2013年5月17日金曜日

暗殺の時

 天正十年(一五八二)六月二日の深夜

 何も知らない光秀は突然、本能寺で就寝中
のはずの信長から来るように命じられた。
 そこですぐに兵一万三千人と供に出向いた。
そして理由も告げられず「本能寺の周りの警
戒にあたるように」とだけ命じられ、その任
についた。
 しばらくして寺の内部から異様な物音やう
めくような声がし始めた。
 これを光秀は、信長の身に危険が及んでい
ると察し、音のする一室を覗いた。
 そこで延命の呪術を見た光秀は、宗易の狙
いどおり、「魔王」とあだ名された信長がそ
の正体を現し、天皇を呪っているような術を
していると錯覚して激怒した。
 これまで光秀は、信長のどんな仕打ちにも
耐えてきた。しかし、天皇をないがしろにす
る行為はどうしても許せなかった。
 光秀は発作的に、延命の呪術に気を取られ
ていた信長を襲い、あっけなく討ち取った。
そして光秀は、信長の遺骸を運び出し、残っ
た兵には、本能寺を焼き払うように命じた。
 光秀は、運び出した信長の遺骸を陰陽道の
魔封じの術により、二度と生き返らないよう
に葬った。
 光秀はこの時、まだことの重大さに気づい
ていなかった。だから、この後の政策などが
無計画で、天下をとるという野望があったよ
うには伺えない行動をしていた。
 この計画を知っていた秀吉は、備中の毛利
と最初から戦う気はなく、攻撃目標の高松城
を水攻めにして、退却する時に追撃できなく
した。そして、兵の大多数を備中と京の中間
地点のあたりに待機させ、京の様子をうかがっ
ていた。
 本能寺で異変が起きると、狼煙や灯火など
を使って瞬時に秀吉のもとに伝えた。
 知らせを聞いた秀吉は、待機している兵に
光秀の動向を監視させた。そして自分は、ま
だ本能寺の異変を知らない毛利との和睦を強
引にすすめた。
 和睦が完了すると急いで引き上げる一方、
京の近くに待機していた秀吉の兵は、あたか
も備中から引き上げてきたように見せかけ、
摂津の諸将や堺にいた織田信孝らと合流した。
 これはあまりにも速い行動で、まだ秀吉は
到着していないなど疑念をもたれても不思議
ではないが、信長が襲撃されているという非
常事態に目を向けさせてごまかすことができ
たのかもしれない。
 ともかく、光秀討伐へ向かい、遅れて来た
秀吉と合流して山崎の戦いで破った。
 この時、敗走した光秀は農民に殺害された。
 これが、秀吉を天下取りへと大きく飛躍さ
せたのである。