2013年5月13日月曜日

天下統一

 小田原城内では、豊臣軍に内通する者が見
つかり、お互いに疑心暗鬼になっていた。ま
た、このまま籠城し続けるか降伏するかで意
見が別れ、将兵の士気が低下していった。
 家康のもとにはこうした北条軍の内情がつ
ぶさに入り、それに対する説得工作を続けて
いた。
 家康は「これ以上、籠城が長引けば領民が
苦しむだけで、得をするのは秀吉だ」と説い
た。そして、石垣山で秀吉が毎日、何をして
いるかを伝えるだけだった。それだけで十分
だった。
 北条軍の間では、秀吉が女や子らまで呼ん
で茶会や宴会を開き、攻めてくる様子がない
ことで、降伏しても凶行はしないという見方
がしだいに強くなった。そして、七月に入っ
て間もなく、北条氏直は家康の陣営におもむ
き、自らの切腹と引き換えに家臣と領民の助
命を願い出て降伏した。
 秀吉は氏直の申し出を受け入れると、氏直
を高野山に追放した。その後、北条氏政、氏
照は自刃した。
 こうして北条は事実上滅亡した。
 戦わずして天下を取る秀吉に、秀俊も少し
は貢献したのかもしれない。
 秀吉は、淀、秀俊、利休らを京に帰すと、
自らは陸奥に向かった。
 陸奥・会津の伊達政宗は、小田原の北条が
秀吉に屈服したことを知ると、すぐに恭順の
姿勢を示し秀吉を迎え入れた。
 今まで誰もなし得なかった天下統一が、信
長から秀吉に受け継がれ、やっとここに成し
遂げられたのである。

 秀吉は陸奥から京に戻る途中、駿河の駿府
城に入り、家康と面会した。
 この時、小田原征伐での武勲に対して、北
条の旧領から七カ国を家康に与えると申し渡
した。これは、家康が所領としている駿河、
遠江、三河、甲斐、信濃の五カ国、百五十万
石から北条の旧領である武蔵、相模、伊豆、
上総、下総、上野、下野の七カ国、百八十六
万石への加増と同時に領地替えを意味してい
た。
 百八十六万石といっても、北条の影響が強
い地で、領民が素直に従うとは思えず、石高
の加増は微々たるものだった。
 それに、家康の領地替えには秀吉の企みが
二つあった。
 一つは、家康を京から引き離し、朝廷との
関係を疎遠にすると同時に、まだ疑念の残る
陸奥の伊達政宗への備えとすること。
 もう一つは、家康がこの領地替えを拒否す
るか、難攻不落の小田原城を居城とすれば、
逆心の可能性がありとして討ち果たすつもり
だった。
 これに対して家康は、少し考えて平然と受
け入れ、居城は武蔵にある江戸城にすると返
答した。
 江戸城は、小田原征伐でもすぐに開城した
粗末な城で、その一帯はほとんどが沼地とい
た未開拓の場所にあった。
 家康の明らかに恭順するという姿勢を見て
とった秀吉は、安心して京に戻った。