2013年7月30日火曜日

新たな道

 しばらくたったある日、駿府に竹千代のお
守役になった福が、伊勢参りに行く途中、ど
うしても家康に、先の竹千代の病気回復のお
礼が言いたいと立ち寄った。
 家康は喜んで迎え入れた。
「福、伊勢参りとな」
「はい。竹千代様の健康祈願をしようと思い、
やって参りました。しかし、その前にどうし
ても竹千代様の病が、大御所様からいただい
たお薬で回復したことを、お礼申し上げたい
と思い、お忙しいとは思いましたが、お恐れ
ながら参上いたしました」
「それは江戸城で何度も聞いたではないか。
こたびはそれではないのであろう。江戸では
言えないことでもあったか。申してみよ」
「ははっ。恐れ入ります。では率直に申させ
ていただきます。私は竹千代様のお守役とし
て、竹千代様に世継ぎとしての教育をしてい
いのか、家臣としての教育をすればいいのか
迷っております。ご城内では、すでに世継ぎ
は国松様との噂が聞こえてきます。もしそう
ならば、竹千代様に世継ぎとしての教育をす
れば、争いのもとになります。しかし、どう
して竹千代様が世継ぎではないのか分かりま
せん。大御所様が竹千代様の病気回復に心を
砕き、お薬を調合して下さったのは、なんの
ためだったのか。もしや、大御所様にはまだ
このような噂が、お耳に入っていないのでは
ないかと思い。お恐れながら、お聞きしたかっ
たのでございます」
「そのような噂があることは存じておる。し
かし、国松が世継ぎになるなど、まだ決めて
はいない。……そうじゃ、竹千代はわしが調
合した薬で回復したのじゃ。しかし、福の懸
命の看護もあってのことじゃ。それを無にす
るようなことは、けっしてせんぞ。それに国
松はお江与が育てている。母に甘やかされた
国松では将来が心配じゃ。よし決めた。世継
ぎは竹千代じゃ。福、竹千代に世継ぎとして
の教育をするよう頼む」
「ははっ。もったいなきお言葉。福の命に代
えても、立派なお世継ぎとなるよう、きびし
く育ててまいりたいと思います」
 このことがあって家康は突然、江戸城に現
れ、竹千代が世継ぎと宣言した。
 誰にも有無を言わせない決定に混乱する隙
を与えず、秀忠もそれに従うだけだった。

 道春は、徳川家の書庫、駿河文庫に納める
書物を購入するため、長崎へ行った。
 目当ての書物を購入して京に帰って来ると
良い知らせが二つ入った。
 一つは、稲葉正成が幕府に仕官できたとい
うのだ。もともと家康には高く評価されてい
たのだが、主君、小早川秀詮の乱心で逃亡し
たという印象が強く、秀忠には良く思われて
いなかった。しかし、福の竹千代への命がけ
の献身と道春の登場により、秀詮に関する誤
解がとけ、逸材をこのまま埋もれさせておく
のは惜しいという判断に変わり、しばらく働
きぶりを見たうえで、美濃に一万石の領地が
与えられたのだ。
 もう一つは、以前、道春が江戸から戻る時
に、幕府から駿府と京に宅地と邸宅の建築費
が与えられていたのだが、その邸宅が完成し
たという知らせだった。これで藤原惺窩や兄
の木下長嘯子を呼んで、正成や福らと連絡を
とりあうことも、弟子を増やして幕府に送り
込む人材を育成することもできるようになっ
た。
 喜びもつかの間、道春は、駿府へ長崎で購
入した書物を持っていくと駿府城が火災にあっ
たと知らされた。
 幸い家康は無事で、駿河文庫も火災から免
れた。そこで道春は、駿府城が再建されるま
で、しばらくは京の邸宅にいることになり、
書物を駿河文庫に納めると、また京へ引き返
した。
 この間、道春はしばしば家康に呼ばれて赴
き、兵法や漢方薬の書物を読んで話しをした。
 その時、家康が唐突に聞いた。
「ところで道春。そなたはいくつになる」
「はっ。二十六になります」
「まだ一人身なのであろう」
「はい」
「そろそろ良い妻をめとって、身を固めては
どうじゃ」
「そこまでお気にかけていただけるとは、恐
れ入ります。しかし、こればかりは縁のもの
ですから、いたしかたがありません」
「そうじゃな。まあよくよく探してみるが良
いぞ。子や孫はかわいいものじゃ」
「ははっ」
 道春は、どこかで生き延びている小早川秀
詮の時の妻や子らのことが、いつか明るみに
なるのではないかと心配になった。そこで、
すぐに娘を探し、荒川宗意の娘、亀と出会っ
た。