2013年7月15日月曜日

居場所

 家康との謁見を終えた羅山は、すぐに京の
市原にある惺窩の山荘を訪れた。
「待ちかねたぞ羅山。家康殿の様子はどうで
あった」
「平然としてはいましたが、内心はどうか分
かりません。まあ、これで私が生きているこ
とは分かったわけですから、どのような策を
繰り出すか。家康殿はまた会って私の力量を
見定めたいとおっしゃっていましたから、ま
ずは知恵比べということでしょうか」
「そうか。それは良かった。もう命を狙うこ
とはあるまい」
「なぜです。分かりませんよ、あのお方の考
えることは」
「家康殿が平然としておられたのなら、殺そ
うとしたのが自分だと言っているようなもの。
もし殺す気がまだあるのなら、あんたが生き
ていることが分かったら、嘘でも喜んだはず。
それがあの御殿様の腹芸なのだ」
「なるほど、だから『わしは今でも秀秋殿を
早よう喪った事を残念に思うておる』などと
心にもないことを言っておった。いや、おっ
しゃっておいでだった」
「秀秋はもう死に、あんたが羅山として生き
ることを認められたのだ。ただし、仕官をさ
せるかどうかはこれからだぞ、ということだ」
「なるほど」
「なにを悠長な。力量を試されるのだぞ。準
備はできているのか」
「それならご心配にはおよびません。死んだ
フリの二年間、あらゆる書物を読破し、頭に
叩きこんでおります」
「ならば良いが。幼き頃は、よくさぼって遊
びほうけておったからな」
「それは先生の学問が難しすぎたからです。
実践して始めてその奥の深さを思い知らされ
ました。だから今は、さぼったりしていませ
ん」
「心配なのはそこだ。私の学んだ儒学を家康
殿の家臣の中で理解している者は、そう多く
はいないはず。儒学以外からの問答を仕掛け
てくるかもしれん。そうなると多岐にわたる
知識が必要になるぞ」
「それなのですが、兄に会って来ようと思っ
ています。ところで、稲葉について先生はな
にかご存知ですか」
「あれは……」

 浪人となっていた稲葉正成は、幕府への仕
官を目指していた。しかし、家康から高く評
価され、関ヶ原の合戦でも東軍勝利に貢献し
たにもかかわらず、なかなか仕官のお呼びが
かからなかった。
 正成は、秀詮と誰にも知られていない側室
や子らを救うために逃亡のフリをしたが、そ
れが「狂ったとはいえ主君である秀詮から逃
亡した」ということになり、忠節がないと思
われていたからだ。
 そうした正成には、妻の福と三男二女がい
たが、福と子らは福の母方の伯父、稲葉一鉄
と縁戚関係にある公家の三条西家に身を寄せ
ていた。その福は、身ごもっていたがやがて
男の子が産まれた。
 ちょうどその頃、徳川秀忠の正室、江与も
懐妊し、乳母を捜していた。その乳母を探す
ことを任された京都所司代の板倉勝重は、稲
葉正成の祖先の林氏とは姻戚関係にあった。
 京都所司代というのは、朝廷や公家の監察
という、朝廷と幕府との関係を良好に保つ仕
事があり、三条西家から福の存在を聞いた勝
重は、公家との関係や正成との縁で、福を推
薦した。
 福は、子供の頃にも三条西家に母と一緒に
身を寄せていたことがあり、公家の作法を心
得ていた。それに、福は天然痘にかかったこ
とがあり、天然痘に免疫があるということが
乳母に選ばれる決め手となった。
 思いがけず、福が先に幕府に関わることに
なったことで、正成は自分も仕官できるので
はないかと期待したが、それも叶わず、長男
の正勝が、江与に男子誕生ならば小姓として
仕官することになった。
 秀忠には、長丸という嫡男がいたのだが、
病弱で早世したことで、今は姫ばかりだった。
そのため、家康の後継者となるにも男子誕生
を念願していた。その思いが通じたのか、江
与が男の子を産んだ。
 早速、福は、小姓となる長男の正勝と一緒
に秀忠のもとに出向いた。
 誰もが乳母として短期間の勤めと思ってい
た。

 惺窩は、羅山から正成のことを聞かれ、こ
れまでのことを思い出して、暗い表情を浮か
べながら口を開いた。
「あれはいつだったか、稲葉殿は私のところ
に不意に訪ねて来られた。お福さんが乳母と
なって、稲葉殿は五人の子を養うのに難儀し
ておると。まだ仕官の口が見つかっていない
ようだった」
「私のせいでしょうか」
 羅山も顔を曇らせた。
「狂った主君を見限って、早々と逃げ出した
のが心証を悪くしたようだ。他の者が大方、
仕官できたのは、狂った主君を見捨てず、そ
の忠義に同情したこともあるからな」
「稲葉にはなんとしても報いてやらねば」
「そんなに心配することもあるまい。稲葉殿
はただの知恵者ではない。目先の利益にとら
われず、もっと大きなものをつかもうと考え
ておられるのだ」
「そうでしょうか」
「その証に、お福さんは秀忠様のお子がもう
乳離れしているにもかかわらず、まだ乳母と
して留まっておる。私には稲葉殿がなにか知
恵を授けて、少しでも永く留まるようにさせ
たとしか思えん。それであんたは、兄さんの
所に行き、お福さんと連絡をとろうとしてい
るのだろ」
「先生には何も隠せませんね。でも、兄に会っ
て福と連絡がとれるかどうかまだ分かりませ
んけど。とりあえず行って参ります」