2013年5月9日木曜日

それぞれの城

 丹波亀山城は、明智光秀が城主をしていた
時、ここから織田信長のいる本能寺に向かい、
歴史を大きく動かす本能寺の変が起きた。
 今この城に八歳の秀俊が城主となって入っ
た。
 信長が転生した子にされた秀俊にとっては
皮肉なめぐりあわせだった。しかし、秀吉は
嫡男、鶴松丸が生まれたからといって秀俊を
見捨てたわけではなかった。
 いずれ鶴松丸の重臣として仕えさせようと
考えていたのだ。そのため、以前から生活態
度のあり方を説いては帰っていた山口宗永が
正式に秀俊の補佐役となった。
 信長には教育係として頑固な老臣、平手政
秀がいたように、山口も秀俊を秀吉の養子と
は思わず、わが子のように厳しくしつけた。
 秀俊にはさらに、日蓮宗・大光山本国寺の
日求上人が法華経を教え、御陽成天皇も師事
された准三宮道澄が和歌を教えるなど、最高
の教育を受けることができた。
 城も改修がおこなわれ、この規模の城では
破格の五層天守閣に造り替えられた。
 天守閣の最上部からは京の町並みが見え、
聚楽第ともそう遠くない場所にあった。
 淀城では、鶴松丸が生後三ヶ月になると、
淀と一緒に大坂城に移った。
 これは「淀城では育てるのに心細い」と言
う淀の希望だった。
 大坂城は以前から慣れ親しみ、ねねにも頼
ることがでる。それに秀吉とも会いやすいか
らだった。
 秀吉は、わが子ができて初めて妻子が心の
よりどころだということを知った。そこで、
一万石以上の諸大名の妻子を京に住まわせる
ことにした。
 これで諸大名を服従させ、将来、鶴松丸の
家臣となる子の育成もできると考えた。

 天正十七年(一五八九)十月

 秀吉は、たびたび奈良の郡山などで、諸大
名や公家衆と鷹狩などを口実にして、お忍び
で会うようになった。その中には徳川家康も
いた。
 秀吉はここで、相模・小田原征伐の方策を
ねったのだ。
 小田原は、北条早雲以来、後北条の五代に
わたって領有している地域で、今は北条氏政、
氏直父子が守っていた。
 秀吉にはすでに、天下統一の既成事実があっ
たので、攻める大義名分は必要なかった。し
かし、北条の居城、小田原城は今までの城と
は違っていた。
 上杉謙信や武田信玄でさえ落城させられな
かったその城は、自然の山、川、海を巧みに
利用し、小田原の町全体を土塁と空堀で取り
囲んでいた。
 これは日本の城の考え方というよりも大陸、
明の城郭都市に近い考え方だった。
 この城に籠城すれば何年だろうが守りぬく
ことができる。
 今の秀吉なら大軍で城を取り囲むことはそ
う難しくない。しかし、得意とした兵糧攻め、
水攻めなどの城攻めが何もできない難攻不落
の城だった。
 そこで秀吉は、「四面楚歌」の秘策を考え
ていた。