2013年8月31日土曜日

明と暗

 元和四年(一六一八)

 秀忠は、道春が諸大名や旗本らの侍講をす
るために、京、駿府、江戸を行き来している
ことを知ると、江戸だけに邸宅のない不便を
察して、神田鷹匠町に宅地を与えた。これに
は、秀忠が道春を疎遠にしているのではない
という心遣いもあり、そのことが道春にはう
れしかった。そしてこの年、もう一つ道春を
喜ばせたのは、三男が誕生したことだ。
 京に戻った道春に、長男の叔勝は、行儀よ
くお辞儀をして出迎えた。それに比べ、まだ
一歳を過ぎたばかりの次男、長吉は、寝床で
赤子と横になっている母、亀の側に座って、
きょとんとしていた。
「長吉、お前にも弟ができたのだぞ」
「旦那様、まだ分かりませんよ」
「そうか。それにしても亀、ようがんばって
くれたな。二人とも元気そうで何より」
「旦那様のお忙しい時に、私は何もできなく
て……」
「何を申す。わしは幸せ者じゃ。心配せんで
もいい。ゆっくり横になって養生してくれ。
そうそう、帰る道すがら名を考えた。吉松で
どうだ。吉運の吉に、松は長寿を願ってじゃ」
「良い名です。吉松、早く大きくなって父を
助けるのですよ」
「おお、笑った笑った。分かるのかのう」
「旦那様の子ですもの、賢いに決まっていま
す」
 叔勝は、吉松にかまってばかりの道春の気
をひこうと、習字をした紙を持って来て見せ
た。
「父上、私も賢いです」
「おお、よう書けておる。わしの子はどの子
も賢い」
 それでも長吉はきょとんとしていた。

 同じ頃、秀忠が娘、和子を後水尾天皇に入
内させる準備は着々と進んでいた。
 秀忠にせかされるように、京都所司代、板
倉勝重と武家伝奏、広橋兼勝の話し合いがお
こなわれ、翌年に入内と決まった。
 それを民衆に知らせ、後水尾天皇の決断を
迫るため、盂蘭盆には、京で初めての花火が
打ち上げられた。
 後水尾天皇は、花火の鳴り響く音を苦々し
く聞き、すでに譲位を決断していた。
 九月になると、小堀遠州を普請奉行とした
和子の居住する御殿の建設が始まった。しか
し、それに徒をなすかのように後水尾天皇と
女官、四辻与津子の間に皇子が誕生したこと
が分かり、秀忠は激怒して、藤堂高虎を京に
送った。
 後水尾天皇は一歩も退かず、高虎に譲位す
ると宣言した。
 そうした頃、空に不気味な彗星が現れた。
 後水尾天皇は、彗星の現れた時に譲位する
ことは、天意に叛くことになると悟り、譲位
を留保した。しかし、どうしても秀忠に和子
の入内を諦めさせようと、また四辻与津子と
交わりをもって、子を生すことを決意した。
 もはやこの程度しか対抗する手段がないほ
ど、徳川家の権力は強大になっていたのであ
る。

 元和五年(一六一九)

 秀忠は、後水尾天皇への怒りを忘れようと
政務に専念した。
 五月には京・伏見城に向かい、それに道春
は東舟と共に同行した。
 道春が呼ばれたのは、この頃、織田信長の
弟で、今は茶道を極めていた織田有楽斎が、
紫野大徳寺の僧、紹長から買った宗峰妙超の
書の掛け軸が贋作ではないかとの疑いがあり、
崇伝らの名だたる者が真筆と認めたが、沢庵
宗彭、江月宗玩などの僧侶がなおも贋作と主
張したため、幕府に裁断を求めた。それを聞
いた秀忠が、書の真贋を見極めるのに長けた
道春に鑑定させようとしたのだ。
 秀忠は、宗峰妙超の真筆の書を集めさせて
それと比較した。しかしはっきり分からない。
「道春、どうじゃ」
「拝見いたします」
 道春は、疑われている書を丹念に調べた。
「……。この書には筆跡に勢いがなく、迷い
ながら書いたか、手本を見ながら書いたもの
と見受けられます。それに、この箇所の字は
誤字です。妙超がこのような間違いを書き残
すとは思えません。この書は巧妙に書かれた
贋作と思われます」
「おお、なるほど。道春、よう見破った」
「恐れ入ります」
 この鑑定により、掛け軸が贋作と認められ、
売った紹長は処罰された。
 このことで贋作を見破れなかった崇伝は、
危うく秀忠から信用を失いかけた。しかし、
他の者も見破れないほどの巧妙な贋作だった
ということや、崇伝が真贋の鑑定を専門にし
ていたわけではないので、特にとがめられる
ことはなかった。
 しばらくして、崇伝は禅宗五山十刹以下の
寺院を取り仕切る僧録司に任じられた。

