2013年6月30日日曜日

逃げ道

 南宮山の安国寺恵瓊は、優勢のはずの東軍
が劣勢になりかけていたのを好機とみて、毛
利秀元に家康の背後を攻撃するように助言し
た。しかし、吉川広家は家康と内通していた
ので、出陣しようとする秀元を止めていた。
 この南宮山の動きが、勝敗を大きく左右す
る鍵になっていた。
 家康も南宮山が気になり始めていた。
 秀元がこちらに攻めてくれば、東軍に味方
している秀吉恩顧の諸大名もいつ反旗を翻す
か分からない。そこで本陣を移動することに
した。
 家康の本隊は、毛利の部隊から距離をおく
桃配山の中腹に移動して、一旦は留まったが、
東軍はさらに劣勢になり、桃配山を下ること
にした。
 そこには中山道、伊勢街道がある。
 家康は、いざという時の逃げ道を確保しよ
うとしていたのだ。
 家康が本陣を移動していることを知った秀
秋も決断を迫られていた。
 松尾山城を奪い取ったことで、秀秋の家臣
は皆、手柄を立て自分たちの役割は終わった
と思い、この時、すでに戦闘意欲をなくして
いたのだ。それを今からどういう理由で、皆
に死を覚悟させて戦わせるのか。
 松尾山城のいたる所に小早川隊、一万五千
人の将兵が、じっと待機していた。
 末端の兵卒はすでに故郷に帰ることで頭が
いっぱいだった。しかし、合戦が始まっても
なかなか勝敗が決まらない。
 兵卒に戦いの駆け引きなど知るよしもない。
それでもこれだけ長い間、勝敗が決まらなけ
れば、自分たちの出陣もあるのではないかと
思うようになっていた。
 これまで、秀秋が領地管理や戦闘訓練など
で示した考え方が兵卒にも浸透していたのだ。
 やがて、誰に命令されるでもなく皆、自発
的に戦う準備をして、ひたすら秀秋の命令を
待った。
 合戦という死を覚悟した異常な興奮状態の
中では本来、逃げ出す者や抜け駆けして功名
を得ようとする者がいてもおかしくない。多
人数の中、数人が勝手な行動をしても分から
ないし、とめることはできないだろう。
 朝鮮では、どの部隊よりも真っ先に蔚山城
に攻めて行くような戦い方をしていたが、今
度の戦では整然と秀秋の命令を待っている。
 秀秋が、優柔不断で愚鈍な若殿様なら補佐
をする家臣がいくら有能でも末端の兵卒を命
令に従わせることは難しい。もっとも、有能
な家臣なら秀秋を言いくるめて出陣させるか、
秀秋を無視して行動し出世の機会をつかもう
とするだろう。
 稲葉正成は家康に取り入ろうとしていたし、
家康から送り込まれた浪人の中には家康の家
臣もいたのだ。
 この時代、愚鈍な殿様に仕える必要はない。
まして、命令を聞く気にはならないだろう。
 秀秋と兵卒の身分を越えた強い信頼関係が
なければ今の小早川隊の姿はない。
「待つのも釣りだーね。若様は、大物でも釣
ろうとされとるんじゃろ」
 兵卒のひとりがそうつぶやき、緊張してい
た場を和ませた。
 ただひとり、家康の使者で来ていた奥平貞
治は、秀秋がいつまでたっても動こうとしな
いことに、家康の怒っている姿を想像して、
肝を潰す思いだった。
「秀秋殿。ご出陣を」
 秀秋は関ヶ原の地形図に手を添えて示し、
奥平を睨(にら)みつけた。
「家康殿は、まだ布陣が整ってないのに戦い
を始められた。秀忠殿も来てないではないか。
俺は将兵を無駄死にさせる気はない」
「お恐れながら、西軍には大殿と内応してい
る部隊がおります。秀秋殿のご出陣があれば、
それらも動き、必ず勝利します」
「われらより先にその部隊が動かんのはどう
してだ。皆、秀忠殿の兵を家康殿が温存して
いると思っている。このままうかつに動けば
戦った後、どちらが勝つにしても裏切り者の
汚名をきせられて打ち滅ぼされるかもしれん。
まずは、秀忠殿がなぜ来ないのか、そのこと
をはっきりさせるのが先決であろう」
 秀秋の鋭い洞察に奥平はひるんだ。
「では、秀忠殿の所在を調べて参ります」
 奥平はいたたまれず、城を立ち去った。
 それを見た稲葉が、秀秋の側に寄りささや
いた。
「よろしいのですか。家康殿に疑われますよ」
「なぁに、飢えた獲物はどんな餌にでも食い
つくものだ。家康には天下をくれてやる。だ
がこうして地獄の苦しみを味わえば、助けた
者が小僧でも神仏に見えよう」
 そうは言ったものの、秀秋は地形図を見て
考え込んだ。

2013年6月29日土曜日

異様な戦闘

 大砲は火薬や弾丸を込めるのに手間がかか
り、向きを少し変えるのも一苦労で、白兵戦
には不向きだが、火箭は移動がしやすく、ど
んな向きにでもすぐに変えて発射させること
ができた。そして、三成らがあらかじめ関ヶ
原の地形を調べ、伏見城攻撃で使用した経験
をもとに和算を利用して簡単な弾道計算をし
ていたのだ。そして、それに加え、激しい西
風が幸いして射程距離が伸び、性能以上の戦
果があった。
 松尾山城では、しばらくして、戦況を探っ
ていた兵卒が城内に駆け込んで来た。
「毛利隊、吉川隊は動きません」
 また、別の兵卒が続けて駆け込んで来た。
「西軍から火箭と思われる武器の攻撃あり。
赤座隊、小川隊、朽木隊、脇坂隊に動きはあ
りません」
「あの音は、やはり火箭か」
 秀秋は、西軍に戦闘開始直後から使えるほ
ど、大量の火箭が用意されているのを知り、
それで三成と面会した時、劣勢の兵力でも強
気でいたことに納得した。
 戦場では、東軍も西軍も交戦している兵の
数に大差はなく、一進一退の攻防が続いてい
た。しかし、こんな状況でも所々で布陣した
まま動こうとしない部隊があり、この合戦の
異様さを物語っていた。
 次第に雨がやみ濃霧となった。そこに強い
西風で徐々に霧は流れ、日も射してきた。
 しだいに蒸し暑くなり、血の臭いや死体が
焼けて焦げたような臭いが松尾山にも流れて
くるようになった。
 頬に汗が流れる兵卒の一人が、腕で鼻をふ
さぐしぐさをした。
 東軍の大砲による本格的な攻撃が始まり、
爆音の後には悲鳴やうめき声が聞こえてきた。
しかし、秀秋の部隊は、まだ微動だにしなかっ
た。
 この頃、秀秋のもとに兵卒のひとりが歩み
寄り、三成が城に持ち込んだと思われる軍資
金が発見されたことを耳打ちした。
 戦は一日で終わることはない。
 軍資金や兵糧は最低でも一ヶ月分は用意し
ておかなければ、多くの将兵をつなぎとめて
おくことはできない。
 ましてや、劣勢が確実で、領地が疲弊して
いる諸大名が多く参戦している西軍は、軍資
金だけが唯一の支えだった。
 三成が城に持ち込んだ軍資金は膨大で、見
えているだけでも五千両はあり、半年は戦え
るほどの金銀が曲輪の一画に埋められ、まだ
それ以上、埋まっているようだった。
 秀秋は、三成が危険も顧みず城にやって来
たことを、味方になるよう説得するためだと
は思っていなかった。この時、三成は兵糧と
武器の返還だけを求めていたが、本当はこの
軍資金が見つかることを心配していたのでは
ないかと察した。
(三成は俺の力など、当てにはしていない)
 秀秋は、すぐに稲葉正成を呼び、家康の家
臣、奥平貞治に気づかれないように運び出せ
ないかを相談した。
 稲葉は少し考えて言った。
「まず、軍資金がどれだけの量になるのか私
が確認します。その上で、場合によっては一
旦、埋め戻して頃合をみて運び出すほうが得
策ではないでしょうか」
「よし、そうしてくれ。俺は奥平の気をひき
つけておく。この戦は好都合かもしれんな」
 稲葉は、一礼するとすぐに軍資金が埋まっ
ている曲輪に向かい、一部の小隊を選んで、
軍資金を密かに運び出す準備を指示した。
 合戦が始まって二時間がたった頃には、大
砲の爆音は消え、火箭も散発的に飛ぶだけに
なった。
 それでも石田三成は、この停滞した流れを
変えられるのではないかと感じていた。その
理由は、松尾山の秀秋と南宮山の毛利秀元ら
が、いまだに東軍として動きを見せていなかっ
たからだ。これらを寝返らせることができる
かもしれないと思い、使者を走らせて出陣要
請をした。しかし、いっこうに動く気配はな
かった。そこでやむなく、三成、小西行長、
宇喜多秀家、大谷吉継の部隊が動き、一気に
決着をつけようとしていた。
 西軍には、家康に内通して東軍に寝返る手
はずの赤座直保、小川祐忠、脇坂安治などの
部隊もあったが、いっこうに動こうとしない。
いや、動けなかったのだ。
 東軍は、家康に振り回されるように慌てて
布陣し、合戦が始まる時も、秀忠の到着を待
たず、井伊直政らの抜け駆けで始まった。こ
のことで、内通する諸大名には、家康が何を
考えているのか分からず、二つの疑念がわい
た。
 その一つは、東軍の布陣が整っていないの
になぜ戦いを始めたのか、これは自分たちと
西軍を戦わせて共倒れをさせようとしている
のではないかという疑念。もう一つは、なぜ
秀忠がいないのかという疑念。ひょっとして、
秀忠の兵を温存しているのではないか。そし
て自分達が戦った後、秀忠の三万人を超える
兵が現れ、裏切り者の汚名をきせられて攻撃
されるのではないかと考えをめぐらしていた
のだ。
 悪巧みに長けた家康なら、合戦が終わった
後のことも計略を練っているだろう。
 この合戦に勝利すれば政治は安定する。そ
うなれば、秀吉も考えていたように力だけの
武士は必要なくなる。それに、すぐに寝返る
ような者は信用できない。戦った後の疲れきっ
た将兵なら秀忠の部隊だけでも容易く片付け
ることができると考えるのが自然だろう。 
 寝返る者にはそれだけの危険が伴う。そこ
に一瞬の迷いが生じ、戦う機会を失っていた
のだ。しかし、秀秋は別のことを考えていた。
(秀忠の部隊が到着すれば、俺の出る幕はな
く、勝敗は決するだろう。この城を奪ったと
はいえ、何もしない俺の処罰は免れない。だ
が、秀忠は未だに現れない。これは家康の罠
か、それとも……。俺の命運はまだ尽きてい
ないのか)
 また違う考えも頭をよぎった。
(今、東軍に攻め入れば西軍が勝てるかもし
れない。しかし、今の豊臣家では、いずれま
た戦国の世に逆戻りしてしまう。家康は、信
長や秀吉のそばで天下の治め方を見てきた。
良くも悪くも後継者として認めざるをえない)
 それに秀秋は、家康に借りがあることを忘
れてはいなかった。
 朝鮮出兵では、手柄をあげたにもかかわら
ず、島津家の進言で秀吉に国替えさせられた。
それを家康の計らいで赦され、所領が元に戻っ
たことだ。
 家康の所に礼を言いに出向いた時、小僧扱
いし、笑い者にされたことも忘れてはいなかっ
た。
 秀秋は思い出して、こぶしを握り締めた。
(あの時の借りを必ず返し、秀忠との出来の
違いを見せつけ、俺の力を思い知らせてやる。
天命があれば島津に一泡吹かせることもでき
よう)
 秀秋は、秀忠の所在が分かるまで待つこと
に決めた。

2013年6月28日金曜日

合戦開始

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日

 関ヶ原の朝は、豪雨が続いたため薄暗く、
台風並みの激しい西風が吹いていた。
(この空模様では大砲は役に立つまい。三成
が言った「天候もわれらに有利」とはこのこ
とか)
 空を見ていた秀秋は、松尾山城の座敷に向
かい、関ヶ原の地形図を前に座った。そこへ
戦場を偵察していた兵卒が次々に戻り、地形
図に駒を置き、諸大名の布陣した様子が徐々
に明らかになっていった。
 秀秋の側には、稲葉正成、杉原重治、松野
重元、岩見重太郎、平岡頼勝が控えていた。
それぞれの表情は硬く、稲葉は地形図から目
を離さない。
 平岡は少しうなだれ、杉原は逆に天井を見
ているような姿勢をしている。
 松野は目をつむって瞑想していた。
 皆、秀秋にすべてを託し、朝鮮や伏見城攻
めで戦った日々を思い出していた。
 そこへ家康の家臣、奥平貞治が息を切らし
て入って来た。
「ハハハ。秀秋殿、まもなく、まもなく合戦
が始まります。出陣のご準備を……」
 秀秋は地形図を眺めたまま、奥平に聞いた。
「出陣。はて、我らがここに入城したことで
勝負はついたはず。後は家康殿が西軍を説得
して降伏させればそれで終わるではないか。
今、我らが出陣してこの城を奪われたらなん
とする。それに秀忠殿はどうした」
 家康の子、秀忠は、信濃・上田城の真田昌
幸と戦っていた。
 秀忠には大砲があったが雨が降って、その
能力を発揮できず、てこずっているうちに関ヶ
原で決戦との知らせがあり撤退した。
 すぐに関ヶ原に向かってはいたが、ぬかる
んだ道や増水した川に行く手を阻まれ、大砲
の移動にも手間取り到着が遅れていた。
 奥平はうつむいて答えた。
「まだ到着しておりませぬ」
 その時、突然、山のふもとからときの声が
上がり、そのうち怒号に変わった。
 先に動いたのは東軍だった。
 家康が、合戦を話し合いで終結させようと
する雲行きに、あせったのは家康の家臣だっ
た。
 このまま終わってしまえば徳川家にはなん
の戦功もなく、豊臣恩顧の諸大名の発言権が
残ってしまう。それも、秀吉と血縁関係のあ
る十九歳の秀秋一人に手柄をあげられたでは
面目丸つぶれだ。そして、この優勢な状況が
楽勝できるという驕りを生んだ。
 ここで西軍を一気に粉砕して徳川家の世に
しようと、先鋒を任された福島正則をさしお
いて、松平忠吉と井伊直政が抜け駆けしたの
だ。
 それを迎え撃つ宇喜多隊が、応戦をしたこ
とで、戦いが開始された。
 刃を交える音や銃声、爆音がけたたましく
鳴り響く。
 奥平は、見えない外のほうに向き、焦って
つい声にした。
「始まった」
 松尾山のふもとを警戒していた兵卒が、城
内に響き渡るように叫んだ。
「徳川勢が攻め手。先鋒は井伊直政殿」
 秀秋はため息をついた。
(東軍が……。話し合って降伏させればよい
ものを。まだ自分の息子も来んのに……。し
かし、この爆音。雨でも新型の大砲は使える
のか。まさかもう火箭を使っているのか)
 この時もまだ、天候は東軍に不利な激しい
西風と雨が降っていて、そのうえ霧がたちこ
めようとしていた。
 戦場では、家康が大砲の性能を過大評価し、
その有効な使い方も分からないまま撃たせよ
うとしていたが、強い風雨で思うように撃て
ない。
 このことが大砲を最強の武器ではなく、お
荷物にしてしまった。そうしむけたのは、三
成と吉継の謀略で、これを見越して西軍は野
戦をすることを選び、大砲の射程距離の外に
陣取って動かなかったのだ。
 東軍の軍事顧問になったアダムスは、航海
士だったので大砲の使い方までは分からず、
アダムスと同じくリーフデ号に乗っていた砲
術師、ヤン・ヨーステン(本名、ファン・ロー
デンスタイン)は、秀忠に同行していた。
 日本人で大砲を使えそうな加藤清正などは、
関ヶ原から遠ざけられていた。
 東軍の部隊は、自分たちが圧倒的な優勢だ
と思い込み、弾幕と強い風雨の中で、戦功争
いをして突き進んだ。
 これに対して西軍は、島津義弘の運び込ん
だ火箭が、雨の中でも飛ばすことが出来、し
ばらく飛ぶと、爆発炎上して、東軍の将兵を
広範囲になぎ倒していった。
 東軍の将兵が、大砲の爆音だと思っていた
のは、この火箭が爆発する音だった。

