2013年7月31日水曜日

伴侶

 亀は、まだ十一歳の少女だったが働き者で、
もの静かな町娘だった。
 道春が亀に挨拶をすると、最初は警戒して
いたが、毎日、挨拶していると、亀も挨拶を
返すようになった。
 亀の父親の宗意は、道春のことをどこかで
聞き知っていて、すぐに打ち解けた。
 しばらくして、道春が思い切って、宗意に
亀を妻にめとりたいと申し出ると、宗意は一
瞬ためらったが、この頃にはすでに、亀が道
春の弟子たちとも顔なじみで、家族のように
なっていたので快く承諾した。
 婚礼は年の明けた慶長十四年(一六〇九)
の春に行われた。

 駿府では、慶長十二年(一六〇七)の冬に
亡くなった相国寺・承兌長老の後任に、南禅
寺金地院の以心崇伝がなっていた。
 崇伝は、本格的に始まった朝鮮使節使との
外交文書を書くのを主な仕事としていた。
 目立たなかったが、承兌長老とは師弟関係
にあり、まだ残る承兌長老の影響力を利用し
て南禅寺の興隆を狙っていた。
 道春より年上だったが、道春のほうが先に
幕府に入ったこともあり、低姿勢で言葉を交
わした。
 ある日、崇伝が駿府城の廊下を歩いている
と、前から道春が書物を山のように重ねて、
ふらつきながらやって来ていた。
「道春殿、おはようございます。書物が重そ
うですが、お手伝いしましょうか」
「これは、崇伝殿でしたか。おおっと、おは
ようございます。お心遣い恐縮ですが、大丈
夫です。毎日のことですから、お気にならさ
ないでください。おおっと」
「そうですか。では、お気をつけて」
 通り過ぎる道春の後姿に、崇伝は苦笑した。
(やれやれ、あのような者が仕官できるよう
じゃ、幕府というのもたいしたことはない。
わしの出世も早いじゃろう)
 そうした日々が続いたある日、長崎奉行の
長谷川藤広に連れられて明の商人、周性如が
駿府城にやって来ると、家康に謁見した。
 ちょうどその時、道春も家康の側に座って
いた。そこで、道春は筆談により、周性如の
通訳をすることになった。
「この者が申すには、商船で航行中に、日本
の海賊に襲われることがあり、また、明の沿
岸にも現れて攻撃されることもしばしばある
ようで、困っているということにございます」
「その者に伝えよ。このことは、この国と明
との交流が途絶えているためのいさかいで、
こちらとしては交流を再開したいと思ってお
る。しかし、明が受け入れようとしない、と
な」
 道春が、家康の言葉を漢文に書いて周性如
に見せると、周性如も漢文で返答した。それ
を道春は読んだ。
「私の国では、他国との商売は認められてい
るはずで、私の住む福建の役人に、勘合印を
お与えください。と申しております」
「あい分かった。すぐに書面を書くので、そ
れをその役人に見せるように伝えよ」
 それが分かった周性如は、ほっとした様子
で退席した。
 家康は、何気なく道春に命じた。
「道春、そなたがあの者に渡す書面を書け」
「お恐れながら、それは元佶長老か崇伝殿で
なければ書けない慣わしになっておるはずで
すが」
「よいよい。後で崇伝に清書させればよいの
じゃ」
「ははっ、分かりました。それではすぐに書
いてまいります」
 こうして、禅僧以外が書く始めての外交文
書を道春が起草することになった。そして、
できあがった書簡の下書きが崇伝に手渡され
た。それを読んだ崇伝は、その内容の高尚な
ことに驚いた。
(これは、まるで外交文書の手本のような書
き方。これをあの道春が書いたのか……)
 崇伝は、書簡を清書しながら、明の商人と
はいえ、明との外交が自分には何も知らされ
ずにおこなわれ、道春が重用されていること
に、出世の道が楽ではないことを思い知らさ
れた。

2013年7月30日火曜日

新たな道

 しばらくたったある日、駿府に竹千代のお
守役になった福が、伊勢参りに行く途中、ど
うしても家康に、先の竹千代の病気回復のお
礼が言いたいと立ち寄った。
 家康は喜んで迎え入れた。
「福、伊勢参りとな」
「はい。竹千代様の健康祈願をしようと思い、
やって参りました。しかし、その前にどうし
ても竹千代様の病が、大御所様からいただい
たお薬で回復したことを、お礼申し上げたい
と思い、お忙しいとは思いましたが、お恐れ
ながら参上いたしました」
「それは江戸城で何度も聞いたではないか。
こたびはそれではないのであろう。江戸では
言えないことでもあったか。申してみよ」
「ははっ。恐れ入ります。では率直に申させ
ていただきます。私は竹千代様のお守役とし
て、竹千代様に世継ぎとしての教育をしてい
いのか、家臣としての教育をすればいいのか
迷っております。ご城内では、すでに世継ぎ
は国松様との噂が聞こえてきます。もしそう
ならば、竹千代様に世継ぎとしての教育をす
れば、争いのもとになります。しかし、どう
して竹千代様が世継ぎではないのか分かりま
せん。大御所様が竹千代様の病気回復に心を
砕き、お薬を調合して下さったのは、なんの
ためだったのか。もしや、大御所様にはまだ
このような噂が、お耳に入っていないのでは
ないかと思い。お恐れながら、お聞きしたかっ
たのでございます」
「そのような噂があることは存じておる。し
かし、国松が世継ぎになるなど、まだ決めて
はいない。……そうじゃ、竹千代はわしが調
合した薬で回復したのじゃ。しかし、福の懸
命の看護もあってのことじゃ。それを無にす
るようなことは、けっしてせんぞ。それに国
松はお江与が育てている。母に甘やかされた
国松では将来が心配じゃ。よし決めた。世継
ぎは竹千代じゃ。福、竹千代に世継ぎとして
の教育をするよう頼む」
「ははっ。もったいなきお言葉。福の命に代
えても、立派なお世継ぎとなるよう、きびし
く育ててまいりたいと思います」
 このことがあって家康は突然、江戸城に現
れ、竹千代が世継ぎと宣言した。
 誰にも有無を言わせない決定に混乱する隙
を与えず、秀忠もそれに従うだけだった。

 道春は、徳川家の書庫、駿河文庫に納める
書物を購入するため、長崎へ行った。
 目当ての書物を購入して京に帰って来ると
良い知らせが二つ入った。
 一つは、稲葉正成が幕府に仕官できたとい
うのだ。もともと家康には高く評価されてい
たのだが、主君、小早川秀詮の乱心で逃亡し
たという印象が強く、秀忠には良く思われて
いなかった。しかし、福の竹千代への命がけ
の献身と道春の登場により、秀詮に関する誤
解がとけ、逸材をこのまま埋もれさせておく
のは惜しいという判断に変わり、しばらく働
きぶりを見たうえで、美濃に一万石の領地が
与えられたのだ。
 もう一つは、以前、道春が江戸から戻る時
に、幕府から駿府と京に宅地と邸宅の建築費
が与えられていたのだが、その邸宅が完成し
たという知らせだった。これで藤原惺窩や兄
の木下長嘯子を呼んで、正成や福らと連絡を
とりあうことも、弟子を増やして幕府に送り
込む人材を育成することもできるようになっ
た。
 喜びもつかの間、道春は、駿府へ長崎で購
入した書物を持っていくと駿府城が火災にあっ
たと知らされた。
 幸い家康は無事で、駿河文庫も火災から免
れた。そこで道春は、駿府城が再建されるま
で、しばらくは京の邸宅にいることになり、
書物を駿河文庫に納めると、また京へ引き返
した。
 この間、道春はしばしば家康に呼ばれて赴
き、兵法や漢方薬の書物を読んで話しをした。
 その時、家康が唐突に聞いた。
「ところで道春。そなたはいくつになる」
「はっ。二十六になります」
「まだ一人身なのであろう」
「はい」
「そろそろ良い妻をめとって、身を固めては
どうじゃ」
「そこまでお気にかけていただけるとは、恐
れ入ります。しかし、こればかりは縁のもの
ですから、いたしかたがありません」
「そうじゃな。まあよくよく探してみるが良
いぞ。子や孫はかわいいものじゃ」
「ははっ」
 道春は、どこかで生き延びている小早川秀
詮の時の妻や子らのことが、いつか明るみに
なるのではないかと心配になった。そこで、
すぐに娘を探し、荒川宗意の娘、亀と出会っ
た。

2013年7月29日月曜日

惺窩との再会

 朝鮮使節団は江戸から帰る途中に駿河に立
ち寄った。それを知った道春は、藤原惺窩と
再会し、二人で丁好寛に面会した。
 会話は全て筆談で行われ、主に朱子学につ
いての質問をやり取りした。しかし、これは
口実で、道春の目的は、惺窩と今後のことを
話し合うためだった。
「羅山、しばらく見ぬうちに儒者らしくなっ
たな」
 儒者は坊主頭にしないのだが、道春が坊主
頭になっていたので、惺窩はいたずらっぽく
皮肉をこめてそう言って笑った。
「お恥ずかしいかぎりです。大御所様から道
春という号も賜りました」
「そうらしいな。まあよい。幕府に入れたの
だから」
「その幕府なのですが、秀忠様が将軍になら
れて、表向きは平穏に見えますが、その実権
はまだ大御所様にあり、幕府の本当の姿が見
えないのです」
「そうじゃな。このままでは、太閤様と秀次
殿の二の舞になるかもしれん」
 秀吉は、晩年に関白を養子の秀次に譲り、
太閤となって朝鮮出兵に専念するつもりでい
たが、それに失敗し、秀次との間に不和が生
じたため、秀次を切腹に追い込んだ。
「私もそれを心配しているのですが、秀忠様
は大御所様の実子ですし、それほど愚鈍でも
ないように見受けました。それでもやはり争
うことになるのでしょうか」
「ふむ。愚鈍ではないからこそ、その能力に
目覚めた時が恐ろしい。そういう子はどうし
ても父を超えようと躍起になる。そして周り
の家臣もそれを望むであろうからな。早いう
ちに、次の後継者を決めることじゃ」
「もう後継者を決めるのですか」
「そうじゃ、大御所様の健在なうちに後継者
を決めて、秀忠様をその後見人にする。そう
すれば、秀忠様や家臣に無用な欲望を抱かせ
ず、秀忠様も後見人として実権を握ることが
できるので、自尊心を傷つけることもないだ
ろう」
「それで、後継者は竹千代様にすると」
「そうも簡単にはいかんようじゃ。お江与の
方様は、自ら育てておいでの弟君の国松様を
溺愛しておられる。秀忠様も利発なのは国松
様と見ておられるようじゃ。それに、竹千代
様には健康に不安がある」
「そうなると、福の献身は水の泡になります
ね」
「後は大御所様がどう判断されるかじゃな」
 道春は惺窩の助言で、これからやるべきこ
とを見つけた。

 家康は、道春が丁好寛に会ったことを知る
と、丁好寛に慶長の朝鮮出兵で総大将となっ
た小早川秀詮と分かったのではないかと心配
した。そこで、すぐに道春を呼んで、どんな
話しをしたのか問いただした。
 道春は朱子学について二、三質問し、あま
り目新しい答えは得られなかったと報告した。
 それを聞いた家康は、取り越し苦労だった
ことにほっとした。そして話題を変えて聞い
た。
「ところで道春、どうじゃった、秀忠の器量
は」
「はっ、上様は才知に溢れ、大御所様に優る
とも劣らない器量とお見受けいたしました」
「それは、ちと言い過ぎではないか」
「いえ、上様の器量は良いのですが、その器
量を発揮する機会がないため、眠れる龍となっ
ておられるように思います」
「眠れる龍か。して、その龍が目を覚ますと、
どうなる」
「お恐れながら、今のままでは上様と大御所
様との間に不和が生じるのではないかと思い
ます。もしそうならなくても、江戸と駿府で
家臣同士の争いになるやもしれません」
「わしの考えと同じじゃ。それで道春ならど
うする」
「今後のことを考えますと、一方が動けば、
他方は静まるのがよろしいかと思います。こ
れが難しいのであれば、もう一人加えて三位
一体になるのも、一考に価するかと思います」
「三位一体とな。それは世継ぎのことか」
「さすがわ大御所様。ご明察のとおりにござ
います」
 この時、家康は竹千代と国松のどちらを世
継ぎにするか、まだ迷っていた。

2013年7月28日日曜日

江戸

 慶長十二年(一六〇七)四月

 道春は、駿府城にいる家康に呼ばれた。
「道春、どうじゃ。少しはこの地に慣れたか」
「はっ。慣れましてございます。少し領地を
巡りましたが、見るもの何もかも、目を見張
るものばかりで、大御所様のご意向がよく反
映されていると思います」
「そうかそうか。火箭には驚いたろう」
「ご存知でしたか」
「ふむ。わしは何でも知りたがる癖があって
のぅ。道春もそれを分かって、領地を見て回っ
たと思うが」
「恐れ入ります。何もかもお見通しで」
「それはそうと、近く江戸に向かう。道春も
同道せい」
「ははっ」
「竹千代の様子も気になるところじゃが、道
春には秀忠に会ってもらう。あれはどうも頼
りがない。道春の知恵を少し分けてほしいも
のじゃ」
「恐れおおいことにございます。上様に拝謁
する栄誉を賜り、ありがたき幸せにございま
す。大御所様のご懸念が少しでもなくせるよ
う、微力ながら尽くしてまいりたいと思いま
す」
「よろしく頼む」

 それからすぐに江戸に向かい、三日後の四
月十六日に到着した。そして翌日、道春は江
戸城に登城して、秀忠に拝謁した。
 秀忠は、広間で平伏した道春の遠く前の上
座に着座した。
「苦しゅうない。面を上げい」
「はっ」
 秀忠はすぐに、道春を手招きして、近くに
来るように促した。
 道春は、側に置いた沢山の書物をかかえ、
座ったままにじり寄ったが、秀忠の手招きが
早くなり、立って近づいた。
 秀忠は、儒者の頭巾を被った道春の顔を怪
訝そうに眺め、何度か会ったことのある小早
川秀詮の顔を思い出して見比べていた。
 二人の間にしばらく沈黙があり、たまりか
ねた道春が書物の一つを選んでいると、秀忠
が唐突な質問をした。
「何があった。なぁ、何があったのじゃ」
「お恐れながら、何が、と申されますと」
「関ヶ原でじゃ。東軍が勝ったのじゃろ。な
のに、なぜ父上は負けたような剣幕で怒って
おったのじゃ。なにもわしは、わざと遅れた
わけではない。知らせが届いた時にはすでに
間に合わなかった。しかも、父上から預かっ
た大砲は運ぶのが大変でな。その上、天候が
悪くて地のぬかるみで思うように進めなかっ
たのじゃ。それなのに……。誰も本当のこと
を口にしようとはせん」
「負けたのです。大御所様は負けを認められ
たのです。俗人は、潔く負けを認めず、その
ため反省もいたしません。だから同じ過ちを
繰り返すのです。しかし、大御所様は違いま
す。素直に負けをお認めになり、そのどこに
問題があるのかを調べ、常に反省し、改めて
おられます。かつて大御所様は、三方ヶ原の
戦いで、武田信玄に完敗しましたが、そのお
り、ご自身の苦悩した姿の絵を描かせ、負け
たことを忘れないように、常に見ておられる
と聞きます。それは上様がご存知のことと思
います。だからこそ、天下を治めることがで
きたのです。それが大御所様の偉大なところ
なのですが、俗人にはそれがまったく理解で
きないのです」
「そなたには、それが分かったということか」
「あっ、いえ。私もなかなか負けを認めるこ
とができず。同じ過ちを繰り返す日々にござ
います」
「そっか、それで、そなたは、父上を助ける
気になったということか」
「……」
「よう分かった。これですっきりした。確か
にそなたの言うことはもっともじゃ。私も父
上を見習うことにしよう。道春か、良い号じゃ
な」
「ははっ」
 二人の間にあった壁が、崩れるように打ち
解けあった。
 その後、道春は秀忠に「六韜、三略」「漢
書」などを読み聞かせ、過去の有名な戦を例
にしてその要諦を説いた。
 秀忠はいちいちうなずき、自分のこれまで
の戦で疑問を感じていたことを道春に問い、
その過ちに気づいて反省した。

 道春が江戸に来て十五日目、明日は駿府に
戻るという日に、秀忠が唐突に切り出した。
「ところで道春には弟がおるそうじゃな」
「はい、三人おります」
「道春は父上の側にいることになるから、わ
しはその弟の一人、信澄を側に置きたい。す
ぐに江戸に呼べ」
「上様が信澄のことをご存知とは恐れ入りま
す。帰りましたらすぐに仕度をさせます」
「道春とはしばらく会うこともないだろうが、
父上をくれぐれもよろしく頼む」
「ははっ」
 次の日、道春は来た時と同じように、家康
に同行して駿府に戻った。
 それと入れ替わるように、朝鮮からの使節
として、正使の呂祐吉、副使の慶セン、従事
官の丁好寛の三使とその他、二百六十余人が
江戸に到着した。そして、秀忠に朝鮮王の書
簡を渡した。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、冷えきった日本
と朝鮮の関係に、ようやく改善の兆しがみえ
てきた。しかし、これは同時に豊臣家に対す
る責任追求の始まりでもあった。