2013年8月30日金曜日

武士の知恵

 道春が京の自宅に居たところ、石川丈山が
訪ねて来た。
 丈山は、道春と同年齢で、母は本多正信の
姉だった。自身も武芸に優れていたため、十
六歳の時から家康に目をかけられ、近侍とし
て仕えた。まだこの頃は、武士としての出世
を強く望んでいた。それが災いして、二度目
の大坂の合戦では、先陣争いを禁じた軍律を
破ったことで、戦功を挙げたにもかかわらず
処罰された。
 これをきっかけに今は武士をやめ、妙心寺
で禅僧の道を歩んでいた。
 道春とは駿府に赴いた頃から知り合い、気
心を通わせていた。
「道春殿、お久しぶりです」
「これはこれは丈山殿、少し痩せたように見
えるが、禅の道は険しそうだな。さあ、上がっ
てくれ」
 道春に促されて座敷に通された丈山は、座
ると深刻な表情を浮かべた。
「わしはこれまでの自分の人生を振り返り、
何が良かったのか、何が間違っていたのか、
それを禅から見出そうとした。しかし、分か
らんのだ。武士は今まで何をしてきたのか。
ただの人殺しだったのか。この世にいてはい
けなかったのか。大御所様に誠心誠意尽くし
てきたことは、間違いだったというのか。道
春殿、そなたの学んでいる儒学には、その答
えがあるのか」
「それにお答えするのは私ではなく、惺窩先
生のほうがよろしいでしょう。どうです、会
いに行きませんか」
「それはもう。しかし、お会いできるのでしょ
うか」
「もちろん。早速、行きましょうか」
「えぇ。今からですか」
「早いほうがよろしい」
 道春はすぐに立ち、出かける仕度をした。
 丈山も立ち上がり、道春を待って、藤原惺
窩の邸宅に向かった。
 その頃、惺窩は多くの弟子に指示をあたえ、
慌ただしくしていた。
 しばらくして道春の姿が見えると笑顔で迎
えた。
「羅山、こっちに戻っておったのか」
「先生、ご無沙汰をしておりました。今日は、
友を連れて参りました。どうか友の悩みを聞
いてやってください」
「石川丈山と申します。惺窩先生にお目にか
かれて光栄にございます」
「藤原惺窩です。ようお越しくださいました。
あわただしゅうしておりますが、遠慮せず上
がってください。それはそうと羅山、しばら
くこっちにおるのなら、弟子の相手をしてく
れ。わしだけではもう限界じゃ。歳のせいか
疲れた」
「はい。分かりました」
 三人は座敷に座り、藤原惺窩と道春は、石
川丈山の生い立ちやこれまでの生き様、道春
に打ち明けた悩みなどに深く聞き入った。
 惺窩が少し涙ぐみ、丈山をねぎらった。
「丈山殿、先の大坂の合戦は大変であったの
う」
「はい。それはもう、生き地獄にございまし
た」
「しかし、それが人の本性。人は残酷なこと
が苦もなくできる。いや、丈山殿のように、
悩みながら人を殺しておるのかもしれん。儒
学でもその善悪を決めることはできません。
なぜなら、それが自然の中にあるからです。
自然とは残酷なもの。何もかもちゅうちょな
く破壊します。だが、私たちはそこから恩恵
を得ているのも事実です。雨が田畑に降れば、
稲や野菜を育て実りをもたらしますが、人に
とってはなんぎなものです。ひとたび大雨と
もなれば、すべてをなんのためらいもなく破
壊し、流し去ります。地震や台風も人を区別
なく殺すだけで無用に思われますが、自然の
調和を保つのには必要なのでしょう。それは
武士とて同じことではないでしょうか。領民
の中には、武士を憎む者もおりましょうが、
武士を都合よく利用している者もおります。
さしあたり私や道春もそれらの者と同じかも
しれませんね。しかし、大御所様が大坂の合
戦により、武士が自らの手で、武士の世を終
わらせ、今は秀忠様により、それを継承しよ
うとされておられることは、ご立派としか言
いようがありません。丈山殿が大御所様に誠
の忠義を貫こうとされるのであれば、武士の
力ではなく、武士の知恵で領民の暮らしを向
上させる仕事をされるのがよろしいのではな
いでしょうか」
「武士の知恵」
「さよう。兵法はなにも、戦うためだけに用
いるものではありません。秩序がなく乱れた
ところに秩序をもたらし、障害を取り除くこ
とにも利用できます。これからはそうした武
士の知恵を教化しなければならない、と私は
思っているのです」
「惺窩先生、どうか私にもその知恵をお授け
ください」
「いっしょに学びますか」
「はい」
「羅山、そなたもこれからは少し暇になろう。
丈山殿のように、武士としてどう生きるべき
か悩んでおられるお方がこれからは沢山現れ
る。そのお方らの力になりなさい」
「はい、私もまだまだ多くを学ばなければな
りません。いっしょに学んでまいります」
「道春か。大御所様がそなたに与えたその号
は、これからのことを予期されていたのかも
しれんな」
「誠に。今思えば、権現様と呼ばれるにふさ
わしいお方でした」
 三人は一時、談笑して別れ、しばらくして
丈山は、禅の修業を辞め、惺窩の門人となっ
た。
 道春は、家康が亡くなって暇になるどころ
か、多くの諸大名や旗本が侍講を依頼してき
た。それには、秀忠が諸大名を次々と改易し
たため、次は自分かと恐れをなした諸大名や
旗本らが、家康の侍講を勤めていた道春に学
んでいれば改易を遁れられるのではないかと
考えたためだ。
 このため道春は、諸大名や旗本の屋敷に招
かれることが多くなり、東奔西走する慌ただ
しい毎日となっていった。

