2013年5月30日木曜日

秀次事件

 秀次は、秀俊が小早川家に養子として出さ
れたことを知ると、何か嫌な胸騒ぎを感じた。
それに、秀吉と家康が頻繁に会い、そのたび
に五奉行に指示を出すことがあり、自分が政
務の主導権を握れないことにもいら立ってい
た。
 そんな時、秀吉が再度、朝鮮出兵を計画し
ていることが知れ渡り、諸大名から秀次のも
とに不満が寄せられた。
 ところが、その計画は秀次には知らされて
いなかった。さらにその計画では、秀次も出
兵させられることになっていると聞き、秀吉
に不信感を抱いた。
 そんなことはおかまいなしの秀吉は、完成
した伏見城に捨丸を移させた。そして、年が
明けた文禄四年(一五九五)一月には、今も
朝鮮で日本の城を守備している将兵に、城の
周辺を開墾して耕作地にし、兵糧の確保に努
めるように命じた。
 秀次は、秀吉の朝鮮出兵を思い止まらせよ
うと朝廷に働きかけた。
 そんな時に大坂城から多額の金銀が何者か
に盗難される事件が起きた。
 この事件は、去年、名高い盗賊の石川五右
衛門が、子と共に処刑されたことに反発した
残党の仕業ではないかということで、秀吉は
秀次に「治安を良くするように」と叱責した
だけでおさまった。しかしその後、秀吉は家
康の情報から、秀次が朝廷に多額の献金をし
ていることを知ると、秀次に不信感を抱くよ
うになった。
 四月の初めに捨丸が病気になったので、秀
次が伏見城に見舞いに行くと、秀吉はあから
さまに不機嫌な顔をした。
 秀次も秀吉に目を合わせることができず、
会話することもなく、すぐに立ち去った。
 その六日後、秀次の末弟、秀保が変死する
事件が起きた。
 このことで秀吉と秀次の決裂は決定的となっ
た。
 これをすぐに察知した家康は、情勢不安に
なることを見越して江戸に戻った。
 しばらく静かな対立が続き、沈黙を破って
先に動いたのは秀吉だった。

 文禄四年(一五九五)七月三日

 秀吉は、聚楽第の秀次のもとへ、石田三成、
増田長盛ら奉行衆を向かわせ、謀反の疑いな
どで詰問させた。
 詰問の内容は以下のようなものだった。

 酒におぼれ、無用な殺生をして政治をおろ
そかにしたこと
 軍備を増強し、武装した者に市中を行列さ
せたこと
 朝廷に多額の献金をし、謀反を企てたこと

 書状を読みあげられて秀次が反論しようと
すると、先に三成が口を開いた。
「これらのことは私たちにも責任のあること
で、何とでも言い訳は立ちます」
 そう言いながら、懐から別の書状を出した。
それは、秀次に忠誠を誓うという諸大名の署
名が入っている謀反を企てた連判状だった。
「これは毛利輝元殿から差し出されたもの。
署名を見ますと北から回っていたようですが、
前田利家殿、徳川家康殿など主だった方々の
名がありません。これは明らかに偽物ですが、
太閤様がここまでされるとなると処罰を免れ
ることは難しいと思われます」
 三成の言うとおり、この詰問は処罰する手
順のたんなる通過点に過ぎなかった。
 秀次はため息をついた。
「確かに、そうじゃ。わしの覚悟はできた。
しかし、他の者の災いはなんとか食い止めた
い」
「それは私たちも最善を尽くすつもりです。
この後は軽はずみな行動は慎み、心穏やかに
お待ちいただきたく、お願い申し上げます」
 三成ら一同は、秀次に深々と平伏した。