2013年5月21日火曜日

秀吉を呪う

 秀長が病死し、利休も自刃させられた後は、
秀次や浅野長政、石田三成、増田長盛、長束
正家、前田玄以の五奉行と大谷吉継などが秀
吉の補佐をするようになっていた。
 陸奥で一揆が起きるなど混乱はあったが、
民衆も新しい法度に慣れると次第に落ち着い
てきた。
 誰もが戦国の世が終わり、平穏な暮らしが
できると思った。ところが、秀吉の嫡男、鶴
松丸が急死して一転、騒然となった。
 秀吉は、戦で負けても、これほどは落ち込
まなかったというぐらい、誰もが見たことの
ない落ち込みようだった。
 そうした様子から、秀吉の隠居は確実と思
われた。

 天正十九年(一五九一)八月五日

 わずか三歳で病死した鶴松丸は、東福寺に
移された。
 あわれな老木のように打ちのめされた秀吉
の脳裏に、利休が書いた辞世の句がよぎった。

 人生七十(年)
   りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣
   租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐる
   わが得具足の一太刀
 今この時ぞ
   天になげうつ

 信長よ、私は七十年の人生だった
ぞ、ざまあみろ

 私のこの茶器の価値に信長は幻惑
され、やがて神仏を崇めず、自らが
神のごとき振る舞いをし始めた
(これは秀吉も同じだ)

 だから、私が茶の湯で得た情報を
駆使して信長を一撃で死に誘う
(それは秀吉に天下を取らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこ
のこと(秀吉の共謀)を知っている
者が秀吉を苦しめるだろう

 秀吉はこのように解釈していたが、しかし、
信長暗殺に関して誰が真相を知っていようと
天下人になった秀吉には、もはやなんの脅し
にもならない。
 そこで別の解釈が浮かんできた。

 わしは七十年生きたぞ、どうじゃ
 わしの刃は誰だろうと切り捨てる
 受けてみよ、わしの会心の一撃を
 今から死んで天下人、秀吉を呪う

 秀吉は、鶴松丸の死でそう解釈できると感
じるようになっていた。そして、利休に対す
る怒りが前にもましてわいた。
 それは新たな天下取りの野望を呼び起こし
た。
 翌日、秀吉は、諸大名に朝鮮への出兵準備
命令を発した。
 これには皆、耳を疑った。
 秀吉が大義名分としたのは「はるか昔、朝
鮮の南端には任那(ミマナ)という国があり、
日本府が置かれていたが、朝鮮での戦国時代
に滅亡した」という言い伝えで、それを今に
なって取り戻そうというのだ。しかし、任那
は国ではなく、日本人が朝鮮と貿易をする時
に滞在していた区域だった。
 これは明らかに大義名分のない侵略行為だっ
た。しかし、今は秀吉を諌められる者がいな
い。
 「弟の秀長がいたら止められたものを」と
皆、落胆した。
 五奉行は、秀吉が唯一話を聞きそうな北政
所に説得を願い出た。
 北政所は少し考え「頃合いをみて話してみ
ます」とだけ言った。
 今すぐ話をすれば「鶴松丸を死に追いやっ
たのは淀を側室にしたことを恨んでいる者(北
政所)」と、ありもしないことを勘ぐられ余
計に話がこじれると思ったからだ。