2013年6月27日木曜日

落胆

 秀秋は切なさと歯がゆさが込み上げてきた。
そして、今までとは違い、弟のように話した。
「三成殿。もはやこの戦、私がこの城を奪っ
たことで勝敗は決しています。毛利家は以前
から家康に内通し、秀頼様を確保しているこ
とは三成殿も感ずいておられるはずです。家
康はいつ死んでもおかしくない年寄りではあ
りませんか。それに比べれば、三成殿はまだ
お若い。仮に家康が天下を取ったとしても跡
継ぎにはたいした者もおりません。ここは一
旦、秀頼様と共に身を引いて、しばらく我慢
して時期を待てば、いずれ必ず豊臣家に天下
は帰するでしょう。私がこの城を奪ったのは
豊臣家を守るためです。家康は私が説得しま
す。三成殿、どうか和睦を受け入れてくださ
い」
 三成は青ざめた。
「そのようなことは毛頭考えの及ばぬこと。
秀秋殿はご存知あるまいが、家康は異国の者
と手を組み、手に入れた大砲を使って、戦を
異国の者らに見せようと企んでいます。家康
は和睦など毛頭、考えてはおりません。その
ような家康が、もし天下を取れば、いずれ異
国が攻めてきます。それを家康の跡継ぎが防
ぎきれるでしょうか。もはや一刻の猶予もな
いのです。私はこの一戦に全てを賭けます。
せめて、この城に残した兵糧と武器をお渡し
ください」
「異国のことは、私も心配しています。我ら
よりも強力な武器を作り、彼の地を次々と我
が所領としていると聞いております。そんな
武器や三成殿が揃えた明の武器を使ってこの
まま戦えば、いまだかつてない死者がでましょ
う。それで喜ぶのは、異国の者ではありませ
んか。秀頼様に天下を束ねる力がなく、三成
殿にもその意志がないのなら、今は異国の者
を味方にしてでも天下を取ろうとしている家
康殿を頼るしかないではないですか。ここに
あった兵糧や武器を三成殿にお渡しすれば家
康殿に疑われます。また、多くの死者をだす
ことになります。残念ですがこのままお引取
りください」
 三成は言葉なく落胆し、一礼して立ち去っ
た。
 秀秋は、三成の帰っていく後姿を寂しげに
見送った。
(三成の言うことも分かる。しかし、豊臣家
でも異国から攻められれば防ぐことはできま
い。この戦がそれを示しているではないか。
今は家康に賭けるしかないんだ)
 三成は陣に戻ると迷いを断ち切った。今と
なっては、この大戦で自分たちの生き様を秀
秋に伝えるしかないと考えた。

2013年6月26日水曜日

三成と吉継の思い

 松尾山のふもとに布陣していた西軍の大谷
吉継は、側にいた湯浅五郎から、「秀秋が松
尾山城に入城した」と聞き、複雑な思いだっ
た。
 吉継は、秀吉の小姓となっていた頃、秀秋
が養子としてやって来た時のことを鮮明に覚
えている。
 秀秋が成長すると、まるで年の離れた兄弟
のように、読み書きや剣術などを教え、鷹狩
りにも連れ出して遊んだりした。
 今はどれほど成長したのか観ることはでき
なかった。
 吉継は、秀秋の病が偽りだったということ
で、東軍に味方するのだと確信し、こうして
秀秋と戦うことになったのも運命と心を切り
かえた。そして、部隊の一部を松尾山に向け
て警戒させた。
 三成と秀秋の関係も吉継と同じようなもの
で兄弟同然だった。
 三成は、病で来られないはずの秀秋が、松
尾山城に入城したとの知らせに安堵した。
(ようやく西軍に加わる気になったか)と思っ
たからだ。しかし、三成に不安がなかったわ
けではない。
 次のない大戦を前に、毛利一族が東軍に味
方するような布陣をしたことで計画が大きく
狂っていた。
(もし秀秋が東軍に寝返ったとしたら)と、
一瞬脳裏によぎった。
(秀秋は伏見城攻めでも存分に戦ってくれた
ではないか。この期に及んで家康に味方する
ことなど絶対にない。家康にしても豊臣の縁
者に助けられたとあっては秀頼様を討つこと
はできまい。……そうか、秀秋はどちらが勝
つにしても秀頼様をお守りできると考えてい
るのではないだろうか)
 そして三成は、とんでもない行動に出た。

 その日の夜

 夕闇の中、松尾山城に突然、三成が供もつ
れず現れた。
 三成は、警戒していた兵卒に止められ、城
外で待たされた。
 しばらくして城内に入ることを許されて、
座敷に通されると、そこに秀秋が座って待っ
ていた。
 三成は、秀秋が使い込んだ鎧を身に着け、
大人びた精悍な面構えになっていることに威
圧され、ひきつった笑い顔で声をかけた。
「秀秋殿、お加減が悪いと聞いておったが、
よう参られました」
 三成は、秀秋がすでに城内いた伊藤を追い
出したことに怒りもせず、ふれようともしな
い。
 秀秋は、意識的に三成と目を合わせるのを
避け、ゆっくりと遠まわしに話した。
「ここは眺めがいい。どちらの布陣も一望で
きる」
 辺りは暗闇で何も見えてはいない。
 三成は、秀秋が何を言いたいのか真意を計
りかねていた。
 少し沈黙があり、やっと秀秋のほうから切
り出した。
「秀頼様はどこに」
 三成は戸惑いながら答えた。
「秀頼様は幼きゆえ、ここには……」
「秀頼様が御出ましになれば、家康殿もうか
つに手が出せず、戦うこともなく、天下は三
成殿の思うままだったろうに」
「私にそのような欲望はありません。世を乱
す家康を成敗し、秀頼様をお守りするのが亡
き太閤様へのご奉公と考えております」
「では総大将はどうした」
「こたびの総大将は宇喜田秀家殿が務めます。
秀家殿は太閤様のご養子。秀頼様の名代とし
てふさわしいお方です。輝元殿のことなら大
坂城で秀頼様をお守りする役目をお引き受け
くださいました。もしや、秀秋殿は総大将に
なりたかったのでございましたか」
 秀秋は苦笑した。
「この戦は、俺の戦ではない。秀頼様が御出
ましにならないのでは、この戦の大儀が分か
らず、将兵の士気も上がらん。輝元殿も腰が
引けておるのに、誰のために戦えと申すのか」
「大儀は誰の目にも明白。豊臣家をないがし
ろにし、秩序を乱す家康の討伐です。私利私
欲の合戦ではなく天下万民のために戦ってい
ただきたい」
「それで勝算は」
「われらは少数ながら、結束は強く、家康が
手に入れた大砲よりも強力な武器の火箭があ
ります。秀秋殿も伏見城攻めでその威力はご
覧になられたはず。この城にもその火箭を用
意しました。明日になれば、天候もわれらに
有利となりましょう。天の時、地の利、人の
和はわれらにあり。結果は明らか」
「ほう。では心配ないはず。ここへは何故、
参られた」
「先般、書状にてお約束したように、この合
戦が終れば、秀秋殿には関白になっていただ
き、秀頼様の補佐をお願いいたします。その
ご確認を再度しておこうと思いまして……」
「それはおかしい。関白には総大将の秀家殿
がなられるのが筋ではないか」
「……」
 秀秋が三成の顔を見ると悲壮感が漂ってい
た。
(なぜこの男が柄にもない大仕事をしようと
しているのか)

2013年6月25日火曜日

無血入城

 松尾山城には、すでに西軍の伊藤盛正が布
陣して待機していた。
 そこへ突然、秀秋の部隊兵一万五千人がな
だれ込み、慌てる伊藤を無視して布陣の準備
を始めた。
 この時、伊藤はまだ秀秋が西軍だと錯覚し
ていた。
 稲葉正成が、あ然としている伊藤に近づい
た。
「われら兵多勢により、適当な布陣場所はこ
こしかない。伊藤殿にはお引取り願います」
 伊藤は怒りと屈辱に身体が震えた。
「こ、これは宇喜多殿、石田殿は承知のこと
か」
 稲葉は無視するように、布陣の様子を見ま
わった。
 伊藤が混乱している間にも、すでに準備は
整いつつあり、大部隊になすすべもなく引き
下がるしかなかった。
 このあっけない無血入城により、秀秋は、
西軍の鶴翼の陣の一角を崩して東軍として一
番手柄を立てた。また、南宮山の毛利秀元ら
の部隊をけん制することで西軍に寝返ること
を難しくし、東軍を攻撃できない状態とした。
 この結果、東軍を「秀吉から東の統治を任
された徳川家と西の統治を任された毛利家の
連合軍」とすることができ、一方の西軍を「秀
家、三成にそそのかされて集まった反乱軍」
にしたてることで、これを討伐するという大
義名分を与える効果もあった。
 秀秋の将兵は、これで戦わずに生きて家族
のもとに帰れると、狂喜し歓声を上げた。そ
して、あとは東軍の勝利を待つだけとなった。

 秀秋が、松尾山城内を見まわると兵糧や大
砲、火箭なども準備され、西軍は、いざとなっ
たら籠城する構えだったことをうかがわせて
いた。
(さすが三成、手抜かりがない。しかし、こ
れを少数の兵に守らせていたとは……。味方
する者が少なすぎる)
 戦は兵の数で勝敗が決まるわけではないが、
豊臣恩顧の諸大名が家康に味方していること
からも、西軍の結束力のなさは明らかで致命
的な欠陥だった。
 ところが、これだけの兵糧や武器を準備し
ているのに、金銀が見当たらないことを秀秋
は不審に思った。
 西軍に集まった諸大名をつなぎとめる唯一
のものが軍資金だからだ。そうでなければ、
領地が疲弊している西軍の諸大名は合戦に参
加できない。
 秀秋のもとにも三成から、「軍資金の心配
はする必要はない」と、それとなく伝えられ
ていた。この言葉が嘘でなければ、三成のこ
とだから、城に複数ある曲輪のどこかに軍資
金も隠しているのではないかと考え、秀秋は
東軍の勝利を待っている間、家臣に探すよう
に命じた。

 桃配山に布陣した家康は、秀秋の鮮やかな
手並みに感嘆し、戦わずして勝利を得たこと
に安堵して言った。
「おお、これは。我らはまるで尾をなびかせ、
翼を広げた鳳凰のような陣形になったではな
いか。これで勝負あった。秀秋殿の一番手柄
じゃ。さすが藤原惺窩の愛弟子、兵法の真髄
をみた思いじゃわい。わしの家臣にもあのよ
うな者がおればのう」
 この言葉をイエズス会宣教師の通訳が、側
で日本の合戦の様子を不安そうに見守ってい
たアダムスや異国人らに説明すると、驚嘆の
声をあげた。

2013年6月24日月曜日

主戦場

 天候は霧雨から豪雨に変わり、西風が吹き
始めていた。
 やがて各部隊は関ヶ原へと集結した。
 東軍は、桃配山に本陣を置いた徳川家康を
中心として、その前後を中山道沿いに各部隊
がまるで伸びきった龍のように布陣していた。
あとは秀忠が到着して、家康の本陣の側に布
陣すれば魚鱗の陣となる。
 西軍は、東軍と対峙する山沿いに総大将の
宇喜多秀家を中心とした諸大名が、東軍の大
砲の射程距離に入らないように、横並びの鶴
翼の陣で布陣した。
 ところが、毛利輝元の名代として松尾山城
に入城するはずの輝元の養子、秀元と吉川広
家の部隊が東軍側にある南宮山に布陣した。
 これは広家が家康と内通し、何も知らない
秀元に「南宮山は、家康を側面から攻撃でき
る場所」と説明して、誘導したことによるも
のだった。
 家康は、輝元が大阪城から動かず、秀元と
広家が南宮山に布陣して攻撃してくるそぶり
をみせないことで、毛利一族が味方についた
と確信した。しかしこれでは、戦況によって
は寝返るかもしれないという諸刃の刃であり、
家康は警戒を怠ったわけではなく、まだ来て
いない小早川秀秋がどう動くのかを見定める
必要があった。
 三成は、毛利一族がどちらに味方するのか
分からなくなっていた。
 南宮山の秀元には、輝元の相談役、安国寺
恵瓊がついている。そのため、好機とみれば
家康を背後から攻撃してくれるものと三成は
期待した。しかし東軍は、毛利の部隊を敵と
みていれば陣形を変えるか、すでに攻撃して
いてもおかしくない。いまだにそうした動き
はいっこうにない。また、秀秋は病と言って
来る気配もない。これらの状況は、明らかに
西軍から距離をおいている。
 三成は、毛利一族が敵になったとはどうし
ても思いたくなかった。
 秀秋は、毛利秀元と吉川広家の部隊が東軍
側にある南宮山に布陣したが、西軍は松尾山
城の守りを手薄にしているという知らせを聞
きいた。このことから西軍はまだ、毛利一族
を敵だとは思っていないと確信した。
 松尾山城には大部隊が収容できる。それは
秀秋の部隊しかないからだ。
(三成は俺が行くのを待っている)
 そう思うと秀秋は三成が哀れでならなかっ
た。
 ここで、秀秋の部隊が伏見城攻めに参加し、
毛利輝元が大坂城に留まっていることが活き
てくる。これではどうしても西軍は、秀秋が
味方と判断せざるおえない。それを利用すれ
ば松尾山城を争わず奪い取れると考えた。
 秀秋の脳裏に、かつて小田原討伐で豊臣秀
吉が小田原城を包囲して言った「この城は攻
めても無駄じゃ。よいか金吾、奪ってはなら
ない土地もある。戦って勝つことよりも、戦
わずに相手を味方にすることのほうが最善の
策じゃぞ」という言葉がよみがえった。
(松尾山城に入ることができれば、この戦、
皆を無駄死にさせずにすむかもしれない)

