2013年6月11日火曜日

よみがえる悪夢

 織田信長が京・本能寺で明智光秀に襲撃さ
れ自害したのは、利休の計画であり、それを
秀吉は知らされていたからこそ、中国地方で
毛利軍と対峙していたはずが、誰よりも真っ
先に京に駆けつけ、光秀を討つことができた
のだ。
 秀吉の脳裏に利休が書いた辞世の句が蘇っ
た。

 人生七十 力囲希咄
 吾這寶剣 祖佛共殺
 堤る我得具足の一太刀
 今此時ぞ天に抛

 人生七十(年)
   りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣
   租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐる
   わが得具足の一太刀
 今この時ぞ
   天になげうつ
 
 信長よ、私は七十年の人生だった
ぞ、ざまあみろ

 私のこの茶器の価値に信長は幻惑
され、やがて神仏を崇めず、自らが
神のごとき振る舞いをし始めた
(これは秀吉も同じだ)
 だから、私が茶の湯で得た情報を
駆使して信長を一撃で死に誘う
(それは秀吉に天下を取らせた)

 今、私が死んだとしても、他にこ
のこと(秀吉の共謀)を知っている
者が秀吉を苦しめるだろう

(このことを知っている者とは、秀秋のこと
だったのか)
 秀吉は急に胸を刺されたような痛みに襲わ
れ、手で胸を押え前かがみにうなだれた。
 それを見た諸大名がどよめいた。
 秀秋はまだ怒りが治まらず興奮していた。
 側にいた太刀持ちに介抱された秀吉が、よ
うやく身体を起こすと、おかれていた刀に手
をかけ、かすれた声で叫んだ。
「もう許せん。この場で手討ちにしてくれる」
 とっさに石田三成が秀秋に駆け寄り、秀秋
の着物をつかんで大広間から連れ出した。
 その場にいた家康は(いいものを見た)と、
ニヤリとした。そして、秀秋の兵法にかなっ
た思考力と元養父とはいえ、権力にこびない
態度に興味がわいた。
(なるほど。藤原惺窩の教えをよう身に付け
ておるわ)
 三成から連れ出された秀秋は、三成の手を
振り解いた。
「秀秋殿、私の力が及ばず、申し訳ありませ
ん」
 秀秋は、兄のように慕う三成の謝罪で冷静
になり、独り言のようにもらした。
「あの分からずやが」
 三成が大広間に戻ろうとすると秀秋が呼び
止めた。
「三成にひとつ聞きたいことがある。朝鮮で
のこと、太閤様に進言したのは誰だ」
「それは、私には分かりません。書状は宇喜
多秀家殿のお使者が持って参られたようです
が」
「秀家殿は別の場所にいたはず。誰かが秀家
殿に報告したのか」
「秀秋殿、それ以上の詮索はされないほうが
よろしいかと……」
「いや、この屈辱は必ずはらす」
 秀秋はこの後、秀吉に進言することを画策
したのは島津家だということを知った。
(くそっ、島津が余計なことを)
 しばらくして、秀吉に楯突いた秀秋は処分
されることになり、所領が今の筑前、筑後と
肥前の一部、三十万七千石から越前・北ノ庄、
十五万石へ国替えとなった。

 秀吉は、秀秋から取り上げた所領の筑前、
筑後を三成の所領とするように命じた。しか
し三成は、自分の所領である近江から筑前、
筑後に行き来するのは困難なことや、居城の
佐和山城を守備する適任者もいないという理
由で辞退した。
 そのため秀吉は、三成に当面、筑前、筑後
の代官になるように命じた。
 秀秋が国替えで一番辛かったのは、まとま
りかけた家臣たちを減らさなければいけない
ことだった。
 その家臣たちの行き先に悩んでいると、す
ぐに三成が手をさしのべた。
 「どうせ筑前、筑後にも家臣が必要なのだ
から」と、行き場のない家臣たちをひきとり
面倒を見ることになったのだ。
 この国替えを「三成の策略」と陰口する者
もいたが、秀秋には三成の辛い立場がよく分
かり「秀吉の命令に翻弄され心労がたまって
いるのに、よく家臣たちを引き受けてくれた」
と大変喜び、三成に恩義を感じた。
 三成は秀秋を幼い頃から弟のように思い、
やんちゃな振る舞いに、いつもヒヤヒヤして
いた。そして、いつかこうしたことが起きる
と心配していたのだ。しかしその一方で、立
派に成長したことを頼もしくも思った。
 三成も家康と同じように、秀秋に兵法や帝
王学を授けた藤原惺窩の学識にあらためて感
服し、自分も教えを請いたいとの思いを募ら
せた。

 越前・北ノ庄は、かつて秀吉との戦いで敗
れた柴田勝家が所領としていた。
 その時の籠城戦で、勝家とその正室で信長
の妹、お市の方が自刃した。
 そんないわくつきの地に、今、信長の生ま
れ変わりにされ、一度は秀吉の後継者に選ば
れた秀秋が来ることになるとは……。
 以前に所領としていた丹波亀山は明智光秀
の領地だった。それに続いて、またしても皮
肉なめぐりあわせだった。
 皮肉といえば、お市の方の娘、淀が秀吉の
側室になり、生まれた子、秀頼が秀吉の跡を
継ごうとしていることもだ。そして、その時
がやってきた。