2013年5月2日木曜日

悩む輝元

 毛利輝元は大友と和睦するか、今のまま島
津に味方するかで悩んでいた。
 大友とは先代、元就からの因縁があり、こ
ちらから和睦を申し入れることなどとうてい
できなかった。また、大友に味方している秀
吉と島津に味方している足利義昭との板ばさ
みになったことも頭を悩ませる原因になって
いた。
 輝元には叔父で補佐をしている吉川元春と
小早川隆景がいたが、この二人の意見も分か
れていた。
 元春は、過去に秀吉が信長の家臣として自
分たちを攻めるために西国攻略にやって来た
時、大友義鎮が秀吉に味方して攻めてきたこ
と。また、その時に起きた本能寺の変で秀吉
が信長の死を隠して強引な和睦を迫り、だま
されたことがいまだに不信感を抱かせていた。
 隆景はだまされた方にも非があり、和睦し
て今は秀吉に臣従しているのだから従うべき
だと考えていた。
 そしてもうひとり、輝元の相談役になって
いた僧侶、安国寺恵瓊は、すでに関白となり
天下統一が目前の秀吉に刃向かうのはおろか
だと説いた。
 輝元はこうして常に他人の意見に流されて
しまう。まるで操り人形のように言いなりに
なる習慣が身についてしまった。
 しばらくして、秀吉を仲介役とした大友と
毛利の和睦が成立した。
 一つ難問が片付いた秀吉は、京の内野に新
たな屋敷として聚楽第を着工した。そして、
大坂城に戻ると間もなく大友義鎮が登城して
来た。
 秀吉は歓迎し、大坂城に来るのが始めての
義鎮に城内を自ら案内した。そして、利休の
茶でもてなした。
 この頃の秀吉は、公家のような身なりと振
る舞いをするようになっていた。
 義鎮は毛利との和睦がなったことを感謝し、
島津の侵攻が続いていることを訴え支援を要
請した。
 秀吉は早速、毛利輝元、吉川元春、小早川
隆景らに九州征伐の準備を命じた。
 これを知った島津義久は、輝元に今までの
協力関係の継続を訴えることで揺さぶりをか
けてきた。
 毛利だけでは不安に思った秀吉は、義鎮が
豊後に戻ると、四国の長宗我部元親や羽柴秀
長、秀次にも九州征伐に向かうよう命じた。
 九州では、大友義統、立花宗茂らが立花城
に籠城して奮戦し、島津軍の攻撃にかろうじ
て耐えていた。
 立花城が落城寸前との知らせに急きょ、毛
利軍が駆けつけたが、その頃には島津軍が敗
退して無事だった。
 大友は日本で唯一、大砲を装備していたた
め、多勢の島津軍でも城攻めに苦戦すること
があったのだ。
 島津義久は、秀吉の九州征伐の動きに対し、
話の分かる羽柴秀長や石田三成へ自分たちの
正当性を主張し、敵対行為はしていないこと
などを訴え、体制を立て直す時を稼いだ。