2013年7月27日土曜日

道春

 伏見城で羅山が来るのを待っていた家康は、
竹千代の病が自分の調合した薬で治ったと聞
き、上機嫌だった。
 家康は、羅山が広間に入り、座ってひれ伏
そうとすると、それを制するように喋り始め
た。
「羅山殿、来年の早々、駿府に来てもらいた
い。しかし、天海がな、今の羅山殿をそのま
ま駿府に入れたのでは、必ず災いを呼ぶと申
してな。そこで二つ頼みがある。一つは、剃
髪してもらいたい。そもそも、侍講は僧侶の
身分でなければならない慣わしで、町人の身
分ではまずいからじゃが、羅山殿の今の姿を
旧臣が見れば、どうしても小早川秀秋殿の影
がつきまとう。それを断ち切るためでもある。
二つ目は、今の号、羅山を改め『道春』と名
乗ることじゃ。これも『羅』が、秀秋殿のま
とった緋色の羅紗地の陣羽織を『山』が、関ヶ
原の松尾山を思い起こさせるからじゃ。わし
にとって秀秋殿は、関ヶ原の合戦で勝利に導
いた大恩人じゃと思っておる。その秀秋殿の
『秀』は人より秀でると読みとれるが、道春
の『道』は人を導くという意味じゃ。これか
らは人より秀でた者になるより、人を導く者
となって欲しい。そして、天海が言うには、
秋は西を意味するそうじゃが、秀秋殿は合戦
のおり、東軍であった。そして、羅山殿はこ
れから東に向かう。東は春を意味するから『道
春』とするのがもっとも良いということじゃ。
いかがかな、受け入れてもらえるだろうか」
「ははっ。そこまで私のような者に、お心遣
いをいただけるとは、ありがたき幸せにござ
います。道春の号、謹んでお受けいたします。
剃髪も、もちろんそうさせていただきます。
しかし、お恐れながら、私の師である惺窩先
生には大変な恩があります。その恩を忘れな
いためにも、私は儒者の心持ちで駿府に赴き
たいと思います。そこで、惺窩先生に習い、
儒者の頭巾を被ることをお許しください」
「おお、それは良い考えじゃ。見た目も生ま
れ変わって、誰も羅山殿に疑念を抱く者はお
らんじゃろう」
「大御所様。私は、すでに家臣となった身。
道春とお呼び下さい」
「そうか。では道春、駿府で会おう」
 こうして、羅山改め道春は、慶長十二年(一
六〇七)三月になって、ひとり京を発ち、家
康の本拠地、駿府に旅立った。
 駿河・駿府城に入った道春は、三百俵の待
遇で召抱えられ、後に駿河文庫と呼ばれるよ
うになる、家康の所蔵する膨大な書物の管理
を任された。
 道春は書庫の鍵を受け取ると、すぐに書庫
に入った。そこは、薄暗くひんやりとして、
まるで牢獄のようだった。
 小早川秀詮の頃からしてみれば、五十一万
石の大名から三百俵の僧侶扱いと、奈落の底
に落ちたような違いだったが、道春にみじめ
さはなかった。
 今までは、豊臣家や毛利一族という後ろ盾
があり、その力を利用していたに過ぎない。
 これからが自分の力を発揮する時と、気力
が増してきた。
 しばらくは家康のお呼びもかからず、暇な
時は遠出をして、駿河の各地を見て回った。
 ちょうどこの頃、土木工事の名人、角倉了
以が富士川に船路を整備していた。
(これが大御所様の統治のやり方か。すごい
ものだ)
 別の村に立ち寄った時、道春の足が止まっ
た。
 駿河では火薬の原料が産出されるため、火
薬作りが盛んだったのだが、その一角で見覚
えのあるものが作られていた。
(火箭ではないか)
 関ヶ原の合戦の時、島津義弘の部隊が大量
に運び込んだ火箭に、東軍は苦しめられ、家
康は敗北を認め、退却しようと考えるほど追
い詰められた。そんな強力な武器が、今、目
の前で作られていたのだ。
 道春は、始めて見るといった物珍しいそう
な顔で、作業をしていた者に尋ねた。
「これはなんですか」
「これは狼煙ですじゃ」
「狼煙」
「そうでございます。これを立てかけて、こ
こに火をつければ空高く上がり、白い煙がパッ
と出るのでございます」
「武器ではないのか。以前、薩摩で見たこと
がある物に似ているようだが」
「あなた様は、薩摩をご存知でしたか。前は
戦いに使われたこともあると島津の方々はおっ
しゃっていましたがね」
「これは、島津の者に教わったのか」
「そうですじゃ。先の合戦で落ち延びた島津
の方々に、大御所様が命じられたと聞いてお
りますが。ところで、あなた様はどなたで」
「私は道春と申します。大御所様の側に仕え、
書庫の管理をしている者で、けっして怪しい
者ではありません」
「そうですか。でも、あまりこのことは他言
せんでくだされ。喋っちゃならんかったかも」
「もちろん。安心してください」
 道春は、島津隊が西軍でありながら薩摩の
領地を安堵されたことに疑問を抱いていたが、
家康は領地の安堵と引き換えに、火箭の技術
を手に入れたのだと納得した。そして、西軍
の敗北が決定的となり退却しようとした島津
隊を小早川隊などが追撃して、大多数の将兵
が姿をくらましたが、そのからくりが分かっ
てニヤリと笑った。

2013年7月26日金曜日

福の献身

 福の父は、明智光秀の家老だった斉藤利三
で、竹千代の母である江与の叔父は、本能寺
の変で光秀に暗殺された織田信長だった。そ
の因縁から江与は、福を疎ましく思っている
と周りはみていた。
 江与が、次男の国松に乳母を決めず自分で
育てるという前例のない行動に出たことから、
それが真実となっていた。そして、竹千代の
高熱が出たとなれば、国松を世継ぎにしよう
とする江与の仕業と噂される。
 これが江与と福の対立という構図をさらに
助長した。

 羅山は、手紙を読み終わり、長嘯子の方に
向いて言った。
「万が一、竹千代様が亡くなったら、福も失
態の責任をとって自刃するとあります。その
災いが稲葉家にふりかからないように、正成
とは離縁するそうです。そして巫女となり、
お祈りするともあります。福はこんなに強い
女だったでしょうか」
「会うたびに、ほんに肝のすわった女になっ
ていくと思うよ。まるで竹千代様の母のよう
になっていく」
「そうだとしたら、これは良い機会かもしれ
ません。なんとしても竹千代様には全快して
もらわなければ。私は大御所様に薬材を取り
寄せるよう命じられ、手配しているところで
す」
 菅得庵が曲直瀬玄朔から手に入れた牛黄な
どの薬材は、家康のもとに届けられ、家康自
らの調合により薬となって、早馬で秀忠のも
とに届けられた。
 間もなく、竹千代の高熱は下がり、快方に
向かった。
 これを世間では「大御所様の御投薬により、
竹千代様の病が治った」と噂が広がり、家康
の意外な一面が知られるようになった。
 家康は、福の日夜をとわず、身をていした
看病に心を動かされた。そこで家康は、側近
のもっとも信頼している陰陽道を極めた僧侶、
南光坊天海に相談して、福を竹千代の母とし
た。
 これは、かつて豊臣秀吉と淀君の間に生ま
れた後の秀頼を、秀吉の家臣、松浦重政が拾っ
たことにし、名も拾い子ということで拾丸と
名付けたのと同じように、病魔除けの意味が
あった。
 このことで福は、竹千代のお守役に任命さ
れ、永く竹千代のもとに留まることになった。
 そして、羅山も家康に呼ばれた。

2013年7月25日木曜日

学問の限界

 外は急に大雨になり、雷も鳴り始めたので、
集まっていた庶民たちがそそくさと帰りだし
た。
 しばらくして羅山が戻り、ハビアンに言っ
た。
「これ以上論争を続けても私たちに有益なだ
けで、ハビアン殿には何も得るものがないで
しょう。よいですか、私たちは何千年も、こ
の考え方を洗練させて生活してきた。それで
こそ真理なのです。ハビアン殿の言われるこ
とはまだ新しい。洗練されて真理になるには
まだまだ時間がかかるでしょう。それを今す
ぐこの地に広めようとするのは国を乱し、無
駄な血を流すことになります。それはハビア
ン殿も望んでいないはず。ここはひとつ怒り
を静め、今を生きてみてはどうですか。学問
は知識だけ詰め込んでも意味がない。実際に
役に立ってこその学問です」
 この言葉はハビアンだけでなく信澄や貞徳
の心にも響いた。
 人間が空を飛べるようになるのはまだ先の
ことで、異国はその開拓精神で、知識だけが
はるかに先をいっていた。しかし、羅山は大
地に生きる者としての限界を素直に受け入れ
ようとしていた。それは、羅山の中にある小
早川秀詮の生き方でもあった。
 雨がやむのを待って、三人はハビアンに見
送られ、南蛮寺を後にした。
 羅山はハビアンとの論争で、イエズス会の
信者拡大により苦境にあった既存の宗教界か
ら支持されるようになり、羅山の幕府仕官に
難色を示していた相国寺の承兌長老、円光寺
の元佶長老らの不満も解消した。しかしこの
頃、徳川家では別の問題が起きていた。
 秀忠の長男、竹千代が高熱を出したのだ。
 先に秀忠の正室、江与は、次男の国松を産
み、乳母を決めず、自分で育てるという前例
のない行動にでた。そのため、周りからは将
来、竹千代との間で家督争いが起きるのでは
ないかと心配されていた。その矢先の竹千代
の病気は、色々な憶測を呼んだ。
 秀忠は、その悪い噂を打ち消そうと、多数
の侍医に診せ、祈祷までしたが、竹千代の病
状は一進一退を繰り返していた。
 そんなことが起きているとは知らない羅山
は、いつものように伏見城にある家康所蔵の
書物を閲覧していた。そこへ家康が青ざめた
顔をしてやって来た。
「羅山殿、竹千代が高熱で苦しんでおる。麻
黄湯やわしの煎じた薬を色々試したが回復の
兆しがない。何かよい漢方薬はないか」
 家康は、自ら薬草を調合するほど薬には詳
しかったが、この時は狼狽して何も考えられ
ないといった様子だった。
「竹千代様が高熱を出されているのですか。
それは一大事。しかし、幼子に薬はかえって
毒になることもあります。また、何から生じ
た熱なのか……」
 羅山はそう言いながら、書棚にあった「本
草蒙筌」「本草綱目」「神王本草経」などを
素早く探し出して調べた。
「牛黄は試されましたか」
「ごおう。いやそのような薬草は聞いたこと
がない」
「薬草ではありません。牛の体内から取り出
したものですが、めったに見つからないもの
です」
「そのようなものがあるのか。しかし、すぐ
に手に入らんのではどうしようもない」
「私に心当たりがありますので、手に入るか
すぐに調べ、あればお届けします。御免」
 羅山は家康の気持ちを察して、すぐに城を
出ると屋敷に帰り、弟子の菅得庵を呼んだ。
「得庵、将軍のお子の竹千代様が高熱を出さ
れているらしい。すぐに牛黄や高熱に効きそ
うな薬材を取り寄せてもらいたい」
「牛黄は貴重ですが、幼子なら少量で足りま
すね。分かりました」
「私はこれから行く所がある。得庵は手に入
れたら直接、大御所様の所へ持って行き、調
合の仕方を伝えよ」
「それより薬にした物のほうが良いのでは」
「いや、大御所様が調合することに意味があ
る。大御所様は薬について詳しいから心配な
い」
「分かりました」
 二人はすぐに別れ、得庵は恩師の曲直瀬玄
朔の診療所に向かい、羅山は兄の木下長嘯子
の屋敷に向かった。
 羅山が長嘯子の屋敷に行くと、それを待ち
かねていたように長嘯子が出迎えた。
「待っておったぞ羅山。二日前に福の使者と
名乗る者が、手紙を置いて行きおった。竹千
代様が高熱を出したと言っていたが、そんな
に深刻なのか」
「そのことは、その手紙に書いてあるのでしょ
う」
 羅山は、長嘯子から受け取った手紙を読ん
で、時々笑みもこぼれた。
「そんなに深刻そうではないな」
「いえいえ、かなり心配は心配です。竹千代
様の高熱が、ただの病気なら福のところの子
らも同じ年頃に熱を出して治っているので心
配はないということです。しかし、もし病気
でないとしたら……」

2013年7月24日水曜日

妙貞問答

 ハビアンは、このまま論争をしても信仰と
は関係ない話になり、キリシタンへの理解は
深まらないと感じた。そこで、自分の書いた
書物「妙貞問答」三巻を取り出し、羅山に読
むように促した。
 しばらく目を通していた羅山は、本の感想
を話し始めた。
「この地で永い間信仰されてきた宗教は、他
の宗教も認め、そのためキリシタンも容易に
受け入れてきた。だが、この本にはそれらの
宗教をいっさい認めず、キリシタンのみが真
に信ずるべき唯一の宗教と言わんばかり。ま
るで、宗教の天下統一を目論んでおられるよ
うですね。それではハビアン殿にお尋ねしま
す。キリシタンは『隣人を愛せよ』と説いて
いるそうだが、他の宗教はなぜ愛せない。認
めないのですか」
「それは、キリシタンが他の宗教から弾圧さ
れてきた歴史によるものです。ゼウス様は『争
う相手を愛せ』とは申してはおりません。人
は学んで成長するもの、昔から伝えられてき
たことや信仰が全て正しいとは限りません。
それを正して、人を導く者が必要ではありま
せんか。キリシタンが弾圧されても、この地
にまで広まっていることは、その役割がある
ことを、ゼウス様が示しているのです。羅山
殿が言われるように、宗教の天下統一は自然
の流れかもしれません。この地がまさにそれ
を体現してきたではありませんか。織田信長
公に始まり、豊臣秀吉公、そして、今の徳川
家康様へと、天下統一は民衆を安泰にするも
のです。他の宗教に統一を阻むものがあれば
それは廃れるのもしかたのないことです」
「そのゼウスとかいう、そなたらの天主が、
はたして信長公、秀吉公、大御所様と同じく
する者か、誰にも分からないのではないです
か。その者は争いの火種になるだけかもしれ
ん」
「ゼウス様は万物を創造された神です。自ら
お造りになった物をむやみに壊したいと思う
はずがありません。ただ、造った物は時がた
てば古くなり、用のなくなるものもありましょ
う。それらを取り除いているに過ぎません」
「ハビアン殿は『無用の用』をご存知ないよ
うだが、まあよい。では、取り除いた物はど
うなるのですか」
「どうなると申しますと」
「我らの信仰では、死後、再び生まれ変わる
のだが、そなたらはどう説かれているのです
か」
「死んだ物は土にかえるだけで、生まれ変わっ
たりはしません」
「では、天主も死ねば二度と生まれ変わった
りはしないということか」
「ゼウス様に死はありません。永遠不滅です」
「では、その天主を造った者は誰ですか」
「ゼウス様を造った者などいるはずはありま
せん。それが神なのですから」
「万物は天主が造ったというが、その天主は
造られたものではないと言い、万物は死ぬと
二度と生まれ変わらないが、天主は死ぬこと
さえないと言う。これはそなたらに都合のい
い作り話としか言いようがない」
 ハビアンは困り果てた。神の生みの親を言
い出せばどこまでいってもきりがない。ゼウ
スのような唯一絶対の存在を説くことなどで
きるはずがなかった。
 どう説明していいか考え込むハビアンに、
たたみかけるように羅山は問いただした。
「では、天の本体と天主とではどちらが先に
あるのですか」
「天主はもとになるもので先にあり、天の本
体は天主の用いるもので後にあります」
 羅山は念を押すように、部屋にあった器を
指差して言った。
「そこにある器は天主と同じで、その器を作
ろうと考えることが天の本体と同じだと言え
る。だから天主は後で天の本体こそ先になり
ます」
 それに同意できないハビアンは別の例えで
反論した。
「それは違います。よいですか、燈火があっ
て光が生まれます。燈火は天主で先にあり、
光が天の本体であり後ではありませんか」
「いやいや、燈火こそ天の本体であり、光は
天の本体がただ放っている後光にすぎません」
「ならば、羅山殿がおっしゃった器を作ろう
と考えることは一念が起きたことであり、そ
れより先に無念無想の境地があります。それ
が天主と同じです」
「無念無想は文字通り何も無いことで、それ
を天主と同じとは、天主が存在しないと言っ
ているようなのもです」
 羅山に加勢するように、松永貞徳が口をは
さんだ。
「いや、あははは。これは愉快。羅山先生が
疑問に思われることは核心をついて高尚だが、
それに対するハビアン殿の答えは未熟としか
言いようがない」
 これで論争はひとまず休憩となり、羅山は
小用で席をたった。
 不満のハビアンは信澄に八つ当たりした。
「儒者は自分たちが信じる太極と我らの天主
を混同している。このようなこと、若僧に分
かるはずはない。私は太極についてもよく分
かっている」
 信澄はその挑発にはのらず、ハビアンの動
揺をみて優越感で言った。
「怒り狂っているようですが、太極はハビア
ン殿が分かるようなものではありません」
 ハビアンは、羅山の弟でさえ落ち着き、全
てを見極めているような態度に、肝をつぶす
思いで黙った。

