2013年5月8日水曜日

後継者

 京で華やかな大茶会がおこなわれていた時、
九州・肥後では一揆鎮圧の凄惨な殺しが続い
ていた。
 一揆に参加していたのは百姓がほとんどで、
たいした武器もないのだが、それでも鍋島直
茂の部隊は手を焼いていた。
 そこで秀吉は、追加派兵として小西行長、
毛利輝元、小早川隆景、黒田孝高らも向かわ
せた。
 この翌年には聚楽第に後陽成天皇を迎える
行幸を予定していたため、一揆の鎮圧を急ぐ
必要があったからだ。
 秀吉は、上洛させていた島津義弘も肥後に
向かわせて、これでようやく一揆鎮圧のめど
がついた。
 何事もなかったかのように、天正十六年(一
五八八)四月に、後陽成天皇が聚楽第に行幸
する日をむかえた。
 この時、秀吉は意外な宣言をした。
 それは、家臣に「皇室領への無道に対する
処罰と羽柴秀吉に対する忠誠」を誓約した起
請文を「金吾侍従豊臣秀俊宛」で提出させた
ことだ。これは、秀吉の後継者は養子の末男、
秀俊にするということを意味していた。
 居並ぶ公家衆や諸大名からは、驚く者、眉
をひそめる者、苦笑する者などさまざまだっ
た。
 誰もが秀吉の後継者は、同じく養子で秀俊
の兄にあたり、武勲もあげている秀次だと思っ
ていたので、これは騒乱になるのではないか
と噂した。しかし、秀次は平静だった。それ
は、起請文を提出した者たちの顔ぶれだった。
 起請文を提出したのは、織田信包、羽柴秀
勝、結城秀康、里見義康、長谷川秀一、堀秀
政、蒲生氏郷、細川忠興、織田秀信、毛利秀
頼、蜂屋頼隆、前田利長、丹羽長重、織田長
益、池田輝政、稲葉貞通、大友義統、筒井定
次、森忠政、井伊直政、京極高次、木下勝俊、
長宗我部元親だ。
 これらの名を見て、これが秀吉得意の宣伝
だと気づいたからだ。
 今まで順調だった天下統一が最終局面にき
て、九州・肥後の一揆で停滞してしまった。
それを挽回するための自分に対する叱咤激励
だと秀次は受け取った。
 秀吉の後継者に選ばれた秀俊は、このこと
で生活に変化はみられなかった。
 もともと秀吉の養子になった時から厚遇さ
れていたので、周りの秀俊を見る目もそれほ
どかわりはなかった。ただ、茶々が秀吉の側
室になったので会えなくなり、秀俊はそのこ
とを寂しく思っていた。
 しばらくして秀俊のもとに、山口宗永とい
う初老の家臣が時々現れるようになり、秀俊
に日ごろの生活態度のあり方を説いては帰っ
ていった。
 秀吉は最近、政務のことは秀長や秀次に任
せることが多くなり、何かといえば茶々のも
とにかいがいしく通った。それでも肥後の一
揆は相当こたえたとみえて、百姓から武器を
取り上げることを狙った刀狩令を発した。
 一揆の頻発が武器を取り上げる大義名分と
なり、秀吉人気もあって、かつて誰もなしえ
なかった非武装社会が実現する機運が高まっ
た。

 天正十七年(一五八九)

 秀吉の側室になった茶々には、京・山城の
淀城があてがわれていた。そのため茶々は「淀
殿」と呼ばれるようになっていた。
 淀が側室の中でも別格に扱われていたのは、
身ごもっていたからだ。
 五十三歳にして子を授かった秀吉は狂喜乱
舞した。
 対照的にこれを知った秀次は力をなくした。
 以前、養子の秀俊を後継者にすると宣言し
たが、生まれる子が男子なら、秀吉は生まれ
た子を後継者にするだろう。しかし、まだ男
子と決まったわけではないと秀次は平静を装っ
た。
 ところが、秀吉はすでに嫡男が生まれると
信じ、「秀俊を後継者にする」と宣言したこ
とをあっさりと撤回した。そのうめあわせと
して秀俊には、丹波亀山十万石を与えること
にした。
 もともと、秀俊を後継者にすることは誰も
賛同していなかったので、このことで混乱は
なかった。しかし、秀次に付き従っている家
臣は、この先どうなるのか不安がよぎり、生
まれてくる子が男か女かで気をもんでいた。
 天下が息をひそめて見守る中、淀は男子を
生み、鶴松丸と名づけられた。