2013年7月17日水曜日

清原秀賢

 清原秀賢は、後陽成天皇の侍読として仕え
ている公家で、明経道(みょうぎょうどう)
という儒学を研究、教授する学科の教官、明
経博士をしていた。
 以前から、羅山の弟となった信澄とは面識
があり、漢文を読みやすくする訓点の方法に
ついて教えたりする旧知の仲だった。
 稲葉正成とも親交があり、それで秀賢から
信澄のことを知った正成は、自分がもとは林
姓だったこともあり、秀才の信澄をいつか役
立てようと援助していたのだ。
 正成は小早川秀詮が朝鮮出兵で武勲を挙げ
たにもかかわらず、秀吉から処罰された頃か
ら、いずれ家康に仕官したいと考えていた。
 関ヶ原の合戦が起きた年、信澄が、まだ信
勝を名乗っていた頃に正成が援助して儒学の
講義を開かせた。そのことをあらかじめ正成
から聞いて知っていた秀賢は、家康に「この
講義は、朝廷の許可を得ていない」と告訴す
ることで、その存在を印象づけていたのだ。
 その後、正成は、家康に毒殺されそうになっ
ていた秀詮に懇願され、助けることになり、
秀詮の先祖も林姓だったことで、これを林一
族の権力拡大につなげるため、秀詮が死んだ
ように見せかけ、秀賢には、秀詮を信勝とし
て家康のもとに仕官させるように頼んでいた
のだ。
 秀賢は、自分の儒学が藤原惺窩の教える儒
学とは考え方が異なり、当時の信勝が惺窩の
弟子となると自分の儒学の脅威になるので、
これを利用して幕府には対立していると思わ
せた。そのため、林羅山の仕官を嫌っている
者の代表を装うことができたのである。
 この頃の幕府は、儒学そのものを軽視して
いたので、秀賢にとっては、考え方が異なる
儒学でも幕府に認めさせることが先決だった
のだ。
 こうした経緯から家康は、秀賢を問答に呼
び、羅山と競い合わせるつもりでいた。
 この頃には、家名を舟橋と改めていた秀賢
は、和歌にも優れた才能があり、邸宅にひょ
いと現れた長嘯子を快く迎え入れた。
「これはこれは、長嘯子殿とは以前から、ゆっ
くりお話がしたいと思っておりました」
「それはこちらも同様でございます。清原様
はお忙しそうなので、なかなかお声をかけら
れませんでした」
「ああ、ご存じないかもしれませんが、つい
最近、家名を舟橋にいたしました。それはい
いとして、今日は何か御用でしょうか」
「これは存じ上げず、申し訳ありませんでし
た。早速ですが、舟橋様は、林羅山なる者を
ご存知ですか。このたび私の和歌の弟子にい
たしました」
「羅山殿でしたらよく存じています。そうで
すか弟子にされましたか」
「はい。なんでも、近いうちに家康様に招か
れて問答をするようで……」
「ほお、長嘯子殿は弟子思いですな。さよう、
問答には私の他に相国寺の承兌長老と円光寺
の元佶長老が同席するようです。上様がこの
二人の長老が考えた問題を皆に問い、私たち
は答えられず、羅山殿に答えさせるという手
はずになっております。私が知っている限り
では大陸の前漢、後漢時代あたりからの問い
があるようです。ですから漢書は必ず読まれ
ますように。それと一問を上様自らが問われ
るようですが、それが分かりません。羅山殿
が答えられなければ、私がなんとか取りつく
ろうつもりです」
「それだけ分かればありがたい。弟子になり
代わり、お礼申し上げます。舟橋様とは、ま
たいずれゆっくりと和歌を詠みたいものです」
「それはもう、ぜひそうなるよう心待ちにし
ております」
 二人の話し合いは、すれ違う一瞬の出来事
のように終わり、長嘯子はすぐにこの話を羅
山に知らせた。
 羅山は、弟の信澄と一緒に、長嘯子の少な
い情報から推測して、問答に役立ちそうな書
物を絞り記憶していった。すると、羅山のま
だ幼い頃、木下家定の子、辰之助として豊臣
秀吉に覚えさせられた織田信長が好んでいた
謡曲「幸若舞」の「敦盛」が脳裏に蘇ってき
た。

 思えば此の世は
   常の住処にあらず
 草の葉におく白露
   水に宿る月より猶あやし
 金谷に花を詠じ、
   栄華はさきを立って
     無常の風にさそはるる
 南楼の月を弄ぶ輩も、
   月に先だって
     有為の雲に隠れり
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか
 人間五十年、
   下天の中をくらぶれば
     夢幻のごとくなり
 一度生を享け、
   滅せぬ者のあるべきか、
     滅せぬ者のあるべきか