2013年7月23日火曜日

球形論争

 羅山と弟の信澄が、松永貞徳に連れられて
南蛮寺を訪れると、そこにいるほとんどが日
本人なのだが、どこか異国のような雰囲気が
あり、宗教を信仰している者が放つ独特のま
なざしで快く迎えられた。
 三人は信者に案内されて教会堂に入り、そ
の一室でハビアンが待っていた。
 四人は少しぎこちなく挨拶をすませると、
羅山の問いから論争が始まった。
「では、お尋ねいたします。ハビアン殿が言
われる大地が球形とするならば、その上下は
どうなっているのですか」
「お答えいたします。例えばこの地を毬(マ
リ)のようなものとお考えください。毬の表
面は私たちが暮らしている地上であり、毬の
中が地下となります。ですから毬の表面だけ
で上下ということはありません」
「それはおかしい。万物には皆、上下、裏表
がある。毬にしても、どこかを上とするなら
ばその反対は下となる。毬の中を下とするの
は詭弁ではないですか。私たちはこの地を平
らなものと考え、千年以上も何の不自由もな
く生活しているではありませんか。それに東
西南北もあります。これが球形ならどうなる
というのですか」
「東西南北は人が決めたものであり、地上に
はっきりと刻まれたものではありません。例
えば、舟で東に向かってまっすぐに進むとま
たもとの場所に戻ってきます。西に向かって
進んでも同じです。ですから毬のようにこの
地は球形なのです」
「それは東西南北がないと言われているので
すか。舟でまっすぐに進むと言われるが、海
には荒波もあり、風雨にあうこともある。自
分ではまっすぐに進んでいるようでも方角を
見失うことがある。地が平らでも一周すれば
元の場所に戻ることもあります。それだけで
この地が球形と言われるのは浅知恵としか言
いようがない」
 ハビアンは自分で球形だということを実際
に確かめたわけではなく、神父たちから聞い
たことを喋っているだけで、証明する術がな
かった。なお、室町時代には、すでにポルト
ガル人のマゼランが世界一周をしているが、
航路はまっすぐに進んだわけではなく、地が
球形というはっきりとした証明にはならなかっ
た。
 南蛮寺にはキリシタン信者だけではなく、
ハビアンと羅山が論争をしているという噂を
聞きつけた庶民も集まって来ていた。
 今度は、ハビアンが問いただした。
「では、羅山殿は日や月が丸いのをどのよう
に考えておられるのですか」
「丸いからといって球体とは限らない。丸い
盆や銭のような形をしていて、丸い面をこの
地に見せているのです」
「月には満ち欠けがありますが、その影は球
体にできる影と同じではありませんか」
「それは……。その影自体が丸いのです。ハ
ビアン殿も影絵をご存知でしょう。何か物の
影が月にかかっているのです。日々、形の違
う物の影がかかるので、月の満ち欠けにも変
化があるのでしょう」
「そうでしょうか」
 ハビアンはそう言って、側に置いてあった
箱から、凸面鏡とプリズムを取り出した。
「かの地では、このような道具を利用して日
や月を調べ、真実を解き明かそうとしており
ます」
 羅山は、ハビアンから手渡された凸面鏡と
プリズムを物珍しく見て、使い方も教わり、
プリズムが作り出す虹色の光に、側で見てい
た松永貞徳が驚いた。しかし、これを羅山は、
反論のきっかけにした。
「このような物で民を幻惑しているのですか」
「いえ、これは幻惑ではなく、事実を見せて
いるのです」
「では、お尋ねします。月には絵柄がありま
しょう。兎が餅をついているような絵柄に見
えると言う者もいます。それがいつ見ても同
じなのはどうしてですか。月が球体なら、絵
柄の位置がずれることも別の絵柄が見えるこ
ともあるでしょう」
「……」
「日や月が球体ではなく丸い面をこの地に見
せているからこそ、絵柄がいつ見ても同じな
のです。それはこれで見てもはっきり分かる
はず」
 そう言って、羅山は手にした凸面鏡とプリ
ズムをハビアンにつき返した。
 ハビアンは、地球や月が自転していること
は知らず、コペルニクスやガリレオの太陽を
中心とする地動説は、まだキリシタンの中で
も異端とされていたので、反論に使えなかっ
た。

2013年7月22日月曜日

キリシタン

 ある日、松永貞徳が、林信澄と一緒に羅山
のもとにやって来た。
 貞徳は、俳句や和歌の歌学者で木下長嘯子
と並ぶ歌人として先駆的な役割をはたし、庶
民を対象とした私塾も開いていた。
 羅山の弟の信澄はそこで貞徳に和歌を習っ
ていたのだ。
 貞徳の子、昌三が藤原惺窩の弟子となって
いた関係で、羅山も以前から貞徳と親交を深
めていた。
「兄上の幕府への仕官が遅れているのは、ど
うも問答で立ち会っていた、承兌殿と元佶殿
がまだ快く思っていないらしいのです」
 こう信澄が切り出すと貞徳が補足した。
「あのお方たちは最近、キリシタンの盛況で
信者の改宗が相次ぎ、ただでさえ苦境のとこ
ろに、羅山先生が仕官されては自分たちの発
言権がなくなると危惧しているのです」
「その心の狭さが、信者を失っていることに
気がつかないのでしょうか」
 信澄が批判すると、羅山は苦笑して言った。
「信澄の言うことも分かるが、この国で永い
間、強大な勢力を保ってきた仏教が、こうも
あっさりと衰退するとは。戦が人の心情を変
えてしまったのかもしれんな。庶民は新しい
心の支えを求めているのだろう」
 貞徳がうなずいて言った。
「しかし、これは羅山先生にとって好機では
ないですか。キリシタンをやり込めて、その
勢いを止めれば、承兌殿と元佶殿も先生を認
めざるおえないでしょう」
「それはそうですが、どうやってやり込める
と言うのですか」
「この国でキリシタンになり、ハビアンと名
乗っている者がおります。この者が『妙貞問
答』という書物を書き、今までこの国に根付
いている宗教を全て否定しています。それに
この者、大地は球形だと申して、庶民を惑わ
しております」
「大地は球形」
 羅山がまだ幼い頃、天下統一を目前にした
豊臣秀吉の養子となり金吾と呼ばれていた頃
だ。その秀吉から、本能寺の変で亡くなった
織田信長が所用していた地球儀を見せられた
ことがあった。
「金吾、よいかこれが我が国ぞ。どうじゃ豆
粒ほどしかない。それに比べ、異国の広いこ
と。わしはこの異国を手中に治め、本当の天
下人になる。金吾にはこの国をやろう」
 羅山は、そのハビアンという人物に興味を
抱いた。
「ハビアンとやらに会えますか」
「はい。すぐに手配いたしましょう」
 貞徳は、日蓮宗不受不施派の熱烈な信者で、
誰よりも自分がキリシタンに脅威を感じてい
た。そこで、羅山とハビアンに論争させるこ
とで、キリシタンの勢いを止めようとしたの
だった。
 ハビアンは、キリシタンが本拠としている
京の南蛮寺に入り、スペイン人の神父、モレ
イジョンの下で修道士となった。
 日々、布教活動につとめ、多くの信者を集
めていた。それはこの頃、諸大名にもキリシ
タンとなった者がいて、京都所司代の板倉勝
重が、キリシタンを保護する政策をおこなっ
ていたからだ。
 これより以前、民衆は、堕落した仏教に失
望し、永く続いた戦国時代の混乱から、仏へ
の信仰が薄れていた。そうした中で、キリシ
タンの新しい考え方が民衆の心をうち、特に
側室をもつことを否定していることが、諸大
名の正室に支持され、諸大名の間でもキリシ
タンへの改宗が拡大していった。この影響で、
徳川秀忠も改宗まではしていないが側室をも
つことを控えていた。そのため、嫡男がなか
なか誕生せず、家臣を不安にさせていたのだ。
 大名が側室をもつのは、たんに色欲を満た
すためではない。
 大名に世継ぎが生まれなければ、お家断絶
となり、多くの家臣とその家族が路頭に迷う
ことになる。これを回避する使命が大名には
あったからだ。
 諸大名の一部には、キリシタンの教えを覆
して、やり込めてくれる者が登場してほしい
という期待が高まっていた。

2013年7月21日日曜日

菅得庵

 羅山のもとには、弟子入りを希望する者が
多く集まるようになっていた。それは、先に
家康に呼ばれ、舟橋秀賢、相国寺の承兌長老
円光寺の元佶長老との問答をした時のことが
評判となっていたからだ。
 集まった者の中には菅得庵もいた。
 得庵は、以前、岡山に住み、備前と美作の
領主だった小早川秀詮が亡くなったのは、毒
殺ではないかとの噂が流れた時から、医学に
興味を持つようになり、二十四歳になった慶
長九年(一六〇四)に岡山から京にやって来
て、名医と呼ばれるようになっていた曲直瀬
玄朔に弟子入りした。
 そこで秀詮の死の真相を調べていくうちに、
秀詮を毒殺から救った医者がいるらしいこと
を知り、それが自分の師である玄朔ではない
かと思い至った。
「先生、私は父母から、秀詮様に大変な恩義
を受けたことをよく聞かされました。その大
恩人を毒殺から救った医者がいたらしいと。
もしや、それは先生ではないかと」
「いや、それはわしではない。しかし、まっ
たくの嘘でもない。さるお方の指示で調合し
た解毒薬により、秀詮様は回復された。わし
はその橋渡しをしたまでだ」
「そうでしたか。では、秀詮様は本当に生き
ていらっしゃるのですね」
「生きておいでだ」
「先生、私はぜひ秀詮様の側にお仕えし、父
母の恩を返したいと思います。どちらにおい
でなのですか」
「会っても、お仕えすることは叶わんであろ
う。秀詮様はもうそのようなご身分ではない。
しかし、お前なら何かの役に立つかもしれん。
会うだけ会ってみるがよい」
 こうした経緯から得庵は、羅山のもとを訪
れたのだ。
「そなたが玄朔先生の弟子の菅得庵か」
 羅山は、懐かしい人にあうような眼差しで、
得庵を迎えた。
「はい。羅山先生は覚えておいでではないで
しょうが、私の父母は岡山で、死ぬ瀬戸際ま
で追い詰められた生活をしておりました。そ
こに小早川秀詮様が領主としておいでになり、
仕事を与えられて命を救われたのです。私は
そのご恩をお返しに参りました。どうか側に
置いてください」
「それは私が秀詮の時のこと。今は生まれ変
わった。だからもう恩を感じることはない。
それより、そなたに聞きたいことがある。今
の岡山はどうなっておるのか。領民は達者か」
「それはもう恨んでおります。あっ、これは
失礼しました。悪い意味ではございません。
せっかく良くなりかけた領地を残して先立た
れたことで悔しがっておるのです。しかし、
それが功を奏して、秀詮様の後においでになっ
たご領主は楽に治めております」
「そうか、それはひとまず安堵した」
「あのう、それで私のことは」
「おお、今の私は側に仕える者など置けぬ身
分だから、私の弟子にでもなるか」
「なります。うれしゅうございます」
 羅山は、得庵が自分より一つ年上と分かり、
心強い味方を得たことに喜んだ。そして、師
弟を超えて何かと相談しあい、老僧の乗阿を
招いた時も、源氏物語の講義を供に聴いた。
 幕府への仕官はまだ出来なかったが、それ
でも充実した日々を過ごしていた。

2013年7月20日土曜日

前兆

 羅山は藤原惺窩のもとを訪れ、家康と豊臣
秀頼の戦いが近づいていることを伝えた。
「やはり避けられんか」
「はい。大御所様は天下を取るという一念で
今まで永らえ、そのためならわが子の命も惜
しまないお方です」
 家康には天正七年(一五七九)に正室だっ
た築山が、織田信長と敵対していた武田氏に
内通していたとう嫌疑をかけられた時、信長
の命により築山を殺害。その余波で長男の信
康も切腹させるという苦い経験があった。
「だから私は、あのお方の側におるのが怖い。
お前を近づけたのも本当は悔いている」
「とんでもありません。先生のおかげで一度
死んだ命が天下に近づいたのです」
「そうか、そう思っているのならまあ良い。
しかし、戦はなんとしても避けてほしいもの
だ」
「それは、豊臣家の出かた次第です」
「お前は心配していないのか。姉のように慕っ
ていた淀殿が死ぬかもしれんのに」
「それも天命です。しかし、そう簡単には死
なないと思います。淀殿は、太閤様が戦のお
りにはよくお供をしていました。その時、太
閤様は淀殿に『よいか戦は向かうことより逃
げることが大事じゃ。そのために攻撃し、敵
を警戒させて、その隙に逃げる。またどこか
らともなく現れて攻撃する。そうして敵を翻
弄し、戦う気を失わせ、こちらの目的を達す
る。わしはそれを信長公より教えられた』と
何度も話しておりました。淀殿は私よりも戦
上手です」
「それは遁甲のことか」
「はい。ですからそう易々とは大御所様の手
にはかからないでしょう」
「しかし、そのために多くの犠牲が出る。そ
のことも気にかけなければ、将たりえない」
「はい。それは私も身にしみております。だ
からこそ、今度の戦で全てを終わらせたいと
願っているのです。これで武士の時代は終わ
りましょう」
「そうなればよいが、おお、それで、朝鮮と
の和平を大義名分にするよう進言したのか」
「そうです。これでもう異国を攻めるような
ことは二度とさせません」
「それはすばらしいことだ。そうだ、お前に
渡したい物がある」
 惺窩はそう言って、雑然と積まれた書物の
中から「延平答問(えんぺいとうもん)」と
書かれた一冊を探し出した。
「この延平答問には、朱子の奥義の全てが書
かれている。私はこれから紀伊の浅野幸長様
のところへ行くから、しばらく会えんかもし
れん。だからこれを私の代わりに置いて行く」
 そう言って羅山に延平答問を手渡した。
「ありがとうございます。大切にお預かりし、
写本させていただきます」
 それからしばらく、二人は談笑して別れた。

2013年7月19日金曜日

確執

 羅山は、家康との問答で高く評価され、伏
見城にある家康所蔵の貴重な書物を閲覧する
ことを許された。しかし、仕官の要請は徳川
家の都合で後回しにされた。
 この頃、徳川家では、秀忠が征夷大将軍に
なる宣下の儀が執り行われた。それを口実に
して豊臣秀頼を招こうとしたが、秀頼はこれ
を「家臣である徳川家が主君の自分に対して
臣従要求をしている」と解釈し固辞した。
 これはかつて、家康が豊臣秀吉からの臣従
要求を拒み続けた時と立場が入れ替わった対
応だった。
 関ヶ原の合戦以後も徳川家は、豊臣家の家
臣として振る舞い、豊臣家恩顧の諸大名との
不和を回避していた。
 二年前の慶長八年(一六〇三)七月には、秀
吉の生前に約束していた秀頼と秀忠の娘、千
との婚儀を行い、家康が秀吉の妹、朝日を正
室として迎え入れたのと逆のことをやった。
しかしその反面、この年の三月に家康は、征
夷大将軍となり、江戸に幕府を開いている。
 これでは豊臣家をないがしろにしていると
思われてもしかたない状況が続いていたのだ。
 家康の後を継ぎ、征夷大将軍となって意気
揚々としている秀忠に、家康は苦笑いして聞
いた。
「秀頼様は今、何歳じゃったかのう」
「確か、十三歳にございます」
「十三か。まだここまで知恵は働くまい。秀
忠は誰の入れ知恵じゃと思う」
「家老の片桐且元あたりかと」
「ほほう。なかなか鋭いのう。将軍になって
ちとは貫禄がでてきたか」
「ははっ。それにしても豊臣家は、秀頼の義
理の父であるわしを侮りおって。父上、これ
は誅伐に値します」
「まあまあ、そうことを荒立てずともよい」
 家康は、六男の松平忠輝を大坂城に派遣す
ることで秀頼の顔を立てた。しかし、波乱の
芽は静かに成長していた。