2013年6月23日日曜日

決戦の地

 家康は、あれだけ出兵要請を拒否していた
秀秋が、今度はすんなりと受け入れたことに
疑心暗鬼になっていた。
 この前は三成の要請ですぐに伏見城攻めに
加わり、今度は自分の要請をじらしたとはい
え簡単に引き受ける。
(あの小僧。いったい何を考えとるのじゃ)
 悪知恵を使う者は、他人も悪知恵を使うと
思い込んでしまう。それが家康を慎重にさせ、
今日まで天下を取れなくし、その反面、生き
延びさせもしていた。
 一方、三成は、秀秋が家康の出兵要請を受
けたことを知らなかった。その三成も秀秋を
諦めきれないでいた。
 三成は、毛利輝元を西軍の総大将にしたこ
とで毛利家、吉川家、小早川家の毛利一族を
取り込んだと思っていた。ところが輝元は、
幼い豊臣秀頼を守るという名目で大坂城から
動こうとしない。やむをえず合戦の総大将と
して、五大老の一人で秀吉の養子でもある宇
喜多秀家をあてた。そうした中、秀秋が病気
という理由で戦に加われないとなれば、戦力
は半減し、他の諸大名にも動揺が広がること
を恐れていた。
 なんとしても秀秋を味方につけたい三成は、
秀秋の病気療養が本当なのか、疑いを持ち始
めていた。
 家康と三成は、秀秋の真意をつかめないま
ま決戦の地へ向かうことになった。

 慶長五年(一六〇〇)九月十四日

 曇り空からやがて雨が降り始めた。
 この日が来るまで、各地で小規模な戦いが
あり、家康が率いる東軍と宇喜多秀家を総大
将に、豊臣恩顧の諸大名が集まった西軍によ
る戦術の探りあいが続いた。
 各部隊は再三移動させられ、なかなか対峙
する場所が定まらなかった。
 圧倒的に優勢な状況にあった家康でさえ、
諸大名の誰がどちらに味方するのか計りかね
ていた。
 表向きでは味方すると言っても、本心は実
際に戦闘が始まってみないと誰にも分からな
い。それを証拠づけるように大谷吉継が西軍
に寝返ったことが分かり、家康をさらに疑い
深くした。こうしたことが影響して、加藤清
正、伊達政宗、前田利長、黒田孝高といった
武勇に優れた有能な諸大名を主戦場から遠ざ
けてしまった。
 それでも家康と三男、秀忠の部隊をあわせ
ただけで兵六万八千人にのぼり、一方の西軍
は、総大将、宇喜多秀家に味方する諸大名の
兵数を全て足しても兵六万六千人にしかなら
ず、徳川家だけで十分戦えた。その上、家康
には大砲という最強の武器とイギリス人のア
ダムスを軍事顧問に迎えたことで、他の異国
人が味方に加わり、多国籍軍の様相をていし
ていた。
 アダムスは、これから始まる日本の戦をつ
ぶさに見て、その弱点を本国、イギリスに逐
一報告するつもりでいた。
 そうとも知らない家康は、異国人らに日本
の華々しい戦を見せつけようと考え、それに
ふさわしい戦場として関ヶ原を選び、大砲を
移動させていた。
 どうしても大砲の移動は大掛かりになる。
そのため、三成は常に大砲がどこにあるかを
調べさせ、家康の部隊の動きを把握していた。
 大谷吉継によると漂着した船、リーフデ号
から家康が手に入れた大砲は十九門。そのう
ち三門は家康の三男、秀忠が信濃・上田城主、
真田昌幸との戦いのため運んでいた。そして
残りの十六門はすでに関ヶ原に運ばれ、桃配
山のふもとの伊勢街道のあたりに並べられ、
木々で隠されていた。その隠している様子が
三成に報告された。
 報告を聞いた三成は、すぐに地形を調べ、
松尾山にあった古城を西軍の伊藤盛正らに改
修させた。
 この松尾山城は、浅井長政が築城した後、
織田信長の近江侵攻で開城した。そして、近
江平定後に廃城となっていた。
 三成は当初、松尾山城に毛利輝元を入城さ
せるつもりだった。ところが輝元は、幼い豊
臣秀頼を守るという名目で大坂城から動こう
としない。
 三成にとってこれが大きな誤算となったが、
輝元の名代として、輝元の養子、秀元と吉川
広家の部隊がやって来るという知らせがあり、
城の守りに問題はないと考えていた。
 東軍は松尾山城を落城させなければ大坂へ
は向かえない。
 松尾山城はそうした大きな役割をになって
いたのだ。

2013年6月22日土曜日

戦闘準備

 家康は、なかなか言うことを聞かない秀秋
に業を煮やしたが、再度使者を送り、「東軍
が勝った時には備前と美作を封ずる」と伝え
て、餌で誘いにのるかを探った。
 備前と美作は五十一万石で、秀秋の所領で
ある筑前、筑後、肥後の三十万石に比べれば
大幅な加増となる。しかし、今は西軍の総大
将、宇喜多秀家の領地だ。
 家康としては「この領地を戦で勝ち取れ、
そして、豊臣家の養子で五大老のひとり、秀
家を超えろ」ということだろう。
 秀秋は、「たいした魅力のない餌を送って
きたものだ」と思ったが、それでも自分が敵
にしたくない存在となっていることは分かっ
たので、しばらくのらりくらりと受け流し、
ようやく使者に家康の出兵要請を受け入れる
と伝えた。
 すぐに秀秋は、稲葉に戦の準備をするよう
に命じた。
 次の日から秀秋の部隊は、巻狩りを装って
の軍事演習を行うようになった。
 日の照りつける中、陣形を確認して、騎馬
隊と足軽が一体となって行動するように何度
も山野を走らせた。
 夜は草むらに這い、索敵の訓練を繰り返し
た。
 軍事演習の合間には、巻狩りで獲ってきた
イノシシやウサギなどで栄養をつけ、交替で
休息した。
 秀秋の部隊は、小早川家、元豊臣家、そし
て家康に送り込まれた浪人たちの混成部隊だっ
たので、まとめるのは難しかった。
 皆、年齢も体力も考え方も全て違う。だか
ら秀秋は、思想を一つに統一しようとは考え
なかった。
 対立が起きるのは、それぞれの違いを認め
ず、自分の思想や知識を押し付けようとする
からだ。
 この時代は、世界が平だと思われていたも
のが丸いと気づき始めていた。しかし、世界
は人が誕生する前から丸い。人の思想や知識
で変わったわけではない。そんないい加減な
人の思想や知識など、統一するのは調和を乱
し、発展を遅らせてしまうだけだ。
 宗教にしても、宗派によっては考え方が違
う。もし統一できるのなら世界は一つの宗教
でいいはずだ。秀秋の師、藤原惺窩も仏教に
疑問を感じて儒学にその答えを見つけようと
していた。
 儒学では、人の思想や知識の及ばない自然
を手本としていた。
 自然が多様なものを生み出すように、家臣
の一人一人に特徴がある。
 秀秋は、その特徴を活かせる役割に家臣を
就かせただけで、他は干渉しなかった。どう
いう思想をもっているのか、好きか嫌いかは
関係ない。
 孫子の兵法でも軍隊の理想は「水に形どる」
とある。
 例えば巻狩りでは、走って獲物を追い回す
者、待ち伏せする者、獲った獲物を料理する
者、中には食べるだけの者もいたが、その者
は巻狩りという仕事には役割がなかっただけ
で、別の仕事で役割を見つければいい。それ
なのに、これを皆、同じ役割にしたり、役割
を無理やりおしつけたりするとどうなるか。
不満が高まり作業効率も低下して目的は達成
できない。このことに気づけば対立もなくせ
る。
 こうして秀秋は、惺窩から学んだ学問を実
践で使えるか試そうとしていた。するとそこ
には、小早川家、元豊臣家、家康に送り込ま
れた浪人といった区別はなくなり、秀秋と共
に戦う「無形の部隊」が誕生した。

2013年6月21日金曜日

揺らぐ計画

 島津義弘が火箭を大量に製造でき、すでに
保有もしていることが分かると、宇喜多秀家
らが、大坂城に籠城するのではなく野戦をす
るべきだと主張した。
 秀家は、豊臣秀吉の養子で五大老のひとり
だったことで、毛利輝元と一緒に大坂城にい
る秀頼の名代として兵一万八千人を率いる総
大将となっていた。
 そのため、三成もしかたなく従わざるおえ
なかった。しかし、輝元は大坂城に留まって
秀頼を守り、その代わりに輝元の養子、秀元
と補佐役の安国寺恵瓊、吉川広家を野戦に参
加させると言いだし足並みを乱した。
 その頃、家康が伏見城落城の様子を聞いて
がく然としていた。それは、島津義弘と小早
川秀秋の裏切りだった。
(なぜだ。圧倒的に優勢なわしを義弘はなぜ
裏切ったのだ。それにあの小僧。領地を戻し
てやった恩も忘れ、わしに歯向かうとは。愚
か者が)
 家康は疑心暗鬼におちいり、秀吉に仕えて
いた諸大名を信じられなくなっていった。
 伏見城が落城した後、秀秋はすぐに、家康
に味方する黒田長政を通じて家康に伏見城攻
めのことを謝罪し、「石田三成に恩義があり、
その恩返しをして、憂いなく味方に加わりた
い」と言い訳して、病気療養を理由に謹慎し
た。
 秀秋はこの伏見城攻めで、自分がただの小
僧ではなく戦いでの影響力があることを印象
づけた。
 秀秋の脳裏にいつかの「秀秋殿に助けても
らうようでは、わしも隠居せねばならんのぅ」
という言葉が蘇った。
 あえて家康に謝罪することで、その影響力
をさらに高めることができると考えていた。
しかし、それは戦での影響力ではなく、戦が
終わった後の政治的な影響力だった。
 秀秋は、毛利家、吉川家とその一角をなす
小早川家の養子だ。
 養父の隆景という後ろ盾はなくなったが、
その一角が崩れれば毛利一族の存在価値は薄
くなり、この三家が力を合わせれば、家康も
無視できない強大な影響力を誇示することが
できる。この影響力を戦が終わった後に、誰
が天下を取ろうが、最大限利用するためにそ
の力を示す必要があったのだ。
 病気療養と偽り謹慎中の秀秋は、釣りや鷹
狩りなどをして過ごした。
 秀秋が家臣たちと一緒に釣りをして楽しん
でいると、そこに別の家臣が書状を持ってやっ
て来た。
 その書状は三成からのもので、「もうじき
始まる戦に加わり、大垣城に入るように」と
の要請だった。その後も三成から再三、出兵
要請があったが秀秋は応じなかった。
 秀秋は家康の反応をうかがっていたが、家
康からは秀秋に何の接触もなかった。しかし、
秀秋が三成の要請を固く断っていると報告を
受けた家康は、秀秋に使者を送り、出兵要請
を持ち掛け、探りを入れてくるようになった。
このことで家康が、秀秋の兵一万人を超える
部隊を無視できなくなっていることが分かっ
た。しかし、秀秋はすぐには応じなかった。
 秀秋は、こうして家康をじらすことで、ど
れだけ自分を評価しているかを知ろうとした
のだ。

2013年6月20日木曜日

伏見城籠城

 家康が上杉討伐へ向かった後の伏見城では、
その留守を老臣、鳥居元忠が守っていた。そ
して、秀秋の兄、木下勝俊もそこにはいた。
 鳥居はこの籠城で死ぬことを覚悟していた。
そうした場所に、おおよそ戦にはむかない弱
将の勝俊がいることに頭を悩ませていた。
 この籠城戦で、もし勝俊が死ぬことにでも
なれば、弟の秀秋を味方にできない。かといっ
て勝俊も武人の端くれだから邪険に追い出す
わけにもいかない。
 鳥居は困り顔で勝俊に声をかけた。
「勝俊殿、お勤めご苦労様にございます。し
かし、もうじきここに大軍が押し寄せてまい
ります。多勢に無勢。ここはひとつ退去願え
ませぬか」
「それは存じておりますが、私は家康殿にこ
こに留まるように命じられております」
「さすがに勝俊殿は武士の誉れ。そのお言葉
を大殿が聞けば涙を流して喜びましょう。だ
からこそ申しておるのです。この城での戦い
では無駄死です。もし勝俊殿を死なせたとあっ
てはこの元忠、死んでお詫びしても大殿には
許してはいただけません」
「それでは元忠殿も無駄死になるではありま
せんか」
「私のことは心配ご無用です。私がこの城で
奮戦すれば皆の士気が上がりましょう。しか
し、勝俊殿にもしものことがあれば、秀秋殿
が大殿の味方になることも難しくなるではあ
りませんか」
「なるほど、それもそうですな。おっしゃる
とおりにいたしましょう」
「かたじけない。この元忠、勝俊殿のぶんも
存分に戦います」
「元忠殿、死んではなりませんぞ。頃合いを
みて退却するのも勇気がいるもの。家康殿も
元忠殿を失えば大きな痛手となり、なにより
も嘆き悲しまれましょう」
「勝俊殿。そのお言葉だけで勇気百倍。元忠、
一世一代の大戦をご覧に入れます。命があれ
ば、またお会いしたい」
「もちろん。その時を楽しみにしていますよ」
 鳥居が涙を流して一礼すると、勝俊も別れ
を惜しむように一礼して城を去った。
 それから間もなく、毛利輝元が伏見城にい
る鳥居らに、城の明け渡しを命じた。しかし、
鳥居らはこれを拒否して籠城戦をする構えを
みせた。
 そこで、伏見城の攻略軍が組織され、総大
将は宇喜多秀家、副将に秀秋が決まり、毛利
秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗
我部盛親、長束正家、鍋島勝茂など兵四万人
で向かった。
 三成ら他の諸大名は、家康の動きを警戒す
るため、美濃、尾張などへ向かった。
 伏見城に籠城している兵は千八百人ほどだっ
たが、説得に応じる気配はなく、城攻めにも
てこずらせた。
 この時、義弘が持ち込んだ火箭を試しに使っ
てみることになった。
 この火箭は、朝鮮から持ち帰った火箭と、
それを作っていた朝鮮人を日本に連れて帰り、
指導を受けて日本の火薬師に作らせたものだっ
た。
 その見た目は、竹竿の先に火薬の入った太
い筒があり、先端を円錐の形にしていた。全
長は人の背丈ほどで運びやすかった。
 筒から出ている導火線に火を点けると筒の
下から火炎を噴射して長距離を飛び、やがて
爆発する。
 いつ爆発するかは分からず、飛んでいる時
か地面に落ちてしばらくたって爆発するかも
しれないというものだった。
 朝鮮出兵の経験がある将兵は、その威力を
知っているが、日本の火薬師が作ったという
ことで、その出来栄えを疑っていた。
 籠城している徳川方の将兵は朝鮮出兵に参
加しておらず、初めて火箭を見て、その不恰
好な物に苦笑した。
 島津の兵卒が火箭を城へ向けて火を点ける
と、火炎を噴射して、まさしく太い矢のよう
に飛んでいった。そして、城壁の近くまで飛
んで爆発、大炎上した。
 その威力は誰もが想像した以上にすさまじ
く、三発で天守閣は大破し、その上部は炎に
包まれた。
 これをきっかけに、秀秋らの部隊が城にな
だれ込み、籠城していた鳥居らは力尽き、自
刃して果てた。
 この火箭の威力を、大谷吉継は知っていた
ので、先に漂着したオランダ船、リーフデ号
に積んでいた火箭を事前に全て分解して火薬
を取り出させ、石田三成に「牙はもいだ」と
告げたのだ。

