2013年7月16日火曜日

長嘯子

 羅山は、惺窩のもとを去ると、すぐに京の
東山にある、木下長嘯子(ちょうしょうし)
の庵を訪ねた。
 長嘯子とは、小早川秀詮の兄、勝俊のこと
で、豊臣家の縁戚というだけで、以前は武士
として豊臣秀吉に仕え、播磨・龍野城主や若
狭・小浜城主となっていたこともある。だが、
関ヶ原の合戦が始まる前哨戦となった伏見城
攻めの時、東軍として鳥居元忠と共に伏見城
を守ることになっていたが、攻撃が始まる前
に脱出した。これが逃亡したとされ、関ヶ原
の合戦後、家康に領地を没収された。そこで
武士を辞め、剃髪して、京・東山の霊山(りょ
うぜん)に隠居し、今は歌人として頭角をあ
らわしていた。
 長嘯子は、羅山の顔を見ると喜んで迎え入
れた。
「やあ、どなたかと思えば、以前どこかでお
会いしたような懐かしさがあるが、どなたで
したかな」
「分からないのに笑顔で迎え入れるとは無用
心な。冗談はよしてください。私です、秀秋
です。今はこのように風体も変えて林羅山と
名乗ることになりました。これからは羅山と
お呼びください」
「おうおう、そうそう、すっかり変わってし
もうて見違えた。そなたが陽気な顔をして近
づいて来たからわしもつられて笑ったのじゃ」
「まあとりあえず、お元気そうでなによりで
す。ところで、早速ですが兄上は幕府の方と
も親交を深めていらっしゃるご様子。清原秀
賢殿をご存知ありませんか」
「何度かお目にかかったことはあるが、親し
く話しをしたことはない」
「今度、その者らに、私は学問の知識を試さ
れるのです。今、私の仮の弟になっています
信澄と清原殿は、何度か会っているので、私
のことも知っているはずなのですが、最近は
なかなか会えず、どのような問答をされるの
か聞き出せないのです。そこで、兄上にそれ
となく聞き出していただきたいのです」
「ふん。やってみよう。また一人友が増える
な」
「私の羅山の名を出せば、何を聞きたいのか、
察しはつくと思います。よろしくお願いいた
します。それと、兄上は福を覚えておいでで
すか」
「おお、覚えておる。というより会った。な
んでも秀忠殿のお子の乳母になっておるらし
いな」
「そうですか。また会う機会がありましたら、
羅山から、稲葉殿らは達者でやっていると聞
いたとお伝えください」
「あい分かった」
「兄上にはこれからもご面倒をおかけします
が、よろしくお願いいたします」
「なにを他人行儀な。わしがこうして生き永
らえているのも秀…、いや羅山のおかげじゃ」
 二人はしばらく子供の頃の話をして和み、
別れた。