 家康は、征夷大将軍の地位を秀忠に譲った
といっても、大御所としてなおその権力は絶
大だった。
 こういった体制は、秀吉と秀次の時に混乱
を招いたが、その時の秀吉と秀次は実の親子
ではなかった。その点、家康と秀忠は実の親
子として、一心同体のように息を合わせ、役
割分担をして政務をこなしていた。
 家康は、江戸から京・伏見城にやって来る
と羅山を呼んだ。
「羅山殿は秀頼様をどのように見ておいでじゃ」
「災いの芽にございます」
「なんと。それはまたなぜ」
「はい。秀頼様は今はまだ若く、豊臣家家臣
や恩顧の諸大名の意のままになりましょうが、
いずれその芽は巨木になり、亡き太閤様を偲
ぶほど庶民の期待が高まると思います。そう
なった時、大御所様はどうされるおつもりで
すか」
「そうなれば、秀頼様は関白になり、幕府が
つぶされると申すか」
「そうお考えになられたから、将軍を上様に
お譲りになり、災いの芽を、大御所様自ら摘
もうとされているのではないかと推察しまし
た」
「もしそうだとして、何の大義名分がある」
「秀頼様を摘み取る大義名分はありませんが、
豊臣家を摘み取る大義名分ならあります」
「それは何じゃ」
「先の朝鮮出兵により、わが国と朝鮮国の関
係は、いまだ良好とは申せません。これを良
好にしようと思えば、大きな力を持ち続けて
いる豊臣家の存在は障害となりましょう。朝
鮮出兵の責任は誰にあり、その処罰はどうす
るかは、今も何一つ決まってないのではあり
ませんか。これを大義名分とすれば、豊臣家
恩顧の諸大名も納得せざるおえないのではな
いでしょうか」
「そうか、ではまず朝鮮国との和平を推し進
めれば良いのじゃな」
「さすがわ大御所様。ご明察のとおりにござ
います」
 この時、家康は羅山の非情を知り、羅山は
家康の執念を知った。

2013年7月18日木曜日

問答

 再び家康に呼ばれた羅山は、二条城に出向
いた。
 謁見の間にはすでに舟橋秀賢、相国寺の承
兌長老、円光寺の元佶長老が着座していた。
 相国寺には藤原惺窩が若かりし頃、一時身
を寄せ、やはり若かった承兌と一緒に勉学に
励んでいたことがある。
 今の承兌長老は、衰退していた相国寺の復
興に躍起になっていたので、惺窩の弟子であ
る羅山の仕官は、その妨げとなるのではない
かと不安を感じていた。
 円光寺は家康が創立し、足利学校の第九代
学頭だった元佶を招いて、僧侶以外の入学も
認める学校とした。そして、木製の活字を利
用した書物を多数刊行していた。
 元佶長老も、自分の広めている学問とは異
なる惺窩門下の権勢が強くなるのを恐れてい
た。
 しばらくして入って来た羅山は、この二人
の静かだが威圧する視線にも平然と構え、着
座して三人に一礼した。
 この日の家康は上機嫌だった。それは、征
夷大将軍の座を秀忠に譲り、自分は隠居する
ことを決めて、ようやく緊張から開放された
からだ。
 にこやかに入って来る家康に、一同は平伏
した。
「皆、面を上げられよ。な、こうしてわしの
もとには優れた賢者が集まって来る。これで
こそ天下は盤石となろう」
 舟橋はうなずき、承兌長老は久しぶりに見
た家康の笑顔に目を丸くした。
「では、舟橋殿、相国寺殿、円光寺殿のお三
方に問う。光武と高祖との間柄は如何に」
 三人は申し合わせたとおり、知らないフリ
をした。
「ならば羅山殿は如何に」
「はっ、光武は後漢の帝であり、高祖となっ
た前漢の劉邦から数えて九世の孫にございま
す」
「そうじゃ。ではまた、お三方に問う。漢武
の返魂香(はんこんこう)については、何れ
の書物に書かれているか」
 これも三人は答えられないフリをした。
「羅山殿は如何に」
「それは白楽天の詩文集である白氏長慶集と
蘇軾(そしょく)の詩文集である東披志林(と
うぱしりん)に書かれています。漢武とは高
祖の曾孫にあたる前漢の孝武帝で、返魂香と
は、火にくべると死者の姿が煙の中から現れ
るという香のこと。この返魂香は、孝武帝が
少翁という仙術の修験者に命じて霊薬を調合
して作らせ、これを火にくべると、死んだ李
夫人の霊魂がもどったという故事によります」
「そのとおりじゃ。では最後に皆に問う。蘭
の品種は数多くあるが、屈原(くつげん)が
愛でた蘭は何じゃ」
 これは今までとはまったく分野の違う、意
表をついた質問で、舟橋、承兌長老、元佶長
老の三人にも本当に分からず首をかしげた。
 舟橋は羅山を助けようと言い訳を考えたが
思い浮かばず慌てた。

 一瞬、静まり返った謁見の間。

 得意げに笑みを浮かべる家康に、羅山はゆっ
くりと答えはじめた。
「沢蘭にございます。屈原は楚の懐王、襄王
に仕えた長官で、疲弊した国を復興しようと
努力しましたが、反対派の企みにより江南に
左遷され、その後、身を投じて死にました。
その屈原が愛でたのは沢に咲く素朴ですが可
憐な蘭にございます」
 家康は、屈原と小早川秀秋の後世をだぶら
せて問うた意図を、羅山に見抜かれたことに
感心し、一息ついた。
「お三方どうじゃ。羅山殿は若いが優れた博
識がある。認めてもよかろう」
 三人は深くうなずき同意した。
 このことは城内はもとより、世間にも知れ
渡った。

2013年7月17日水曜日

清原秀賢

 清原秀賢は、後陽成天皇の侍読として仕え
ている公家で、明経道(みょうぎょうどう)
という儒学を研究、教授する学科の教官、明
経博士をしていた。
 以前から、羅山の弟となった信澄とは面識
があり、漢文を読みやすくする訓点の方法に
ついて教えたりする旧知の仲だった。
 稲葉正成とも親交があり、それで秀賢から
信澄のことを知った正成は、自分がもとは林
姓だったこともあり、秀才の信澄をいつか役
立てようと援助していたのだ。
 正成は小早川秀詮が朝鮮出兵で武勲を挙げ
たにもかかわらず、秀吉から処罰された頃か
ら、いずれ家康に仕官したいと考えていた。
 関ヶ原の合戦が起きた年、信澄が、まだ信
勝を名乗っていた頃に正成が援助して儒学の
講義を開かせた。そのことをあらかじめ正成
から聞いて知っていた秀賢は、家康に「この
講義は、朝廷の許可を得ていない」と告訴す
ることで、その存在を印象づけていたのだ。
 その後、正成は、家康に毒殺されそうになっ
ていた秀詮に懇願され、助けることになり、
秀詮の先祖も林姓だったことで、これを林一
族の権力拡大につなげるため、秀詮が死んだ
ように見せかけ、秀賢には、秀詮を信勝とし
て家康のもとに仕官させるように頼んでいた
のだ。
 秀賢は、自分の儒学が藤原惺窩の教える儒
学とは考え方が異なり、当時の信勝が惺窩の
弟子となると自分の儒学の脅威になるので、
これを利用して幕府には対立していると思わ
せた。そのため、林羅山の仕官を嫌っている
者の代表を装うことができたのである。
 この頃の幕府は、儒学そのものを軽視して
いたので、秀賢にとっては、考え方が異なる
儒学でも幕府に認めさせることが先決だった
のだ。
 こうした経緯から家康は、秀賢を問答に呼
び、羅山と競い合わせるつもりでいた。
 この頃には、家名を舟橋と改めていた秀賢
は、和歌にも優れた才能があり、邸宅にひょ
いと現れた長嘯子を快く迎え入れた。
「これはこれは、長嘯子殿とは以前から、ゆっ
くりお話がしたいと思っておりました」
「それはこちらも同様でございます。清原様
はお忙しそうなので、なかなかお声をかけら
れませんでした」
「ああ、ご存じないかもしれませんが、つい
最近、家名を舟橋にいたしました。それはい
いとして、今日は何か御用でしょうか」
「これは存じ上げず、申し訳ありませんでし
た。早速ですが、舟橋様は、林羅山なる者を
ご存知ですか。このたび私の和歌の弟子にい
たしました」
「羅山殿でしたらよく存じています。そうで
すか弟子にされましたか」
「はい。なんでも、近いうちに家康様に招か
れて問答をするようで……」
「ほお、長嘯子殿は弟子思いですな。さよう、
問答には私の他に相国寺の承兌長老と円光寺
の元佶長老が同席するようです。上様がこの
二人の長老が考えた問題を皆に問い、私たち
は答えられず、羅山殿に答えさせるという手
はずになっております。私が知っている限り
では大陸の前漢、後漢時代あたりからの問い
があるようです。ですから漢書は必ず読まれ
ますように。それと一問を上様自らが問われ
るようですが、それが分かりません。羅山殿
が答えられなければ、私がなんとか取りつく
ろうつもりです」
「それだけ分かればありがたい。弟子になり
代わり、お礼申し上げます。舟橋様とは、ま
たいずれゆっくりと和歌を詠みたいものです」
「それはもう、ぜひそうなるよう心待ちにし
ております」
 二人の話し合いは、すれ違う一瞬の出来事
のように終わり、長嘯子はすぐにこの話を羅
山に知らせた。
 羅山は、弟の信澄と一緒に、長嘯子の少な
い情報から推測して、問答に役立ちそうな書
物を絞り記憶していった。すると、羅山のま
だ幼い頃、木下家定の子、辰之助として豊臣
秀吉に覚えさせられた織田信長が好んでいた
謡曲「幸若舞」の「敦盛」が脳裏に蘇ってき
た。

 思えば此の世は
   常の住処にあらず
 草の葉におく白露
   水に宿る月より猶あやし
 金谷に花を詠じ、
   栄華はさきを立って
     無常の風にさそはるる
 南楼の月を弄ぶ輩も、
   月に先だって
     有為の雲に隠れり
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか

2013年7月16日火曜日

長嘯子

 羅山は、惺窩のもとを去ると、すぐに京の
東山にある、木下長嘯子(ちょうしょうし)
の庵を訪ねた。
 長嘯子とは、小早川秀詮の兄、勝俊のこと
で、豊臣家の縁戚というだけで、以前は武士
として豊臣秀吉に仕え、播磨・龍野城主や若
狭・小浜城主となっていたこともある。だが、
関ヶ原の合戦が始まる前哨戦となった伏見城
攻めの時、東軍として鳥居元忠と共に伏見城
を守ることになっていたが、攻撃が始まる前
に脱出した。これが逃亡したとされ、関ヶ原
の合戦後、家康に領地を没収された。そこで
武士を辞め、剃髪して、京・東山の霊山(りょ
うぜん)に隠居し、今は歌人として頭角をあ
らわしていた。
 長嘯子は、羅山の顔を見ると喜んで迎え入
れた。
「やあ、どなたかと思えば、以前どこかでお
会いしたような懐かしさがあるが、どなたで
したかな」
「分からないのに笑顔で迎え入れるとは無用
心な。冗談はよしてください。私です、秀秋
です。今はこのように風体も変えて林羅山と
名乗ることになりました。これからは羅山と
お呼びください」
「おうおう、そうそう、すっかり変わってし
もうて見違えた。そなたが陽気な顔をして近
づいて来たからわしもつられて笑ったのじゃ」
「まあとりあえず、お元気そうでなによりで
す。ところで、早速ですが兄上は幕府の方と
も親交を深めていらっしゃるご様子。清原秀
賢殿をご存知ありませんか」
「何度かお目にかかったことはあるが、親し
く話しをしたことはない」
「今度、その者らに、私は学問の知識を試さ
れるのです。今、私の仮の弟になっています
信澄と清原殿は、何度か会っているので、私
のことも知っているはずなのですが、最近は
なかなか会えず、どのような問答をされるの
か聞き出せないのです。そこで、兄上にそれ
となく聞き出していただきたいのです」
「ふん。やってみよう。また一人友が増える
な」
「私の羅山の名を出せば、何を聞きたいのか、
察しはつくと思います。よろしくお願いいた
します。それと、兄上は福を覚えておいでで
すか」
「おお、覚えておる。というより会った。な
んでも秀忠殿のお子の乳母になっておるらし
いな」
「そうですか。また会う機会がありましたら、
羅山から、稲葉殿らは達者でやっていると聞
いたとお伝えください」
「あい分かった」
「兄上にはこれからもご面倒をおかけします
が、よろしくお願いいたします」
「なにを他人行儀な。わしがこうして生き永
らえているのも秀…、いや羅山のおかげじゃ」
 二人はしばらく子供の頃の話をして和み、
別れた。

2013年7月15日月曜日

居場所

 家康との謁見を終えた羅山は、すぐに京の
市原にある惺窩の山荘を訪れた。
「待ちかねたぞ羅山。家康殿の様子はどうで
あった」
「平然としてはいましたが、内心はどうか分
かりません。まあ、これで私が生きているこ
とは分かったわけですから、どのような策を
繰り出すか。家康殿はまた会って私の力量を
見定めたいとおっしゃっていましたから、ま
ずは知恵比べということでしょうか」
「そうか。それは良かった。もう命を狙うこ
とはあるまい」
「なぜです。分かりませんよ、あのお方の考
えることは」
「家康殿が平然としておられたのなら、殺そ
うとしたのが自分だと言っているようなもの。
もし殺す気がまだあるのなら、あんたが生き
ていることが分かったら、嘘でも喜んだはず。
それがあの御殿様の腹芸なのだ」
「なるほど、だから『わしは今でも秀秋殿を
早よう喪った事を残念に思うておる』などと
心にもないことを言っておった。いや、おっ
しゃっておいでだった」
「秀秋はもう死に、あんたが羅山として生き
ることを認められたのだ。ただし、仕官をさ
せるかどうかはこれからだぞ、ということだ」
「なるほど」
「なにを悠長な。力量を試されるのだぞ。準
備はできているのか」
「それならご心配にはおよびません。死んだ
フリの二年間、あらゆる書物を読破し、頭に
叩きこんでおります」
「ならば良いが。幼き頃は、よくさぼって遊
びほうけておったからな」
「それは先生の学問が難しすぎたからです。
実践して始めてその奥の深さを思い知らされ
ました。だから今は、さぼったりしていませ
ん」
「心配なのはそこだ。私の学んだ儒学を家康
殿の家臣の中で理解している者は、そう多く
はいないはず。儒学以外からの問答を仕掛け
てくるかもしれん。そうなると多岐にわたる
知識が必要になるぞ」
「それなのですが、兄に会って来ようと思っ
ています。ところで、稲葉について先生はな
にかご存知ですか」
「あれは……」

 浪人となっていた稲葉正成は、幕府への仕
官を目指していた。しかし、家康から高く評
価され、関ヶ原の合戦でも東軍勝利に貢献し
たにもかかわらず、なかなか仕官のお呼びが
かからなかった。
 正成は、秀詮と誰にも知られていない側室
や子らを救うために逃亡のフリをしたが、そ
れが「狂ったとはいえ主君である秀詮から逃
亡した」ということになり、忠節がないと思
われていたからだ。
 そうした正成には、妻の福と三男二女がい
たが、福と子らは福の母方の伯父、稲葉一鉄
と縁戚関係にある公家の三条西家に身を寄せ
ていた。その福は、身ごもっていたがやがて
男の子が産まれた。
 ちょうどその頃、徳川秀忠の正室、江与も
懐妊し、乳母を捜していた。その乳母を探す
ことを任された京都所司代の板倉勝重は、稲
葉正成の祖先の林氏とは姻戚関係にあった。
 京都所司代というのは、朝廷や公家の監察
という、朝廷と幕府との関係を良好に保つ仕
事があり、三条西家から福の存在を聞いた勝
重は、公家との関係や正成との縁で、福を推
薦した。
 福は、子供の頃にも三条西家に母と一緒に
身を寄せていたことがあり、公家の作法を心
得ていた。それに、福は天然痘にかかったこ
とがあり、天然痘に免疫があるということが
乳母に選ばれる決め手となった。
 思いがけず、福が先に幕府に関わることに
なったことで、正成は自分も仕官できるので
はないかと期待したが、それも叶わず、長男
の正勝が、江与に男子誕生ならば小姓として
仕官することになった。
 秀忠には、長丸という嫡男がいたのだが、
病弱で早世したことで、今は姫ばかりだった。
そのため、家康の後継者となるにも男子誕生
を念願していた。その思いが通じたのか、江
与が男の子を産んだ。
 早速、福は、小姓となる長男の正勝と一緒
に秀忠のもとに出向いた。
 誰もが乳母として短期間の勤めと思ってい
た。

 惺窩は、羅山から正成のことを聞かれ、こ
れまでのことを思い出して、暗い表情を浮か
べながら口を開いた。
「あれはいつだったか、稲葉殿は私のところ
に不意に訪ねて来られた。お福さんが乳母と
なって、稲葉殿は五人の子を養うのに難儀し
ておると。まだ仕官の口が見つかっていない
ようだった」
「私のせいでしょうか」
 羅山も顔を曇らせた。
「狂った主君を見限って、早々と逃げ出した
のが心証を悪くしたようだ。他の者が大方、
仕官できたのは、狂った主君を見捨てず、そ
の忠義に同情したこともあるからな」
「稲葉にはなんとしても報いてやらねば」
「そんなに心配することもあるまい。稲葉殿
はただの知恵者ではない。目先の利益にとら
われず、もっと大きなものをつかもうと考え
ておられるのだ」
「そうでしょうか」
「その証に、お福さんは秀忠様のお子がもう
乳離れしているにもかかわらず、まだ乳母と
して留まっておる。私には稲葉殿がなにか知
恵を授けて、少しでも永く留まるようにさせ
たとしか思えん。それであんたは、兄さんの
所に行き、お福さんと連絡をとろうとしてい
るのだろ」
「先生には何も隠せませんね。でも、兄に会っ
て福と連絡がとれるかどうかまだ分かりませ
んけど。とりあえず行って参ります」

