2013年5月28日火曜日

繁栄の手本

 文禄三年(一五九四)

 秀吉は正月明けにいきなり、朝鮮に出兵し
なかった諸大名に、京・伏見の指月山に城を
築城するように命じた。
 秀次はこの越権行為に、関白の座を失うの
ではないかと不安がよぎった。
 それでも秀次は好意的に受け取り、秀吉が
朝鮮に出兵した諸大名の不満を解消するため
に、色々考えていたのだと思うことにした。
そして、秀吉の側を離れず打ち解けるように
努めた。
 二月になると秀吉は、秀次や公家、諸大名
を伴って大和・吉野山で花見を催し、茶会や
歌会で昔に戻って楽しんだ。
 この時、十三歳になった秀俊も呼ばれ和歌
を詠んだ。

 芳野山木ずゑをわたる春風も
  ちらさぬ花をいかで手をらん

 君か代は
  ただしかりけりみよしのゝ
    花におとせぬ峯の松かぜ

 秀俊は、身の回りが変化していることを肌
で感じていた。
 秀吉は四月に入るとすぐ、京の前田利家の
邸宅を訪ねた。
 利家も家康と同じく朝鮮出兵を免除されて
いた。
 二人は同じ時代を生き抜いてきたことを懐
かしく話し、お互いの労をねぎらった。そし
て、秀吉は利家に「捨丸の後見人になって欲
しい」と懇願した。
 利家は秀吉より一つ年下で、自分も高齢で
あることを理由に断ったが、秀吉に押し切ら
れ、自分が死んだ後は嫡男の利長が跡を引き
継ぐことを条件に承諾した。
 これにほっとしたのか、秀吉は数日後、小
便を漏らすという老化の兆候がみられるよう
になった。
 死期を悟った秀吉は、悩んでいた秀俊の処
遇を急ぐことにした。
 秀吉が豊臣家繁栄の手本としたのは毛利一
族だ。
 毛利一族は、先代、元就の次男、元春が、
吉川家を乗っ取るかたちで養子となり、家督
を相続した。そして、三男、隆景が、小早川
一族の分家に養子となりその後、本家を乗っ
取って小早川家をまとめた。
 父子、兄弟が争う戦国の世にありながら、
この三家は強い絆で結ばれ、元就と元春が死
去した後も、毛利輝元を小早川隆景、吉川広
家が補佐して、西国を支配していたのである。
 秀吉は以前、まだ子のいない輝元に「秀俊
を養子にするように」と申し入れたことがあっ
た。
 これに毛利一族は猛反対し、特に広家は「本
能寺の変で秀吉に騙された」と、父、元春か
ら聞かされ、警戒するように言い含められて
いたので、不信感が誰よりも強かった。しか
し、隆景は「反対したところで、秀吉に刃向
かうことができない現実をふまえ、うまく回
避する方策を考えるべきだ」と説いた。
 思案した隆景はすぐに動き、自らの弟で穂
井田元清の子、秀元を輝元の養子とすること
が、以前から決まっていたことにした。そし
て、朝鮮出兵のために秀吉が肥前・名護屋に
向かう途中、安芸・広島城に滞在したさいに
秀元を引き合わせた。
 その時に秀吉は、秀元を輝元の養子と認め
ていた。
 秀吉はその後の朝鮮出兵で、秀俊の処遇を
棚上げにしていたが、捨丸が生まれたからに
は、どうしても毛利一族を取り込み、捨丸を
補佐する体制を整えたいと考えていた。