたが、この二人の意見も分か
れていた。
 元春は、過去に秀吉が信長の家臣として自
分たちを攻めるために西国攻略にやって来た
時、大友義鎮が秀吉に味方して攻めてきたこ
と。また、その時に起きた本能寺の変で秀吉
が信長の死を隠して強引な和睦を迫り、だま
されたことがいまだに不信感を抱かせていた。
 隆景はだまされた方にも非があり、和睦し
て今は秀吉に臣従しているのだから従うべき
だと考えていた。
 そしてもうひとり、輝元の相談役になって
いた僧侶、安国寺恵瓊は、すでに関白となり
天下統一が目前の秀吉に刃向かうのはおろか
だと説いた。
 輝元はこうして常に他人の意見に流されて
しまう。まるで操り人形のように言いなりに
なる習慣が身についてしまった。
 しばらくして、秀吉を仲介役とした大友と
毛利の和睦が成立した。
 一つ難問が片付いた秀吉は、京の内野に新
たな屋敷として聚楽第を着工した。そして、
大坂城に戻ると間もなく大友義鎮が登城して
来た。
 秀吉は歓迎し、大坂城に来るのが始めての
義鎮に城内を自ら案内した。そして、利休の
茶でもてなした。
 この頃の秀吉は、公家のような身なりと振
る舞いをするようになっていた。
 義鎮は毛利との和睦がなったことを感謝し、
島津の侵攻が続いていることを訴え支援を要
請した。
 秀吉は早速、毛利輝元、吉川元春、小早川
隆景らに九州征伐の準備を命じた。
 これを知った島津義久は、輝元に今までの
協力関係の継続を訴えることで揺さぶりをか
けてきた。
 毛利だけでは不安に思った秀吉は、義鎮が
豊後に戻ると、四国の長宗我部元親や羽柴秀
長、秀次にも九州征伐に向かうよう命じた。
 九州では、大友義統、立花宗茂らが立花城
に籠城して奮戦し、島津軍の攻撃にかろうじ
て耐えていた。
 立花城が落城寸前との知らせに急きょ、毛
利軍が駆けつけたが、その頃には島津軍が敗
退して無事だった。
 大友は日本で唯一、大砲を装備していたた
め、多勢の島津軍でも城攻めに苦戦すること
があったのだ。
 島津義久は、秀吉の九州征伐の動きに対し、
話の分かる羽柴秀長や石田三成へ自分たちの
正当性を主張し、敵対行為はしていないこと
などを訴え、体制を立て直す時を稼いだ。

2013年5月1日水曜日

茶の湯外交

 凱旋した秀吉は朝廷より豊臣姓を賜り、こ
の機会に側近へ日ごろの労をねぎらうため、
石田三成、増田長盛、大谷吉継、千宗易、施
薬院全宗、今井宗久、今井宗薫らを伴って摂
津、有馬の温泉で湯治した。また、十月にな
ると秀吉は、宗易を伴い正親町天皇に茶の湯
を献上するなど戦を離れて朝廷とのつながり
を深めた。
 宗易はこの時、正親町天皇より利休という
居士号を賜った。これは秀吉と同じく町人か
らの大出世だった。
 秀吉は関白になったことを大々的に宣伝す
るため、利休に命じて黄金の茶室を造らせた。
 黄金の茶室は組み立て式で、床の間付きの
三畳。その天井、壁、柱、障子の桟にいたる
まで全て金箔張りであつらえてあった。そし
て、茶器なども全て黄金でそろえさせた。
 組み立て式でどこにでも運べるという発想
は、秀吉が信長の家臣だった頃に墨俣一夜城
を短期間で築城した工法で、あらかじめ部材
をある程度組み立てておくという経験をもと
にしていた。
 早速、大坂城の天守閣に組み立てられた黄
金の茶室は、すぐに話題となり、天下人、秀
吉の名を不動のものにした。しかし、利休は
これとは対照的に、質素のなかに美を見出そ
うとした。それを「侘び茶」と称し、力を注
ぐようになった。
 秀吉にしても利休にしても茶の湯を自らの
栄達に利用しようとしたことにはかわりはな
かった。
 この頃、九州では、薩摩の島津一族と豊後
の大友一族の対立が激しさを増していた。
 島津一族の島津義久には、室町幕府の復興
を狙う第十五代将軍、足利義昭と西国の毛利
一族が味方していた。
 大友一族は、大友義鎮が家督を長男の大友
義統に譲ってはいたが、いまだに義鎮が実権
を握っていたため、内部分裂を起こしていた。
それに乗じて島津義久が大友の領地に侵攻し
て、九州統一は時間の問題だった。
 そこで義鎮は、関白となった秀吉を頼った。
 秀吉は足利義昭の幕府復興を阻止できると
考え、義久に降伏勧告をおこなった。
 義久がこれを拒んだため、毛利輝元と四国
の長宗我部元親に出陣を命じた。しかし、毛
利は島津に味方して大友とは敵対していたの
で、協調した戦いができず大敗した。
 それならばと秀吉は、まず大友と毛利の和
睦をさせようと考えた。
 年が明けた天正十四年(一五八六)一月に
秀吉は、大坂城から京・御所へ黄金の茶室を
運び、茶会を開催した。
 集まった公家たちは茶室の美しさより、秀
吉の底知れない財力に圧倒された。その中に
は足利義昭もいた。
 秀吉は義昭に茶を振る舞い、豊臣幕府の構
想を聞かせ、暗に義昭の幕府復興をあきらめ
させようとした。これに対して義昭は「豊臣
幕府をおこすには東国と関東を支配する必要
があり、まずは徳川、北条を屈服させること
だ」と受け流した。
 秀吉は茶をすすりながら「もちろん近いう
ちに」と返答した。