2013年5月27日月曜日

拾丸と秀次

 朝鮮で戦った各部隊が次々と肥前・名護屋
の港に帰還する中、朝鮮の南部に築城した日
本の城を守備するという名目で、一部の将兵
が残された。
 これらの者は、兵糧が乏しくなると多数が
朝鮮に投降していった。
 朝鮮ではこれらの者を「降倭」と呼んで受
け入れ、鉄砲の製造方法や戦闘術を学んで、
再び日本が侵略してくるのに備え始めた。

 秀吉は、今度こそ淀が生んだ嫡男を守ろう
と、異常なほど神経を尖らせていた。
 鶴松丸が利休の呪いで死んだと信じている
秀吉は、生まれた子から利休の呪いを取り払
うため、家康の側近となり陰陽道を極めた僧
侶、南光坊天海を頼った。
 その天海の託宣により、生まれた子は家臣
の松浦重政が拾ったことにして、名も拾い子
ということで拾丸と名付けられた。
 家康はこれをきっかけに、朝鮮侵略の失敗
で日増しに立場の悪くなる秀吉を擁護して接
近していった。
 家康としては、秀吉の影響力が弱くなり、
関白、秀次が正式に後継者になれば、自分の
天下取りが遠のくのではないかとの思惑から
だ。また、国替えで押し付けられた荒廃して
いる領地の開発が始まったばかりで、それを
秀次に邪魔されないようにする必要があった
のだ。
 家康の擁護を秀吉は、朝鮮出兵を免除した
ことを感謝しているからだと信じていた。

 文禄二年(一五九三)九月

 秀吉は、肥前・名護屋から京に帰ると、す
ぐに大坂城にいる淀と捨丸に会った。
 その元気な様子に安心した秀吉は、十月に
は捨丸と秀次の生まれたばかりの娘、菊を婚
約させた。これは、秀次を後継者ではなく他
人として扱うことを意味していた。
 そのかわり秀次には、日本を五分してその
四を与えることを約束した。
 その秀次のもとには、朝鮮に出兵して所領
が疲弊している諸大名からの不満が伝えられ
ていた。
 こんな時、秀長なら諸大名をうまくなだめ
る一方、秀吉に弟としてわだかまりなく進言
できただろう。しかし、今の立場の秀次には
すぐに進言することはできなかった。   
 秀吉は、朝鮮侵略の失敗から逃げるように、
尾張・清洲城の家康のところに入りびたるな
ど、この年末は隠居した太閤として都合よく
振舞った。
 こうして先手を打つかたちで秀次を突き放
したのだ。
 家康は、秀吉と秀次の関係が悪化していく
のを尻目に、江戸に招いた藤原惺窩から、明
に伝わる帝王学「貞観政要」を学び、来るべ
き時に備えた。