2013年6月19日水曜日

秀秋の家臣

 これより前のことだ。

 筑前・名島城の秀秋のもとに輝元の使者が
やって来た。それは家康討伐に加わるように
との知らせだった。
 秀秋は主だった家臣を集め、意見を求めた。
 稲葉正成はまだ二十九歳だったが筆頭家老
になっていた。
 稲葉からは意外な答えが返ってきた。
「こたびの首謀者は三成殿と聞いております。
三成殿は政務一辺倒で諸大名をまとめる力は
なく、秀頼様を補佐する器量があるとは思え
ません。家康殿こそ真の後見人となるお方で
す」
 稲葉は、豊臣家から小早川家に移ったこと
で出世の道が絶たれた。そこで次期政権の最
有力者、家康に出世の望みを託そうとしてい
たのだ。
 杉原重治は四十五歳。
 今は高台院と称しているねねの叔父、杉原
家次の養子になり、長く秀吉に仕えていた。
 杉原は稲葉と違い、忠義を選んだ。
「三成殿を首謀者とするのはいかがなものか。
家康殿は豊臣家と直接争うことを避けるため
に、そのように触れ回っているのではあるま
いか。まだ幼き秀頼様を補佐する役目の家康
殿が、勝手な振る舞いをしているのは許せま
せん。秀頼様をお守りするのが大事と心得ま
す」
 松野重元は四十九歳。
 秀吉に仕えていたが、秀秋が筑前に移った
時に鉄砲頭としてつき従った。
 重元は治水工事なども得意としていた。
「三成殿には、越前・北ノ庄に移る時に親身
に面倒を見ていただいた恩義がございます。
そのご恩を忘れてはなりません」
 岩見重太郎は三十二歳。
 小早川隆景に仕え、秀秋が養子になると決
まった時、その家臣となるよう命じられた。
 軍学に長け、剣術指南役でもあった。
「殿は大殿の後継者になられたいじょう、毛
利家、吉川家と共に行動していただきたい」
 平岡頼勝は四十一歳。
 しばらく諸国を流浪した後、秀秋に仕える
ようになった。
 家康への使者役をすることが多く、家康か
ら高く評価されていた。
「わしは御殿のいかなる命にも従います」
 沈着冷静な平岡は、いつも何を考えている
のか分からなかった。
 こうして秀秋は、皆から意見を聞くことで、
それぞれの立場を尊重し、また、その立場の
違いによる見方を把握することに努めた。そ
して、最終的な判断は秀秋自身がして、意見
対立することを避けた。
 秀秋は十九歳とは思えない眼光の鋭さにな
り、皆の顔を見渡して話し始めた。
「俺には松野の申したとおり、三成殿に恩義
がある。それと同じように、家康殿にもこの
領地を戻してもろうた恩義がある。こたびは
輝元殿の命に従い、三成殿に味方するが、い
ずれ家康殿にも恩を返すつもりじゃ」
 問題を解決する方法は、必ず何通りかある
ものだ。普通は多数決などでひとつに決めて
実行する。そのため少数意見が無視され、一
部の者に不満が残ってしまう。
 秀秋はこれを回避するため、問題解決の優
先順位を決めて、少数意見も生かしておく。
 多数意見が必ず良い結果になるとは限らな
いので、その時には、少数意見が活きてくる。
 これは、秀秋が実の親から離され、養子と
して生活しているうちに、人間関係を円滑に
保つため、自然に身につけた知恵だった。
 それからしばらくして、今度は城に三成の
使者がやって来た。
 にわかに城内が慌しくなり、秀秋のもとに
杉原、稲葉が駆け込んだ。
 秀秋は横になり、だらしない格好で、老子
の書に目をとおしていた。
 老子は大陸、明から伝わった哲学書で、混
乱の時代を生き抜く知恵が書かれていた。
 今まで秀秋は、藤原惺窩から帝王学や兵法
などの書物を読み聞かせてもらっていたが、
あまり真剣に聞いていなかった。その上、こ
れから起きることは、かつて経験したことの
ない時代の変化だ。これを前に、判断のより
どころとして哲学書を読んでいたのだ。
(もう少し惺窩先生の話をよく聞いておけば
よかったなぁ)
 秀秋の傍らには明の兵法書、孫子や呉子、
哲学書の荘子なども無造作に置かれていた。
 秀秋を見つけた杉原は、一礼して座り、後
から来た稲葉もゆっくりと座った。
 杉原は、荒れた呼吸を整えようと深く息を
吸って秀秋に聞いた。
「家康殿が動きました。先ほどの三成殿の使
者はそのことで来たのですか」
 秀秋は老子の書を流し読みしながら、身体
を起こした。
「ああ、もうじき始まる伏見城攻めに加わる
よう、言ってきた」
 伏見城は秀吉の居城だったが、その死後、
家康が移り、政務を取り仕切っていた。
 ところがこの時期に家康は、上杉景勝の討
伐という名目で伏見城を出て、江戸城へ入城
したのだ。
 杉原は顔を高揚させた。
「決戦にございます」
 稲葉は冷静に言った。
「いや、まだ決戦は先です」
 杉原はやっと落ち着き、独り言のようにつ
ぶやいた。
「家康殿が留守の隙に伏見城を攻めるとは……」
 稲葉は三成を軽く見ていた。
「三成殿はこれが家康殿の策略とは気づかな
いのです」
 秀秋は老子の書を閉じ、幼い時から兄のよ
うに慕っていた三成の性格を読んだ。
「いや、誘いにのったんだろ。避けては通れ
んから」
 この時代は陰謀が渦巻き、誰も信じられな
くなっていた。
 稲葉は、まだ家康に味方することをあきら
めきれずにいた。
「ここは様子を見ては」
 秀秋はもっと先のことをにらんでいた。
「俺はこの時を待っていたんだ。前にも話し
たように、三成には減封になった時に家臣の
面倒を見てもらった借りがある。ここで恩を
返しておけば後腐れがない。それに周りはす
べて敵と考えれば、今は西の流れに身をまか
せるほうが移動しやすい。われらは伏見城攻
めに加わる」

2013年6月18日火曜日

吉継、動く

 慶長五年(一六〇〇)七月二日

 大谷吉継は、家康の命令で兵千人を率いて
会津征伐に向かった。
 その途中の近江に行き、石田三成の真意を
探って、その情報を家康に知らせる役を願い
出て許されていた。
 吉継は、三成の蟄居している近江・佐和山
城に近い、美濃の垂井宿に向かった。
 この近くには関ヶ原がある。
 垂井宿に着いた吉継は、すぐに三成のもと
へ使者を向かわせ、近くに来ていることを伝
えさせた。
 しばらくすると、三成の使者がやって来て、
佐和山城で会うことになり、吉継は数人の従
者だけを連れて向かった。
 佐和山城では、三成自らが出迎え、目に涙
をためて吉継に近づき、吉継の身体を支えた。
 吉継は目が見えなかったが、三成が痩せた
ように感じて体調を気づかった。
 二人は城に入り、三成はまるで書物庫のよ
うに、沢山の書物が積まれている書斎に吉継
を案内し、二人きりで話し始めた。
「周りは全部、書物です。暇というのはあり
がたいものですね。忙しくて読めなかった書
物を全て読み終えましたよ」
 この年で三成は四十一歳、吉継は四十二歳
とそんなに年齢は離れていないが、三成は吉
継を兄のように慕い敬っていた。
「そうか元気そうでなによりだ」
「はい。人というのは、己の行く道を決める
と肝がすわるものですね」
「ほぅ。もう決まったか。して、どう決めた」
「はい。まず大坂城に入ります。それから秀
頼様に『後見人は輝元殿だ』と、天下に号令
していただきます。そして、家康を逆臣とし
て、輝元殿に討伐命令を出していただきます。
それでも家康が刃向かうようであれば伏見城
を焼き払い、大坂城に籠城して迎え撃ちます。
この時、場合によっては、帝に輝元殿の居城、
広島城にお移り願います。すでに輝元殿には
了承をえています」
「後は豊臣家を見限った者たちがどう動くか
だな」
「そちらの手はずはどうです」
「牙はもいだが、家康の優位は変わっていな
い。予想以上に豊臣家に反感を持つ者が多い
ぞ。今の秀頼様にどれだの効力があるか。も
う少し時があれば家康は自滅するのだが」
「時のめぐりあわせを嘆いてもしかたありま
せん。この結果いかんでは異国に侵略される
ことも覚悟しなければいけないのです。我々
は今やれることを考えるのみです」
「そうだな。この話を家康が聞いて和睦の道
を選べばよいのだが」
「私もそれを願っています」
 吉継は従者を呼び、三成の考えを書いた書
状を家康に渡すように命じた。

 次の日

 三成は、吉継、増田長盛、安国寺恵瓊らと
会って相談し、輝元を盟主にすることが決め
られた。
 この時の話も、吉継によって家康に伝えら
れたが、同時に長盛からも密告されていた。
 家康は、吉継と長盛の情報を照らし合わせ
て嘘がないかを確認するほど用心深くなって
いたのだ。
 それらの情報から、三成が挙兵すると確信
した家康は、あえて誘い出すために老臣、鳥
居元忠と兵千八百人に伏見城の留守を任せて、
家康自ら会津に出陣した。
 三成と吉継は、家康が期待していた和睦の
道ではなく、戦う道を選んだことを知ると、
やむを得ず輝元、長盛、長束正家、宇喜多秀
家らと供に西軍として挙兵し、大坂城に乗り
込んだ。そして、秀頼の正当な後見人は輝元
だと天下に号令した。
 そのうえで家康に、十三カ条の弾劾状を送っ
た。
 この時、家康の密命を受けた長盛は、「輝
元らが、京にいる諸大名の妻子を人質にする」
と、家康に味方する諸大名の屋敷にふれまわっ
た。
 その噂が広まると混乱が起き、密かに逃亡
する諸大名の妻子もいた。
 さらに長盛は家臣に命じて、細川忠興の正
室、ガラシャがキリシタンの洗礼を受け、自
刃することができないことをいいことに、殺
して西軍の仕業に仕立てた。
 このことで西軍は立場を悪くし、民衆を家
康の味方につけることに成功した。
 西からは諸大名が次々と大坂に入り、兵の
総数は九万三千人を超えていた。しかし、全
ての者が同じ志で集まったのではなく、長盛
のように家康と内通している者や島津義弘の
ように家康から伏見城の留守居役を頼まれた
が反故にして来た者、また家康そのものに反
感を抱く者などさまざまで、豊臣家を守ろう
とする者はごくわずかだった。
 西にいて家康に味方すると言えば、すぐに
足止めされ、その時点で戦になるかもしれな
いだろう。
 誰もが、西軍を装うのは当然で、そうした
中に、筑前から多数の兵を連れてこなければ
いけない秀秋も混ざっていた。

2013年6月17日月曜日

島津義弘

 家康は当時、最強の武器である大砲という
大きな力を得たことで、天下を取れると確信
した。
 もうすでに大多数の諸大名が家康になびい
ていたので、何もしなくても天下は家康のも
のになる。しかし、それでは豊臣恩顧の諸大
名を一掃することはできない。
 家康は、なんとしても戦をして、実力で天
下を取ったことを世に示す必要があると考え、
攻勢にでようとしていた。

 時をさかのぼって、慶長四年(一五九九)
一月のこと。

 家康は正月も早々に、京・伏見にある島津
義弘の屋敷を訪ねた。そして、朝鮮出兵での
数々の武勲を褒め称えた。
 家康のもとには、島津一族が明の大砲を多
数、持ち帰ったという情報が入っていた。
 加藤清正によれば、「急な帰国命令で大砲
を持ち帰る暇などなかった」と言っていたが、
帰国の手配をしたのが石田三成だけに安心は
できなかった。そこで、憂いを断つために義
弘とよしみを結ぼうとしていたのだ。
 義弘は朝鮮で多くの犠牲を払って武勲をあ
げたにもかかわらず、秀吉が死去したことで
なんの見返りもなく、所領が疲弊しただけに
終わった。それでてっきり、秀頼の後見人で
ある家康から見返りを貰えるものと期待して
いた。しかし、家康は刀を恩賞として差し出
しただけで、なにかといえば明の大砲のこと
を聞きたがる。そして、いっこうに疲弊した
所領の復興を支援しようという話はしなかっ
た。
 こうした最中に、義弘の所領、日向で、伊
集院忠真が謀反を起こした。
 これには、義弘の子、家久と兄の義久が鎮
圧に動いたが治まらず、家康の仲裁を頼むこ
とになった。
 年が明けた、慶長五年(一六〇〇)三月に、
ようやく伊集院忠真の謀反は、家康の取り成
しで解決した。
 このことで家康は、島津一族に明の大砲は
なく、戦力も衰えていると判断して、軽視す
るようになった。
 五月になると家康は、会津の上杉景勝が予
告もなく、城の改修や新たに武器を調達して
いることを謀反の疑いありと責め、上洛を促
す書状を送った。
 家康の書状が届く直前に、直江兼続のもと
には三成の使者が来ていた。
 景勝は兼続から、家康が大砲を手に入れた
ことなどを聞き知っていたのだ。そうした家
康の身勝手さに怒り、上洛命令に対して拒否
する書状を兼続に送らせた。
 家康は島津義弘に「会津征伐となれば伏見
城の留守居役をしてほしい」と、兼続の書状
が届く前から頼んでいた。
 家康は、書状の内容がどうであれ、会津征
伐を口実に、手に入れた大砲の威力を早く見
たいと思っていた。
 一方の義弘は、朝鮮出兵で疲弊した者に、
復興の支援や誠意を示さない家康に、不信感
を募らせ警戒するようになっていた。
 家康は、最強の武器と開発が進んで石高を
上げた所領、そして、圧倒的な数の兵を背景
に、豊臣恩顧の諸大名を排除することを実行
にうつし、本来、味方になるはずの諸大名を
次々と敵にしていった。

