2013年6月15日土曜日

リーフデ号

 慶長五年(一六〇〇)三月十六日

 オランダから出航した東インド貿易の船、
リーフデ号が、豊後・佐志生の黒島沖に漂着
した。
 領民の知らせを聞いた臼杵城主は、秀秋が
朝鮮に出兵した時の軍目付の太田一吉だった。
 太田はすぐにリーフデ号が漂着した場所に
向かい、生存者が二十四名いることを確認し
た。その中には、イギリス人の航海士、ウイ
リアム・アダムスもいた。
 この状況を太田は家康に知らせた。すると
その後、肥前・長崎の奉行をしていた寺沢広
高が対応を引き継ぐことになった。
 寺沢は、ポルトガル人のイエズス会宣教師
を通訳として、アダムスらを尋問した。
 この一件は、筑後の柳川に赴任していた秀
秋の家臣、松野主馬により秀秋にも伝えられ
た。
 松野の話によると「漂着した船には、大型
の青銅製大砲十九門、鉄砲五百挺、砲弾五千
発、鎖弾三百発、火箭三百五十本、矢尻三百
五十五個、その他に鎖帷子、甲冑など武器弾
薬が多数積んであった」ということだった。
 これだけの武器弾薬を積んだ船が、ただの
商船ではないことはあきらかだった。
 秀秋は、稲葉正成、大炊助長氏らと相談し
た結果、毛利一族の長であり西方の統治者で
もある毛利輝元に知らせることにした。
 その使者として、小早川隆景の家臣だった
岩見重太郎を向かわせた。
 安芸・広島城で岩見の話を聞いた輝元は、
吉川広家と小早川隆景亡き後の補佐役、安国
寺恵瓊に相談した。
 この頃、広家は家康との融和をはかり、無
用な対立を避けようとしていた。しかし恵瓊
は、家康との対立を避けられないと考えてい
た。
 三人は大陸、明との戦いで、大砲の威力を
知っていたので、新型の大砲を積んだ船が家
康のものになることを恐れた。
 本来なら西方の統治を任された毛利輝元が
船を検分する権限と責任がある。それをちゅ
うちょさせ、家康に船を奪い取ったと思われ
て「謀反の疑いあり」と大義名分を与えるこ
とを恐れるほど、すでに家康の権力は増して
いた。
 広家は当然、輝元が西方の統治者として船
を調べる権限と責任があることを家康に伝え
るべきだと主張した。これに対して恵瓊は、
家康が「秀頼の後見人として先に調べる権限
がある」と言えば、誰にもとめることはでき
ないと主張して話はまとまらなかった。
 一計を案じた恵瓊は、密かに石田三成のも
とへ使者を向かわせた。
 恵瓊の使者は、商人の身なりをして近江・
佐和山城に入った。そして、恵瓊の密書を三
成に渡すと、それを読んだ三成は言葉を失っ
た。
 三成は、家康に大砲が渡ることを恐れたの
ではない。そのことより、強力な武装をした
異国の船が、漂着とはいえ日本にやって来た
ことを恐れたのだ。
(これから異国の軍艦が大軍で押し寄せてく
る。朝鮮の水軍にさえてこずる日本の水軍で
は持ちこたえられない。かの地では、異国に
攻められて植民地にされた国もあると聞く。
家康はそのことに気づくだろうか。しかし、
異国がすぐに攻めてくるとは限らない。たと
え家康が知ったとしてもその跡を継ぐ子がぼ
んくらでは対処できまい。もはや家康の寿命
を待ってはいられないか)
 三成は、知略に長けた側近の島左近を呼ん
で相談した。
 三成の言葉一つ一つにうなずいて聞いてい
た左近は「恵瓊から知らせが来たということ
は毛利一族が動くかもしれません。そうなれ
ば西はまとめやすい。今は東の手立てを考え
ておくべきではないでしょうか」と進言した。
 三成はうなずいて、すぐに使者を会津の上
杉景勝の家老、直江兼続のもとに向かわせた。
 景勝は、小早川隆景の亡き後、五大老のひ
とりに加わっていた。