2013年7月27日土曜日

道春

 伏見城で羅山が来るのを待っていた家康は、
竹千代の病が自分の調合した薬で治ったと聞
き、上機嫌だった。
 家康は、羅山が広間に入り、座ってひれ伏
そうとすると、それを制するように喋り始め
た。
「羅山殿、来年の早々、駿府に来てもらいた
い。しかし、天海がな、今の羅山殿をそのま
ま駿府に入れたのでは、必ず災いを呼ぶと申
してな。そこで二つ頼みがある。一つは、剃
髪してもらいたい。そもそも、侍講は僧侶の
身分でなければならない慣わしで、町人の身
分ではまずいからじゃが、羅山殿の今の姿を
旧臣が見れば、どうしても小早川秀秋殿の影
がつきまとう。それを断ち切るためでもある。
二つ目は、今の号、羅山を改め『道春』と名
乗ることじゃ。これも『羅』が、秀秋殿のま
とった緋色の羅紗地の陣羽織を『山』が、関ヶ
原の松尾山を思い起こさせるからじゃ。わし
にとって秀秋殿は、関ヶ原の合戦で勝利に導
いた大恩人じゃと思っておる。その秀秋殿の
『秀』は人より秀でると読みとれるが、道春
の『道』は人を導くという意味じゃ。これか
らは人より秀でた者になるより、人を導く者
となって欲しい。そして、天海が言うには、
秋は西を意味するそうじゃが、秀秋殿は合戦
のおり、東軍であった。そして、羅山殿はこ
れから東に向かう。東は春を意味するから『道
春』とするのがもっとも良いということじゃ。
いかがかな、受け入れてもらえるだろうか」
「ははっ。そこまで私のような者に、お心遣
いをいただけるとは、ありがたき幸せにござ
います。道春の号、謹んでお受けいたします。
剃髪も、もちろんそうさせていただきます。
しかし、お恐れながら、私の師である惺窩先
生には大変な恩があります。その恩を忘れな
いためにも、私は儒者の心持ちで駿府に赴き
たいと思います。そこで、惺窩先生に習い、
儒者の頭巾を被ることをお許しください」
「おお、それは良い考えじゃ。見た目も生ま
れ変わって、誰も羅山殿に疑念を抱く者はお
らんじゃろう」
「大御所様。私は、すでに家臣となった身。
道春とお呼び下さい」
「そうか。では道春、駿府で会おう」
 こうして、羅山改め道春は、慶長十二年(一
六〇七)三月になって、ひとり京を発ち、家
康の本拠地、駿府に旅立った。
 駿河・駿府城に入った道春は、三百俵の待
遇で召抱えられ、後に駿河文庫と呼ばれるよ
うになる、家康の所蔵する膨大な書物の管理
を任された。
 道春は書庫の鍵を受け取ると、すぐに書庫
に入った。そこは、薄暗くひんやりとして、
まるで牢獄のようだった。
 小早川秀詮の頃からしてみれば、五十一万
石の大名から三百俵の僧侶扱いと、奈落の底
に落ちたような違いだったが、道春にみじめ
さはなかった。
 今までは、豊臣家や毛利一族という後ろ盾
があり、その力を利用していたに過ぎない。
 これからが自分の力を発揮する時と、気力
が増してきた。
 しばらくは家康のお呼びもかからず、暇な
時は遠出をして、駿河の各地を見て回った。
 ちょうどこの頃、土木工事の名人、角倉了
以が富士川に船路を整備していた。
(これが大御所様の統治のやり方か。すごい
ものだ)
 別の村に立ち寄った時、道春の足が止まっ
た。
 駿河では火薬の原料が産出されるため、火
薬作りが盛んだったのだが、その一角で見覚
えのあるものが作られていた。
(火箭ではないか)
 関ヶ原の合戦の時、島津義弘の部隊が大量
に運び込んだ火箭に、東軍は苦しめられ、家
康は敗北を認め、退却しようと考えるほど追
い詰められた。そんな強力な武器が、今、目
の前で作られていたのだ。
 道春は、始めて見るといった物珍しいそう
な顔で、作業をしていた者に尋ねた。
「これはなんですか」
「これは狼煙ですじゃ」
「狼煙」
「そうでございます。これを立てかけて、こ
こに火をつければ空高く上がり、白い煙がパッ
と出るのでございます」
「武器ではないのか。以前、薩摩で見たこと
がある物に似ているようだが」
「あなた様は、薩摩をご存知でしたか。前は
戦いに使われたこともあると島津の方々はおっ
しゃっていましたがね」
「これは、島津の者に教わったのか」
「そうですじゃ。先の合戦で落ち延びた島津
の方々に、大御所様が命じられたと聞いてお
りますが。ところで、あなた様はどなたで」
「私は道春と申します。大御所様の側に仕え、
書庫の管理をしている者で、けっして怪しい
者ではありません」
「そうですか。でも、あまりこのことは他言
せんでくだされ。喋っちゃならんかったかも」
「もちろん。安心してください」
 道春は、島津隊が西軍でありながら薩摩の
領地を安堵されたことに疑問を抱いていたが、
家康は領地の安堵と引き換えに、火箭の技術
を手に入れたのだと納得した。そして、西軍
の敗北が決定的となり退却しようとした島津
隊を小早川隊などが追撃して、大多数の将兵
が姿をくらましたが、そのからくりが分かっ
てニヤリと笑った。