2013年8月29日木曜日

蚊帳の外

 道春は、元和三年(一六一七)四月に京か
ら江戸に赴いた。そして、秀忠に伴って日光
山の日光東照社へ向かった。これには崇伝も
加わっていた。
 一行は、すでに家康の遺骸が納められた社
殿に参拝した。
 日光東照社は、五ヵ月ほどの短期に造られ
たため、これが天下を取り、天皇をも超えた
存在になろうとしている家康の社かと思われ
るほど飾り気のない社殿となっていた。
 それでも秀忠には、一区切りをつけた安堵
感があった。
 道春の目には、久しぶりに会った秀忠のな
りふりが、家康に似てきているように映った。
しかし、秀忠の周りには側近が取り巻き、道
春が家康の側に近づけたような親近感はなかっ
た。
 同じように家康の側近だった崇伝は、秀忠
の側で影響力を増していた。その姿に道春は
一抹の不安を感じた。
 江戸城に戻った道春は、しばらくして秀忠
に呼ばれた。そこには弟の東舟も秀忠の側に
座っていた。
「道春、ようやくそなたと話ができる。そう
じゃ、子が産まれたそうじゃな」
「はっ、お忙しい中、お呼びいただき光栄に
ございます。また、我が子のことまでご存知
とは、恐れ入ります」
「なぁに、父上が身まかって落ち込んでおっ
たが、めでたい話には心が癒される」
「それは我が子にとっても名誉なことにござ
います」
「ところで、わしはそなたの弟の東舟を側に
置くことにした。道春には崇伝の手伝いをし
てもらいたいのじゃが、どうじゃ」
「ははっ、謹んでお受けいたします」
「それは良かった。では早速じゃが、近々、
朝鮮から使者が参る。その準備に京に戻って
もらいたい」
「ははっ」
「よろしく頼んだぞ」
「はっ」
 すぐに道春は京に戻り、伏見城に登城した。
そこには朝鮮の使節を受け入れる準備をする
崇伝の姿があった。
 道春は挨拶をすませると作業に加わり、崇
伝の手伝いをした。
 朝鮮の使節は、幕府が豊臣家を滅ぼしたこ
とを祝うために来ることになったのだ。
 到着した朝鮮の使節は、秀忠からの国書に
「日本国王」と書かず「日本国源秀忠」と書
いていることに疑念を抱いていた。
 朝鮮の使節から問いただされた幕府は、土
井利勝、本多正純、安藤重信、板倉勝重、崇
伝などが集まり協議した。その末席に道春も
加わった。
 日本は朝鮮を対等の国とは認めず、未開人
のように見下していたため「日本国王」と書
いた国書を送るほどの相手ではないという慣
習があった。
 崇伝はこれにならい今度も「日本国王」と
書かないことを主張した。
 それに道春も賛同し、さらに朝鮮人に敬称
すら必要ないと主張して秀忠に承認された。
 道春の中に(戦をなくした日本こそがどの
国よりも理想の国だ)という気持ちが芽生え
ていた。
 次の日、朝鮮の使節が伏見城で秀忠に謁見
する席に道春が呼ばれることはなかった。