2013年6月16日日曜日

大谷吉継の行動

 恵瓊の使者は三成に会った後、越前・敦賀
の大谷吉継を訪ねた。
 この頃、吉継は病に侵され、失明に近い状
態だった。
 恵瓊の使者から話を聞いた吉継は「承知し
た」とだけ言って、使者を帰した。そして、
吉継の目の代わりをしていた湯浅五郎を伴い
大坂城にいる家康を度々訪ねるようになり、
忠節を尽くした。
 家康は最初、吉継に疑いの目を向けていた。
 かつて秀吉は、三成と吉継を、三国志に登
場する蜀の劉備玄徳に仕えた二人の軍師、諸
葛孔明とホウ統士元に重ね合わせ「伏竜、鳳
雛」と称していた。
 知略に長けた三成と吉継は、兄弟のように
仲も良かったからだ。
 家康の家臣たちもそれを知っていたので、
吉継をののしり、あざ笑った。
「伏竜を見限る鳳雛が殿の役に立とうなどと。
何を企んでおるのやら」
「なにが鳳雛じゃ。目が見えんと空も飛べま
い」
「雛じゃからもともと飛べんよ。ははは」
 吉継はそんな雑言に怒ることもなく、家康
の政務を手伝い、どの家臣よりもそつなく処
理した。
「さすがは鳳雛と称されたことはある」
 家康のこの一言で、家臣たちも沈黙し、次
第に吉継を認めるようになっていった。

 慶長五年(一六〇〇)三月二十九日

 家康の指示で肥前・長崎に向かわせた帆掛
舟に、漂着したリーフデ号の乗組員、アダム
スら六人は乗せられて、和泉の堺湊に送られ
た。
 しばらくしてアダムスらは、大坂城で家康
に謁見した。この時、家康はアダムスらの身
を守り、また、情報漏れを防ぐという名目で
入牢させた。
 アダムスは、航海士という、船には必要な
乗組員を装い、着く島々で植民地になりそう
な候補地を選ぶ役目をおっていた。
 偶然漂着した日本だが、出会った日本人を
見る限り、植民地の候補になると考えていた。
 やがて大量の武器弾薬を積んだリーフデ号
も、相模の浦賀湊に回航された。
 家康は、アダムスと通訳にしたポルトガル
人のイエズス会宣教師を伴って、リーフデ号
に乗り込み、配備された大砲の性能や造船技
術などの説明を聞いた。
 大砲について家康は、朝鮮出兵で明・朝鮮
連合軍が大砲を使っていたことは聞いて知っ
てはいたが、実物を見たことはなかった。そ
れが労せず手に入った上、こちらのほうが明・
朝鮮連合軍の物より性能が良い大砲だと聞い
て有頂天になっていた。その挙句に、氏素性
の分からないアダムスを軍事顧問にしてしまっ
た。
 家康は、この大量の武器弾薬の扱いを任せ
る者として、すぐに大谷吉継をあてることに
した。それは、吉継が朝鮮に渡り、明・朝鮮
連合軍の大砲のことを知っていたこと。また、
近くにいる信頼できる者といえば吉継しか思
い当たらなかったからだ。
 家康は、すぐに吉継を呼び寄せた。
 吉継は、目が見えないことを理由に「その
ような大役は手に負えない」と断った。しか
し、家康から強く命じられ、やむなく引き受
けた。
 吉継の計画的な作業手順によってリーフデ
号から大量の武器弾薬が短期間で陸揚げされ
た。その後は、家康の家臣が、武器弾薬の数
や状態を調べた。そして、たまに分からない
ことがあると吉継に聞いた。
 いつも吉継の側にいる湯浅五郎が目の代わ
りとなって、武器の状態などの補足説明を加
えることもあった。
 吉継はそれらを聞いて、頭に思い描きなが
ら答えた。
「それは爆発の危険があるから積み上げず、
少し離して置くように。それは火箭(カセン)
という物で、中に火薬が入っているから取り
出して大砲の火薬として使うように。それら
は……」
 こうして武器弾薬は、いつでも使える状態
に整えられていった。

2013年6月15日土曜日

リーフデ号

 慶長五年(一六〇〇)三月十六日

 オランダから出航した東インド貿易の船、
リーフデ号が、豊後・佐志生の黒島沖に漂着
した。
 領民の知らせを聞いた臼杵城主は、秀秋が
朝鮮に出兵した時の軍目付の太田一吉だった。
 太田はすぐにリーフデ号が漂着した場所に
向かい、生存者が二十四名いることを確認し
た。その中には、イギリス人の航海士、ウイ
リアム・アダムスもいた。
 この状況を太田は家康に知らせた。すると
その後、肥前・長崎の奉行をしていた寺沢広
高が対応を引き継ぐことになった。
 寺沢は、ポルトガル人のイエズス会宣教師
を通訳として、アダムスらを尋問した。
 この一件は、筑後の柳川に赴任していた秀
秋の家臣、松野主馬により秀秋にも伝えられ
た。
 松野の話によると「漂着した船には、大型
の青銅製大砲十九門、鉄砲五百挺、砲弾五千
発、鎖弾三百発、火箭三百五十本、矢尻三百
五十五個、その他に鎖帷子、甲冑など武器弾
薬が多数積んであった」ということだった。
 これだけの武器弾薬を積んだ船が、ただの
商船ではないことはあきらかだった。
 秀秋は、稲葉正成、大炊助長氏らと相談し
た結果、毛利一族の長であり西方の統治者で
もある毛利輝元に知らせることにした。
 その使者として、小早川隆景の家臣だった
岩見重太郎を向かわせた。
 安芸・広島城で岩見の話を聞いた輝元は、
吉川広家と小早川隆景亡き後の補佐役、安国
寺恵瓊に相談した。
 この頃、広家は家康との融和をはかり、無
用な対立を避けようとしていた。しかし恵瓊
は、家康との対立を避けられないと考えてい
た。
 三人は大陸、明との戦いで、大砲の威力を
知っていたので、新型の大砲を積んだ船が家
康のものになることを恐れた。
 本来なら西方の統治を任された毛利輝元が
船を検分する権限と責任がある。それをちゅ
うちょさせ、家康に船を奪い取ったと思われ
て「謀反の疑いあり」と大義名分を与えるこ
とを恐れるほど、すでに家康の権力は増して
いた。
 広家は当然、輝元が西方の統治者として船
を調べる権限と責任があることを家康に伝え
るべきだと主張した。これに対して恵瓊は、
家康が「秀頼の後見人として先に調べる権限
がある」と言えば、誰にもとめることはでき
ないと主張して話はまとまらなかった。
 一計を案じた恵瓊は、密かに石田三成のも
とへ使者を向かわせた。
 恵瓊の使者は、商人の身なりをして近江・
佐和山城に入った。そして、恵瓊の密書を三
成に渡すと、それを読んだ三成は言葉を失っ
た。
 三成は、家康に大砲が渡ることを恐れたの
ではない。そのことより、強力な武装をした
異国の船が、漂着とはいえ日本にやって来た
ことを恐れたのだ。
(これから異国の軍艦が大軍で押し寄せてく
る。朝鮮の水軍にさえてこずる日本の水軍で
は持ちこたえられない。かの地では、異国に
攻められて植民地にされた国もあると聞く。
家康はそのことに気づくだろうか。しかし、
異国がすぐに攻めてくるとは限らない。たと
え家康が知ったとしてもその跡を継ぐ子がぼ
んくらでは対処できまい。もはや家康の寿命
を待ってはいられないか)
 三成は、知略に長けた側近の島左近を呼ん
で相談した。
 三成の言葉一つ一つにうなずいて聞いてい
た左近は「恵瓊から知らせが来たということ
は毛利一族が動くかもしれません。そうなれ
ば西はまとめやすい。今は東の手立てを考え
ておくべきではないでしょうか」と進言した。
 三成はうなずいて、すぐに使者を会津の上
杉景勝の家老、直江兼続のもとに向かわせた。
 景勝は、小早川隆景の亡き後、五大老のひ
とりに加わっていた。

2013年6月14日金曜日

家康と三成

 秀秋が戻った領地には、幼い時から面倒を
見てくれた山口宗永はいなくなったが、側近
の顔ぶれはほとんどかわらず、稲葉正成に加
えて、新しく大炊助長氏が補佐役になってい
た。
 しばらくすると、以前、家臣だった者たち
が再び仕官を求めて来ることもあった。
 領地は朝鮮出兵の影響でみるからに疲弊し
ていた。
 秀秋はすぐに領地管理の担当者を以前のよ
うに、家臣の性格を陰陽に分け、陰の者には
城内の仕事を任せ、陽の者には城外の領地の
管理などを任せた。そして、陰と陽を兼ね備
えた者の中から城主を決めて復興に力を注い
だ。
 復興には、朝鮮でおこなった開墾の経験も
生かされ、力自慢の河田八助らが率先して働
いた。
 家康から押し付けられた浪人たちも、秀秋
の指示に素直に従い、家臣としてしだいに馴
染んでいった。

 この頃、伏見にいる家康の行動が大胆にな
り、禁止されていた婚儀による諸大名との関
係強化をおこなったり、領地加増を独断でお
こなったりと規律を乱していた。
 次第に前田利家との関係が悪化して、つい
には石田三成らによる家康襲撃事件が起こっ
た。
 かろうじて襲撃の難を逃れた家康は、その
後、利家が死去するとさらに勢力を拡大した。
これに対抗するため、三成は五大老のひとり、
宇喜多秀家を頼った。
 秀家は、備前・岡山の宇喜多直家の次男と
して生まれたが、秀吉が織田信長の家臣とし
て中国地方で毛利と戦った頃、直家は信長に
味方するため秀家を人質として差し出した。
その後、直家と信長が死ぬと秀吉が秀家を養
子とした。そして、前田利家の三女、豪姫と
結婚したことで、後に、秀次が謀反を企てた
という事件から難を逃れて、秀吉、利家に頼
られるようになり、備前、美作の五十四万石
を所領とし、五大老のひとりとなっていた。
 三成に説得された秀家は、秀吉の遺志を継
ぐのは自分しかいないという自負心もあり、
秀頼が成人するまで後見人となることを心に
決めた。
 三成が秀家を味方につけたことで、今度は、
家康に味方する加藤清正、福島正則らが三成
を襲撃した。
 これを逃げ延びた三成は、あえて家康のも
とに駆け込み仲裁を頼んだ。
 家康は、助けを求めている三成を拒めば、
自分が襲撃の首謀者にされかねないと考え、
しかたなく仲裁を引き受けた。
 家康は対立を治めると、三成にも落ち度が
あったとして、三成を奉行から解任した。そ
して、居城の近江・佐和山城に蟄居させた。
 このことで家康も、これ以上の混乱を恐れ、
毛利輝元、島津義弘らに誓書を送り、秀頼を
支えて謀叛など起こす気のないことを誓った。
しかし、これを口実に家康は、伏見城から秀
頼のいる大坂城に移り、政務をするようになっ
た。
 次第に「家康は東方の統治、輝元は西方の
統治」という秀吉の命令が、大きな対立を生
もうとしていた。
 近江・佐和山城に蟄居させられた石田三成
は、家康の寿命を計算していた。
(家康は今年、五十八歳。仮に七十歳まで生
きたとしてもあと十二年。それまでに家康の
子の誰かが跡を継ぐ。家康の子には才覚のあ
る者が一人もいない。いずれ世は乱れるだろ
う。その時、秀頼様を押し立て、諸大名を説
得すれば、必ず豊臣の世を再興できる。この
まま隠居して世捨て人になりすまし、家康に
秀頼様を殺す口実を与えないように手立てを
して、力を蓄えるのもよかろう)
 三成は十二年後には五十二歳、秀頼は十九
歳になる。
 跡を託すにはいい頃合いと考えていた。し
かし、その計画を覆す人物が現れた。

2013年6月13日木曜日

家康との対面

 家康の使者から「領地を戻す」との知らせ
を聞いた秀秋は、すぐに国替えの準備をして、
越前・北ノ庄から筑前の名島城に旅立った。
そしてその途中、家康に転封赦免の礼をする
ため伏見城に立ち寄った。
 大広間に案内されて入ると、そこには家康
の家臣らが居並んでいた。しばらく待ってい
ると家康が上機嫌で現れ、上座に座って秀秋
を優しく手招きした。
「これは秀秋殿。よう参られた」
 秀秋は家康の前に座って黙っていた。
「幼き頃は、よく太閤様に抱かれて野遊びを
楽しんでおられた。あの頃のことを、つい昨
日のことのように思い出しますなぁ」
 家康は懐かしそうに顔をほころばせた。
 秀秋も、秀吉とあまり年の差のない家康の
顔にしわが多くなったのを見て、時の流れを
感じた。
 幼かった秀秋は、まだ若い家康を這いつく
ばらせ、馬乗りになって遊んだこともあった。
それを秀吉は笑いながら見ていた。
 家康も秀吉の手前、それを怒りもせず喜ん
で付き合う振りをしていたのだ。
 幼い秀秋はそうとも知らず、無邪気にはしゃ
いだ。
 ふとその頃がよみがえり、それが態度にで
た。
「家康ともよく遊んだことを覚えている」
 家康は一瞬、秀秋をにらみつけた。
 居並ぶ家臣たちもざわついた。しかし、家
康は一つ咳払いをしてその場を静め、すぐ笑
みを浮かべた。
「そうそう、太閤様のご遺言により、秀秋殿
の以前の領地が戻されることが決まりました
な。よろしゅうござった」
「その礼に参った。家康が力添えをしてくれ
たおかげだ。今後、役に立てることがあれば
何なりと申せ」
 それを聞いた家康は強い口調になった。
「ほほぅ、秀秋殿に助けてもらうようでは、
わしも隠居せねばならんのぅ」
 家康の家臣たちは、秀秋を覚めた目で見つ
め苦笑した。そこではじめて秀秋は「はっ」
と表情を変えて平伏した。
(しまった。俺は小早川、豊臣ではなかった)
 秀秋は我にかえり、家康にとって今の自分
は、身分の低いただの小僧でしかないことに
気づいた。
 家康はわざと高笑いを続け、家臣たちもそ
れに促されるように、声に出して笑い出した。
そして、秀秋の無作法を小声でけなし始めた。
「虫けらごときが殿の駕籠(かご)を担ぐとよ」
「ほお、それは見物だわ。駕籠にたどり着く
前に草履(ぞうり)で踏み潰されるのがおちじゃ」
 秀秋の握りこぶしに力が入った。
(身分とはこうも違うものなのか。だが見て
おれ、いつかこの借りは必ず返す)
 この頃、「イソップ寓話集」が天草で出版
されるようになったのだが、その中に「ライ
オンとネズミ」の話がある。

 ある日、ライオンが気持ちよく寝ていると、
何者かに眠りを妨げられた。
 見るとネズミが身体を駆け回っていた。
 ライオンは怒って、ネズミを捕まえると殺
そうとした。
 哀れなネズミは必死に命乞いをした。 
「どうか命を助けて下さい」
 そんなネズミをライオンは、気まぐれで許
してやることにした。
 するとネズミは言った。
「ありがとうございます。このご恩は決して
忘れません。いつか必ず恩返しを致します」
「お前ごときの恩返しがどれほどのものか」 
 ライオンはそう言うと、大声で笑ってネズ
ミを逃がしてやった。
 それから数日後、ライオンは猟師の仕掛け
た網にかかって動けなくなってしまった。そ
の時、ネズミがライオンのうなり声に気づい
た。そしてすぐに仲間を呼んでライオンのも
とに行き、無数のネズミたちが歯でロープを
ガリガリとかじって、ライオンを逃がしてやっ
た。 
 その後、ネズミは言った。 
「この前、あなたは私を笑いましたが、私に
だってあなたを助ける知恵があるんですよ。
どうです、立派な恩返しだったでしょう」

