2013年6月19日水曜日

秀秋の家臣

 これより前のことだ。

 筑前・名島城の秀秋のもとに輝元の使者が
やって来た。それは家康討伐に加わるように
との知らせだった。
 秀秋は主だった家臣を集め、意見を求めた。
 稲葉正成はまだ二十九歳だったが筆頭家老
になっていた。
 稲葉からは意外な答えが返ってきた。
「こたびの首謀者は三成殿と聞いております。
三成殿は政務一辺倒で諸大名をまとめる力は
なく、秀頼様を補佐する器量があるとは思え
ません。家康殿こそ真の後見人となるお方で
す」
 稲葉は、豊臣家から小早川家に移ったこと
で出世の道が絶たれた。そこで次期政権の最
有力者、家康に出世の望みを託そうとしてい
たのだ。
 杉原重治は四十五歳。
 今は高台院と称しているねねの叔父、杉原
家次の養子になり、長く秀吉に仕えていた。
 杉原は稲葉と違い、忠義を選んだ。
「三成殿を首謀者とするのはいかがなものか。
家康殿は豊臣家と直接争うことを避けるため
に、そのように触れ回っているのではあるま
いか。まだ幼き秀頼様を補佐する役目の家康
殿が、勝手な振る舞いをしているのは許せま
せん。秀頼様をお守りするのが大事と心得ま
す」
 松野重元は四十九歳。
 秀吉に仕えていたが、秀秋が筑前に移った
時に鉄砲頭としてつき従った。
 重元は治水工事なども得意としていた。
「三成殿には、越前・北ノ庄に移る時に親身
に面倒を見ていただいた恩義がございます。
そのご恩を忘れてはなりません」
 岩見重太郎は三十二歳。
 小早川隆景に仕え、秀秋が養子になると決
まった時、その家臣となるよう命じられた。
 軍学に長け、剣術指南役でもあった。
「殿は大殿の後継者になられたいじょう、毛
利家、吉川家と共に行動していただきたい」
 平岡頼勝は四十一歳。
 しばらく諸国を流浪した後、秀秋に仕える
ようになった。
 家康への使者役をすることが多く、家康か
ら高く評価されていた。
「わしは御殿のいかなる命にも従います」
 沈着冷静な平岡は、いつも何を考えている
のか分からなかった。
 こうして秀秋は、皆から意見を聞くことで、
それぞれの立場を尊重し、また、その立場の
違いによる見方を把握することに努めた。そ
して、最終的な判断は秀秋自身がして、意見
対立することを避けた。
 秀秋は十九歳とは思えない眼光の鋭さにな
り、皆の顔を見渡して話し始めた。
「俺には松野の申したとおり、三成殿に恩義
がある。それと同じように、家康殿にもこの
領地を戻してもろうた恩義がある。こたびは
輝元殿の命に従い、三成殿に味方するが、い
ずれ家康殿にも恩を返すつもりじゃ」
 問題を解決する方法は、必ず何通りかある
ものだ。普通は多数決などでひとつに決めて
実行する。そのため少数意見が無視され、一
部の者に不満が残ってしまう。
 秀秋はこれを回避するため、問題解決の優
先順位を決めて、少数意見も生かしておく。
 多数意見が必ず良い結果になるとは限らな
いので、その時には、少数意見が活きてくる。
 これは、秀秋が実の親から離され、養子と
して生活しているうちに、人間関係を円滑に
保つため、自然に身につけた知恵だった。
 それからしばらくして、今度は城に三成の
使者がやって来た。
 にわかに城内が慌しくなり、秀秋のもとに
杉原、稲葉が駆け込んだ。
 秀秋は横になり、だらしない格好で、老子
の書に目をとおしていた。
 老子は大陸、明から伝わった哲学書で、混
乱の時代を生き抜く知恵が書かれていた。
 今まで秀秋は、藤原惺窩から帝王学や兵法
などの書物を読み聞かせてもらっていたが、
あまり真剣に聞いていなかった。その上、こ
れから起きることは、かつて経験したことの
ない時代の変化だ。これを前に、判断のより
どころとして哲学書を読んでいたのだ。
(もう少し惺窩先生の話をよく聞いておけば
よかったなぁ)
 秀秋の傍らには明の兵法書、孫子や呉子、
哲学書の荘子なども無造作に置かれていた。
 秀秋を見つけた杉原は、一礼して座り、後
から来た稲葉もゆっくりと座った。
 杉原は、荒れた呼吸を整えようと深く息を
吸って秀秋に聞いた。
「家康殿が動きました。先ほどの三成殿の使
者はそのことで来たのですか」
 秀秋は老子の書を流し読みしながら、身体
を起こした。
「ああ、もうじき始まる伏見城攻めに加わる
よう、言ってきた」
 伏見城は秀吉の居城だったが、その死後、
家康が移り、政務を取り仕切っていた。
 ところがこの時期に家康は、上杉景勝の討
伐という名目で伏見城を出て、江戸城へ入城
したのだ。
 杉原は顔を高揚させた。
「決戦にございます」
 稲葉は冷静に言った。
「いや、まだ決戦は先です」
 杉原はやっと落ち着き、独り言のようにつ
ぶやいた。
「家康殿が留守の隙に伏見城を攻めるとは……」
 稲葉は三成を軽く見ていた。
「三成殿はこれが家康殿の策略とは気づかな
いのです」
 秀秋は老子の書を閉じ、幼い時から兄のよ
うに慕っていた三成の性格を読んだ。
「いや、誘いにのったんだろ。避けては通れ
んから」
 この時代は陰謀が渦巻き、誰も信じられな
くなっていた。
 稲葉は、まだ家康に味方することをあきら
めきれずにいた。
「ここは様子を見ては」
 秀秋はもっと先のことをにらんでいた。
「俺はこの時を待っていたんだ。前にも話し
たように、三成には減封になった時に家臣の
面倒を見てもらった借りがある。ここで恩を
返しておけば後腐れがない。それに周りはす
べて敵と考えれば、今は西の流れに身をまか
せるほうが移動しやすい。われらは伏見城攻
めに加わる」