2013年7月14日日曜日

春の訪れ

 秀詮は林信勝として、儒学を中心としたあ
らゆる書物を読破する日々が続いた。
 弟の信澄はその側につきっきりで、信勝の
質問に答え、漢文の難しい文章を詳細に解説
した。

 慶長十年(一六〇五)四月

 京にもようやく、春の湿った風が吹くよう
になった。
 陽射しも暖かく、遠くで鶯の鳴く声が人の
心をうきうきさせていた。
 五年前に起きた、国を二分する関ヶ原の合
戦の混乱は落ち着き、その勝利で征夷大将軍
となった徳川家康が、京での居城としていた
二条城に姿を見せた。
 長い廊下を謁見の間に向かう家康の足取り
は重い。それは、六十四歳という高齢のせい
ではなく、今から会う人物が、藤原惺窩から
推薦された林羅山という青年だったからだ。
 藤原惺窩は冷泉為純の二男で、藤原定家十
二世の孫でもある。
 この頃の惺窩は、明や朝鮮から伝わる書物
をひもとき、儒学や帝王学を説いた知の巨人
との名声が高まり、後陽成天皇や家康に大陸
から伝わる古典を進講していた。また、門下
には多数の公家や大名がいた。
 今は亡き、石田三成も惺窩に心酔していた
一人だった。
 家康は、惺窩に再三、仕官を要請したが、
惺窩は受け入れず、代わりに林信勝に羅山と
いう号を与え、家康に推薦したのだ。
 以前、二十一歳の信勝(今は弟の信澄)が、
朝廷の許可を得ず儒学の講義を開いたことが
あり、それを公家の清原秀賢が告訴し、五大
老の一人だった家康は、初めてその名を知っ
た。
 この時の家康は「若者が学問を熱心に広め
ようとしていることを、とやかく言うべきで
はない」と、秀賢の告訴をとりあわなかった。
しかし、幕府に仕官するとなると話は別で、
惺窩に比べればはるかに格下で、しかも町人
の羅山を受け入れる気にはなれなかった。
 家康が羅山の仕官に難色を示していること
を知った惺窩は、門人で家康の家臣、城昌茂
に、羅山の仕官への取り成しを頼んだ。
 家康は、惺窩の推薦をむげに断るわけにも
いかず、とりあえず会うことにしたのだった。
 謁見の間に平伏して待っている羅山は、惺
窩がいつも着ている深衣と道服を真似て、新
調した装束を着ていた。
 家康が着座して面を上げるように促すと、
羅山はゆっくりと頭を上げ、能面のように無
表情の顔を家康に見せた。
「お、お前は」
 家康は、表情こそ変えなかったが、心臓を
締め付けられるような恐怖を覚えて、とっさ
に声が出た。
 羅山の人相は、時が立ち別人に見えてはい
たが、その目はまさしく死んだはずの小早川
秀詮だった。
 関ヶ原の合戦で、島津の部隊を追撃する時、
家康の眼前を通過して行く秀秋(当時の名)
の目。その時と同じように、まるで獲物を捉
えた狼のように鋭い目をしていた。
「秀秋、そちは秀秋じゃないか」
 家康は、羅山に秀秋の面影を見つけるかの
ように目を見開いた。それでも無表情を続け
ている羅山は、平然と応えた。
「御恐れながら、その名で呼ばれるのは迷惑
にございます。私は林信勝。今は、惺窩先生
からいただいた号、羅山を名乗っています。
秀秋については、惺窩先生から聞いておりま
すが、狂い死んだとのこと。他人の空似とは
申せ、不吉にございます」
「羅山」
(羅山、羅山……)
 家康は羅山という名に、何かたとえようの
ない違和感があった。しかし、とっさに取り
つくろうように感情をあらわにした。
「無礼であるぞ。秀秋殿は関ヶ原の合戦でわ
しを裏切った大谷吉継を倒し、あわや大敗北
するところを助けてくれた命の恩人。また、
わしが与えた備前、美作を見事復興させた、
才知ある御仁じゃ」
「これは意外。御殿様が、そこまで秀秋様を
高く評価されていたとは。惺窩先生からは、
『秀秋様の名を口にすると御殿様が不快に思
うから、くれぐれも口にするな』と日頃言わ
れておりました。無礼の段、平にお許しくだ
さい」
「いや、それは違うぞ。惺窩先生は、秀秋殿
の名を口にすると、わしが辛い思いをすると
察して、そう言ったのじゃろう。わしは今で
も秀秋殿を早よう喪った事を残念に思うてお
る。そなたが秀秋殿に似ておることを誇りに
思え」
「ははっ」
「ところでそなたの仕官の件じゃが。今すぐ
は決めかねる。後日改めて、家臣と供にそな
たの力量を見定めたい。それまで待て。以上
じゃ」
「はっ」
 こうして、家康と羅山の初めての謁見は終
わった。

2013年7月13日土曜日

隠遁

 慶長七年(一六〇二)十月

 二十一歳の若さで狂い死んだとされる小早
川秀詮は、京の町家、林吉勝の屋敷にかくま
われていた。
 しばらくして秀詮は、小早川家の筆頭家老
だった稲葉正成と再会した。
「殿、手はずは全て整いました。殿の子らは
木下家に身を寄せております。家臣らも殿が
狂い死にしたことで同情が集まり、それぞれ
の居場所を見つけるめどがつきました」
「それは良かった。ところで杉原親子はどう
した」
「ご安心ください。二人とも私のところにお
ります」
 秀詮と正成はやっと笑みを浮かべた。
 そこにこの家の主、吉勝が入ってきた。
「これはこれは、なにやら楽しそうですな。
殿のそのようなお顔は初めて見ました」
「もう殿ではありません。父上の子です」
 秀詮が、自分をまだ養子にしたことに慣れ
ない吉勝に言った。
「そうでした。はははははっ」
 正成が疑うように言った。
「他の者はどうじゃ。はよう慣れてもらわん
と困る」
「そのことですが、私の弟の信時が、秀詮の
実の父になるのは良いとして、信時の子の信
勝がややこしい。秀詮が信勝になり、本当の
信勝が弟の信澄になると……。あれを説得す
るのには骨が折れた」
「難渋させました。すみません」
 秀詮が深々と頭を下げると、吉勝が少し緊
張しながらも父らしく言った。
「よいよい」
 正成が話にわって入った。
「その信澄は長崎から帰って来たか」
「はい。もうそろそろこちらに参ります」
 三人がしばらく談笑していると、そこに吉
勝の弟、信時に連れられて信澄(本当の信勝)
がやって来た。
 信澄は長崎から帰ってすぐこちらに向かっ
たようで、旅装束のままだった。その顔は日
に焼け、眉が凛々しく引き締まり、眼光が鋭
い。いかにも才知溢れる青年の姿だった。
 秀詮、正成でさえ身構えるほどの威圧感を
放っていた。
 正座した信時に促されて、信澄もその少し
後ろに正座した。
「お初にお目にかかります。わが子、信勝改
め信澄を連れてまいりました」
「兄上様、お初にお目にかかります。弟の信
澄、ただいま長崎より帰ってまいりました。
以後、よろしくお願いいたします」
「信澄、無事に戻ってなにより。こちらこそ
よろしく頼む」
 秀詮が言い終わると同時に、信澄が話し始
めた。
「ときに兄上様、兄上様は……」
「これこれ、何じゃ会って早々、失礼じゃぞ」
 吉勝は、信澄が何を話し出すかとヒヤヒヤ
して、慌てて止めようとした。
「よい。これから兄弟として、仲ようしてい
きたい。存念があってはそれもできんだろう。
わしは信澄の思いが聞きたい。ぜひ話しても
らいたい」
「はっ。兄上様は藤原惺窩先生をはじめ、公
家の方々からも指南を受け、多くの兵や領民
を指揮し、学問を実践されたと聞いておりま
す。その成果は目覚しく、領地を復興させる
ことも叶ったとか。そのことを私はうらやま
しく思っています。私の家は貧しく、建仁寺
で学問を学びました。最近知ったのですが、
稲葉様のご援助があったようです。しかし、
それでも思うようには多くを学ぶことができ
ず、鬱々とした日々を暮らしておりました。
このようなことを話しますのは、兄上様に私
の人生をお譲りするにあたり、私のこれまで
を知っておいてほしいと思ったからです。こ
れが町人というものです。これから不自由に
思われることがあるかもしれませんが、耐え
忍び、町人の心持で、信勝を生かしていただ
ければ幸いです」
「分かった。よう話してくれた。礼を言う。
私の先祖も、かつては林姓だったと聞く。確
か稲葉様もご先祖は林姓でしたね」
 秀詮の父、木下家定は木下姓を名乗る前は
杉原姓で、その前が林姓だった。そして、稲
葉正成の父は林政秀であり、正成が稲葉重通
の養子となって稲葉姓を名乗るようになった
のである。
「こうして、林姓の者が集ったのも何かの奇
縁。これからはそなただけが頼りじゃ。助け
てもらいたい。稲葉様にもよろしくお願い申
し上げます」
 秀詮は町人らしく、正成に深々と頭を下げ
た。
「殿、今はよろしいではありませんか。信澄、
わしのことは、余計じゃぞ」
 正成は恐縮して身体を丸めた。
 皆からドッと笑いがおき、場が和んだ。
(この殿様は器が違う。底知れぬお方だ)
 本当の信勝は改めて、信澄として兄を盛り
たてていこうと心に決めた。

2013年7月12日金曜日

逃亡

 慶長七年(一六〇二)

 岡山城は廃墟のように静まりかえっていた。
「正成、正成、誰か正成を知らんか」
 秀詮がそう叫んでいると、現れたのは稲葉
正成の義理の子となっていた堀田正吉だった。
「お恐れながら、父上は昨夜、退去しました」
「退去。わしから逃げたのか」
「はっ。追っ手を差し向けましょうか」
「よい。その方は、ついて行かなかったのか」
「はい」
「ところで、その方は杉原の子の重季がどう
なったか、何か聞いておるか」
「はっ。殿の命じられたとおり、切腹をさせ
たと聞いております」
「それは正成が執り行ったのか」
「はい。そのように聞いております」
(正成、うまく逃がしたか)
「それならよい。ならば他の者に伝えよ。わ
しのもとを去りたければいつでも去れと」
「はっ」
「わしは少しめまいがする。侍医を呼んで来
い」
「はっ」
 しばらく秀詮が寝屋で横になっていると、
侍医の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)がやっ
て来た。
 玄朔の父は、漢方医学の名医、道三で、玄
朔は、その道三流医学を継承し、度々、皇室
の医事にもかかわっていた。
 惺窩から頼まれて、秀詮の解毒薬を調合し
たのも玄朔だった。
「お加減はどうですかな」
「万事整いました。今度は、私が死ぬ番です」
「そうですか。では、手はずどおり始めさせ
て頂きます」
「迷惑をかけますが、よろしく頼みます」
「いえいえ。それより、帝は貴方様にさぞ期
待をされております。くれぐれもお忘れなき
ように」
 この時の天皇、後陽成天皇は、何もかも知っ
ていた。
 天皇は、過去に織田信長、豊臣秀吉と晩年
に世が乱れることになり、今度の徳川家康で
も、同じように乱れることを恐れていた。そ
こで、秀詮が徳川家に入り、それを抑制する
ために働いてくれることを期待していたのだ。
「分かっています」
「では、解毒薬はこれまでどおり服用してく
ださい。すでに末期の症状が出ている頃合い。
一時、激しく狂った後は寝込み、そのまま二
度と起きることはなりません。すぐに私の従
者を数名遣わせ、これらの者以外は、貴方様
には近づけません。こちらの準備が整い次第、
葬儀の運びとなります」
「分かった」
 秀詮は玄朔の言ったとおり、城内で着物を
乱して刀を振り回し、激しく狂うと、バッタ
リと寝込んだ。すると、すぐに玄朔の従者が
現れ、秀詮の寝屋のふすまを全て締め切り、
病が悪化するからと理由をつけ、家臣の誰も
近づけなかった。
 それでも秀詮は念のため、うめき声を出し、
衰弱していくフリをした。
(これでいい。これで天下を耕す準備ができ
る。皆もそれぞれの場所で芽をだすだろう)
 今でも毒薬が効いていると信じていた平岡
頼勝は、岡山城に留まり、秀詮の最期を見届
けて、家康に報告しようと待っていた。
 こうした状況になると、家臣の秀詮に対す
る憎悪は消え、ほとんどの家臣が秀詮のもと
を離れようとはしなかった。そんな家臣に見
守られる中、秀詮の死が告げられた。
 秀詮の死は、病によるものと告げられた。
しかし、秀詮の遺体があるはずの寝屋には、
すでに秀詮の姿はなかった。
 秀詮は、侍医、曲直瀬玄朔の従者の一人に
成り変り、深夜になるのを待って、城内から
出て行った。
 寝屋には、以前から用意されていた棺桶が
運ばれた。その中には、秀詮と背格好の似た
病死の遺体が納められていた。
 遺体は数日たったものらしく、十月の寒い
時期で腐敗が遅いとはいえ、顔がむくんで、
誰だか判別できない状態だった。
 玄朔の従者が、その遺体を棺桶から出して
布団にくるめ、秀詮の身代わりとした。
 次の日、残っていた家臣らが見守る中、秀
詮の身代わりの遺体が棺桶に納められた。そ
して、葬儀はしめやかに行われた。
 秀詮の死は、道澄法親王、近衛信尹(この
えのぶただ)などの公家からも惜しまれた。
 遺体が埋葬される出石郷伊勢宮の満願山成
就寺までの移動中には、領民が大勢、沿道を
うめ、狂った領主を恨むどころか、多くの者
が嘆き悲しんで手を合わせた。
 秀詮の葬儀が済むと平岡頼勝は、秀詮に側
室や子がいることなどまったく気づかず、跡
継ぎがいない小早川家が廃絶にならないよう
に養子を仕立てようとした。
 平岡は、秀詮が毒殺ではなく、あくまでも
病死したように装い、淡々と後始末をこなし
ていった。しかし、平岡の行動もむなしく、
秀詮の養子は認められず、小早川家は廃絶と
なった。だが、養父、小早川隆景には、弟の
秀包(ひでかね)がいたので、そちらの小早
川家が残り、毛利家との約束は果たされた。
そして、残っていた家臣の一部は毛利家に仕
官し、それ以外の家臣もそれぞれの居場所を
見つけることができた。
 すべてを整理した平岡は、秀詮に最期まで
忠義を貫いたということで、家康に高く評価
され、誰にも疑われることなく家康に召抱え
られた。
 これで家康の憂いがひとつ消えた。
 それから間もなく、小早川秀詮などこの世
に存在しなかったかのように世間から忘れ去
られた。

2013年7月11日木曜日

杉原重治

 備前・岡山城に戻った秀詮は、人が変わっ
たように狂いだし、城下に出ては領民に罵声
を浴びせ、乱暴を働いた。また、鷹狩や釣り
などをして遊びほうけ、政務もおろそかになっ
た。しかし、そうした様子を杉原重治は冷静
に見ていた。
 ある夜、秀詮の寝屋に、杉原は密かに入っ
た。
 秀詮は、狂った振る舞いをすることに悩ん
で、なかなか眠れない日が続いていたことも
あり、機嫌がよくなかった。
「何じゃ、杉原か。こんな時分に無礼な」
「はっ、お恐れながら、殿の先ごろの様子を
拝見し、なにやらただならぬものを感じまし
た」
「ただならぬものとは、何じゃ。さっさと用
件を申せ」
「はっ、では率直に申させていただきます。
殿は演技が下手にございます。それでは狂っ
たようには見えません」
「何を申す。わしは狂ってなどおらんぞ」
「それならばよろしいのですが、正成殿も色々
動いているご様子。ぜひ私も加えていただき
たいと思います」
「稲葉がなんじゃ。何をしておるというのじゃ」
「何をしておいでかは存じませんが、殿のた
めに働いておるのは分かります。それに、殿
の振る舞いがお変わりになったのも同じ時期
かと」
「では、杉原はどうしたいと言うのだ」
「殿が、本当に狂ったように見せたいのなら、
もっとも効果があるのは忠義に厚い、諫言を
する者を斬り捨てることです」
「それがお前じゃと言うのか。うぬぼれおっ
て」
「もちろん、他の家臣も私より忠義に厚い者
はおりましょう。しかし、私より殿に嫌われ
ている者が他におりましょうや」
「わしが、お前を嫌っておるじゃと」
「はい、私は日頃から、殿に口うるさくして
いるものですから、心配してくれている者も
おります。その私を斬り捨てれば、誰もが殿
に逆らわなくなりましょう。それが殿をより
狂ったようにみせることになります」
「私は、そなたを嫌ってなどおらん。日頃の
諫言、心の中で感謝しておった。そなたを斬
ることなどできるわけがないではないか」
「殿の手をわずらわせる気はありません。敵
を欺くにはまず味方からと申します。これか
ら起きることに驚かず、今のまま狂ったよう
にお振る舞いください」
「何をする気だ」
「私が殿とお会いする日は、もういく日もな
いでしょう。今までご奉公させていただき、
ありがとうございました」
「杉原……」
「では御免」
 杉原は、秀詮が何か言おうとしたのをさえ
ぎり、足早に寝屋を出て行った。

