2013年5月3日金曜日

家康臣従

 九州で一進一退の攻防が続く最中、大坂城
に徳川家康が登城し、秀吉に正式な臣従を誓っ
た。
 家康は、民衆だけではなく公家や天皇まで
も魅了する秀吉の巧みな宣伝戦略に敗北した
ことを悟ったからだ。そして、家康が大坂城
でどうしても見たいものが二つあった。
 一つは組み立て式の黄金の茶室で、家康が
登城すると秀吉は、すぐに天守閣に案内して
披露した。
 家康は、その黄金の輝きよりも短時間に組
み立てられる構造と出来上がりの立派なこと
に驚嘆した。
 秀吉が利休の点てた茶をすすめても気がつ
かないほどだった。
(この茶室に短期間で築城する技術の全てが
こめられている。雑なところがひとつもなく
強固さも兼ね備えている。この城も手抜かり
がない)
 家康もすでに秀吉の宣伝戦略の虜になって
いた。そしてもう一つ、家康の見たいものに
も翻弄されたのだ。
 次の日、家康が大広間で平伏して待ってい
ると、秀吉に伴われて五歳になった秀俊が入っ
て来た。
「家康、苦しゅうない。面をあげい」
 秀俊が口にしたそのぞんざいな言い方は、
信長に似ていた。
 家康が顔をあげると、秀吉の横に公家風の
装束を着せられた秀俊がちょこんと座ってい
た。
 家康は即座に秀吉と秀俊の顔を見比べた。
(小猿。やられたわい)
 家康は、信長より秀吉によく似た猿顔の秀
俊に、今にも苦笑しそうになるのを押しとど
めた。
 思えばこの子に信長が転生したという情報
で振り回され、織田信雄が動揺して今に至っ
ている。
 完全に秀吉の宣伝戦略に敗北したことを実
感し、改めて深々と平伏した。それは、秀吉
や秀俊にではなく、いまだに残る信長の偉大
さにだ。

 家康が秀吉に正式に臣従を誓ったと聞いて、
動揺したのは足利義昭だった。
 京・御所の茶会で「豊臣幕府をおこすには
東国と関東を支配する必要があり、まずは徳
川、北条を屈服させることだ」と言った時の
「もちろん近いうちに」と簡単に返答した秀
吉の言葉が脳裏によみがえった。そして、義
昭をさらに驚かせたのが、秀吉が関白になる
ために養父にされた近衛前久から、今度はそ
の娘の前子を秀吉の養女とし、即位して間も
ない後陽成天皇の女御として、入内させたこ
とだ。
 これは、豊臣幕府を超えて豊臣帝国と呼べ
るものが誕生したことを意味していた。
 義昭はすぐさま島津義久に、秀吉と和睦す
るように伝え、自らも秀吉に恭順する態度を
示した。
 これで大友を孤立させていた島津が、逆に
孤立することになった。しかし義久は、今さ
ら後には引けず、裏切った毛利に対する怒り
もあり、攻勢を強めていった。