2013年6月5日水曜日

秀吉の暴走

 諸大名は秀秋の考えを理解できたが、それ
よりも秀吉の逆鱗に触れるのが怖かった。
 秀吉は、養子にした秀次やその妻子でさえ
も殺した。その秀吉に逆らえば、日本に残し
た自分たちの妻子も殺されるのではないかと
いう心配があったからだ。
 しばらくすると、秀吉は秀秋を見限り、自
ら命令を諸大名に発するようになった。
 秀秋を除く日本軍は二つに分けられた。

全羅道方面軍
 大将、宇喜田秀家
    島津義弘、忠恒の父子
    小西行長、藤堂高虎
    蜂須賀家政

慶尚道方面軍
 大将、毛利秀元
    吉川広家、安国寺恵瓊
    加藤清正、黒田長政
    鍋島直茂、勝茂の父子

 このどちらの方面軍も、忠清道を目指すこ
とになった。
 こうして、文禄の朝鮮侵攻と同じ過ちを繰
り返す軍事行動が開始された。ただ一つ違っ
ていたのは、侵攻する先々で皆殺しにしてい
くというものだった。
 秀吉は朝鮮の日本化を考えていた。そのた
め、日本に恨みを抱くような者は一人残らず
殺すことにした。
「平家を思い出せ。豊臣の世を平家の二の舞
にするな」
 秀秋との対立で誰も信用できなくなってい
た秀吉は、朝鮮人を殺したという証拠に、耳
や鼻をそぎ落とし、塩漬けにして日本に送る
ことを要求した。
 どんな凶行も慣れればそれが普通になって
くる。
 最初はためらっていた将兵も、次第に慣れ
てくると耳や鼻を集めることが目的となり、
その数を競うようになった。そのため、生き
たまま耳や鼻をそぎ落とされた朝鮮人もいた。
 秀吉の要望どおり、日本軍は侵攻を続け、
慶尚道、全羅道、忠清道を制圧した。
 するとやはり、兵糧の確保が難しくなり、
その上、明軍の参戦や冬が近づいたことで侵
攻は止まった。
 やがて日本軍は、反撃を阻止するための築
城に専念することになった。
 加藤清正は蔚山(ウルサン)の地に縄張り
し、毛利秀元、浅野幸長らが中心となって築
城を開始した。
 これに動員された兵一万六千人が、二ヶ月
余りという短期間で蔚山城を完成させた。
 突貫工事のため強固な城壁はあったが、丸
太がむきだしの荒々しい砦といった感じの城
になった。それでも城には、明から奪い取っ
た大砲が十六門、配備されていた。
 この蔚山城が完成すると、幸長の部隊が駐
屯し、清正、秀元の部隊は兵糧などを調達す
るために退去した。
 ところが、その機会をうかがっていた明・
朝鮮連合軍が手薄になるのを見計らって、どっ
と攻め寄せてきた。
 蔚山城襲撃の知らせを聞いた清正は、すぐ
に救援に駆けつけ、夜陰にまぎれて城に入っ
た。
 この時、籠城する日本軍の兵三千人に対し
て、明・朝鮮連合軍は兵六万人の大軍が集結
していた。
 明・朝鮮連合軍は、何度か城の攻撃を試み
たが、籠城兵が大砲を撃ち、その威力を知っ
ていたため近づくことができず、落城させら
れなかった。
 そのうち城内に水や食糧が乏しいことが分
かり、明・朝鮮連合軍は、城を完全に包囲し
て兵糧攻めにでた。
 籠城兵は兵糧が尽きると、軍馬や城の建築
材で、食べれそうなものなら何でも口にした。
 次第に城内には何もない寒々とした山小屋
のような状態と化していった。
 凍える手に息を吹きかけて、身体を丸めて
いた日本軍の籠城兵がばたっと倒れ、石像の
ようにもう二度と動くことはなかった。その
顔はやせ衰え、無精ひげを伸ばして、死して
もなお目をぎらつかせていた。
 意識がもうろうとした別の兵卒が、はいつ
くばって窓に近づき、外の様子をうかがった。
 城の外には、明・朝鮮連合軍の将兵らが、
攻城兵器を準備し、総攻撃の戦闘態勢を整え
るためあわただしく動いていた。