 その事件は間もなく起きた。

 秀詮の家臣、村山越中は短気な性格で、日
頃から杉原重治と意見が対立していた。
 狂った秀詮の言動で政情不安な中、杉原が
村山に斬り殺されるという事件は、誰もが恐
れていたことだった。
 秀詮のもとに知らせがあり、その真意を確
かめようとした時にはすでに、村山は逃亡し、
杉原の死体は家族のもとに移されていた。
 杉原重治の嫡男、重季は、秀詮が姿を見せ
ると狂ったように罵声を浴びせた。
「なぜ、父上がこのように変わり果てた姿に
ならなければいけないのですか。殿にどれだ
け父上が忠義をつくしたか。これがその返礼
なら、私は殿と刺し違えて死に、父上に会っ
て、殿に騙されていたことを告げたいと思い
ます」
 重季が刀に手をかけたところで、周りの者
が慌ててとめ、押さえつけた。
 秀詮は、それが演技だとは思えず、本当に
杉原重治が死んだのではないかと動揺した。
そしてとっさに、杉原の顔にかぶせてあった
布をはぐった。その死体の顔面は誰か分から
ないように何かで殴られたような無残な状態
で、着物や身に着けていた道具、背格好だけ
で杉原重治と決めつけていたようだった。
(この者は、私のために重治の身代わりとなっ
て殺されたのか)
 秀詮はそれを見た瞬間、冷静になると同時
に狂ったふりをした。
「へへへへ、村山、天晴れじゃ。わしの命じ
たとおり、よう誅殺した。わしに逆らう者は
誰であろうとこうなるのじゃ。重季、わしと
刺し違えるじゃと、無礼な。そんなに重治に
会いたいなら、その望みを叶えてやろう。そ
なたに切腹を申しつける。即刻用意せい」
「望むところだ。こんな馬鹿殿に仕えた父上
が哀れじゃ。あの世で父上に存分に孝行する
わ」
 秀詮は重季の目を見た。涙を流しながら訴
えるその目は、自分を慕っている目だった。
(重季、すまない)
 秀詮が弱気になりそうになると重季はにら
みつけて秀詮に我慢を促した。
 この事件をきっかけに、家臣の秀詮に対す
る不信と憎悪は増していった。
 やがて他の諸大名にも、秀詮の奇行や失態
が知れ渡り、家康の耳にも入るようになった。
(小僧ひとり、雑作もない)
 秀詮は時々、上洛して家康に会うこともあっ
た。しかし、家康はやつれた秀詮の健康を気
遣い、報告されてくる悪行を戒めるだけだっ
た。
 本来なら、すぐにでも小早川家が廃絶にさ
れてもおかしくない事態が起きていたが、何
のお咎(とが)めもないことに、諸大名の誰
もが、家康の企てと薄々感じていた。
 家康も暗に、秀詮をさらし者にすることで、
諸大名に自分の力を誇示するように振る舞っ
た。
(秀詮は怖い相手を怒らせたものだ)
 誰もがそう思い、家康に逆らう者は次第に
いなくなった。

2013年7月10日水曜日

正成の計画

 大坂の岡山藩、藩邸に戻った正成は、すぐ
に秀詮のもとに向かった。
「殿、お加減のほうはいかがですか」
「うん。惺窩先生からいただいた解毒薬の一
つに、よく効くものがあった。もう大丈夫だ」
「それは良うございました。しかし、殿には
狂っていただかなければなりません」
 正成は、毛利秀元との話の中で考えついた
秘策を打ち明けた。
「ただ狂うだけではいけません。家康殿の耳
に入るように、家臣を二、三人殺すぐらいの
覚悟をしていただかなければなりません」
「そのようなことをしたら、私は斬首になる
ではないか」
「もしそうなれば、われらは兵を挙げます。
家康殿はそうなることを嫌っているからこそ、
毒を使っているのだと思います」
「しかし、家臣を殺すなど」
「殿、これは戦にございます。この戦、なん
としても勝たねばなりません。大事の前の小
事に気を病んではなりません」
「……」
「それをきっかけに私は逃亡いたします。そ
して、殿と奥方、それにお子らの受け入れ先
を整えます。殿には頃合いをみて、狂い死ん
でいただきます。その亡がらの埋葬先は、出
石郷伊勢宮の満願山成就寺です。すでに侍医、
住職には手を回しております」
「それで私は自由の身か」
「申し訳ありませんが、また別人として生き
返っていただきます」
「なに」
「殿が隠遁したところで、すぐに見つかって
しまいます。それに、毛利家に家臣を受け入
れていただくための条件は、殿が徳川家に入
り、内情を探り、毛利家を守り立てることで
す」
「そのようなことができるのか」
「そのことで、これから惺窩先生にお会いし
に行きます。なんとしても成し遂げねばなり
ません」
 そう言うと、すぐに正成は退去し、惺窩の
もとを訪れた。そして、毛利家とのやり取り
を説明した。
「なんと、徳川家に入れるなどと、大胆な」
「そうでも言わなければ、毛利家は家臣を受
け入れそうにもありませんでしたので」
「それは分かる。しかし、何か策でもあるの
か」
「それは先生におすがりするしかありません。
先生の学問は朝廷に影響を与え、家康殿にも
講ずるなど、信頼厚いものがあります。その
学問を実践し、証明したのはわが殿に他なり
ません。これは先生の一番の門弟といえるの
ではないでしょうか」
「確かにそうだが、私の門弟とするにはまだ
まだ知識にとぼしい」
「今すぐではないのです。別人になるのにも
準備が必要です。しばらくは身を潜めて、そ
の機会を待つ時間があります」
「その別人だが、すぐに家康殿には分かるの
では」
「はい。それでいいのです。わが殿が生きて
いたということを知らせることで、その能力
も分かるでしょう。また、殿がひとり、捨て
身で現れることで、家康殿には兵力で攻めら
れるという心配が消えます。そもそも殿は徳
川家を救った恩人です。徳川家の大きな力と
なることにも気づくでしょう」
「そうなってもらわなければ」
「先生には、ご迷惑をおかけしますが、多く
の家臣の生活がかかっています。もう引き下
がることはできません」
「よし分かった。私も秀秋殿には世話になり、
わが学問のすごさを教わった。なにか役に立
ちたいとは思っている。ところで、別人にす
るといっても、ただの門弟では家康殿に会わ
せるのは難しい。何か興味を引くような者に
しなければ」
「それには、私に一人、心当たりがあります」

2013年7月9日火曜日

毛利家へ

 毛利家は関ヶ原の合戦で敗軍の将にされ、
安芸、周防、長門、石見、出雲、備後、隠岐
の七ヵ国、百二十万石の大大名から改易され
そうになったが、東軍に内通して毛利家を合
戦に参加させなかった吉川広家が、家康に懇
願して、自分の所領として与えられた周防、
長門二カ国の三十万石を、なんとか毛利家の
所領として、かろうじて改易をまぬがれた状
態だった。
 今、毛利輝元は、家督を六歳の秀就に譲り、
自らは隠居の身となったが、大坂に留め置か
れていた。
 このような状況の中、稲葉正成が長門の毛
利家を訪れても歓迎されるはずはなかった。
 ようやく会うことができたのは幼い秀就の
後見人となっていた毛利秀元だった。
「なに用か」
 全てを拒否するようにはき捨てた秀元の言
葉に、正成は結論から話してみることにした。
「はっ。わが殿は、小早川の名を返上したい
と考えております」
「なんと」
「ご存知のように、わが殿は、備前、美作五
十一万石の加増となりました。その領地は荒
廃しておりましたが、岡山城を修築し、以前
の二倍の外堀をわずか二十日間で完成させ、
検地の実施、寺社の復興、道の改修、農地の
整備などをおこない、早急に復興させました。
これはひとえに、今は亡き、隆景様のご家臣
の働きによるものです。殿はそのご恩に報い
るため、いずれは小早川の名を返上したいと、
常日頃考えておられたのです」
 この時、正成は、ある秘策を思いつき、とっ
さに真実を打ち明けることにした。
「今、殿は、何者かに毒を盛られ体調を崩し
ております」
「なに、それは誠か。……確かなのか」
「はい。誠のことです。嘘偽りではございま
せん。幸いと申しますか、殿には世継ぎがお
りません。そこで、いっそこのまま死のうか
と」
「待て待て、毒を盛られていると分かってい
るのなら治療はできんのか」
「無理にございます。仮に治療できたとして、
この世に生きる場所などありましょうか」
「しかし、死を受け入れるとは」
「わが殿はまた蘇ります」
「……」
「いずれ名を変え、身分を変えて徳川家に入
られます。そうすれば毛利家のお役に立てる
のではないでしょうか」
「そのようなことができるのか。そなたの話
は突拍子もなく信じがたい」
「申し訳ございません。しかし、それしか豊
臣家の縁者である殿の生きる術はありません。
虎穴に入らずんば虎児を得ずと申します。徳
川家の懐に入ることこそ、安全と考えておい
でです」
「それで、我らになにをしろというのだ」
「殿が亡くなりました後、残された家臣のい
くらかを、お引き受けください。きっとお役
に立つと思います」
「それは、そうしてやりたいが、われらは減
封されて、今も家臣を減らすことで悩んでお
る」
 正成は、この時とばかりに、まだ残ってい
た石田三成の軍資金を持ち出した。
「存じております。わが家臣にはいくらか持
参金を持たせます。十分にお役に立つ持参金
です。しかし、家臣としてではなくてもよい
のです。武士の身分を捨ててもりっぱに生き
ていける者が多くいます。荒廃した領地を復
興させた者たちです。どうかお考えください」
 秀元は、しばらく天井を見上げて考え込ん
でいたが、深く息を吸い、意を決した。
「そこまでの覚悟を決めておるのなら、考え
てみよう。思えば、秀秋殿のお働きがあった
ればこそ、当家が改易を免れたのかもしれん
からな」
「ははっ、ありがたき幸せ。なお、このこと
はくれぐれもご内密に」
 正成は深々と頭を下げ、この大役を成し遂
げた。

2013年7月8日月曜日

学問の実証

 秀詮が、もし荒廃していた領地を復興させ
れば、家康からその能力を警戒される。かと
いって荒廃したままにしておけば、処罰する
大義名分を与えることになる。
 どちらにしても生きる道はない。
 そこで秀詮は、藤原惺窩に伝授された帝王
学の教えを実際に試してみることを選び、そ
の結果、領地の備前と美作は目覚しい復興を
遂げたのである。
 このことは惺窩に知らされ、すぐに惺窩は
秀詮のもとを訪れた。
「これほどまでに効果があったとは」
 惺窩は、自分の学問の凄さが実証できたこ
とを喜んだが、反面、秀詮の身の危険を案じ
た。しかし、秀詮は意に介していなかった。
「どのみち、目をつけられるのなら、惺窩先
生の学問が実を結んだことだけでも後世に伝
われば本望です」
 秀詮は、すでに覚悟を決めていた。しかし、
どうしても護りたいものがあった。
 秀詮と正室との間に世継ぎとなる子はいな
かったが、誰にも知られず囲っている側室と
の間に、ひとりの男子がおり、今またもうひ
とり身ごもっていたのだ。

 ある日

 食事の後、体調の異変を感じた秀詮は、ひ
とり稲葉正成を呼んで、全てのことを打ち明
けた。
「どうやら家康が動き出したようだ。……ひ
と思いに殺せばいいものを。俺は命などほし
くはない。しかし、実は俺には誰にも知られ
ていない女に産ませた子がいる。その女と子
らだけはなんとしても護りたい。正成、頼む、
救う手立てを考えてくれ」
 話を聞いた正成は戸惑った。
 いずれは家康のもとで出世しようと、すで
に準備をしていたからだ。しかし、秀詮が唯
一、自分に心を許し真実を打ち明けてくれた
ことに心が動いた。ただ、自分だけでは家康
に立ち向かうことなどできない。そこで、秀
詮を救う手立てを見つけるため、藤原惺窩の
もとに向かい意見を聞いた。
「食事に毒を盛られたか。しかし、殺さなかっ
たということは、病に見せかけるつもりか。
先の合戦で豊臣恩顧の大名が良い働きをした
ことが幸いしたな。うかつに殺せば離反する
者も多くいよう。それが秀頼とつながれば、
今度こそ天下は二分する。よし、まだ時間は
ある」
 日頃は冷静で的確に判断する正成が、今は
惺窩の指示を待つことしかできないほど混乱
していた。
「正成殿は、密かに毛利に行き、お家断絶と
なった場合、秀詮様の家臣の受け入れをして
くれるかどうか探りなさい。小早川の名を返
上すると言えば、無下にはできないでしょう。
側室と子のことは、今はほっときなさい。そ
のほうが安全です。私は解毒薬を用意します」

 この頃、秀詮は、大坂にある岡山藩の藩邸
に来ていた。
 その後も、体調は悪化する一方で、食事の
前には幻聴、幻覚に悩まされ、食事を摂ると
気分が良くなるといった状態を繰り返してい
た。
 そんなある日、秀詮の兄、木下勝俊がふらっ
とやって来た。
 勝俊は、豊臣秀吉の縁者というだけで播磨・
龍野城主になり、後に若狭・小浜城主となっ
た。
 北条の小田原征伐や朝鮮出兵にも参陣した
が、移動の途中に歌を詠むなど、戦う緊張感
はまったくなく、すでにこの頃から、武士と
しての気質に欠けていた。
 関ヶ原の合戦後は、京の東山に隠居し、歌
人として生きる道を選んで、名を長嘯子(ちょ
うしょうし)と改めていた。
「秀秋はどこか身体が悪いのか。惺窩先生か
ら薬を預かってきた」
「それはありがとうございます。なに、たい
したことではありません。少し疲れが出ただ
けです」
「それならよいが。無理をせんように。惺窩
先生がおっしゃるには、薬は五種類あって一
つずつ服用するように、身体にあわないもの
は発疹が出るから止めるように。全てあわな
ければ別の薬を用意するとのことだ」
「そうですか。ありがとうございます」
 長嘯子の目には、秀詮が落胆したように見
えた。
「秀秋どうじゃ、いっそ、わしのように隠居
しては。もう刀や槍を振り回す時代でもある
まい」
「はい。そうですね。それもいいかもしれま
せんね。しかし、私には兄のように歌の才は
ありませんし……」
「なになに、秀秋は幼き頃より、遊びの才が
あったではないか。何でも良いのじゃ。まだ
若いのだから気長にやりたいことをみつけれ
ばよい」
「はい。兄上と話していると気分が晴れます」
 秀詮と長嘯子は時を忘れて話し込んだ。
 その頃、惺窩の指示を受けた稲葉正成は、
密かに長門の毛利家に向かっていた。

