2013年6月28日金曜日

合戦開始

 慶長五年(一六〇〇)九月十五日

 関ヶ原の朝は、豪雨が続いたため薄暗く、
台風並みの激しい西風が吹いていた。
(この空模様では大砲は役に立つまい。三成
が言った「天候もわれらに有利」とはこのこ
とか)
 空を見ていた秀秋は、松尾山城の座敷に向
かい、関ヶ原の地形図を前に座った。そこへ
戦場を偵察していた兵卒が次々に戻り、地形
図に駒を置き、諸大名の布陣した様子が徐々
に明らかになっていった。
 秀秋の側には、稲葉正成、杉原重治、松野
重元、岩見重太郎、平岡頼勝が控えていた。
それぞれの表情は硬く、稲葉は地形図から目
を離さない。
 平岡は少しうなだれ、杉原は逆に天井を見
ているような姿勢をしている。
 松野は目をつむって瞑想していた。
 皆、秀秋にすべてを託し、朝鮮や伏見城攻
めで戦った日々を思い出していた。
 そこへ家康の家臣、奥平貞治が息を切らし
て入って来た。
「ハハハ。秀秋殿、まもなく、まもなく合戦
が始まります。出陣のご準備を……」
 秀秋は地形図を眺めたまま、奥平に聞いた。
「出陣。はて、我らがここに入城したことで
勝負はついたはず。後は家康殿が西軍を説得
して降伏させればそれで終わるではないか。
今、我らが出陣してこの城を奪われたらなん
とする。それに秀忠殿はどうした」
 家康の子、秀忠は、信濃・上田城の真田昌
幸と戦っていた。
 秀忠には大砲があったが雨が降って、その
能力を発揮できず、てこずっているうちに関ヶ
原で決戦との知らせがあり撤退した。
 すぐに関ヶ原に向かってはいたが、ぬかる
んだ道や増水した川に行く手を阻まれ、大砲
の移動にも手間取り到着が遅れていた。
 奥平はうつむいて答えた。
「まだ到着しておりませぬ」
 その時、突然、山のふもとからときの声が
上がり、そのうち怒号に変わった。
 先に動いたのは東軍だった。
 家康が、合戦を話し合いで終結させようと
する雲行きに、あせったのは家康の家臣だっ
た。
 このまま終わってしまえば徳川家にはなん
の戦功もなく、豊臣恩顧の諸大名の発言権が
残ってしまう。それも、秀吉と血縁関係のあ
る十九歳の秀秋一人に手柄をあげられたでは
面目丸つぶれだ。そして、この優勢な状況が
楽勝できるという驕りを生んだ。
 ここで西軍を一気に粉砕して徳川家の世に
しようと、先鋒を任された福島正則をさしお
いて、松平忠吉と井伊直政が抜け駆けしたの
だ。
 それを迎え撃つ宇喜多隊が、応戦をしたこ
とで、戦いが開始された。
 刃を交える音や銃声、爆音がけたたましく
鳴り響く。
 奥平は、見えない外のほうに向き、焦って
つい声にした。
「始まった」
 松尾山のふもとを警戒していた兵卒が、城
内に響き渡るように叫んだ。
「徳川勢が攻め手。先鋒は井伊直政殿」
 秀秋はため息をついた。
(東軍が……。話し合って降伏させればよい
ものを。まだ自分の息子も来んのに……。し
かし、この爆音。雨でも新型の大砲は使える
のか。まさかもう火箭を使っているのか)
 この時もまだ、天候は東軍に不利な激しい
西風と雨が降っていて、そのうえ霧がたちこ
めようとしていた。
 戦場では、家康が大砲の性能を過大評価し、
その有効な使い方も分からないまま撃たせよ
うとしていたが、強い風雨で思うように撃て
ない。
 このことが大砲を最強の武器ではなく、お
荷物にしてしまった。そうしむけたのは、三
成と吉継の謀略で、これを見越して西軍は野
戦をすることを選び、大砲の射程距離の外に
陣取って動かなかったのだ。
 東軍の軍事顧問になったアダムスは、航海
士だったので大砲の使い方までは分からず、
アダムスと同じくリーフデ号に乗っていた砲
術師、ヤン・ヨーステン(本名、ファン・ロー
デンスタイン)は、秀忠に同行していた。
 日本人で大砲を使えそうな加藤清正などは、
関ヶ原から遠ざけられていた。
 東軍の部隊は、自分たちが圧倒的な優勢だ
と思い込み、弾幕と強い風雨の中で、戦功争
いをして突き進んだ。
 これに対して西軍は、島津義弘の運び込ん
だ火箭が、雨の中でも飛ばすことが出来、し
ばらく飛ぶと、爆発炎上して、東軍の将兵を
広範囲になぎ倒していった。
 東軍の将兵が、大砲の爆音だと思っていた
のは、この火箭が爆発する音だった。