2013年5月4日土曜日

九州平定

 秀吉は、太政大臣に就任した翌年の天正十
五年(一五八七)一月に、宇喜多秀家、二月
には福島正則、細川忠興、羽柴秀長らを次々
と九州征伐に向かわせた。そして、三月にな
ると自らも兵八万人の部隊を率いて出陣した。
 その後も浅野長政、加藤清正など、秀吉と
共に数々の戦いを勝ち抜いた者たちの出陣が
続いた。
 秀吉が備後・赤阪に到着すると足利義昭が
出迎えた。その姿に室町幕府、第十五代将軍
の面影はなく幕府復興は完全にあきらめてい
た。
 赤阪を出発して安芸に到着した秀吉は、厳
島に渡り、かつて平清盛が平家納経を奉納し
た厳島神社で戦勝祈願をした。
 秀吉は平氏の流れをくむ家系と名乗ってい
たので、清盛と同じ太政大臣にまでなったこ
とをしみじみと噛みしめていた。
 三月も終わりの頃、ようやく秀吉は、長門・
赤間の関から豊前・小倉に渡った。
 豊臣軍はすでに九州入りしている兵を合わ
せて二十万人を超える大軍となり、四月に入っ
て間もなく、秀吉は、筑前・厳石城を落城さ
せた。また、別働隊の大谷吉継、吉川広家も
日向・土持城を攻略して進軍していた。
 秀吉の大軍は、四月半ば頃には肥後まで進
軍することができた。
 その後も島津軍の占領地を肥後と日向の二
手に分かれて次々と攻略していった。
 五月に入って秀吉は、薩摩・川内の泰平寺
に本陣を構えた。
 すると間もなく島津義久がやって来て、無
条件降伏を申し出た。
 義久はかねてから秀吉の弟、秀長に調停を
求めて親しくなっていた。そこでこの苦境を
切り抜けるため、秀長に頼った。それが功を
奏して斬首を免れ、島津は薩摩、大隅、日向
の一部を安堵された。
 この戦の間に大友義鎮は死去したため、長
男の義統へ豊後、日向が与えられ、黒田孝高
に豊前、鍋島直茂に肥前、佐々成政に肥後、
小早川隆景に筑前、筑後をそれぞれ所領とす
ることが決められ、九州討伐は終わった。