 秀秋はこの話のように、いつか実現させる
と心に誓った。
 突然、家康は思い出したように膝を叩いた。
「そうじゃ、そうじゃ。秀秋殿。わしのとこ
ろに浪人がたくさん集まって、仕官したいと
言ってきて困っておるのじゃ。秀秋殿に連れ
て行ってもらえんじゃろうか」
「ははぁ、喜んでお引き受けいたします」
 秀秋が家康から押し付けられた浪人は千人
に近かった。それらの中には、家康の家臣と
思われる者も多数、含まれていた。しかし、
秀秋はそれを気にするそぶりも見せず、皆を
引き連れて筑前・名島城に向かった。

2013年6月12日水曜日

秀吉の威光

 慶長三年(一五九八)八月十八日

 京・伏見城の床に伏した秀吉は、徳川家康
と前田利家に秀頼のことを何度も頼んだ。
 その後、家康には東方の統治、毛利輝元に
は西方の統治をするように命じてこの世を去っ
た。
 六十三年間を生きぬき、百姓の身から関白
の座にまで上りつめた。そして、戦国乱世を
終わらせ天下統一を果たした。その男の最期
は、自らが引き起こした朝鮮侵略の真っ只中
にあった。
 そのため、遺体はひっそりと移され「余が
身罷ったら洛東阿弥陀ケ峯に葬れ」との遺言
に従って、密葬が行われた。
 秀吉の死が知らされないまま朝鮮にいた日
本軍は、加藤清正の部隊が蔚山で明軍と交戦
し、島津義弘、家久の部隊が晋州の泗川城を
攻撃していた。また、小西行長の部隊は明軍
に退路を断たれ、順天城で籠城しているとい
う状況だった。
 すぐに家康と利家から、これらの諸大名に
帰国の指示が出されたが、この時もまだ、秀
吉の死は知らされることはなかった。
 先に秀吉の死を知ったのは明・朝鮮連合軍
のほうで、反転攻勢に出ようとしていた。
 急きょ、筑前・博多に着いた石田三成、毛
利秀元、浅野長政らの効率的な軍船の手配で、
日本軍の撤収は敏速に進められた。
 しばらくは朝鮮水軍との攻防があったが、
なんとか年末までには帰国させることができ
た。
 その後、前田玄以、浅野長政、増田長盛、
石田三成、長束正家の五奉行と、徳永寿昌、
宮木豊盛によって、朝鮮との和議が進められ
た。

 慶長四年(一五九九)二月十八日

 秀吉の密葬がおこなわれて六ヵ月後に、そ
の死が世間に知らされた。
 この時、葬儀はおこなわれていないのに、
「秀吉公御葬式御行烈記」「太閤秀吉公御葬
式行列帳」など、ありもしない葬儀の記録が
記され、それには秀吉の嫡男、秀頼が喪主と
なり勅使を迎えて、北政所や淀を始め、五大
老、五奉行など二万人以上が参列した大葬儀
があたかも実施されたように世間には伝わっ
た。
 これは庶民が秀吉をよほど慕っていたとい
うことを示す異例のことで、その死を悼み派
手好きだった秀吉を偲んだものだった。
 秀吉は庶民に良い部分だけを見せ、悪い部
分を隠して最期まで騙しとおしたのだ。
 そんな世間とは対照的に、諸大名は後継者
が誰になるのかに関心が移っていた。
 表向きは生前の秀吉に誓ったように、秀頼
を後継者と認めてはいたが、ほとんどの大名
がすでに豊臣家を見限っていた。
 伏見城に集まった諸大名は、秀吉を追悼す
る簡単な法要をすませると、ある者は秀頼の
もとに、またある者は徳川家康のもとに挨拶
に向かった。
 家康は、かつて秀吉が信長の孫、三法師の
後見人になり天下を取ったように、秀頼の後
見人として天下を支配しようとしていた。そ
して、秀吉が生前に命じたように、伏見城に
は家康、大坂城には秀頼が入った。
 この時はまだ、家康は東方の統治、毛利輝
元は西方の統治という秀吉の命令が守られて
いた。しかし、家康は政策の決定をあからさ
まに独断するようになった。
 その一つが、秀秋の国替えを無効にしたこ
とだ。
 家康は、秀吉の遺言という名目で、筑前、
筑後と肥前の一部の所領を秀秋に戻した。
 これは、この領地の代官だった石田三成を
解任したいという思惑があったからだ。
 三成は自分が解任されたことよりも、輝元
を無視した越権行為に怒りを募らせた。

2013年6月11日火曜日

よみがえる悪夢

 織田信長が京・本能寺で明智光秀に襲撃さ
れ自害したのは、利休の計画であり、それを
秀吉は知らされていたからこそ、中国地方で
毛利軍と対峙していたはずが、誰よりも真っ
先に京に駆けつけ、光秀を討つことができた
のだ。
 秀吉の脳裏に利休が書いた辞世の句が蘇っ
た。

 人生七十 力囲希咄
 吾這寶剣 祖佛共殺
 堤る我得具足の一太刀
 今此時ぞ天に抛

 人生七十(年)
   りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣
   租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐる
   わが得具足の一太刀
 今この時ぞ
   天になげうつ
 
 信長よ、私は七十年の人生だった
ぞ、ざまあみろ

 私のこの茶器の価値に信長は幻惑
され、やがて神仏を崇めず、自らが
神のごとき振る舞いをし始めた
(これは秀吉も同じだ)
 だから、私が茶の湯で得た情報を
駆使して信長を一撃で死に誘う
(それは秀吉に天下を取らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこ
のこと(秀吉の共謀)を知っている
者が秀吉を苦しめるだろう

(このことを知っている者とは、秀秋のこと
だったのか)
 秀吉は急に胸を刺されたような痛みに襲わ
れ、手で胸を押え前かがみにうなだれた。
 それを見た諸大名がどよめいた。
 秀秋はまだ怒りが治まらず興奮していた。
 側にいた太刀持ちに介抱された秀吉が、よ
うやく身体を起こすと、おかれていた刀に手
をかけ、かすれた声で叫んだ。
「もう許せん。この場で手討ちにしてくれる」
 とっさに石田三成が秀秋に駆け寄り、秀秋
の着物をつかんで大広間から連れ出した。
 その場にいた家康は(いいものを見た)と、
ニヤリとした。そして、秀秋の兵法にかなっ
た思考力と元養父とはいえ、権力にこびない
態度に興味がわいた。
(なるほど。藤原惺窩の教えをよう身に付け
ておるわ)
 三成から連れ出された秀秋は、三成の手を
振り解いた。
「秀秋殿、私の力が及ばず、申し訳ありませ
ん」
 秀秋は、兄のように慕う三成の謝罪で冷静
になり、独り言のようにもらした。
「あの分からずやが」
 三成が大広間に戻ろうとすると秀秋が呼び
止めた。
「三成にひとつ聞きたいことがある。朝鮮で
のこと、太閤様に進言したのは誰だ」
「それは、私には分かりません。書状は宇喜
多秀家殿のお使者が持って参られたようです
が」
「秀家殿は別の場所にいたはず。誰かが秀家
殿に報告したのか」
「秀秋殿、それ以上の詮索はされないほうが
よろしいかと……」
「いや、この屈辱は必ずはらす」
 秀秋はこの後、秀吉に進言することを画策
したのは島津家だということを知った。
(くそっ、島津が余計なことを)
 しばらくして、秀吉に楯突いた秀秋は処分
されることになり、所領が今の筑前、筑後と
肥前の一部、三十万七千石から越前・北ノ庄、
十五万石へ国替えとなった。

 秀吉は、秀秋から取り上げた所領の筑前、
筑後を三成の所領とするように命じた。しか
し三成は、自分の所領である近江から筑前、
筑後に行き来するのは困難なことや、居城の
佐和山城を守備する適任者もいないという理
由で辞退した。
 そのため秀吉は、三成に当面、筑前、筑後
の代官になるように命じた。
 秀秋が国替えで一番辛かったのは、まとま
りかけた家臣たちを減らさなければいけない
ことだった。
 その家臣たちの行き先に悩んでいると、す
ぐに三成が手をさしのべた。
 「どうせ筑前、筑後にも家臣が必要なのだ
から」と、行き場のない家臣たちをひきとり
面倒を見ることになったのだ。
 この国替えを「三成の策略」と陰口する者
もいたが、秀秋には三成の辛い立場がよく分
かり「秀吉の命令に翻弄され心労がたまって
いるのに、よく家臣たちを引き受けてくれた」
と大変喜び、三成に恩義を感じた。
 三成は秀秋を幼い頃から弟のように思い、
やんちゃな振る舞いに、いつもヒヤヒヤして
いた。そして、いつかこうしたことが起きる
と心配していたのだ。しかしその一方で、立
派に成長したことを頼もしくも思った。
 三成も家康と同じように、秀秋に兵法や帝
王学を授けた藤原惺窩の学識にあらためて感
服し、自分も教えを請いたいとの思いを募ら
せた。

 越前・北ノ庄は、かつて秀吉との戦いで敗
れた柴田勝家が所領としていた。
 その時の籠城戦で、勝家とその正室で信長
の妹、お市の方が自刃した。
 そんないわくつきの地に、今、信長の生ま
れ変わりにされ、一度は秀吉の後継者に選ば
れた秀秋が来ることになるとは……。
 以前に所領としていた丹波亀山は明智光秀
の領地だった。それに続いて、またしても皮
肉なめぐりあわせだった。
 皮肉といえば、お市の方の娘、淀が秀吉の
側室になり、生まれた子、秀頼が秀吉の跡を
継ごうとしていることもだ。そして、その時
がやってきた。

2013年6月10日月曜日

兵法

 大広間で秀秋を見つめていた三成は、処罰
されるとも知らず諸大名から賞賛されている
秀秋を哀れに思った。
 秀吉が座ると、すぐに戦況報告がおこなわ
れた。
 まず、秀秋の軍目付として同行した太田一
吉が、秀秋の釜山浦城での様子や将兵への適
切な指示、蔚山城攻防での戦いぶりをありの
まま報告した。
 その内容に失態はみられなかった。しかし、
それを聞いていた秀吉が口を挟んだ。
「秀秋に聞く。そなたには帰国するように再
三、三成から要請が届いておったはずじゃが、
なんで帰国せんのじゃ」 
「お恐れながら、帰国の要請は緊急の用向き
とは思われず、総大将が戦場から軽々しく退
くことはできません。また、その頃は敵の動
きが慌しくなり、そのうち蔚山城が包囲され
たとの知らせがあったので、解決を待って帰
国する予定にしておりました」
「わしのもとには内々に報告があり、秀秋は
身勝手な行動が目にあまり、軍の規律が乱れ
ているとのことじゃったが」
「何を見聞きしての報告かは知りませんが、
すべての権限は総大将にあり、命令は総大将
から下されるのが当然。それに背く者こそ軍
の規律をみだしているのではないでしょうか」
 秀吉の顔色が変わった。
「それはわしが余計な口出しをしていたと言
いたいのか」
「古くから伝わる孫子の兵法には、『君命に
受けざる所あり』との教えがあります。その
場の臨機応変の対応こそ大事。ここから海の
向こうで何が起きているか見えるでしょうか」
 もっともな言い分に、面白くない秀吉は矛
先を変えて、黒田長政、蜂須賀家政が蔚山城
の戦いで、先鋒でありながらもたつき、また、
撤退する明・朝鮮連合軍を追撃しなかったこ
とを叱責した。そして、軍目付の早川長政、
竹中隆重、毛利高政の所領を没収する処罰を
下した。
 このことに秀秋は怒りを爆発させた。
「なぜだ。皆に落ち度はない。朝鮮では孫子
の兵法にある天の時、地の利、人の和がなく、
とと様が天下を取った時とはまるで違う。と
と様は勝機のない戦をもて遊んでいるだけで
はないか。とと様こそ兵法を学ばれよ」
 秀秋の怒りに、諸大名は騒然となった。
 今度は恥をかかされた秀吉が烈火のごとく
怒った。
「黙れ。身分をわきまえよ」
 秀秋は冷めた顔で立ち上がり、秀吉の側に
歩みよった。そして、低い声でささやいた。
「あんただって、抜け駆けで天下を取ったん
じゃないか」
 秀吉は青ざめ、身体を振るわせた。
(こいつ、何を知っとるんじゃ)
 秀吉には思い当たる節があった。それは秀
秋が幼い頃、織田信長の生まれ変わりにする
ために、千利休に信長の生前のことを秀秋に
話して聞かせるように命じたことがあった。
(もしや利休め、秀秋にあの時のことまで話
したのか)
 あの時とは、本能寺の変のことだ。

2013年6月9日日曜日

対立

 慶長三年(一五九八)三月

 京・醍醐寺三宝院で催された花見には、秀
吉、秀頼、北政所、淀らと、日本に残ってい
た諸大名やその配下の者など千三百人が集まっ
て盛大に行われた。
 朝鮮で何が起きているか知らされていない
民衆は、秀吉のもとで太平の世が永く続くこ
とを願っていた。
 その秀吉は、六歳になった秀頼に跡を継が
せることしか考えていなかった。
 秀頼に対する秀吉の溺愛は増すばかりで、
侍女のきつ、かめ、やす、つしが秀頼に逆らっ
たと言って殺害させるなど、華やかな表舞台
の裏で恐怖政治がおこなわれていた。

 秀秋は五月になって日本に戻り、すぐに大
坂城に出向いた。
 大広間に入ると、すでに家康をはじめとし
た諸大名が居並び、秀秋に対する慰労の言葉
が方々であがった。
「秀秋殿、お聞きしましたぞ。あの清正殿を
救うとはたいしたものだ」
「まったく。さすがわ太閤様が総大将にされ
ただけのことはありましたな」
 そうした中に、秀吉が不機嫌な顔で入って
きたので、一瞬にして静まりかえった。
 秀吉が不機嫌だったのにはわけがあった。
それは秀秋が日本に戻る前のことだ。

