2013年5月18日土曜日

辞世の句

 秀吉は、天下を取る発端となった本能寺の
変やその後の経緯など、何もかも知っている
利休の存在が疎ましくなった。また、堺に帰っ
たことも、徳川家康や伊達政宗など別の大名
に天下を取らせようと計画するのではないか
との疑念がわき、脅威を感じていたのだ。
 そこで、すぐにでも利休を処分しようとし
た矢先、病に倒れていた秀吉の弟、秀長が死
去したとの知らせがあり、利休の処分は保留
にされていた。

 天正十九年(一五九一)

 秀長の病死は、正月が過ぎて間もなくのこ
とだった。
 秀長は秀吉の参謀として多大な貢献をした。
そして唯一、秀吉に忠告できる存在だった。
 もし秀長が生きていれば、利休の助命をし
たかもしれない。
 秀吉は秀長の喪があけると、利休を京に呼
び戻した。そして、利休が聚楽第に入ると、
待機していた軍勢が利休邸を取り囲んだ。
 このことを聞きつけた古田織部、細川忠興
ら利休の弟子たちは、前田利家などに働きか
けて助命を嘆願した。しかし、秀吉には聞き
入れられず、すぐに利休の自刃が命じられた。
 利休はすでに悟っていたのか、取り乱す様
子もなく、その一生を終えた。
 この時、秀吉は利休の遺言として書かれた
歌を見ていた。

 利休めは
   とかく果報のものぞかし
    菅丞相になるとおもへば

 菅丞相とは菅原道真のことで、朝廷に仕え
る学者の身から右大臣にまでなったが、その
ことで藤原氏にねたまれて九州に左遷され、
大宰府の長官にされた。
「利休め、町人の分際で己を菅丞相になぞら
えるか」
 秀吉が苦笑いを浮かべていると、その歌と
共に利休が前日に書いた辞世の句があった。

 人生七十 力囲希咄
 吾這寶剣 祖佛共殺
 堤る我得具足の一太刀
 今此時ぞ天に抛

 人生七十(年)
   りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣
   租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐる
   わが得具足の一太刀
 今この時ぞ
   天になげうつ

 秀吉の脳裏に、信長が好んで舞った謡曲「敦
盛」の一節がよぎった。

 人間五十年
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり

 一度生を受け
   滅せぬ者のあるべきか

 これは、

 人間界の五十年は
   天上界からみれば
     たった一日
 眠って見る夢は長いようでも
   目が覚めれば
    一夜が過ぎているだけだ

 この世に生まれたら
   誰だろうと
     いつかは死ぬのだ

 信長が本能寺で死去したのが四十九歳。
 利休が自刃した時、七十歳。
 信長は、人間界の一瞬しか生きられなかっ
たが、利休はそれに打ち勝って長生きしたと
もいえる。それを、力囲希咄(りきいきとつ)
と表現した。
 力囲希咄とは、剣を振りかざした時の気合
を入れる声や雄たけびのことだが、利休は延
命が叶わなかった信長に「やったぞ」とか「ど
うじゃ」と言っていると秀吉は解釈した。ま
た、利休は茶人らしからぬ「宝剣」「得具足」
「一太刀」などという言葉を使った。
 利休にとって宝剣は茶器、得具足とは自分
の使い慣れた武器のことだが、利休にとって
は茶の湯を通じて得た情報が武器になる。こ
れらを利用して一太刀(一撃)で信長を死に
追いやったと自分の力を誇示している。そし
てこのことを秀吉も知っていて天下を取るこ
とになった。
 利休が辞世の句で本当に言いたかったこと
は、

 信長よ、私は七十年の人生だった
ぞ、ざまあみろ

 私のこの茶器の価値に信長は幻惑
され、やがて神仏を崇めず、自らが
神のごとき振る舞いをし始めた
(これは秀吉も同じだ)

 だから、私が茶の湯で得た情報を
駆使して信長を一撃で死に誘う
(それは秀吉に天下を取らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこ
のこと(秀吉の共謀)を知っている
者が秀吉を苦しめるだろう

 これは秀吉に対する恨みと脅迫の言葉だっ
た。

 秀吉は、苦笑いから一瞬にして顔面蒼白と
なり、次第に赤ら顔になると烈火のごとく怒
り、すぐに従者を呼んだ。
 利休が自刃してまだ遺骸の残る部屋に秀吉
の従者が駆け込み、この後、利休の首は一条
戻橋でさらし首にされた。