2013年6月17日月曜日

島津義弘

 家康は当時、最強の武器である大砲という
大きな力を得たことで、天下を取れると確信
した。
 もうすでに大多数の諸大名が家康になびい
ていたので、何もしなくても天下は家康のも
のになる。しかし、それでは豊臣恩顧の諸大
名を一掃することはできない。
 家康は、なんとしても戦をして、実力で天
下を取ったことを世に示す必要があると考え、
攻勢にでようとしていた。

 時をさかのぼって、慶長四年(一五九九)
一月のこと。

 家康は正月も早々に、京・伏見にある島津
義弘の屋敷を訪ねた。そして、朝鮮出兵での
数々の武勲を褒め称えた。
 家康のもとには、島津一族が明の大砲を多
数、持ち帰ったという情報が入っていた。
 加藤清正によれば、「急な帰国命令で大砲
を持ち帰る暇などなかった」と言っていたが、
帰国の手配をしたのが石田三成だけに安心は
できなかった。そこで、憂いを断つために義
弘とよしみを結ぼうとしていたのだ。
 義弘は朝鮮で多くの犠牲を払って武勲をあ
げたにもかかわらず、秀吉が死去したことで
なんの見返りもなく、所領が疲弊しただけに
終わった。それでてっきり、秀頼の後見人で
ある家康から見返りを貰えるものと期待して
いた。しかし、家康は刀を恩賞として差し出
しただけで、なにかといえば明の大砲のこと
を聞きたがる。そして、いっこうに疲弊した
所領の復興を支援しようという話はしなかっ
た。
 こうした最中に、義弘の所領、日向で、伊
集院忠真が謀反を起こした。
 これには、義弘の子、家久と兄の義久が鎮
圧に動いたが治まらず、家康の仲裁を頼むこ
とになった。
 年が明けた、慶長五年(一六〇〇)三月に、
ようやく伊集院忠真の謀反は、家康の取り成
しで解決した。
 このことで家康は、島津一族に明の大砲は
なく、戦力も衰えていると判断して、軽視す
るようになった。
 五月になると家康は、会津の上杉景勝が予
告もなく、城の改修や新たに武器を調達して
いることを謀反の疑いありと責め、上洛を促
す書状を送った。
 家康の書状が届く直前に、直江兼続のもと
には三成の使者が来ていた。
 景勝は兼続から、家康が大砲を手に入れた
ことなどを聞き知っていたのだ。そうした家
康の身勝手さに怒り、上洛命令に対して拒否
する書状を兼続に送らせた。
 家康は島津義弘に「会津征伐となれば伏見
城の留守居役をしてほしい」と、兼続の書状
が届く前から頼んでいた。
 家康は、書状の内容がどうであれ、会津征
伐を口実に、手に入れた大砲の威力を早く見
たいと思っていた。
 一方の義弘は、朝鮮出兵で疲弊した者に、
復興の支援や誠意を示さない家康に、不信感
を募らせ警戒するようになっていた。
 家康は、最強の武器と開発が進んで石高を
上げた所領、そして、圧倒的な数の兵を背景
に、豊臣恩顧の諸大名を排除することを実行
にうつし、本来、味方になるはずの諸大名を
次々と敵にしていった。