 朝鮮から加藤清正救出の知らせを聞いた日
本では大騒ぎになっていた。
「総大将、小早川秀秋様が初陣で大手柄」
 伏見城に居た秀吉も、一報を聞きいて、一
瞬驚いたが、自分のことのように歓喜した。
 今は小早川家に養子にやったものの、かつ
てはわが子として溺愛していた秀秋が、立派
に成長したことは素直にうれしかった。だが
事態は一変した。
 朝鮮では、清正の身の安全を第一に考え、
慎重に行動していた諸大名から、秀秋の勝手
な行動に不満が続出していた。
 諸大名は秀吉に「清正の救出にもたついて
いた」と思われ、処罰されるのではないかと
恐れていたのだ。その中のひとりに島津豊久
がいた。
 豊久は、別の場所で戦っていた伯父の島津
義弘に不満を訴え泣きついた。
「われらは清正殿の身を案じ、念入りに事を
運んでおりましたところ、何の前触れもなく、
秀秋様がお出ましになり、無謀にも突撃され
ました。運良く清正殿の救出はなりましたが、
総大将がこれでは兵の規律が保てません。秀
秋様は初陣の手柄をあせっておられたのでしょ
う。われらは秀秋様の思慮のなさに、このま
までは無駄死にしかねません」
 それを聞いた義弘は、五大老のひとり、宇
喜多秀家にこのことを伝え、秀吉の知るとこ
ろとなったのだ。
 秀吉も興奮から覚めた時、本来の目的を思
い出した。
「誰か、三成を呼べ」
 厄介な相談事には常に石田三成が呼ばれた。
「三成、秀秋のことは聞いておろう」
 三成には良い知らせも悪い知らせも入って
くる。一瞬、迷ったが答えた。
「はっ。総大将として、初陣を立派に成し遂
げられたそうで……」
 三成の目に、秀吉の拳が固く握られるのが
見えた。   
「馬鹿。あれは役に立たんと思うたから小早
川にくれてやったのに……。島津などから不
満がでておる」
 三成はすぐに平伏して、秀吉の話を聞いた。
「これでは西国をつぶせんではないか。三成、
何とかせい」
 秀吉は、天下統一が成り、自分が亡き世で
嫡男、秀頼を頂点とした豊臣政権を磐石なも
のにすることしか考えていなかった。
 そのために、必要のなくなった武力を弱体
化させようと、まず手始めに関以西の諸大名
による朝鮮侵略を企てたのが真の目的だった。
 それが秀秋の身勝手な行動で、諸大名の不
満が爆発すれば、この企てが明るみになり、
秀秋を総大将にした自分への批判も強くなる。
 秀吉はその批判をかわすために、秀秋を処
罰することに決めた。
 三成はため息が出るのをこらえた。

2013年6月8日土曜日

清正と秀秋

 蔚山城内では、やっと救援に来た日本軍の
騎馬隊が見えると、雄たけびとも泣き叫ぶ声
ともつかない歓声をあげた。
 清正もその中にあったが、騎馬隊の攻撃を
見てつぶやいた。
「総大将の騎馬隊か。しかし、なんじゃこの
戦い方は。兵の統率がまるでとれておらん」 
 やがて清正のもとに、秀秋からの伝令が駆
けつけてひざまずき、秀秋の言葉を伝えた。
「大軍の攻撃にもかかわらず、よくぞ持ちこ
たえられた。それでこそ天下に名を成した武
士の誉れ。今はゆっくりと身体を休め、高み
の見物でもしておられよ」
 清正は目頭を熱くし、そしてただただうな
ずくだけだった。
 秀秋の部隊は、まだ二手に分かれて攻撃し
ていた。
 岩見が叫んだ。
「いまこそ小早川の武勇を示す時ぞ。突っ込
め」
 それに対抗するように稲葉がうなった。
「奴らに遅れをとるな。豊臣の名折れぞ。底
力を出さんか」
 秀秋はそんなことを気にする様子もなく、
次々と敵兵を倒していった。
 いつしか秀秋のすさまじい戦いぶりに、遠
巻きに散らばっていた二つの隊列は、次第に
秀秋につき従うようになり、歩調を合わせ、
一丸となって攻撃し始めた。
 黒田長政、島津豊久らの出遅れた日本軍も、
いつの間にか戦闘に加わり、秀秋の部隊と競
り合うように敵兵を倒していった。
 やがて追い立てられ、劣勢になった明・朝
鮮連合軍は退却しはじめた。しかし、日本軍
にそれを追撃するだけの余力はなく、戦いは
終った。
 戦場が静まり返ると、城内から、まるで無
人島で助けを待っていたかのような、やつれ
た清正がフラフラと出て来た。
 城の外では、騎乗したままの秀秋が面頬を
外して空を見上げ、鷹の回っている様子をポ
カンと見ていた。
 秀秋のその顔は、あどけなさの残る少年の
ようだった。
(この若武者が、あの総大将)
 清正は秀秋のことをよく知ってはいたが、
戦う姿を見たのはこれが初めてで、日ごろの
様子とはまるで違い、それは武者絵に描かれ
た源義経が出てきたように思えた。そして、
雄姿に、幻惑されているかのようだった。
 秀秋をよく見ると、使い古された鎧を身に
まとい、老練な野武士の風格さえ漂わせてい
ることにさらに驚かされた。
(よほど鍛えられたとみえる)
 清正に気づいた秀秋は、まぶしそうに目を
細め、睨みつけるような表情をしたかと思う
と、すぐに屈託のない笑顔を見せた。
 しばらく向き合った二人は夕日に照らされ
影となった。
 秀秋は、蔚山城に籠城していた者たちの労
をねぎらうと、すぐに釜山浦城に戻った。
 この功労のためか秀秋には、日本から帰る
ようにとの命令がこなくなった。そこで、朝
鮮にしばらく留まることにし、春を過ぎた頃、
日本に帰ることが決まった。
 朝鮮で地獄のような惨状が続くさなかに、
日本では秀吉が極楽浄土を満喫していた。

2013年6月7日金曜日

救援部隊

 釜山浦城から蔚山城までは馬でも二時間は
かかる。それに真冬の中、急げば体力を消耗
するだけだ。
 秀秋はあせる気持ちを抑えて、ゆっくりと
部隊を進めた。そして、蔚山城に近づくにつ
れ、徐々に馬を速足にして馬体を温めさせた。
 この頃、すでに到着していた日本軍の救援
部隊は、蔚山城を包囲している明・朝鮮連合
軍から見える小高い場所に集結し、無数の幟
を立てて待機していた。
 あえて目立つようにしたのは、明・朝鮮連
合軍が自分たちに気づき撤退するかもしれな
いと考えたからだ。しかし、いっこうにその
様子はなかった。
 それどころか、もうすぐ明・朝鮮連合軍の
総攻撃が始まろうとしていた。
 救援部隊には、黒田長政、島津豊久、毛利
秀元、鍋島直茂、勝茂の父子が参加していた。
 五人は集まり、結論の出ない謀議を繰り返
していた。そこに、明・朝鮮連合軍を探索し
ていた兵卒が戻って来て告げた。
「敵が総攻撃態勢を整えました」
 長政が険しい顔でつぶやくように一言。
「分った」
 とっさに直茂が言った。
「もう時間の猶予はござらぬ。こちらから総
攻撃を仕掛け、奴らを追い払おうぞ」
 豊久がそれに反論する。
「いや、それでは清正殿の身に危険が及ぶ。
ここは使者をたて、話し合いに持ち込むほう
が得策」
 勝茂は父の直茂に同調した。
「何を悠長なことを。このままでは手遅れに
なりますぞ」
 長政は言い争いになりそうな豊久と勝茂の
間に入って言った。
「清正殿は太閤様の秘蔵っ子。うかつなこと
をして、もしものことがあれば、われらが太
閤様の怒りを買うだけだ」
 豊久が、長政に付け足すように言った。
「敵が今まで攻撃しなかったのも清正殿の武
勇が知れ渡り恐れてのこと。話し合いに必ず
乗ってきます。われらが危険を犯す必要など
ありません」
 五人のこうした話し合いはなおも続いた。
 しばらくすると、城の方から気勢が上がり、
明・朝鮮連合軍の総攻撃が開始された。
 それを五人は呆然と立ち尽くして見ている
しかなかった。
 その時、城を遠巻きに待機していた日本軍
の側を、一瞬の閃光と共に風が吹いた。
 それは、槍を振りかざし、面頬を着けた秀
秋とその後に続く騎馬隊が、包囲している明・
朝鮮連合軍に疾風のごとく突き進んで行く姿
だった。
 秀秋は槍を振り上げて馬を走らせた。
 それに柳生宗章が続いた。
 岩見重太郎を先頭にした小早川家の家臣た
ちが雄たけびをあげて突き進む。
 それに少し遅れて、稲葉正成を先頭にした
豊臣家の元家臣たちがなだれ込んだ。
 驚いたのは待機していた日本軍の救援部隊
だった。
 長政が叫んだ。
「総大将」
 話し合いをしていた五人は、慌てて出撃の
準備に散った。
 秀秋率いる騎馬隊は、ざっと二千騎。その
後を歩兵の約四千人が走る。
 その長い隊列は、城を攻撃している明・朝
鮮連合軍の背後に迫った。
 秀秋には、この突撃での勝算があった。
 それは、明・朝鮮連合軍の兵六万人がすべ
て精鋭の軍人であるはずはなく、その中には
軍人ではない農民なども駆り出されていた。
 よく武具を見れば、その違いが分かったか
らだ。
 こうした弱点を攻撃すれば崩せるとにらん
での突撃だった。
 明・朝鮮連合軍は、明や朝鮮でも名の知れ
た日本の誇りである加藤清正が人質状態にあ
るため、日本軍の救援部隊は攻撃してこない
とあなどり、城の攻撃に気をとられていた。
 そのため、いきなり背後から不意を突かれ
て次々になぎ倒されていった。
 秀秋が、慌てて逃げる朝鮮の兵卒に野獣の
ように容赦なく襲いかかり、後に続く騎馬隊
も城の周りに押し寄せ、四方に散らばった。
 なおも秀秋は、混乱の中から抜け出たかと
思うとまた突っ込み、馬をせきたてて縦横無
尽に駆け巡った。
 岩見の隊列と稲葉の隊列は二手に別れて、
しばらくは連携せず、無秩序に攻撃した。

2013年6月6日木曜日

困難な救出

 蔚山城の最上階にある座敷の一角では、どっ
しりと座って微動だにしない加藤清正がいた。
 その顔はやつれ、髭が長く伸びてはいるが
武人の風格はかろうじて保っていた。
 時折吹いてくる風が、攻撃の破壊でできた
隙間から入りこみ、清正の髭を揺らした。
 城を包囲した明・朝鮮連合軍が今にも総攻
撃を仕掛けてきそうな様子に、清正のもとへ
集まった兵卒らがざわついた。
「うろたえるな。助けは必ずやって来る」
 清正の勇ましい言葉にも、腹をすかせて凍
えていては、一時しかもたない。それは清正
にしても同じことだった。
 兵卒らは、城の外を恨めしそうに眺めて、
援軍が到着するのを今か今かと待ち望んでい
た。
 実はその頃、すでに日本軍は救援に駆けつ
けていたのだ。しかし、人質状態になってい
るのが明、朝鮮にも名を轟かせた清正では、
うかつに突撃できなかったのだ。
 人質救出の解決方法は二通りある。
 一つは、人質の救出を最優先に考え、敵と
交渉する。これには交渉に時間がかかり、場
合によっては敵の要求を受け入れることにな
る。
 もう一つは、敵と交渉はせず、状況を把握
して、攻撃できる機会があれば、人質がいよ
うと行動を起こし、短時間で解決する。これ
に失敗すると人質が死亡することになる。
 清正は、秀吉が子供の頃から目をかけてい
た秘蔵っ子で、今は日本にとっても武士の鏡
であり、生きた英雄だった。そのため、日本
軍はなんとか無事に助け出そうと手立てを慎
重に検討していたのだ。
 一方、釜山浦城にいた秀秋のもとには、石
田三成から再三、朱印状が届き、秀吉がすぐ
に帰還するように命じていることが伝えられ
ていた。しかし、それを総大将の権限で引き
延ばしていた。
 そうした頃に、蔚山城が包囲されたという
知らせが入った。
 秀秋は、救援部隊が向かっていると聞いて
いたので、その解決の報告を待って、日本に
帰ることにした。
 もうすでに本格的な冬がやって来ていた。

 慶長三年(一五九八)一月

 年が明けても、蔚山城の包囲は解けなかっ
た。
 これには秀秋よりも、小早川家の家臣たち
がイライラしていた。
(大殿なら味方を見殺しにはしない)
(われらは何のためにここまで来たんだ)
 それは小早川隆景という勇将の跡を継いだ、
未熟な秀秋に対する不満でもあった。
 秀秋はこの時を待っていた。
 戦うためにはそれなりの覚悟がいる。
 死ぬかもしれないという不安があれば必ず
負ける。だから大義名分が必要であり、やる
気にさせることが重要なのだ。
 家臣たちの様子を見て、ようやく秀秋は出
陣を決めた。
 そのことを知った山口宗永が強く引きとめ
たが、「われらが着いた頃には、すでに清正
殿らは救出されているだろう」と秀秋は説得
した。
 この間にも、救援に向かう秀秋の部隊の準
備は始まっていた。
 その誰の顔にも清正らを救出するというや
る気がみなぎっていた。
 部隊には、文禄の朝鮮出兵に参加した小早
川家の家臣を中心に、豊臣家の元家臣も加わ
り、兵六千人で組織された。
 秀秋は、宗永と残りの家臣に釜山浦城の留
守を任せて出陣した。

2013年6月5日水曜日

秀吉の暴走

 諸大名は秀秋の考えを理解できたが、それ
よりも秀吉の逆鱗に触れるのが怖かった。
 秀吉は、養子にした秀次やその妻子でさえ
も殺した。その秀吉に逆らえば、日本に残し
た自分たちの妻子も殺されるのではないかと
いう心配があったからだ。
 しばらくすると、秀吉は秀秋を見限り、自
ら命令を諸大名に発するようになった。
 秀秋を除く日本軍は二つに分けられた。