2013年7月7日日曜日

企みごと

 家康は、伏見城の誰もいない居間で、書物
を見ながら独り言をつぶやいた。
「秀秋を備前と美作に国替えして間もない。
領民の中には、前の領主、秀家を慕うものが
まだ多い。行って、秀秋は西軍の裏切り者と
ふれまわり、まずは領民を離反させよ。秀秋
の家臣、平岡頼勝は、わしが送り込んだ者じゃ。
連絡をとって城内に入り、秀秋に毒を盛れ」
 家康の後ろには床の間があり、そこに掛かっ
ている掛け軸は、家康が三方ヶ原の戦いに敗
れた時に描かせたという頬杖をついた絵だっ
た。
「その毒を盛れば発狂する。一度に多く与え
過ぎず、すぐには殺すな。少しずつ与えて発
狂を長引かせるのじゃ。そうすれば世間は、
秀秋が西軍を裏切り、三成に祟られて狂いだ
したと噂を広めてくれる。それがもとで死ね
ば、誰もわしを疑う者はいないだろう。人を
裏切ると祟られると思えば、徳川家に逆らう
者もいなくなる。分かったな、行け」
 家康の後ろにある掛け軸が風もないのに揺
れた。
 それからすぐ、刺客のひとりが平岡の手引
きで岡山城内に入り、料理番としてしばらく
は秀詮の信頼を得ることに努めた。
 稲葉正成は、新しく入った料理番が、以前
に徳川家に仕えていたことは平岡から知らさ
れていて、そのことになんの疑いも抱いてい
なかった。そのため、料理番は警戒されるこ
ともなく、秀詮の料理を任されるようになっ
た。
 料理番は、秀詮からも信頼を得た頃、秀詮
の料理に阿片を少しずつ混ぜ始めた。
 この当時、阿片のことは日本ではまったく
知られていなかった。
 家康のもとには、関ヶ原の合戦で軍事顧問
となったウイリアム・アダムスが三浦按針(あ
んじん)の名を与えられて家臣となっていた。
 按針は、家康が薬草に詳しいことを知り、
当時では珍しかった阿片が人を狂わせる毒薬
だということを教えた。そこで家康は、密か
に阿片を入手し、刺客に持たせたのだ。
 秀詮が狂いだしても、侍医には原因を調べ
る方法がなく、どう対処していいか分からな
い。まして、家臣や領民に医学の知識などな
く、秀詮が徐々に異常な行動をし始めると、
原因が分からず、ただ恐れるばかりだった。
 こんなことがあると人は、祟りなどの神が
かり的な力としか考えず、それを疑うことも
なかった。
 料理番は、秀詮の発狂が深刻になっていく
のを確認して、仲間達を呼んだ。
 しばらくすると領内に、秀詮の噂が広まり
始めた。
「今度来た新しい殿様が狂いだしたそうな。
なんでも、殿様は関ヶ原の合戦で、西軍を裏
切ったとかで、それがもとで死んだ石田三成
様が恨んで祟っているらしいぞ」
 悪い噂は尾ひれが付いて、あっという間に
広がった。
「殿様は阿呆だから、西軍と東軍のどっちに
味方したほうがいいか分からんようになって、
家康様が鉄砲を撃つと、それに驚き、味方の
西軍を攻めたらしい。負けた大谷吉継様と石
田三成様は、たいそう恨んで死んだそうな。
それで祟られとるんじゃと」
 これを信じ込む者もいたが、多くの者は疑っ
ていた。それは、合戦中に裏切ったというが、
そんな日和見的な行動をする者に家康が領地
を与えることはない。寝返ることは事前に知
らせておかなければ意味がないからだ。また、
疲弊した所領を急速に復興させ、領民の生活
を安定させたことは、領民の誰もが身をもっ
て体験している事実で、このことに恩を感じ
ていたからだ。しかし、秀詮が時々、発狂し
ている事実が明らかになると、次第に噂を信
じる者が増えていった。だが、秀詮の発狂は
芝居だった。
 秀詮は、家康から備前と美作を与えられた
時から警戒していたのだ。

2013年7月6日土曜日

領地復興

 三成は、近江・佐和山城に近づくこともで
きず、逃亡を続けていた。
 城では、三成の留守を二千人の兵が、死を
覚悟して守りぬこうと籠城していた。
 秀秋の部隊は、朽木元綱、脇坂安治などの
部隊と共に城壁に迫った。しかし、籠城兵の
防戦に死傷者が続出した。
 秀秋の部隊には、関ヶ原の合戦が終わった
直後から不穏な動きをする一団があった。そ
れは、家康から押し付けられた浪人の中にま
ぎれていた家康の家臣たちだった。その一団
のことを秀秋は、うすうす感づいていた。そ
こで、この時とばかりに、この一団を先鋒に
選び、城の石垣を登らせ、死傷者をだすこと
になったのだ。
 佐和山城は一日では陥落せず、二日目の総
攻撃に抵抗しきれなくなった籠城兵が火を放
ち、城は焼け落ちた。
 城内は、三成が質素倹約をしていたと見ら
れる様子がうかがえ、金銀などはどこにも見
当たらなかった。それらはすべて、松尾山城
に運ばれて、今は秀秋の手の中にある。
 やがて、逃げていた三成も捕らえられ、さ
らし者にされた挙句に六条河原で斬首にされ
た。
 天下を奪いあう動乱も、家康が大坂城に入
ることで全てが終わった。

 関ヶ原の合戦後の論功行賞で、秀秋には家
康が約束したとおり、備前と美作の五十一万
石が与えられた。
 前の所領、筑前、筑後、肥後の三十万石と
比べれば大幅な加増となったが、備前と美作
は以前の領主、宇喜多秀家が、朝鮮出兵に駆
り出されて政務が滞り、疲弊していた。
 領民は働く気をなくし、田畑に草が茂り、
道はぬかるみ、岡山城でさえ廃城のようになっ
ていた。
 家康は、あらかじめ備前と美作が疲弊して
いることを知っていて、それを餌に、秀秋が
東軍に味方すれば与えると約束したのだ。
 仮に秀秋が味方して勝利しても、備前と美
作なら惜しくはないと考えていた。そして、
いずれ秀秋が疲弊した領地をもてあまし、さ
らに悪化させれば、それを理由に処罰し、領
地を取り上げるつもりでいた。
(小僧が何も知らんで。お前の領地はすべて
わしの手の中じゃ)
 ところが、備前に移った秀秋は名を秀詮(ひ
であき)と改め、まず荒廃していた岡山城の
修築を、家康に許可を得ておこない、以前の
二倍の外堀を、わずか二十日間で完成させた。
そして、検地の実施、寺社の復興、道の改修、
農地の整備などをおこない、急速に近代化さ
せていった。
 これらは秀吉の政策と藤原惺窩の教えを手
本にしていた。そして、松尾山城から運び出
した三成の膨大な軍資金がなければなしえな
かったことだ。
 秀詮が、今でも豊臣秀吉の養子なら莫大な
金銀を調達するのはたやすかっただろう。し
かし、今は毛利家の家臣である小早川家の養
子だ。
 その毛利家は、豊臣秀吉の時代には安芸、
周防、長門、石見、出雲、備後、隠岐の七ヵ
国を所領とした百二十万石の大大名だったが、
関ヶ原の合戦で毛利輝元は大坂城に入り秀吉
の嫡男、秀頼を守るという理由で動かなかっ
た。そして、その名代で関ヶ原に向かわせた
毛利秀元と吉川広家の部隊は、戦いが始まっ
ても動かず、最後まで西軍とも東軍とも言え
ない挙動をした。そのため、石田三成と通じ
ていた安国寺恵瓊は責任をすべてかぶり、捕
らえられた三成と供に六条河原で斬首にされ
た。
 合戦後に輝元が大坂城から退く時も、家康
に不信を抱かせたことで、西から反乱軍が出
たのは西の統治者である毛利家の失態とされ、
輝元は改易されそうになった。しかし、吉川
広家が家康に直談判して広家の所領になるは
ずだった周防、長門二カ国の三十万石を輝元
の所領とすることで改易は免れた。その結果、
百二十万石からの大幅な減封となった。
 今では分家の小早川家より石高が減り、大
半の家臣を減らさなければいけない有様だっ
た。そんな状態の毛利家が、備前、岡山城の
修築費用を出せるはずはない。
 秀詮が頼れる者はいなかったのだ。
 三成が松尾山城の曲輪に埋めていた軍資金
は、ざっと五十万両。これを稲葉正成の小隊
が密かに運び出し、一旦は筑前に持ち込まれ
て、秀詮の居城、名島城に納められた。
 備前、美作の復興にはこの軍資金の一部が
有効に使われ、予想以上の成果をあげること
ができた。
 秀詮は、家康の全国支配の中で、秀吉の政
治を継承し、惺窩から学んだ独立自治という
桃源郷の実現を目指していたのだ。
 こうした秀詮の動きは、家康の耳に逐一入っ
ていた。ただし、復興資金の出所はつかんで
いなかった。
 秀詮らの城攻めで半壊した伏見城は、合戦
後に改築され、家康が移っていた。そこで、
秀詮の動きについて報告を聞いた家康は、驚
きをとおりこして恐怖を感じた。
 秀詮の戦での能力は、身をもって思い知ら
されたが、まさか所領を統治する能力まで優
れているとは、思ってもみなかったからだ。
 秀詮が岡山城の修築をする許可を与えたの
も、修築費用はどこにもないはずで、領民の
負担が増大し、一揆などが起きて、政務が混
乱すると見込んでいたからだ。
 秀詮の優れた統治能力は、自分や跡を継ぐ
秀忠が全国支配するうえで、最大の障害にな
ることは容易に想像できた。
 秀詮は、豊臣家と血縁関係者でもあり、将
来、豊臣秀頼と手を組み、豊臣政権再興に担
ぎ出されるかもしれない。
 すぐにでも討伐したいが、秀詮は戦功をあ
げているので、おおっぴらに殺しては諸大名
の忠節心が得られなくなる。そもそも、秀詮
と戦をすれば多大な損害は免れない。
 いずれ秀頼と戦うことも考えれば、戦力を
使わない方法を選ぶのは自然の成り行きだっ
た。

2013年7月5日金曜日

合戦の余韻

 戦いの余韻が残る関ヶ原。

 三成が逃亡し、主のいなくなった陣屋は荒
れ果て、つかの間の勝利に沸いた残像が消え
ていった。
 家康は陣中に少しとどまり、お茶を飲もう
とするが、手が震えて定まらず、やっとのこ
とで飲んだ。
(かっ、勝った。これが惺窩が秀秋に伝授し
た兵法か。しかし、それを実践したあの小僧、
恐ろしい奴じゃ)
 家康は合戦の後、藤川の高地にあった大谷
吉継の陣屋に移動し、諸大名の拝謁に応じた。
 集まった諸大名は鎧を脱ぎ、酒を浴びるよ
うに飲み、誰もが、あわや負け戦からの勝利
に酔いしれていた。
 家康は、次から次へと諸大名の祝辞を受け、
それに満面の笑みで応えてねぎらった。
「皆、無事でなによりじゃ。皆のおかげで、
大勝利することができた。ありがとうな。あ
りがとう。ありがとう」
 頭を下げる家康に、一同は平伏すと、天下
を取った家康に喝采の声を上げ、また騒ぎ出
した。
 満足そうな家康だが、目は怒りに満ちてい
た。
 何もかも家康は不満だった。
 戦いに勝利はしたが、三成はまだ逃亡して
いる。なによりも三男の秀忠が、とうとう最
後まで合戦に間に合わなかった。
 この戦いは、後継者に選んだ秀忠の働きで
一気に片をつけ、徳川家の力を思い知らせた
うえで、天下に徳川の世になたことを号令し
てこそ意味がある。その段取りが全て狂った。
 もとはといえば、自分が家臣をせきたてる
ような発言をして勝利への欲をかきたて、秀
忠の到着を待てなかったのが原因だが、年の
せいか、気が短くなっていることに、この老
人は気づいていなかった。
 家康は、お祭り騒ぎで気が緩んだ諸大名の
姿を見てため息をついた。そして、よく見る
と秀秋の姿がそこにはなかった。
(そういえば、秀秋はまだ挨拶に来てないが、
どこにいるのか)
 秀秋は、関ヶ原から退去するとすぐに、三
成の集めた膨大な軍資金を領国へ持ち帰るた
めの準備を進めていたのだ。
 家康は、家臣を呼んで秀秋を探しに行かせ
た。それと入れ替わるように別の家臣が来て、
家康のもとにひざまずいて告げた。
「秀忠様がご到着なさいました」
 家康が今、一番聞きたくない名だった。
「わしは会わん」
 家康の怒りを感じた家臣は、一礼して、そっ
とその場を退いた。
 家康は、怒りと情けなさに地団駄を踏んだ。
 しばらくすると、諸大名がざわつき始めた。
 怒りが少し治まりかけた家康の耳に、諸大
名のざわめきが聞こえ、気になって皆が顔を
向けている方を見て、瞬間に表情が凍りつい
た。
「何じゃ、あれは」
 それは、騎馬隊が整然と列を連ねて近づい
てくる様子だった。その数、三百騎。
 騎馬隊の先頭には、まだ鎧を身にまとった
ままの秀秋がいた。
 皆、一瞬にして酔いが醒め、身構えた。
 家康は恐怖で顔が引きつった。
(秀秋が、何を……)
 秀秋は騎馬隊を停め、自分一人、馬から降
りると、家康の側にゆっくり近づいてひざま
ずいた。
「家康様、まずは合戦の大勝利、おめでとう
ございます。しかしながら、いまだ三成が逃
亡して行方が知れず、その追討と三成の居城、
佐和山城攻めの先鋒を、この秀秋にお申しつ
けください。どうか、伏見城攻めと、こたび
は命令を聞かず出陣した罪滅ぼしの機会をお
与えください」
 家康は、合戦に遅刻した秀忠や諸大名の気
の緩みとは対照的な、秀秋のそつのない態度
に涙を流して感激した。
「秀秋殿、よくぞ申された。よろしく頼む」 
 しかし、心には不安が渦巻いていた。
(徳川家はいずれ、こいつに滅ぼされる)
 秀秋は、一礼して立つとすばやく騎乗し、
馬を走らせた。それに続いて騎馬隊も、秀秋
を守るようにつき従い去って行った。
 あ然として見つめるしかない諸大名。
 家康の目が、企みの目に変わった。
(あれが我が子ならばのぉ。ほしいことよ。
災いの芽は摘まねばなるまい)
 この行動で秀秋は、家康に気づかれること
もなく、三成の軍資金を領国に持ち帰ること
ができた。

2013年7月4日木曜日

逆転勝利

 今まで逃げ腰だった小早川の小隊が集結し、
秀秋を中央にして両横に広がって整列した。
その一瞬、時が止まったように静寂に包まれ、
大谷隊は凍りついたように動かなくなった。
 秀秋は赤座の方に目をやった。
 少しの間があって、大谷吉継の側にいた湯
浅五郎の「あっ」という声が響いた。そこで
やっと吉継は異変を感じ、声を上げた。
「何があった」
 この時、赤座は小早川隊の動きに状況がの
みこめ、叫んでいた。
「今だ。大谷を攻めよ」
 それに続いて小川、朽木、脇坂の部隊も、
大谷隊の背後に襲いかかった。
 吉継は何が起こっているのか、まだ把握で
きなかった。
「何だ」
 大谷隊は背後から崩れるように消滅してい
く。
 秀秋は、複雑な気持ちで吉継を見ていた。
そして、情けを断ち切るため面頬を着け、側
にいた従者から槍を受け取った。その槍を高
く掲げて合図をだし、全部隊を大谷隊にぶつ
けた。
 吉継の乗った御輿は、混乱の中から湯浅五
郎の先導できりぬけるのがやっとだった。
「負けたのか。秀秋、どんな手を使った」
 吉継は負けた悔しさよりも、秀秋の戦いぶ
りに心を揺さぶられ、興味がわいた。
(じかに見たかったのぅ)
 そう悔やみながら、逃れた吉継は、御輿か
ら降りると自刃して果てた。
 秀秋は、大谷隊の崩れていくのを確認する
と、その勢いのまま西軍の島津隊に向かうよ
う叫んだ。
「島津を攻めよ。われに続け」
 その途中、稲葉、杉原に、東軍が苦戦して
いた西軍の総大将、宇喜多秀家の部隊への攻
撃に加勢するよう合図を送った。
 東軍は、大谷隊が総崩れになると気勢をあ
げて西軍に襲いかかった。
 火箭での攻撃により合戦をこう着状態にし
た島津隊に、苦しめられた東軍の井伊直政、
松平忠吉、本多忠勝らの部隊が次々と押し寄
せる。そこに秀秋のいる小早川隊の本隊も加
わり、島津隊を包囲していった。
 島津隊は、三方を東軍に囲まれ、背後は越
えられない山で後退できず、逃げ場を失った。
 苦笑いして島津義弘が一言つぶやいた。
「ここが潮時か」
 それと同時に島津部隊に号令をかけた。
「よーし、残った火箭を発射後、突っ込む。
全員、わしの後に続け。発射」
 その声を合図に、残った火箭がすべて同時
に発射された。すると火箭は、東軍の一隊に
飛び込んで炸裂した。そこにいた将兵は業火
に包まれ、身体に火がついて逃げ惑い散らばっ
た。その業火に飛び込むように、島津隊が突
き進んで逃亡をはかった。
 秀秋は、総大将として参加した朝鮮出兵で、
島津家の進言により所領転封の恥辱をうけた
ことを思い出し、その悔しさから、我を忘れ
て猛追した。その勢いは誰にも止められなかっ
た。
 秀秋の意志が乗り移ったように小早川隊は、
逃げる島津隊を執拗に追った。そして、秀秋
はそのまま関ヶ原を退去するように小早川隊
全隊に合図を送った。
 戦では、何が起きるか分からない。特に、
終わりかけの混乱を利用して、家康が小早川
隊を攻撃する可能性もあったからだ。
 家康の目の前を、島津隊がかすめて駆け抜
け、その後からすぐに秀秋を先頭に、小早川
隊が駆けていった。
 家康がのけぞりながら叫んだ。
「やつを追え」
 そして、後ずさりして尻餅をついた。
 慌てて駆け寄る家臣に、家康の号令は聞こ
えていなかった。
 家康の側にいたアダムスは、日本人の戦い
方の多様さに呆然として、恐れさえ感じてい
た。
 戦場を抜け出た島津義弘の甥、豊久は逃げ
る途中で、東軍の部隊に追いつかれ、闘って
討死した。そして、義弘の家臣、阿多盛惇は
義弘に成りすまし、東軍をひきつけて自刃し
た。
 幾多の戦で勇猛を轟かせた島津隊の千五百
人の兵の中で最後まで生き残って、領地の薩
摩まで戻れたのは、義弘を含め八十数人とい
う無残な状態だった。
 最初から戦っていた部隊が疲れていたとは
いえ、あれだけこう着状態が続いていた戦い
も、小早川隊が出陣して、わずかな時間で東
軍の逆転勝利が決定的になったのだ。

