2013年6月23日日曜日

決戦の地

 家康は、あれだけ出兵要請を拒否していた
秀秋が、今度はすんなりと受け入れたことに
疑心暗鬼になっていた。
 この前は三成の要請ですぐに伏見城攻めに
加わり、今度は自分の要請をじらしたとはい
え簡単に引き受ける。
(あの小僧。いったい何を考えとるのじゃ)
 悪知恵を使う者は、他人も悪知恵を使うと
思い込んでしまう。それが家康を慎重にさせ、
今日まで天下を取れなくし、その反面、生き
延びさせもしていた。
 一方、三成は、秀秋が家康の出兵要請を受
けたことを知らなかった。その三成も秀秋を
諦めきれないでいた。
 三成は、毛利輝元を西軍の総大将にしたこ
とで毛利家、吉川家、小早川家の毛利一族を
取り込んだと思っていた。ところが輝元は、
幼い豊臣秀頼を守るという名目で大坂城から
動こうとしない。やむをえず合戦の総大将と
して、五大老の一人で秀吉の養子でもある宇
喜多秀家をあてた。そうした中、秀秋が病気
という理由で戦に加われないとなれば、戦力
は半減し、他の諸大名にも動揺が広がること
を恐れていた。
 なんとしても秀秋を味方につけたい三成は、
秀秋の病気療養が本当なのか、疑いを持ち始
めていた。
 家康と三成は、秀秋の真意をつかめないま
ま決戦の地へ向かうことになった。

 慶長五年(一六〇〇)九月十四日

 曇り空からやがて雨が降り始めた。
 この日が来るまで、各地で小規模な戦いが
あり、家康が率いる東軍と宇喜多秀家を総大
将に、豊臣恩顧の諸大名が集まった西軍によ
る戦術の探りあいが続いた。
 各部隊は再三移動させられ、なかなか対峙
する場所が定まらなかった。
 圧倒的に優勢な状況にあった家康でさえ、
諸大名の誰がどちらに味方するのか計りかね
ていた。
 表向きでは味方すると言っても、本心は実
際に戦闘が始まってみないと誰にも分からな
い。それを証拠づけるように大谷吉継が西軍
に寝返ったことが分かり、家康をさらに疑い
深くした。こうしたことが影響して、加藤清
正、伊達政宗、前田利長、黒田孝高といった
武勇に優れた有能な諸大名を主戦場から遠ざ
けてしまった。
 それでも家康と三男、秀忠の部隊をあわせ
ただけで兵六万八千人にのぼり、一方の西軍
は、総大将、宇喜多秀家に味方する諸大名の
兵数を全て足しても兵六万六千人にしかなら
ず、徳川家だけで十分戦えた。その上、家康
には大砲という最強の武器とイギリス人のア
ダムスを軍事顧問に迎えたことで、他の異国
人が味方に加わり、多国籍軍の様相をていし
ていた。
 アダムスは、これから始まる日本の戦をつ
ぶさに見て、その弱点を本国、イギリスに逐
一報告するつもりでいた。
 そうとも知らない家康は、異国人らに日本
の華々しい戦を見せつけようと考え、それに
ふさわしい戦場として関ヶ原を選び、大砲を
移動させていた。
 どうしても大砲の移動は大掛かりになる。
そのため、三成は常に大砲がどこにあるかを
調べさせ、家康の部隊の動きを把握していた。
 大谷吉継によると漂着した船、リーフデ号
から家康が手に入れた大砲は十九門。そのう
ち三門は家康の三男、秀忠が信濃・上田城主、
真田昌幸との戦いのため運んでいた。そして
残りの十六門はすでに関ヶ原に運ばれ、桃配
山のふもとの伊勢街道のあたりに並べられ、
木々で隠されていた。その隠している様子が
三成に報告された。
 報告を聞いた三成は、すぐに地形を調べ、
松尾山にあった古城を西軍の伊藤盛正らに改
修させた。
 この松尾山城は、浅井長政が築城した後、
織田信長の近江侵攻で開城した。そして、近
江平定後に廃城となっていた。
 三成は当初、松尾山城に毛利輝元を入城さ
せるつもりだった。ところが輝元は、幼い豊
臣秀頼を守るという名目で大坂城から動こう
としない。
 三成にとってこれが大きな誤算となったが、
輝元の名代として、輝元の養子、秀元と吉川
広家の部隊がやって来るという知らせがあり、
城の守りに問題はないと考えていた。
 東軍は松尾山城を落城させなければ大坂へ
は向かえない。
 松尾山城はそうした大きな役割をになって
いたのだ。