2013年7月20日土曜日

前兆

 羅山は藤原惺窩のもとを訪れ、家康と豊臣
秀頼の戦いが近づいていることを伝えた。
「やはり避けられんか」
「はい。大御所様は天下を取るという一念で
今まで永らえ、そのためならわが子の命も惜
しまないお方です」
 家康には天正七年(一五七九)に正室だっ
た築山が、織田信長と敵対していた武田氏に
内通していたとう嫌疑をかけられた時、信長
の命により築山を殺害。その余波で長男の信
康も切腹させるという苦い経験があった。
「だから私は、あのお方の側におるのが怖い。
お前を近づけたのも本当は悔いている」
「とんでもありません。先生のおかげで一度
死んだ命が天下に近づいたのです」
「そうか、そう思っているのならまあ良い。
しかし、戦はなんとしても避けてほしいもの
だ」
「それは、豊臣家の出かた次第です」
「お前は心配していないのか。姉のように慕っ
ていた淀殿が死ぬかもしれんのに」
「それも天命です。しかし、そう簡単には死
なないと思います。淀殿は、太閤様が戦のお
りにはよくお供をしていました。その時、太
閤様は淀殿に『よいか戦は向かうことより逃
げることが大事じゃ。そのために攻撃し、敵
を警戒させて、その隙に逃げる。またどこか
らともなく現れて攻撃する。そうして敵を翻
弄し、戦う気を失わせ、こちらの目的を達す
る。わしはそれを信長公より教えられた』と
何度も話しておりました。淀殿は私よりも戦
上手です」
「それは遁甲のことか」
「はい。ですからそう易々とは大御所様の手
にはかからないでしょう」
「しかし、そのために多くの犠牲が出る。そ
のことも気にかけなければ、将たりえない」
「はい。それは私も身にしみております。だ
からこそ、今度の戦で全てを終わらせたいと
願っているのです。これで武士の時代は終わ
りましょう」
「そうなればよいが、おお、それで、朝鮮と
の和平を大義名分にするよう進言したのか」
「そうです。これでもう異国を攻めるような
ことは二度とさせません」
「それはすばらしいことだ。そうだ、お前に
渡したい物がある」
 惺窩はそう言って、雑然と積まれた書物の
中から「延平答問(えんぺいとうもん)」と
書かれた一冊を探し出した。
「この延平答問には、朱子の奥義の全てが書
かれている。私はこれから紀伊の浅野幸長様
のところへ行くから、しばらく会えんかもし
れん。だからこれを私の代わりに置いて行く」
 そう言って羅山に延平答問を手渡した。
「ありがとうございます。大切にお預かりし、
写本させていただきます」
 それからしばらく、二人は談笑して別れた。