2013年5月15日水曜日

信長と利休

 時をさかのぼること、永禄十一年(一五六八)

 天下布武を掲げ、勢いに乗る織田信長はこ
の時、三十五歳。
 室町幕府は末期の混乱状態にあり、それを
好機とみた信長は、第十五代将軍に足利義昭
を推したて上洛を果した。
 この頃、信長は、堺商人から軍資金の調達
をしていた。その関係で、今井宗久から千宗
易を紹介された。
 信長は、宗易の茶道具から軍資金を創りだ
す能力にいち早く気づき、茶頭にして茶の湯
を広めさせた。
 特定の金山銀山でしか手に入らない金銀に
比べ、どこでも誰にでも作れる茶器を、あた
かも価値のあるものに見せかけ、流通させれ
ば、自分でいくらでも金銀を作れることにな
る。それを資金に換え、鉄砲などの調達をし
たり、茶器そのものを戦で手柄を上げた兵士
に褒美として与えたりすれば、金銀を減らさ
ずにすむ。
 そう考えた信長は、自らも高価な茶器を買
いあさり、そのことを「名器狩り」と揶揄(や
ゆ)されたが、これは茶の湯の宣伝と茶器の
希少価値を高めるためで、宗易の出身地であ
る堺の商人も加わって茶器の価値をつり上げ
ることに成功した。これがきっかけとなり、
公家や大名を巻き込んだ茶器投機が流行した。
 信長と堺商人との関係を取り持つため茶頭
となった宗易も、自分の地位を高めることに
成功し、最初の頃は信長と利害が一致してい
た。しかし、本来宗易が目指していた茶の湯
は「身分に関係なく誰でも茶の湯を通じて語
り合える世の実現」だったことに目覚めた。
 気がつけば、茶の湯は茶器の値踏みをする
場になり、神のように振舞いだした信長が、
あたかも家臣に神の宝物でも授けるように茶
器を与えることに嫌悪感を増した。
 さらに高慢になった信長は、家臣を使い捨
て、まるで物のように扱うようになり、優秀
で忠実な家臣の明智光秀でさえ理不尽な扱い
をされていることに、宗易は「いずれ自分も
厄介払いされるか、ひどい目に遭うのではな
いか」と恐怖を感じるようになった。
 そこで、百姓から出世を続け、庶民に人気
急上昇の秀吉なら、自分の目指す「身分に関
係のない茶の湯」が実現できると思い、秀吉
にすりより、信長の暗殺を考えるようになっ
た。

 天正十年(一五八二)

 信長は、この時代の平均寿命の四十代後半
の四十九歳になると、自分の寿命を考えるよ
うになった。
 信長が好んで舞っていた謡曲「敦盛」の一
節に、

 人間五十年
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり

 一度生を受け
   滅せぬ者のあるべきか

 とあるがこれは、

 人間界の五十年は
   天上界からみれば
     たった一日
 眠って見る夢は長いようでも
   目が覚めれば
    一夜が過ぎているだけだ

 この世に生まれたら
   誰だろうと
     いつかは死ぬのだ

 と読める。

 信長が今すぐ天下を取ったとしても残りわ
ずかの人生しか統治できない。また、神とし
て振舞う自分が老いていくことが許せず、異
国の若返りや延命の呪術に興味をもつように
なったとしても不思議ではない。
 三国志の諸葛孔明は、自分の死を悟ると延
命の呪術をおこなったとされる。そうした伝
説を信長も知り、延命の術が必ずあると信じ
るようになった。
 もし、肉体の再生ができるのなら、試して
みたいとも思っていた。だから、黒人の奴隷
として日本に連れてこられたヤスケを家臣に
してまでシャーマニズムの延命の呪術を聞き
出そうとしていた。
 このことを茶の湯の会話の中で知っていた
宗易は、ヤスケから延命の呪術を聞きだす役
を願い出た。そしてこのことを秀吉に知らせ、
信長暗殺の計画を練った。