2013年5月25日土曜日

秀吉落胆

 文禄元年(一五九二)七月二十二日

 秀吉のもとに、大政所が危篤という知らせ
があり、すぐに京に戻ったが、着いたときに
はすでに死去していた。
 老いていたとはいえ、鶴松丸に次ぐ凶事に
秀吉の落胆の色は隠せなかった。
 大政所の葬儀は、しょうすいしきった秀吉
の名代として秀次が執り行った。
 秀吉は八月になると、京・伏見に自らの隠
居所となる邸宅の建築を命じるほど、朝鮮を
征服する意欲を失っていた。
 そうした秀吉を慰めたのは淀だった。
 秀吉は、鶴松丸の死を乗り越えて明るく振
る舞い、自分を元気づけようとする淀を愛し
く思い、やがて気力を取り戻した。
 朝鮮の日本軍は、漢城に集結すると、秀吉
からの命令が一時途絶えたこともあり、軍議
をおこない、各部隊は分散して侵攻すること
になった。

 平安道、一番隊
  小西行長、宗義智、松浦鎮信
  有馬晴信、大村喜前、五島純玄
 咸鏡道、二番隊
  加藤清正、鍋島直茂、相良頼房
 黄海道、三番隊
  黒田長政、大友吉統
 江原道、四番隊
  毛利吉成、島津義弘、島津忠豊
  伊東祐兵
 忠清道、五番隊
  福島正則、生駒親生、来島通之
  長宗我部元親、蜂須賀家政
 全羅道、六番隊
  小早川隆景、秀包、立花宗茂
 慶尚道、七番隊
  毛利輝元
 京畿道、八番隊
  宇喜多秀家

 再び侵攻を開始した各部隊は、朝鮮全土を
次々に制圧した。しかし、それがもとで補給
路が広範囲になり、兵糧の確保が難しくなっ
た。
 それでも加藤清正の部隊は、朝鮮の王子二
人を捕らえ明にまで迫った。
 やがて日本軍の侵攻が鈍り始めた。
 これを待っていたかのように朝鮮側では、
各地で正規軍には属さない義兵が組織され、
攻勢に出た。
 海上でも朝鮮の李舜臣が率いる水軍が、態
勢を整えて反撃を開始し、藤堂高虎、脇坂安
治、九鬼嘉隆らの率いる水軍を次々に撃破し
ていった。
 朝鮮の主力として現れた軍船は「亀甲船」
と呼ばれ、亀の甲らのような湾曲した鉄板で
覆われていた。
 この亀甲船には、槍のような突起があり、
天宇銃筒、地字銃筒、玄字銃筒などと呼ばれ
る大砲を十四門も装備していた。
 これに対する日本の軍船は、ほとんどが木
造船で数隻は鉄板で覆った鉄甲船があったが、
それには大筒程度の威力しかない大砲が船首
に三門しか搭載されていなかった。また、不
慣れな海域だったこともあり、逃げるのが精
一杯だった。
 そこで日本軍は、朝鮮水軍の拠点としてい
る港を陸上から攻撃することにした。
 これにより朝鮮水軍の出撃回数は減っていっ
た。
 しばらくすると、朝鮮からの要請にこたえ
て明軍が支援に動き、戦いはこう着状態となっ
た。
 この戦いで日本軍は初めて、明軍が使用し
た大将軍砲、威遠砲などの大砲と火箭(カセ
ン)と呼ばれる火を噴いて飛び、しばらくす
ると炸裂する爆弾(現在のロケット弾のよう
なもの)などの新兵器を目の当たりにし、そ
の威力を身をもって体験した。
 これらは、大友義鎮が使用していた大砲と
は比べ物にならない破壊力があった。