2013年7月6日土曜日

領地復興

 三成は、近江・佐和山城に近づくこともで
きず、逃亡を続けていた。
 城では、三成の留守を二千人の兵が、死を
覚悟して守りぬこうと籠城していた。
 秀秋の部隊は、朽木元綱、脇坂安治などの
部隊と共に城壁に迫った。しかし、籠城兵の
防戦に死傷者が続出した。
 秀秋の部隊には、関ヶ原の合戦が終わった
直後から不穏な動きをする一団があった。そ
れは、家康から押し付けられた浪人の中にま
ぎれていた家康の家臣たちだった。その一団
のことを秀秋は、うすうす感づいていた。そ
こで、この時とばかりに、この一団を先鋒に
選び、城の石垣を登らせ、死傷者をだすこと
になったのだ。
 佐和山城は一日では陥落せず、二日目の総
攻撃に抵抗しきれなくなった籠城兵が火を放
ち、城は焼け落ちた。
 城内は、三成が質素倹約をしていたと見ら
れる様子がうかがえ、金銀などはどこにも見
当たらなかった。それらはすべて、松尾山城
に運ばれて、今は秀秋の手の中にある。
 やがて、逃げていた三成も捕らえられ、さ
らし者にされた挙句に六条河原で斬首にされ
た。
 天下を奪いあう動乱も、家康が大坂城に入
ることで全てが終わった。

 関ヶ原の合戦後の論功行賞で、秀秋には家
康が約束したとおり、備前と美作の五十一万
石が与えられた。
 前の所領、筑前、筑後、肥後の三十万石と
比べれば大幅な加増となったが、備前と美作
は以前の領主、宇喜多秀家が、朝鮮出兵に駆
り出されて政務が滞り、疲弊していた。
 領民は働く気をなくし、田畑に草が茂り、
道はぬかるみ、岡山城でさえ廃城のようになっ
ていた。
 家康は、あらかじめ備前と美作が疲弊して
いることを知っていて、それを餌に、秀秋が
東軍に味方すれば与えると約束したのだ。
 仮に秀秋が味方して勝利しても、備前と美
作なら惜しくはないと考えていた。そして、
いずれ秀秋が疲弊した領地をもてあまし、さ
らに悪化させれば、それを理由に処罰し、領
地を取り上げるつもりでいた。
(小僧が何も知らんで。お前の領地はすべて
わしの手の中じゃ)
 ところが、備前に移った秀秋は名を秀詮(ひ
であき)と改め、まず荒廃していた岡山城の
修築を、家康に許可を得ておこない、以前の
二倍の外堀を、わずか二十日間で完成させた。
そして、検地の実施、寺社の復興、道の改修、
農地の整備などをおこない、急速に近代化さ
せていった。
 これらは秀吉の政策と藤原惺窩の教えを手
本にしていた。そして、松尾山城から運び出
した三成の膨大な軍資金がなければなしえな
かったことだ。
 秀詮が、今でも豊臣秀吉の養子なら莫大な
金銀を調達するのはたやすかっただろう。し
かし、今は毛利家の家臣である小早川家の養
子だ。
 その毛利家は、豊臣秀吉の時代には安芸、
周防、長門、石見、出雲、備後、隠岐の七ヵ
国を所領とした百二十万石の大大名だったが、
関ヶ原の合戦で毛利輝元は大坂城に入り秀吉
の嫡男、秀頼を守るという理由で動かなかっ
た。そして、その名代で関ヶ原に向かわせた
毛利秀元と吉川広家の部隊は、戦いが始まっ
ても動かず、最後まで西軍とも東軍とも言え
ない挙動をした。そのため、石田三成と通じ
ていた安国寺恵瓊は責任をすべてかぶり、捕
らえられた三成と供に六条河原で斬首にされ
た。
 合戦後に輝元が大坂城から退く時も、家康
に不信を抱かせたことで、西から反乱軍が出
たのは西の統治者である毛利家の失態とされ、
輝元は改易されそうになった。しかし、吉川
広家が家康に直談判して広家の所領になるは
ずだった周防、長門二カ国の三十万石を輝元
の所領とすることで改易は免れた。その結果、
百二十万石からの大幅な減封となった。
 今では分家の小早川家より石高が減り、大
半の家臣を減らさなければいけない有様だっ
た。そんな状態の毛利家が、備前、岡山城の
修築費用を出せるはずはない。
 秀詮が頼れる者はいなかったのだ。
 三成が松尾山城の曲輪に埋めていた軍資金
は、ざっと五十万両。これを稲葉正成の小隊
が密かに運び出し、一旦は筑前に持ち込まれ
て、秀詮の居城、名島城に納められた。
 備前、美作の復興にはこの軍資金の一部が
有効に使われ、予想以上の成果をあげること
ができた。
 秀詮は、家康の全国支配の中で、秀吉の政
治を継承し、惺窩から学んだ独立自治という
桃源郷の実現を目指していたのだ。
 こうした秀詮の動きは、家康の耳に逐一入っ
ていた。ただし、復興資金の出所はつかんで
いなかった。
 秀詮らの城攻めで半壊した伏見城は、合戦
後に改築され、家康が移っていた。そこで、
秀詮の動きについて報告を聞いた家康は、驚
きをとおりこして恐怖を感じた。
 秀詮の戦での能力は、身をもって思い知ら
されたが、まさか所領を統治する能力まで優
れているとは、思ってもみなかったからだ。
 秀詮が岡山城の修築をする許可を与えたの
も、修築費用はどこにもないはずで、領民の
負担が増大し、一揆などが起きて、政務が混
乱すると見込んでいたからだ。
 秀詮の優れた統治能力は、自分や跡を継ぐ
秀忠が全国支配するうえで、最大の障害にな
ることは容易に想像できた。
 秀詮は、豊臣家と血縁関係者でもあり、将
来、豊臣秀頼と手を組み、豊臣政権再興に担
ぎ出されるかもしれない。
 すぐにでも討伐したいが、秀詮は戦功をあ
げているので、おおっぴらに殺しては諸大名
の忠節心が得られなくなる。そもそも、秀詮
と戦をすれば多大な損害は免れない。
 いずれ秀頼と戦うことも考えれば、戦力を
使わない方法を選ぶのは自然の成り行きだっ
た。