2013年6月6日木曜日

困難な救出

 蔚山城の最上階にある座敷の一角では、どっ
しりと座って微動だにしない加藤清正がいた。
 その顔はやつれ、髭が長く伸びてはいるが
武人の風格はかろうじて保っていた。
 時折吹いてくる風が、攻撃の破壊でできた
隙間から入りこみ、清正の髭を揺らした。
 城を包囲した明・朝鮮連合軍が今にも総攻
撃を仕掛けてきそうな様子に、清正のもとへ
集まった兵卒らがざわついた。
「うろたえるな。助けは必ずやって来る」
 清正の勇ましい言葉にも、腹をすかせて凍
えていては、一時しかもたない。それは清正
にしても同じことだった。
 兵卒らは、城の外を恨めしそうに眺めて、
援軍が到着するのを今か今かと待ち望んでい
た。
 実はその頃、すでに日本軍は救援に駆けつ
けていたのだ。しかし、人質状態になってい
るのが明、朝鮮にも名を轟かせた清正では、
うかつに突撃できなかったのだ。
 人質救出の解決方法は二通りある。
 一つは、人質の救出を最優先に考え、敵と
交渉する。これには交渉に時間がかかり、場
合によっては敵の要求を受け入れることにな
る。
 もう一つは、敵と交渉はせず、状況を把握
して、攻撃できる機会があれば、人質がいよ
うと行動を起こし、短時間で解決する。これ
に失敗すると人質が死亡することになる。
 清正は、秀吉が子供の頃から目をかけてい
た秘蔵っ子で、今は日本にとっても武士の鏡
であり、生きた英雄だった。そのため、日本
軍はなんとか無事に助け出そうと手立てを慎
重に検討していたのだ。
 一方、釜山浦城にいた秀秋のもとには、石
田三成から再三、朱印状が届き、秀吉がすぐ
に帰還するように命じていることが伝えられ
ていた。しかし、それを総大将の権限で引き
延ばしていた。
 そうした頃に、蔚山城が包囲されたという
知らせが入った。
 秀秋は、救援部隊が向かっていると聞いて
いたので、その解決の報告を待って、日本に
帰ることにした。
 もうすでに本格的な冬がやって来ていた。

 慶長三年(一五九八)一月

 年が明けても、蔚山城の包囲は解けなかっ
た。
 これには秀秋よりも、小早川家の家臣たち
がイライラしていた。
(大殿なら味方を見殺しにはしない)
(われらは何のためにここまで来たんだ)
 それは小早川隆景という勇将の跡を継いだ、
未熟な秀秋に対する不満でもあった。
 秀秋はこの時を待っていた。
 戦うためにはそれなりの覚悟がいる。
 死ぬかもしれないという不安があれば必ず
負ける。だから大義名分が必要であり、やる
気にさせることが重要なのだ。
 家臣たちの様子を見て、ようやく秀秋は出
陣を決めた。
 そのことを知った山口宗永が強く引きとめ
たが、「われらが着いた頃には、すでに清正
殿らは救出されているだろう」と秀秋は説得
した。
 この間にも、救援に向かう秀秋の部隊の準
備は始まっていた。
 その誰の顔にも清正らを救出するというや
る気がみなぎっていた。
 部隊には、文禄の朝鮮出兵に参加した小早
川家の家臣を中心に、豊臣家の元家臣も加わ
り、兵六千人で組織された。
 秀秋は、宗永と残りの家臣に釜山浦城の留
守を任せて出陣した。