2013年7月3日水曜日

激突

 もはや西軍と東軍の合戦は勝敗が決まり、
新たに西軍と小早川隊の合戦が始まろうとし
ていた。
 三成が勝利を確信して、顔をほころばせた
その時、松尾山から小早川隊の大行列が、ゆっ
くりとふもとに降りて来るのが見えた。
 御輿に乗った大谷吉継の側で、目の代わり
をしていた湯浅五郎が叫んだ。
「ああっ、動いた」
 戦場で動こうとしなかった諸大名も、松尾
山から小早川隊が、大蛇のように蛇行して、
不気味にゆっくりと降りてくるのを凝視した。
 戦っていた将兵の中にも気づく者がいて一
瞬、動きが止まった。
 三成は目を見開き、ただ立ち尽くすだけだっ
た。
 小早川隊は松尾山のふもとに、秀秋の本隊、
稲葉、杉原、岩見、平岡の各小隊ごとに整列
して陣形を整えた。そして、稲葉の小隊が先
陣をきって走り出した。
 赤座直保、小川祐忠、脇坂安治、そして、
その側に陣取って、この直前に寝返ることを
家康に伝えた朽木元綱の四隊は、自分達が攻
撃されると思い、逃げ腰で後退りした。
 脇坂が狼狽して叫んだ。
「退け、あ、いや留まれ」
 吉継は湯浅五郎に秀秋の様子を聞くと苦笑
した。
(やはり攻めて来たか)
 吉継があらかじめ秀秋を説得すれば味方し
たかもしれないが、それでは家康に全ての計
画がばれてしまう恐れがあった。それで打ち
明けることができず、自らが家康に近づいて
いたことが、自分を慕う秀秋に影響したので
はないかと悔やんだ。しかし、こうなっては
全力で戦い、秀秋を退けるのみと心を鬼にし
た。
 先陣をきって正面から突撃する稲葉の小隊
に応戦する大谷隊が混じりあう。
 大谷隊の命を賭けた奮戦に対して、稲葉の
小隊は防戦した。
 大谷隊の将兵がうなる。
「ひるむな。突っ込め」
 稲葉が頃合いを見て合図した。
「さがれ、退却、退却」
 稲葉の小隊は、後込みしながら逃げる。
 それに勢いづいた大谷隊は、一斉に追いす
がった。 
 その頃、松野の別部隊は、森の木々に隠れ
て、大谷隊の背後に回りこもうとしていた。
 稲葉の小隊が引き下がったのを受けて、杉
原の小隊が押し出す。それを迎え撃つ大谷隊。
 しばらくすると杉原の小隊も弱腰で退いて
いく。その様子を聞いた吉継は秀秋の哀れを
感じた。
(兵の数に頼って正面攻撃をするなど、秀秋
はまだまだ未熟者であったか)
 岩見の小隊も反撃に加わるが、劣勢のまま
退く。それに代わって平岡の小隊が突っ込ん
でいった。そして、秀秋の本隊も後に続いて
攻めた。この時、秀秋は顔を守る面頬をあえ
て着けなかった。それは、自分の表情を見て、
これが策略だと大谷隊の誰かに気づいてほし
いと思ったからだ。しかし、死にもの狂いの
大谷隊の誰一人として策略に感づく者はいな
かった。
 家康は、命令を聞かず出陣した小早川隊の
攻撃の仕方に歯ぎしりをした。
「わしの命令も聞かず出陣しおって。その上、
何じゃあれは。なぜ総攻撃せんのじゃ。あー
あ、押されておるではないか。せっかくの手
柄をふいにしただけか。まあよい。これで少
しは豊臣の者どもを黙らせることができるわ
い」
 小早川隊は、一方的に大谷隊に追い回され
始めた。
 それでもなお、大谷隊は小早川隊を攻め続
け、赤座、小川、脇坂、朽木の部隊が背後に
なっていることに気がづかなかった。

2013年7月2日火曜日

陣羽織の意味

 杉原、岩見、平岡も不安がないわけではな
かった。
 遅れてやって来た稲葉正成が話し合いに加
わった。
 秀秋は、皆の思いを汲んで言った。
「たとえこの戦で家康殿が負けても、家康殿
は過ちから学んで、また挑んでくる。再び長
い乱世になれば、それこそ民衆の心は豊臣家
から離れ、後世に恨みを残すだけだ。今、こ
こで戦を治め、乱世を終わらせる道を選べば、
太閤様の名誉も保つことができよう。それに、
われらの勝ち取った領地で、太閤様の意思を
継ぐこともできるのではないか」
 皆の目に輝きが戻り、深くうなずいた。
 秀秋は立ち上がり、力強く命令した。
「稲葉、杉原、岩見、平岡は正面から攻めよ。
松野は大谷隊の背後に回れ」
「はっ」
 一同はすばやく散り、攻撃順などの役割を
小隊に振り分けると、それぞれの小隊の雄叫
びが、方々であがった。

 戦いが始まって四時間が経とうとしていた。
 秀秋は将兵の待機している曲輪に向かった。
そこにいた稲葉正成に目配せして軍資金の移
動をしていた小隊が戻たかを確認した。
 正成がうなずいたので軍資金の運び出しが
済んだことが分かった。そこで、戦闘準備を
すませてじっと待っていた将兵の前に立った。
 秀秋に初陣の時のあどけなさはなく、巻狩
りを装った軍事演習で日焼けした顔は、野性
味を帯び、威厳さえ漂わせていた。
 身分の違いに関係なく取り立てられた将兵
の顔は皆、高揚していた。
 秀秋が現れると、興奮していた将兵は、し
ばらくざわついていたが、徐々に静まり返っ
ていった。
 秀秋は将兵の緊張を解きほぐすように静か
に話し始めた。
「彼の地、明には桃源郷の物語がある。河で
釣りをしていた漁師が帰る途中、渓谷に迷い
込み、桃林の近くに見知らぬ村を見つけた。
そこにいた村人は他の国のことは知らず、戦
はなく、自給自足で食うものにも困らない。
誰が上、誰が下と争うこともない。これが桃
源郷だ。太閤様も俺も、もとはみんなと同じ
百姓の出。もう身分に縛られるのはごめんだ。
親兄弟、子らが生きたいように生き、飢える
ことのない都を皆と一緒に築きたいと思う。
そのために俺はこの身を捨てて戦う」
 それから秀秋は、側にいた兵卒に持たせて
いた陣羽織を受け取ると、高々と掲げ、皆に
見せた。
 その陣羽織は、この時のために新調された
もので、燃えるように鮮やかな緋色の猩々緋
羅紗地に、背中は諏訪明神の違い鎌模様を大
きくあしらっていた。
 秀秋は陣羽織を握り締め怒りを込め、ひと
きわ大きな声で言い放った。
「この緋色は、朝鮮で流した血の色じゃ。家
康も三成もこの血の犠牲をなんと思うて争う
のか。われらは田畑を血で染め、大地を汚す
ために生きておるのか。それとも、この鎌を
握りしめ、田畑を耕し、大地を活かすのか。
世に問うて今こそ天下を耕す時ぞ」
 この言葉に将兵の中には感涙する者もあり、
全員の心がひとつになった。そして、いっせ
いに声が上がり、気合が入った。
 秀秋はさらに強い口調になっていった。
「われらは小隊に分かれ、大谷隊を正面から
討つ。だたし、大谷隊の側にいる赤座、小川、
脇坂は敵ではない。大谷隊を誘い出し、この
三隊に背後を突かせる。われらは餌のごとく、
うろたえ逃げまわればいい。時が来るまで血
気にはやって功名を得ようとするな。天恵を
得たければ、われに続け」
「おおぅ」
 全員の雄叫びとともに各自の持ち場に散っ
た。
 秀秋は陣羽織を着ると、馬に騎乗し、空を
見上げた。
 いつの間にか空は晴れていた。
(鷹狩りにはもってこいだなぁ)
 機敏に戦闘準備を整えていく小早川隊に日
が照り返していた。
 その頃、戦いがこう着状態になり、家康の
陣にいた異国人がざわつき始めた。
 アダムスは家康の後ろ姿を見た。
 圧倒的な勢力でいまだに勝てないふがいな
さに、家康は落胆の色をみせていた。
「わしの負けじゃ。じゃが、これで終わった
わけじゃない。もう一度、秀忠と合流して出
直そう」
 家臣たちも皆、自分たちの犯した失策にう
なだれていた。
 一方、三成の陣営では、家康の逃亡しそう
な気配が見えると歓声が上がった。
「やった。家康に勝った」
 うなだれた家康が退却の準備を始めようと
した時、伝令が現れ駆け寄った。
「小早川秀秋殿がご出陣されます」
 その言葉に、家康の顔色が赤く染まっていっ
た。
 この時、家康の脳裏に二つの考えが渦巻い
た。
 一つは、自分に加勢して西軍に攻め込む。
この場合、合戦に勝つと豊臣家の発言権が増
してしまう。合戦に負けると西軍の勢いがさ
らに増すだろう。
 もう一つは、自分を裏切って、こちらに攻
めてくる。この場合、徳川家は一瞬に消滅す
るだろう。
 どちらにしても徳川家にはなんの利益にも
ならない。
 なんとしても秀秋を松尾山城に留めておか
なければならない。
 家康は、怒りをこめて叫んだ。
「なんじゃと、もう遅いわ。あの小僧、わし
を馬鹿にしおって。誰か、誰か松尾山に鉄砲
を撃ちかけい。わしが秀忠を連れて戻ってく
るまで、小早川に城で籠城しておれと知らせ
るのじゃ」
 すぐに松尾山のふもとに布陣していた徳川
軍の鉄砲隊に命令が伝わり、松尾山に向けて
一斉射撃がおこなわれた。
 その銃声を聞いた松尾山の小早川隊は、す
でに出陣の準備が整い、戦場に向かおうとし
ていた。
 秀秋のもとに兵卒が駆けつけた。
「家康様から、出陣を思いとどまり、籠城す
るようにとのご命令です。家康様は、すぐに
秀忠様をつれて戻ってくるとのことです」
 秀秋は少し考えたが、全軍に出陣命令を下
した。
 このまま籠城すれば、西軍の総攻撃にあう。
そして、秀忠の部隊が来れば、せっかく無血
入城した手柄がふいになる。しかし今、出陣
すれば命令違反を問われるかもしれない。
 どちらにしても良いことはないのなら、出
陣してこの合戦を終わらせることを優先する
べきだと秀秋は考えた。
 いつか藤原惺窩に教わった孫子の兵法にあ
る「兵は拙速を聞くも、いまだ巧の久しきを
睹(み)ざるなり(戦は短期でするものだと
よく言われ、手をつくして時間をかけるもの
ではない)」を思い出していた。

2013年7月1日月曜日

軍資金移動

 秀秋はこれまで運命に逆らえなかった。
 生まれた時から織田信長の生まれ変わりを
演じて、自我を出すことができず、その上、
養子に次々と出され、居場所を見失うことも
あった。
 まるでタンポポの種が風に飛ばされて落ち、
その場所がどんな所でも咲かなければならな
いように、与えられた条件を受け入れるしか
なかったのだ。
(どうせ捨てるものは何もない)
 秀忠の部隊が到着して自分の出番がなく、
命が尽きるのもいいと思っていた。
「それより正成。あれはどうなった」
 秀秋は、三成の持ち込んだ軍資金がどうなっ
ているのか気になっていた。
「はっ、それですが、私が見ただけでも十万
両はあり、一旦、埋め戻して警戒させており
ますが、奥平が退去しましたので、すぐに運
び出させます。しかし、かなり時がかかると
思います」
「十万両以上もあるのか。それならやむおえ
んが、できるだけ急いでくれ。われらの出番
があるかもしれん。そうなれば出陣の好機を
逃すと取り返しのつかぬことになる。他の小
隊も使ってよいが、家康からつけられた浪人
どもには気づかれぬようにな」
「はっ」
 稲葉はすぐに退き、軍資金のある曲輪に待
機していた小隊に、手はずどおり運び出すよ
うに指示した。
 こう着状態が続く中でも、三成は陣中にどっ
しりとかまえ、微動だにしない。対する家康
は、陣中をうろちょろして、落ち着きがなかっ
た。
「秀忠はまだか。何で誰も動かんのじゃ」
 秀秋のもとに家康の使者がやって来て、家
康の言葉が伝えられた。
「秀忠様は、ただいま関ヶ原へ向かわれてい
ますが、到着が遅れております。秀秋殿には
疑念がおありのようですが、大殿に二心など
ありません。秀秋殿にはかねてより、備前と
美作を封ずると申していることに偽りなく、
早急のご出陣をお願い申し上げます」
 しばらくすると、東軍の内情を探っていた
小早川隊の兵卒が秀秋のもとに戻って告げた。
「徳川秀忠殿は、上田城攻めにてこずり、現
在は関ヶ原に向かっています。しかし、悪天
候で信濃に足止めされ、到着が遅れています」
 これで秀忠がいないのは、家康の策略では
ないことがはっきりした。
 秀秋は杉原重治、松野重元、岩見重太郎、
平岡頼勝を呼んで言った。
「秀忠は来ない。今、出陣すればふもとで警
戒している大谷隊と正面からぶつかることに
なる」
 四人は、秀秋が大谷吉継を兄のように慕っ
ていることを知っていた。
 秀秋は地形図の駒を指差して話した。
「皆も知っておろうが、この赤座殿、小川殿、
脇坂殿は家康殿に内通している。そこでだ、
大谷隊の注意をこちらに向けさせれば、この
三隊が側面を攻めよう」
 松尾山のふもとで戦っている大谷隊の斜め
前方には、家康に内通しているはずの赤座直
保、小川祐忠、脇坂安治の三隊が東軍の不意
打ちを警戒するフリをして待機していた。そ
の中でも赤座は、秀秋が以前、越前・北ノ庄
に転封になった頃からの知り合いで、小川、
脇坂らと朽木元綱を説得して大谷隊を攻撃す
る機会を狙っていたが、大谷隊の奮戦と威圧
で、ヘビに睨まれたカエルのようにその場を
動くことさえできなかった。
 秀秋の考えに岩見は、勇猛な武人らしく反
論した。
「今まで動かなかった三隊など、あてになり
ませぬ。戦で信じられるのは己のみ」 
 秀秋が自分の考えを話した。
「三隊は今のままでは動けないだろう。そこ
で、われらは小隊に分かれ、一隊ずつ大谷隊
の正面から攻めと退却を繰り返す。そうすれ
ば大谷隊は、われらの部隊の統率がとれてい
ないのは俺の力不足と甘く見て追ってくるは
ずだ。これで三隊は、大谷隊の背後に位置す
ることになり、動くかもしれん。仮に動かな
い時のために、われらの別部隊を背後に回り
込ませればどうだ」
 秀秋は合戦を狩りにおきかえて考えていた。
 狩りをする時は獲物を追いかけるより、餌
で誘って仕留めるほうが楽だ。
 吉継にとって秀秋は、幼い時の未熟さが印
象に残っているはずだから小隊での正面攻撃
という無謀な戦い方をすればあなどり、そこ
に油断ができる。これで小早川軍が餌になり、
吉継を思い通りの場所に動かすことで、赤座、
小川、脇坂の三隊に仕留めさせようと考えた
のである。
 話しを聞いていた鉄砲頭の松野の顔色がく
もった。
「これでいいのかの。わしは太閤様に顔向け
できん」
 秀秋は、忠義心の強い松野の気持ちを察し
た。
「松野は、態度をはっきり決めることのでき
ない輝元殿や無謀な戦をする秀家殿、その全
てを取り仕切ることのできない三成殿で、天
下が治まると思うか。この場に秀頼様を連れ
てこなければ、豊臣家とは無関係のただの殺
し合いにしかならない。その秀頼様を西軍は
連れて来ることができなかった。それにな、
太閤様は朝鮮での過ちを繰り返した。それを
俺も、ここにおる全ての者が太閤様を止めら
れなかった。三成殿や吉継殿には才覚がある。
その才覚が、太閤様によって間違ったことに
使われていることを知っていたはずだ。それ
でもどうすることもできないのなら、その才
覚はなんの役にもたたない。だからこうして
豊臣家の家臣だった者たちが、不信感を抱き、
仲間どうしが争うことになったのではないの
か」
 松野は唇を噛みしめてうなだれた。