2013年8月28日水曜日

黄金絵巻

 和子は、秀忠とお江与の間に末っ子として
産まれた。後水尾天皇が即位した慶長十七年
(一六一二)には、すでに家康によって、天
皇との結びつきを強めるための絆として、入
内の申し入れがおこなわれていた。その二年
後の慶長十九年(一六一四)四月に入内を受
け入れる宣旨があった。しかし、その後に起
こった大坂の合戦や家康の死去により延期に
なっていた。
 秀忠は、亡き家康の日光改葬にもめどがつ
いたことで、徳川父子の念願としていた和子
の入内の準備を始めた。
 武家の出である和子が持参する嫁入り道具
は、公家をも超える豪華な物にしなければな
らない。そのため、嫁入り道具を作る最高の
匠を江戸に呼び寄せた。
 絵師も、この時の最大画派だった京の狩野
派から呼ぶことになり、江戸に来たのは狩野
探幽だった。
 探幽は十六歳と、まだあどけなさが残って
いたが、絵の才能は、慶長十七年(一六一二)
に駿府で家康に対面して披露し、家康を驚嘆
させていた。
 秀忠には、探幽の若さに不安があった。そ
こで、試しに源氏物語の絵巻を作らせること
にした。
 源氏物語は、平安時代に紫式部によって書
かれた架空の宮廷物語で、主人公の皇子、光
源氏が義母の藤壺と密通するという衝撃的な
出来事から始まり、多くの女性遍歴をへて出
世していく様子が描かれ、当時の宮廷生活が
よく分かった。そのため、公家の間で教科書
のように広まり、戦国時代になって、武家の
間でも権威を誇示するために絵巻物にして読
みつがれるようになった。
 家康の駿河文庫にも古い源氏物語があり、
江戸に残っていた。
 探幽はそれに目を通すと早速、絵巻の作成
にとりかかり、しばらくして、出来上がった
一巻を秀忠に見せた。
 秀忠が、受け取った巻物を広げて見ると、
絵には一面の黄金がまぶしく輝き、優美な平
安の宮廷がまるで極楽浄土のように描かれて
いた。
「これをそなたが……」
 秀忠は言葉を詰まらせ、絵と探幽に目をやっ
た。
「お気に召しましたら光栄にございます。が、
少々問題がございます」
「なんじゃ。よいから遠慮のう申してみよ」
「ご覧のように、黄金をふんだんに使ってお
ります。この調子でいけば巻数もそうとうな
数になり、費用が計り知れません」
「そのようなことは心配するな。この調子で、
そなたの思うように描いてみよ。これなら公
家どもを黙らせることができる。日数もかか
ろうが気にすることはない。それよりも出来
が大事じゃ」
「ははっ」
 源氏物語の絵巻は、普通は多くても二十巻
程度だったが、探幽が描き始めた黄金の絵巻
は、桐壺の帖を描いただけでもそれぐらいの
巻数になった。
 この調子で描けば百巻を超える壮大な物に
なる。それを苦もなく探幽は描き続けた。
 和子の入内を待ちわびていた秀忠だったが、
後水尾天皇の父、後陽成院が身まかったこと
で、再び延期されることになった。

