2013年7月12日金曜日

逃亡

 慶長七年(一六〇二)

 岡山城は廃墟のように静まりかえっていた。
「正成、正成、誰か正成を知らんか」
 秀詮がそう叫んでいると、現れたのは稲葉
正成の義理の子となっていた堀田正吉だった。
「お恐れながら、父上は昨夜、退去しました」
「退去。わしから逃げたのか」
「はっ。追っ手を差し向けましょうか」
「よい。その方は、ついて行かなかったのか」
「はい」
「ところで、その方は杉原の子の重季がどう
なったか、何か聞いておるか」
「はっ。殿の命じられたとおり、切腹をさせ
たと聞いております」
「それは正成が執り行ったのか」
「はい。そのように聞いております」
(正成、うまく逃がしたか)
「それならよい。ならば他の者に伝えよ。わ
しのもとを去りたければいつでも去れと」
「はっ」
「わしは少しめまいがする。侍医を呼んで来
い」
「はっ」
 しばらく秀詮が寝屋で横になっていると、
侍医の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)がやっ
て来た。
 玄朔の父は、漢方医学の名医、道三で、玄
朔は、その道三流医学を継承し、度々、皇室
の医事にもかかわっていた。
 惺窩から頼まれて、秀詮の解毒薬を調合し
たのも玄朔だった。
「お加減はどうですかな」
「万事整いました。今度は、私が死ぬ番です」
「そうですか。では、手はずどおり始めさせ
て頂きます」
「迷惑をかけますが、よろしく頼みます」
「いえいえ。それより、帝は貴方様にさぞ期
待をされております。くれぐれもお忘れなき
ように」
 この時の天皇、後陽成天皇は、何もかも知っ
ていた。
 天皇は、過去に織田信長、豊臣秀吉と晩年
に世が乱れることになり、今度の徳川家康で
も、同じように乱れることを恐れていた。そ
こで、秀詮が徳川家に入り、それを抑制する
ために働いてくれることを期待していたのだ。
「分かっています」
「では、解毒薬はこれまでどおり服用してく
ださい。すでに末期の症状が出ている頃合い。
一時、激しく狂った後は寝込み、そのまま二
度と起きることはなりません。すぐに私の従
者を数名遣わせ、これらの者以外は、貴方様
には近づけません。こちらの準備が整い次第、
葬儀の運びとなります」
「分かった」
 秀詮は玄朔の言ったとおり、城内で着物を
乱して刀を振り回し、激しく狂うと、バッタ
リと寝込んだ。すると、すぐに玄朔の従者が
現れ、秀詮の寝屋のふすまを全て締め切り、
病が悪化するからと理由をつけ、家臣の誰も
近づけなかった。
 それでも秀詮は念のため、うめき声を出し、
衰弱していくフリをした。
(これでいい。これで天下を耕す準備ができ
る。皆もそれぞれの場所で芽をだすだろう)
 今でも毒薬が効いていると信じていた平岡
頼勝は、岡山城に留まり、秀詮の最期を見届
けて、家康に報告しようと待っていた。
 こうした状況になると、家臣の秀詮に対す
る憎悪は消え、ほとんどの家臣が秀詮のもと
を離れようとはしなかった。そんな家臣に見
守られる中、秀詮の死が告げられた。
 秀詮の死は、病によるものと告げられた。
しかし、秀詮の遺体があるはずの寝屋には、
すでに秀詮の姿はなかった。
 秀詮は、侍医、曲直瀬玄朔の従者の一人に
成り変り、深夜になるのを待って、城内から
出て行った。
 寝屋には、以前から用意されていた棺桶が
運ばれた。その中には、秀詮と背格好の似た
病死の遺体が納められていた。
 遺体は数日たったものらしく、十月の寒い
時期で腐敗が遅いとはいえ、顔がむくんで、
誰だか判別できない状態だった。
 玄朔の従者が、その遺体を棺桶から出して
布団にくるめ、秀詮の身代わりとした。
 次の日、残っていた家臣らが見守る中、秀
詮の身代わりの遺体が棺桶に納められた。そ
して、葬儀はしめやかに行われた。
 秀詮の死は、道澄法親王、近衛信尹(この
えのぶただ)などの公家からも惜しまれた。
 遺体が埋葬される出石郷伊勢宮の満願山成
就寺までの移動中には、領民が大勢、沿道を
うめ、狂った領主を恨むどころか、多くの者
が嘆き悲しんで手を合わせた。
 秀詮の葬儀が済むと平岡頼勝は、秀詮に側
室や子がいることなどまったく気づかず、跡
継ぎがいない小早川家が廃絶にならないよう
に養子を仕立てようとした。
 平岡は、秀詮が毒殺ではなく、あくまでも
病死したように装い、淡々と後始末をこなし
ていった。しかし、平岡の行動もむなしく、
秀詮の養子は認められず、小早川家は廃絶と
なった。だが、養父、小早川隆景には、弟の
秀包(ひでかね)がいたので、そちらの小早
川家が残り、毛利家との約束は果たされた。
そして、残っていた家臣の一部は毛利家に仕
官し、それ以外の家臣もそれぞれの居場所を
見つけることができた。
 すべてを整理した平岡は、秀詮に最期まで
忠義を貫いたということで、家康に高く評価
され、誰にも疑われることなく家康に召抱え
られた。
 これで家康の憂いがひとつ消えた。
 それから間もなく、小早川秀詮などこの世
に存在しなかったかのように世間から忘れ去
られた。