全羅道方面軍
 大将、宇喜田秀家
    島津義弘、忠恒の父子
    小西行長、藤堂高虎
    蜂須賀家政

慶尚道方面軍
 大将、毛利秀元
    吉川広家、安国寺恵瓊
    加藤清正、黒田長政
    鍋島直茂、勝茂の父子

 このどちらの方面軍も、忠清道を目指すこ
とになった。
 こうして、文禄の朝鮮侵攻と同じ過ちを繰
り返す軍事行動が開始された。ただ一つ違っ
ていたのは、侵攻する先々で皆殺しにしてい
くというものだった。
 秀吉は朝鮮の日本化を考えていた。そのた
め、日本に恨みを抱くような者は一人残らず
殺すことにした。
「平家を思い出せ。豊臣の世を平家の二の舞
にするな」
 秀秋との対立で誰も信用できなくなってい
た秀吉は、朝鮮人を殺したという証拠に、耳
や鼻をそぎ落とし、塩漬けにして日本に送る
ことを要求した。
 どんな凶行も慣れればそれが普通になって
くる。
 最初はためらっていた将兵も、次第に慣れ
てくると耳や鼻を集めることが目的となり、
その数を競うようになった。そのため、生き
たまま耳や鼻をそぎ落とされた朝鮮人もいた。
 秀吉の要望どおり、日本軍は侵攻を続け、
慶尚道、全羅道、忠清道を制圧した。
 するとやはり、兵糧の確保が難しくなり、
その上、明軍の参戦や冬が近づいたことで侵
攻は止まった。
 やがて日本軍は、反撃を阻止するための築
城に専念することになった。
 加藤清正は蔚山(ウルサン)の地に縄張り
し、毛利秀元、浅野幸長らが中心となって築
城を開始した。
 これに動員された兵一万六千人が、二ヶ月
余りという短期間で蔚山城を完成させた。
 突貫工事のため強固な城壁はあったが、丸
太がむきだしの荒々しい砦といった感じの城
になった。それでも城には、明から奪い取っ
た大砲が十六門、配備されていた。
 この蔚山城が完成すると、幸長の部隊が駐
屯し、清正、秀元の部隊は兵糧などを調達す
るために退去した。
 ところが、その機会をうかがっていた明・
朝鮮連合軍が手薄になるのを見計らって、どっ
と攻め寄せてきた。
 蔚山城襲撃の知らせを聞いた清正は、すぐ
に救援に駆けつけ、夜陰にまぎれて城に入っ
た。
 この時、籠城する日本軍の兵三千人に対し
て、明・朝鮮連合軍は兵六万人の大軍が集結
していた。
 明・朝鮮連合軍は、何度か城の攻撃を試み
たが、籠城兵が大砲を撃ち、その威力を知っ
ていたため近づくことができず、落城させら
れなかった。
 そのうち城内に水や食糧が乏しいことが分
かり、明・朝鮮連合軍は、城を完全に包囲し
て兵糧攻めにでた。
 籠城兵は兵糧が尽きると、軍馬や城の建築
材で、食べれそうなものなら何でも口にした。
 次第に城内には何もない寒々とした山小屋
のような状態と化していった。
 凍える手に息を吹きかけて、身体を丸めて
いた日本軍の籠城兵がばたっと倒れ、石像の
ようにもう二度と動くことはなかった。その
顔はやせ衰え、無精ひげを伸ばして、死して
もなお目をぎらつかせていた。
 意識がもうろうとした別の兵卒が、はいつ
くばって窓に近づき、外の様子をうかがった。
 城の外には、明・朝鮮連合軍の将兵らが、
攻城兵器を準備し、総攻撃の戦闘態勢を整え
るためあわただしく動いていた。

2013年6月4日火曜日

朝鮮上陸

 釜山支城は日本軍が上陸するため、海に面
した場所に元々あった朝鮮の城を壊して築城
した。
 沿岸には堀が造られ、城内に軍船でそのま
ま入れるようになっていた。
 ここに、秀秋の部隊、兵一万三百人と総大
将の軍目付として太田一吉、軍医兼通訳とし
て安養寺の慶念が供に上陸した。そして、こ
こから見える釜形の小高い山にある釜山浦城
に向かった。
 釜山浦城も朝鮮の城を壊して日本の平城が
築城され、休戦中も日本の部隊が交代で守備
していた。
 そのため城の周りは平穏が保たれている。
 すでに上陸していた他の部隊は、すでに各
戦地に向かい、戦いが始まっている地域もあっ
た。
 朝鮮は文禄に侵略された時とは違い、防衛
体制を整えて待っていた。その一つが、日本
軍の拠点とする城の辺りにある農村を完全に
無人化することだった。
 このため日本軍は、現地で兵糧を調達でき
ない状況にあった。そこで、以前から秀吉は
「周辺を開墾して耕作地にし、兵糧の確保に
努めるように」と指示していたのだ。
 秀秋もこれに従い、全軍に防備を固めさせ、
拠点となる諸城の修繕と開墾をするように指
示した。しかし、このことをまったく忘れて
いた秀吉は、文禄の時のように朝鮮を侵攻し
ているとばかり思っていた。
 いつまでたっても秀吉のもとには、華々し
い戦果の報告がいっこうに入ってこない。
 しばらくして侵攻をしていないことが分か
り激怒した秀吉は、秀秋に朱印状を送った。
 秀秋のもとに届いた朱印状には、

 何事も諸大名と相談して越権行為はせず、
兵法を学ぶように。もし何もしないのなら強
制帰国させる

 といった内容だった。
 これは、秀秋が兵法も知らないうちに独断
で諸大名に命令し、侵攻を止めているから成
果が上がらないのだと読み取れた。
(とと様はもうろくされた)
 秀秋はため息をついた。
 兵法を学んでいなくてもこの戦に大義名分
のないことはすぐに分かる。
 秀吉が天下を取った時には、民衆の支持が
あり、平安を望む時代の要請があった。しか
し、朝鮮にはそれがまったくない。
 朝鮮からすれば、この戦は無意味な侵略で
しかないのだ。
 それでも秀秋は、この地に根を下ろし、理
想の国を創っていこうと思っていた。
 日本には捕虜となって連れてこられた朝鮮
人たちが、その才能を発揮して儒学や印刷、
陶磁器を発展させている。一方、朝鮮では、
投降した日本兵が鉄砲を使った戦闘方法を教
えて協力し合っている。こうしたことから秀
秋は、いつか協力しあえる日が来ると信じて
いた。
(惺窩先生が来たいと熱望したこの地。まだ
学ぶべきものがあるはずだ。惺窩先生のため
にも平安を築かねば)
 秀秋は総大将の権限として、秀吉の指示を
認めず、諸大名には現状維持を命じた。そし
て自らも、体力維持のためにと開墾を手伝っ
た。その合間には馬を走らせて諸城の修繕を
視察して回った。

2013年6月3日月曜日

出港

 秀秋は、自分が総大将になったことを秀次
の代わりに選ばれたのだと淡々と受け止めて
いた。そして、すぐに準備を始め、まず朝鮮
に渡るのに必要な軍船の資材を調達すること
にした。
 それには、居城の名島城の近くにある杉山
から杉の大木を伐採することを決めた。
 その杉山の杉は以前、この地の領主だった
大内義隆が、御神木として伐採禁止令を出し
ていた。そのためちょうど良い大木に成長し
ていたのだ。
 領民の中には「御神木を伐採すると祟られ
る」と恐れる者もいたが、秀秋は「御神木だ
からこそ軍船にすれば神のご加護もある。ま
た、雑然と増えすぎた杉を間引くことも必要
だ」と説得し、選ばれた杉を慎重に切り出し、
その場所には新しい杉の苗木を植えさせた。
 このことから、この杉山を「分杉山」「若
杉山」と呼ぶようになった。
 次に秀秋は、浪人をかき集めた。そして、
全ての家臣の中から朝鮮に出兵する家臣を選
び、その家臣と供に野駆けや巻狩りなどをし
て軍事訓練をおこなった。
 この頃はまだ、小早川家の家臣と豊臣家の
元家臣は気が合わず、ギクシャクした関係が
続いていたが、秀秋はおかまいなしで、ケン
カをするのも笑ってみていた。

 諸大名の部隊がしだいに肥前・名護屋城に
集結し始めた。そして、一番隊の加藤清正、
二番隊の小西行長、宗義智、松浦鎮信らの部
隊を皮切りに、次々と出港して行った。
 秀秋の出港が近づいた六月十二日に、小早
川隆景がこの世を去った。
 隆景とは短い期間の父子だったが、備後・
三原城で隆景が歓迎してくれたことを秀秋は
思い出して寂しさが募った。
 秀秋は、隆景の葬儀をすませると、正式に
小早川家の家督を引き継いだ。そして、七月
に朝鮮への出港が決まり、新造され「日本丸」
と名づけられた大型軍船に乗り込んだ。
 日本丸を含む水軍は、壱岐、対馬を経由し
て、朝鮮が目前というところで朝鮮の元均(ウォ
ンギュン)が率いる水軍と遭遇した。
 いきなりの海戦で、慣れていない豊臣家の
元家臣たちは何もできなかった。
 それとは対照的に、小早川家の家臣たちは
水軍で鍛えられた経験を生かして冷静に対処
した。やがて、豊臣家の元家臣たちも見様見
まねで協力し始めた。
「おぉ、まさに呉越同舟だな」
 秀秋は、家臣がまとまる兆しを感じて喜ん
だ。
 この海戦で日本水軍の苦戦が続く中、藤堂
高虎、加藤嘉明、脇坂安治の率いる水軍が救
援に現れ、反撃を開始した。そして、海戦で
負け続けていた日本水軍が、この時は善戦し
て初めて朝鮮水軍を撃退した。
「これも御神木のご加護があればこそじゃ。
われらには神がついておるぞ」
 秀秋のその声に家臣らが勢いづき歓声をあ
げた。
 こうしてようやく日本丸は朝鮮の釜山港沖
に錨を下ろした。

2013年6月2日日曜日

再び朝鮮出兵

 秀秋は時々、諸城に出向き、そこで従者を
選んで馬を乗り回し、領地を案内させた。
 こうすることで従者となった家臣がどれだ
け領地のことを把握しているか知ることがで
きた。
 最初は秀秋に馴染まなかった領民も、しだ
いに顔見知りになっていった。
 しばらくして、京では大地震が発生した。
 伏見城の天守閣とその周りの大名屋敷が倒
壊したが、城にいた秀吉は難を逃れ、捨丸か
ら名を改めた秀頼と淀、北政所らは大坂城に
いて無事だった。
 惺窩も命拾いをしたが、この地震での死者
は五百人を超える大惨事となった。
 秀吉は、すぐに新しい城を、伏見の木幡山
に築城するように命じて復興にとりかかった。
 この大惨事でも、皆が無事だったことに秀
吉は、利休の呪いが解けたという思いがして
安心した。
 ちょうどこの頃、明の使者が大坂城に登城
して、和平交渉をおこなうことになった。
 和平交渉の最中、明の態度に怒りをあらわ
にした秀吉は、明を侵略する足がかりとして
朝鮮出兵の準備を命じた。
 秀吉には、初めから和平交渉などする気は
なく、これを機会に再度、朝鮮への出兵を企
んでいたのだ。

 慶長二年(一五九七)二月二十一日

 朝鮮へ出兵する諸大名の編成が決まった。

 一番隊
  加藤清正
 二番隊
  小西行長、宗義智、松浦鎮信
 三番隊
  黒田長政、島津義久
  毛利吉成
 四番隊
  鍋島直茂、鍋島勝茂
 五番隊
  島津義弘
 六番隊
  長宗我部元親、藤堂高虎
  池田秀氏、来島通総
  中川秀成、菅達長
 七番隊
  蜂須賀家政、生駒一正
  脇坂安冶
 八番隊
  毛利秀元、宇喜多秀家

 釜山浦城
  小早川秀秋
 安骨浦城
  立花宗茂
 加徳城
  高橋直次
 竹島城
  小早川秀包
 西生浦城
  浅野幸長

 軍目付
  太田一吉、毛利重政、竹中重利
  垣見一直、毛利高政、早川長政
  熊谷直盛

 そして、総大将は小早川秀秋と告げられた。
 先の文禄の朝鮮出兵で、疲弊した領地がま
だ復興していない諸大名は落胆の色が隠せな
かった。
 それをよそに秀吉や徳川家康らは、京・醍
醐寺三宝院へ花見に出かけて楽しんだ。
 家康は、文禄の朝鮮出兵を免れている間に
所領の開発が進み、百八十六万石から二百五
十六万石に激増させていた。しかし、家康は、
東方の統治を任されていることを理由に、今
度の朝鮮出兵にも加わることはなく、秀吉の
機嫌をとることに専念した。
 その秀吉の言動は、日増しに異常になって
いった。
 ある日などは、宇喜多秀家の正室、南の御
方が狐の祟りによって病気になったと言いだ
し、稲荷大明神へ日本中の狐を退治すると通
告した。
 そんな秀吉に従うことしかできないほど、
政治機能が麻痺した中での朝鮮出兵だった。

2013年6月1日土曜日

秀秋の処分

 秀次謀反の連判状に署名したとされる秀秋
に、しばらくして処分が言い渡された。
 それは、今の所領の丹波亀山十万石を没収
するというものだった。しかし、すでに山口
宗永の働きによって、隆景の所領である筑前、
筑後、肥後の三十万石余りを秀秋が譲り受け、
隆景は本拠地の備後三原に移ることが決まっ
ていた。
 筑前・名島城は、博多湾に突き出した小山
の周囲に堀をめぐらせ、天守、二の丸、三の
丸、南丸を設けた海城で、そんなに広くはな
いが、水軍を率いた小早川隆景にはうってつ
けだった。
 隣国の肥前・名護屋城も沿岸にあるが、そ
の規模と豪華さには遠く及ばない。
 小早川隆景が備後・三原に移ると決まった
時、ほとんどの家臣がともに移ることを願い
出たが、その一部、五百人足らずの家臣が、
隆景の命令で残された。その中には岩見重太
郎、曾根高光、神原基治がいた。
 岩見は、軍学、剣術に長け、父の敵討ちを
する前に刀の試し切りをしたという石が残る
ほど武勇が評判になっていた。
 曾根は、腕力なら誰にも負けない金剛力で
名を成していた。
 神原は、村に出没する馬に似た怪物の尻尾
の毛を手に入れたという不思議な体験をし、
その顛末を書いた、「馬妖記」の作者という
異色の経歴がある。そこに登場する伊丹正恒、
穂積宗重、熊谷照賢、鞍手正親、倉橋直行、
粕屋常定らも秀秋の家臣となるよう命じられ
ていた。
 筑前に残された小早川家の家臣たちは、も
うじき秀秋一行がやって来るというので、名
島城で迎える仕度をして待ったが、誰も気乗
りはしていなかった。
(小僧のお守りなんぞ、誰にでもできるわ)
 しばらくして、秀秋が着いたと言うので出
迎えて見ると、秀秋が連れてきた家臣の行列
が延々と続いていた。
 それは、豊臣家からの家臣に加え、秀次謀
反の一件で、浪人になった者などを召抱えた、
総勢一万人の大行列だった。
 行列には、以前からいる山口宗永、稲葉正
成、平岡頼勝、村山越中、篠田重英などの秀
吉から任された家臣に加え、鉄炮頭の松野主
馬と蟹江彦右衛門、秀秋の実家である木下家
の親戚にあたる杉原重治、稲葉の養子だった
堀田正吉、伊岐流槍術を創始した伊岐真利、
荒馬も乗りこなす村上吉正、怪力で剣術にも
優れた河田八助、剣術で名高い柳生石舟斎の
四男で秀秋の警護役となった柳生宗章などの
逸材も家臣となっていた。
 この人数の多さに小早川家の家臣たちは、
秀秋に反発する気も失せ、唖然として立ち尽
くした。
 秀秋は、これらの家臣たちを筑前、筑後、
肥後の方々にある諸城に振り分けて分担させ
た。
 その分担の仕方には特徴があり、家臣の性
格を陰陽に分け、陰の者には城内の仕事を任
せ、陽の者には城外の領地の管理などを任せ
た。そして、陰と陽を兼ね備えた者の中から
城主を選んだ。中にはいきなり城主になる者
もいた。
 城主は、いつも受け持つ諸城にいるのでは
なく、普段は名島城に集められ、全体の指示
確認と城主間の情報交換をさせた。こうする
ことで領地全体の様子が把握でき、短所は見
つけやすく長所は広めやすかった。
 こうした政治のやり方は、秀秋が藤原惺窩
から学んだ帝王学や兵法などから、実践でき
そうなことを取り入れたものだった。
 その惺窩は、本場の儒教を学ぼうと明への
渡航を計画していたが実現せず、京に戻って
いた。