2013年6月16日日曜日

大谷吉継の行動

 恵瓊の使者は三成に会った後、越前・敦賀
の大谷吉継を訪ねた。
 この頃、吉継は病に侵され、失明に近い状
態だった。
 恵瓊の使者から話を聞いた吉継は「承知し
た」とだけ言って、使者を帰した。そして、
吉継の目の代わりをしていた湯浅五郎を伴い
大坂城にいる家康を度々訪ねるようになり、
忠節を尽くした。
 家康は最初、吉継に疑いの目を向けていた。
 かつて秀吉は、三成と吉継を、三国志に登
場する蜀の劉備玄徳に仕えた二人の軍師、諸
葛孔明とホウ統士元に重ね合わせ「伏竜、鳳
雛」と称していた。
 知略に長けた三成と吉継は、兄弟のように
仲も良かったからだ。
 家康の家臣たちもそれを知っていたので、
吉継をののしり、あざ笑った。
「伏竜を見限る鳳雛が殿の役に立とうなどと。
何を企んでおるのやら」
「なにが鳳雛じゃ。目が見えんと空も飛べま
い」
「雛じゃからもともと飛べんよ。ははは」
 吉継はそんな雑言に怒ることもなく、家康
の政務を手伝い、どの家臣よりもそつなく処
理した。
「さすがは鳳雛と称されたことはある」
 家康のこの一言で、家臣たちも沈黙し、次
第に吉継を認めるようになっていった。

 慶長五年(一六〇〇)三月二十九日

 家康の指示で肥前・長崎に向かわせた帆掛
舟に、漂着したリーフデ号の乗組員、アダム
スら六人は乗せられて、和泉の堺湊に送られ
た。
 しばらくしてアダムスらは、大坂城で家康
に謁見した。この時、家康はアダムスらの身
を守り、また、情報漏れを防ぐという名目で
入牢させた。
 アダムスは、航海士という、船には必要な
乗組員を装い、着く島々で植民地になりそう
な候補地を選ぶ役目をおっていた。
 偶然漂着した日本だが、出会った日本人を
見る限り、植民地の候補になると考えていた。
 やがて大量の武器弾薬を積んだリーフデ号
も、相模の浦賀湊に回航された。
 家康は、アダムスと通訳にしたポルトガル
人のイエズス会宣教師を伴って、リーフデ号
に乗り込み、配備された大砲の性能や造船技
術などの説明を聞いた。
 大砲について家康は、朝鮮出兵で明・朝鮮
連合軍が大砲を使っていたことは聞いて知っ
てはいたが、実物を見たことはなかった。そ
れが労せず手に入った上、こちらのほうが明・
朝鮮連合軍の物より性能が良い大砲だと聞い
て有頂天になっていた。その挙句に、氏素性
の分からないアダムスを軍事顧問にしてしまっ
た。
 家康は、この大量の武器弾薬の扱いを任せ
る者として、すぐに大谷吉継をあてることに
した。それは、吉継が朝鮮に渡り、明・朝鮮
連合軍の大砲のことを知っていたこと。また、
近くにいる信頼できる者といえば吉継しか思
い当たらなかったからだ。
 家康は、すぐに吉継を呼び寄せた。
 吉継は、目が見えないことを理由に「その
ような大役は手に負えない」と断った。しか
し、家康から強く命じられ、やむなく引き受
けた。
 吉継の計画的な作業手順によってリーフデ
号から大量の武器弾薬が短期間で陸揚げされ
た。その後は、家康の家臣が、武器弾薬の数
や状態を調べた。そして、たまに分からない
ことがあると吉継に聞いた。
 いつも吉継の側にいる湯浅五郎が目の代わ
りとなって、武器の状態などの補足説明を加
えることもあった。
 吉継はそれらを聞いて、頭に思い描きなが
ら答えた。
「それは爆発の危険があるから積み上げず、
少し離して置くように。それは火箭(カセン)
という物で、中に火薬が入っているから取り
出して大砲の火薬として使うように。それら
は……」
 こうして武器弾薬は、いつでも使える状態
に整えられていった。