2013年8月27日火曜日

日光改葬

 天海は、家康の神号を権現としたことで主
導権を握り、突然、家康の遺骸を日光に改葬
することを秀忠に進言した。
「私は権現様が死の間際に『いずれ日光に葬
るように』と申されたのを聞いたのです」
「しかし、皆の前では『金地院と日光に小堂
を建てよ』と申されたので、どちらに葬れと
は申されていないではないか」
「その時はまだどちらにするか、決めかねて
おられたのではないでしょうか。日光といえ
ば、江戸城の真北にあります。真北の空には
北極星が天上の神として輝いております」
「権現様は天上の神となられるのか」
「そう願っておられるのではないでしょうか。
いや、これは天啓だと思われます」
「そうか。日光は極楽浄土に通づるとも言わ
れておる。これは天啓じゃな。天海、そなた
に一切を任せる」
 十月になると秀忠は、本多正純、藤堂高虎
を日光社殿の竣工奉行に命じ、天海に縄張り
をさせて工事を始めた。
 崇伝は、しばらくして日光改葬のことを知っ
たが、もはや口出しすることはしなかった。
ただ、たまたま江戸城の廊下で出会った東舟
には愚痴をもらした。
「天海め、あ奴はいつまで生きておるのじゃ。
化け物か」
「私が思いますに、あのお方は、この国の者
ではないのではないでしょうか」
「ふむ、そのような噂もあるようじゃな」
「明の儒学の開祖、孔子は、大柄な体格をさ
れていたと聞きます。天海殿も、この国の者
とは思えない大柄な体格。それに陰陽道の知
識は、この国に伝わった書物で学んだものと
は違い、経験から会得したもののように思わ
れます。異常な長生きはもしや孔子から相伝
の術を用いているのか、あるいは末裔かもし
れません」
「どちらにしても、大御所様の遺言まで変え
てしまうとは。なんとしても政務から遠ざけ
ねば」
「それなのです。私は上様が世継ぎのことま
で変えてしまうのではないかと心配なのです」
「それはわしも困る。竹千代様はおとなしく、
人の話をよくお聞きになる。それに比べ、国
松様はやんちゃで、我がままなところがある。
大御所様が決められたとおりに、次期将軍に
は竹千代様になっていただかないと」
「私は上様と天海殿を疎遠にしますので、崇
伝殿は政務におおいに励んでいただきたく、
お願い申し上げます」
「おお、もちろんじゃ。よろしく頼むぞ」
 東舟は、崇伝と別れると秀忠のもとに向かっ
た。
 秀忠の顔は高揚していた。
「東舟、わしの腹は決まった。これから帝に、
天下分け目の決戦を挑むぞ」
「戦にございますか」
「戦というても人は死なん。帝をわしの懐に
取り込むのじゃ」
「では、いよいよ姫様を……」

2013年8月26日月曜日

松平忠輝

 秀忠は、家康の神号問題が解決すると、天
海がいない間に崇伝を呼び、松平忠輝の処遇
を話し合った。
 忠輝は、秀忠とは母の異なる弟で、家康が
気まぐれで側室とした町人の娘、茶阿との間
に産まれた子だった。そのため、家康に愛情
はなく、産まれて間もなく下野・長沼の大名
だった皆川広照に養育させた。
 物心がつくと父親に対する屈折した感情が
芽生え、広照を困らせた。しかし、八歳の時
に長沢、松平家の名籍を継ぐと、天性の能力
を発揮し、下総・佐倉五万石から信濃・川中
島十四万石と加増を続け、左近衛権少将の官
位を授けられるまでになった。
 今は越後・高田藩主となり、川中島を併合
して七十五万石の大名となっていた。
 かつて家康は、我が子の誰よりも目立つ存
在になった忠輝が、百姓の子から天下を取っ
た秀吉のように町人で家康の血をひく子とし
て民衆に支持されるのではないかと恐れるよ
うになった。跡継ぎにした秀忠と比べても遜
色がない。しかし家康は、忠輝が悪ぶって見
せても、捨てたという負い目があり、処罰で
きずにこの世を去った。
 秀忠は、この機を逃しては後がないと考え
ていた。
 崇伝が思案しながら話した。
「上様、忠輝殿はキリシタンと深い関係にあ
ると聞いております。他のキリシタンに関係
のある大名を改易しておるのに、身内は何も
ないでは示しがつかぬのではないでしょうか。
それを口実にしてはいかがかと」
「そうじゃな。本来なら忠輝を自刃させると
ころだが、わしは生かしてみたい。これから
の世が本当に戦のない天下泰平の世になるの
か。本当に親子、兄弟が、憎しみ合い殺し合
うことのない世になるのか。試してみたい」
「その優しいお心が、仇にならねばよいので
すが」
「わしは優しさで言っておるのではない。武
士は殺し合うためだけに生きているのではな
いことを世に示したいのだ。武士の役割を忠
輝なら見つけ出すかもしれん」
「上様の深いお考え、恐れ入ります」
 しばらくして、秀忠は忠輝を呼び出した。
「忠輝、そなたを改易し、伊勢・朝熊山へ配
流とする。これからそなたには苦難が待って
いようが自刃してはならぬ。生き抜いて武士
のあるべき姿を示せ。それが、亡き父上のそ
なたへの遺言じゃ」
「はっ、寛大なる処置、身に余る光栄にござ
います。しかし、私は兄上に逆らうかもしれ
ません。その時はどうなさいますか」
「かつて、明に伝わる名軍師、諸葛孔明は、
敵対する孟獲を七たび捕らえて七たび釈放し、
屈服させたと聞く。わしもそなたを何度でも
配流にするつもりじゃ」
「これは面白い。上様にそれができるかやっ
てみましょう」
 忠輝は改易を受け入れ、伊勢・朝熊山へ配
流された。

