2013年5月14日火曜日

利休隠居

 天下統一という偉業を成し遂げて上機嫌の
秀吉は、聚楽第で千利休による茶会を催した。
 それから摂津・有馬の温泉に行って湯治を
すると、そこでも利休、小早川隆景、津田宗
及らを呼んで茶会をするといった、くつろい
だ日々を過ごした。
 利休は、秀吉の機嫌のいい時を見計らって
突然、暇乞いを申し出た。
「すでに天下も治まり、私も明くる年には七
十になります。これを一区切りに身を退き、
余生を慎ましく暮らしたく思います」
 秀吉は、これまで利休が死力を尽くしてく
れたことをねぎらい、隠居することを認めた。
 堺に帰った利休は、もうひとりの天下人と
して盛大に迎えられた。
 利休が、信長、秀吉に仕えている間、堺に
は莫大な利益がもたらされていたからだ。
 そんな利休を堺商人が放っておくはずがな
い。
 利休が始めていた侘び茶は、庶民でも買え
る安い茶器を使っていた。しかし、その茶器
を利休が使っている、あるいは、利休が選ん
だとなると高額で取引された。
 どこにでもある竹で作った茶せんや茶さじ、
花器なども利休の手の物となると欲しいとい
う者は後を絶たず、値段がはね上がった。
 普通、物の値段は市場の需要と供給で決ま
る。それに希少価値と影響力のある人物が所
有したという価値が加わることによってさら
に値段は高くなる。これと同じことは、かつ
て織田信長が所有したというだけで、名もな
い茶器の価値が上がるということがあり、信
長は、所有する者の影響力で物の価値が決ま
ることに気づき、これで莫大な軍資金を稼い
だ。そのため、利休の軍資金を創りだす能力
は色あせ、信長は次第に利休を重用しなくなっ
ていったのである。

 秀吉の耳に、堺で隠居したはずの利休が暴
利を得ているという噂が入ってくるようになっ
た。しかしそれは、利休自身がやっているの
ではなく、堺商人が利休を利用していること
を秀吉は分かっていた。それに、利休のこれ
までの功績を考えると十分見逃せる範囲のこ
とだった。
 そのことより、秀吉が不信を抱いたのは茶
室だった。
 これまでの茶室は、四畳半という広さが最
も狭い空間だったが、利休は庶民の間で広まっ
ていた三畳や二畳といったさらに狭い空間に
した。そして、土塀で囲んで外に声が漏れる
のを防ぎ、後から窓を開けることで、射し込
む光が独特の雰囲気を作り出した。
 この茶室に入ると、異空間の中に閉じ込め
られた状態になり、密談をしていても外部に
漏れることがなく、招き入れる主ともてなさ
れる客の間に主従関係が生まれやすく、ある
種の幻覚のような状態で人の心を操ることさ
えできるのではないかと思われた。
 それを示すかのように、利休に心酔した古
田織部、細川忠興らの諸大名までもが弟子に
なっていた。
 この頃、秀吉は、士農工商の身分制度を確
立しようと考えていた。そうした中で、武士
が町人である利休の弟子になることなど許せ
るはずがなかった。また、利休の詫び茶が、
一種の宗教のような広がりをみせていたこと
も秀吉には脅威となっていた。
 秀吉は、九州征伐の後に起きた一揆を、キ
リシタン信者の扇動によるものと考え、宗教
を警戒していたのだ。
 つい先ごろも前田利家から、出羽で一揆が
起こったと知らせがあったばかりだ。しかし、
秀吉が利休を恐れた本当の理由は別のところ
にあった。