2013年6月1日土曜日

秀秋の処分

 秀次謀反の連判状に署名したとされる秀秋
に、しばらくして処分が言い渡された。
 それは、今の所領の丹波亀山十万石を没収
するというものだった。しかし、すでに山口
宗永の働きによって、隆景の所領である筑前、
筑後、肥後の三十万石余りを秀秋が譲り受け、
隆景は本拠地の備後三原に移ることが決まっ
ていた。
 筑前・名島城は、博多湾に突き出した小山
の周囲に堀をめぐらせ、天守、二の丸、三の
丸、南丸を設けた海城で、そんなに広くはな
いが、水軍を率いた小早川隆景にはうってつ
けだった。
 隣国の肥前・名護屋城も沿岸にあるが、そ
の規模と豪華さには遠く及ばない。
 小早川隆景が備後・三原に移ると決まった
時、ほとんどの家臣がともに移ることを願い
出たが、その一部、五百人足らずの家臣が、
隆景の命令で残された。その中には岩見重太
郎、曾根高光、神原基治がいた。
 岩見は、軍学、剣術に長け、父の敵討ちを
する前に刀の試し切りをしたという石が残る
ほど武勇が評判になっていた。
 曾根は、腕力なら誰にも負けない金剛力で
名を成していた。
 神原は、村に出没する馬に似た怪物の尻尾
の毛を手に入れたという不思議な体験をし、
その顛末を書いた、「馬妖記」の作者という
異色の経歴がある。そこに登場する伊丹正恒、
穂積宗重、熊谷照賢、鞍手正親、倉橋直行、
粕屋常定らも秀秋の家臣となるよう命じられ
ていた。
 筑前に残された小早川家の家臣たちは、も
うじき秀秋一行がやって来るというので、名
島城で迎える仕度をして待ったが、誰も気乗
りはしていなかった。
(小僧のお守りなんぞ、誰にでもできるわ)
 しばらくして、秀秋が着いたと言うので出
迎えて見ると、秀秋が連れてきた家臣の行列
が延々と続いていた。
 それは、豊臣家からの家臣に加え、秀次謀
反の一件で、浪人になった者などを召抱えた、
総勢一万人の大行列だった。
 行列には、以前からいる山口宗永、稲葉正
成、平岡頼勝、村山越中、篠田重英などの秀
吉から任された家臣に加え、鉄炮頭の松野主
馬と蟹江彦右衛門、秀秋の実家である木下家
の親戚にあたる杉原重治、稲葉の養子だった
堀田正吉、伊岐流槍術を創始した伊岐真利、
荒馬も乗りこなす村上吉正、怪力で剣術にも
優れた河田八助、剣術で名高い柳生石舟斎の
四男で秀秋の警護役となった柳生宗章などの
逸材も家臣となっていた。
 この人数の多さに小早川家の家臣たちは、
秀秋に反発する気も失せ、唖然として立ち尽
くした。
 秀秋は、これらの家臣たちを筑前、筑後、
肥後の方々にある諸城に振り分けて分担させ
た。
 その分担の仕方には特徴があり、家臣の性
格を陰陽に分け、陰の者には城内の仕事を任
せ、陽の者には城外の領地の管理などを任せ
た。そして、陰と陽を兼ね備えた者の中から
城主を選んだ。中にはいきなり城主になる者
もいた。
 城主は、いつも受け持つ諸城にいるのでは
なく、普段は名島城に集められ、全体の指示
確認と城主間の情報交換をさせた。こうする
ことで領地全体の様子が把握でき、短所は見
つけやすく長所は広めやすかった。
 こうした政治のやり方は、秀秋が藤原惺窩
から学んだ帝王学や兵法などから、実践でき
そうなことを取り入れたものだった。
 その惺窩は、本場の儒教を学ぼうと明への
渡航を計画していたが実現せず、京に戻って
いた。