2013年8月25日日曜日

神号論争

 京の自宅では、四歳になった道春の長男、
叔勝が、この年の十月に産まれたばかりの次
男に、母親の亀を独り占めにされて不満顔で
いた。
 そこに道春が帰って来た。
 叔勝はすぐに駆け寄り、道春に抱きついた。
「父上、お帰りなさい、まし」
 笑顔の道春は、叔勝の目線に腰をおろした。
「帰ったぞ叔勝。そなたは元気であったか」
「はい。父上、字を教えてください」
「おお、教えてやろう。じゃが、その前にそ
なたの弟にも会わねばな」
「父上もですか。もう」
「叔勝は不満か。そなたはもう兄になったの
だ。わしの代わりにこの家を守っていかねば
ならん。そなたを父は頼りにしておるのだ。
機嫌をなおしてくれぬか」
「はぁい」
 そこに、赤子を抱きかかえた亀が現れた。
「旦那様、帰っておられたのですか」
「ああ、叔勝に足止めされておった」
「まあ」
「違います。父上にお話を聞いていただいた
のです」
「そうじゃ、そうじゃ。さあ、家に上がらせ
てくれ」
 道春は、叔勝から開放されて家に入った。
 すぐに食事をして落ち着くと、側で赤子の
世話をして幸せそうな亀を見てつぶやいた。
「その子の名を長吉にしようと思う。長命の
長に吉運の吉じゃ」
「長吉、よい名ですね」
「そうか。よし決めた」
「旦那様、これからどうなるのですか」
 亀は、家康が死んで道春の仕事がどうなる
のか気になっていた。
 亀が心配しているのと同じように道春にも
不安があった。
「少しは暇になろうが、あまり変わることは
ない。上様には信澄がついておる。儒学者と
しては、わしよりも弟の方が上だ。上様とも
気が合うようだ。じゃが、弟は身分をわきま
えぬところがあって、時々、上様のお話を笑っ
て聴き、怒らせるそうだ。他の者なら切腹さ
せられるかもしれんことを平気でやる。それ
でもお咎めがないところをみると、よほど信
頼されておるのだろう。しかし、度が過ぎぬ
とよいが」
「旦那様もそんな、切腹させられるような危
険なお仕事をされていたのですか」
「いやいや。大御所様はそんなことはされぬ。
上様は、亡き大御所様の跡を継ぐため、力ん
でおられるのだ。弟からの知らせでは、大御
所様が亡くなったすぐに、崇伝殿と天海殿が
大御所様の神号のことで言い争いをしたり、
松平忠輝殿が改易されたりしたそうだ」

