2013年5月20日月曜日

藤原惺窩

 秀吉の朱印状で外に出辛くなった秀俊は、
居城の亀山城で退屈な日々を送っていた。
 そうしたある日、一人の男がやって来た。
 その男は、名を藤原惺窩といい、歌道で名
高い冷泉家に生まれ、「新古今和歌集」の選
者として知られる歌人、藤原定家十二世の孫
だった。
 惺窩は、八歳の頃から播磨・龍野の景雲寺
で禅宗を学んだが、父と兄が大名の別所長治
との争いで戦死して生家が没落すると、京・
相国寺に入り僧侶となった。
 一時は、父兄の仇を討とうと、秀吉に訴え
たこともあったが叶わず、寺に戻った。
 寺では、堕落していく他の僧侶を見るにつ
け、仏教の教えにも限界を感じるようになっ
た。
 そんな時、儒教に触れ、傾倒するようにな
り、気がつけば三十歳となっていた。
 惺窩は、明や朝鮮の書物を読みあさる日々
の中で、政治にも関心がわき、その学識は石
田三成も教えを請いたいと願うほどだった。
 それを知った秀吉から、秀俊の講師となる
ように命じられ、亀山城に赴き、寄宿するこ
とになったのだ。
 秀俊は惺窩が、この頃はまだ珍しい儒学者
の装いをして、僧侶らしからぬ風体だったこ
とに興味がわいた。
 惺窩も、巷で噂されている好奇心旺盛な秀
俊に、自分の幼い頃を重ね、相通じるものを
感じていた。
 惺窩は、秀俊に教え諭すということはせず、
自分も学んでいる途中なので一緒に学ぼうと
いう姿勢を見せた。そして、もっぱら明に伝
わる物語を話して聞かせるので、秀俊も飽き
ずに耳を傾け、次第に政治や兵法などにも興
味を示し、惺窩の講義をすぐに理解していっ
た。
 秀吉は、秀俊が勉学に励んでいることを知
ると喜び、次々に書物を買い与えた。
 それは惺窩でさえ手に入れることのできな
い貴重な書物で、これを惺窩も読むことによ
り、儒学者としての名声が高まった。