 道春が家康の遺言のとおり、駿河文庫の書
物を分配していた頃、幕府では、家康を神と
して祀る準備がすすめられていた。
 民衆は、幕府が豊臣秀吉を豊国大明神とし
て祀っていた京・豊国神社の取り壊しをした
ことで、精神的支柱を失っていた。それを引
き継ぐ神として、家康を「明神」として祀る
ことを正当化する神の易姓革命を考えていた
のだ。ところが、これに天海が異論を唱えだ
した。
「上様、これでは秀吉の二の舞になりますぞ」
 秀忠は、家康同様に怖い天海の言葉に、弱
り顔で言った。
「しかし、父上を神とするにはこれしかある
まい」
「いえ、ございます。『権現』とするのです。
大日如来が神となって現れたのが、帝の祖先
である天照大神。これが山王権現として祀ら
れておるのです。そこで、乱世を憂いた大日
如来が再び大御所様となって現れ、『厭離穢
土、欣求浄土』を旗印に戦い、天下泰平の世
を築いたとするのです」
 これを聞いていた崇伝が口を挟んだ。
「そのようなこと、民はすぐに見破りましょ
う。すでに明神は世に馴染んでおります。そ
れを踏襲することで早く受け入れられましょ
う。これから新しい考えを唱えるは邪道にご
ざいませぬか」
 天海は崇伝を睨んで言った。
「何を申される。これから始まる天下泰平の
世は、かつての世とは違う。まったく新しい
世にしなければなりません。それには、後年
に世を乱した秀吉の明神を引き継ぐは、不吉
にございます。崇伝殿は新しい考えと申され
たが、これは太古の帝の祖先とも通じる、天
下の正道ですぞ」
「それを今の帝がお認めになりましょうか」
 話を静かに聴いていた秀忠が、側にいた道
春の弟、東舟(信澄)を見た。
「東舟、そなたはどうじゃ」
「お恐れながら、上様にはすでにお決めになっ
ておられましょう。この上、私を、この議論
の火の中に投じようとするは酷にございます」
「こやつめ、逃げおったな。わしは天海の申
すことがもっともだと思う。たしかに、崇伝
の申すことは、民に受け入れやすいかもしれ
ん。だが、父上が豊臣家を滅ぼしたのは自分
が神になるためとの誹りを受けるかもしれん。
これは天海の申す権現も、同じように帝に成
り代わろうとする謀略との誹りを受けるやも
しれん。どちらも険しい道ならば、わしは天
海の申す権現を選ぶ。これを帝に認めさせる
ことこそ、これから天下を治めるわしの器量
を世に示すことになろう。どうじゃ東舟」
「ははっ、良きご決断にございます。恐れ入
りました」
 崇伝は、この結果に不満顔で退去した。
 ひとり廊下を歩く崇伝の後を、東舟が追っ
た。
「崇伝殿、お怒りはごもっともにございます。
しかし、これで天海殿を政務から遠ざけるこ
とができるではありませんか」
 崇伝は立ち止まり、表情を変えた。
「それはそうじゃが、忌々しい」
「崇伝殿には、これからますます上様を支え
ていただかなければなりません。その重責を
思えば、大御所様の墓守など、天海殿にお任
せすればよろしいのではないですか」
「東舟殿。そなたは何を企んでおるのじゃ」
「企むなど、とんでもございません。日頃、
兄がお世話になっております。そのご恩返し
がしたいだけにございます」
「まあ、そういうことにしておこう。そなた
は上様にたいそう目をかけられておるようじゃ
からな。これからもよろしく頼むぞ」
「恐れ入ります。こちらこそ、よろしくお願
い申し上げます」
 この後、崇伝は、家康に関することには直
接口を挟まなくなり、東舟を仲立ちとして情
報をやり取りした。
 東舟は、天海と京都所司代、板倉勝重の次
男、重昌と共に江戸を発ち、京で、家康の神
号を朝廷に奏請した。
 禁中並公家諸法度で、幕府の管理下に置か
れている後水尾天皇や公家に、異論を唱える
ことなどできるはずもなく、権現号の勅許が
下された。

2013年8月24日土曜日

群書治要

 元和二年(一六一六)正月

 家康は、崇伝と道春を呼び「群書治要」の
版行を命じた。
 「群書治要」は明の古書で、唐代の魏徴(ぎ
ちよう)らが太宗の勅命によって、古代から
晋代にいたる書物の中から、政治の参考にな
る文章や資料を抜き出して編纂したもので、
五十巻にもなる。この書物は「貞観政要」と
並ぶ帝王学の書といわれ、禁中並公家諸法度
にも「群書治要を踊習するように」と記され
たほどのものだ。しかし、この頃には三巻が
散逸して、四十七巻になっていた。
 家康は、群書治要を公家や僧侶らに配り、
法度にあるとおり、学問に励むように促そう
と考えていた。
 先に刷られた大蔵一覧が、全部で十一冊(こ
の時刷ったのは百二十五部)だから、その作
業が困難になることは容易に想像できた。
 崇伝と道春は、すぐに京都所司代の板倉勝
重に大蔵一覧を刷った時と同じように、版木
衆の校合、字彫、植手、字木切らの職人を手
配するよう手紙を書いた。

 翌々日

 家康は、駿河と遠江の国境近くの藤枝田中
で鷹狩を楽しんでいた時に、発病し倒れた。
 処置が早く投薬で一命はとりとめ、五日間
留まって駿府城に戻り、そのまま病床につい
た。
 知らせを聞いた秀忠は、二月一日に江戸を
発ち、二日には駿府城に到着して、家康の看
病にあたった。
 病状が落ち着くと家康は、崇伝を病床に呼
んだ。
「崇伝、群書治要はどうなっておる」
「はっ、京都所司代の板倉勝重殿に職人の手
配を頼みましたが、校合をする職人がいない
とのことにございます」
「ならば、京都五山の僧を、一山から二人ず
つ呼んであたらせよ」
「ははっ」
「よいか頼んだぞ」
「はい。すぐにとりかかります」
 崇伝から話を聞いた道春は、駿府城の三の
丸で作業の準備をする合間に、散逸していた
三巻を捜し求めた。
 しばらくして、京から職人と僧侶が到着し
て、二月二十三日から散逸した三巻は見つか
らないまま作業が開始された。
 病や薬に詳しい家康は、腹部にしこりがあ
るのを「寸白の虫」が寄生したと診断し、自
ら薬草を調合した「万病円」を服用していた。
しかし、いっこうに回復する兆しがなかった。
それでも、侍医の勧める煎じ薬は拒否した。
 困った秀忠は、先の大坂の合戦で、常に家
康の側に侍していた医者で僧侶の片山宗哲に
医者の調合した薬を飲むよう説得を頼んだ。
しかし、家康はこれに激怒し、宗哲は処罰さ
れて、さらに病の回復を困難にした。
 死を覚悟した家康は、本多正純と天海、そ
れに崇伝を呼んだ。
「正気のうちに皆に申しておく。わしが死ん
だら、遺骸は久能山へ葬り、葬礼は増上寺で
行え。位牌は大樹寺に立て、一周忌が過ぎた
ら、崇伝の金地院と日光へ小堂を建てて勧請
してくれ」
 三人は了解した。
 次に家康は、堀直寄と土井利勝を呼んで、
騒乱が起きないように厳重な警備を命じた。
 秀忠と、集まって来ていた家康の子、尾張
の義直、紀伊の頼宣、水戸の頼房にもそれぞ
れに遺言を残した。
 秀忠は、藁をもつかむ思いで、京から呼ん
だ僧侶の梵舜に御祓いをさせた。
 そして、天海も祈祷を続けた。

 四月十一日

 家康は、道春を病床に呼んだ。
「道春、そなたに任せておる書庫の書物を、
尾張、紀伊に五、水戸に三の割合で分配し、
残りから貴重な書物を選び、少し江戸に移し
てほしい」
「はっ」
「ところで、群書治要の進み具合はどうじゃ」
「はい、順調に作業は進んでおりますが、散
逸した三巻は見つかりませんでした」
「そうか、まあよい。後のことは頼んだぞ」
「ははっ」
 道春は一礼をしてさがった。

 四月十七日

 家康の容態が急変し、波乱の生涯を静かに
終えた。
 その夜中、本多正純、土井利勝、天海、崇
伝などの限られた者だけで葬送が行われ、密
かに、駿府の南東にある久能山の霊廟に葬ら
れた。
 道春は、家康の死を知らされると、十九日
に群書治要の版行作業を中断し、久能山に登っ
て拝礼した。
 その後、再開した群書治要の版行作業は、
五月下旬に終り、それと並行して家康の遺言
のとおり、尾張の義直、紀伊の頼宣、水戸の
頼房に、駿河文庫の約千部九千八百冊にもお
よぶ膨大な書物を分配して、残りから貴重な
書物を選び江戸に送った。
 終わった時には、すでに十一月になってい
た。
 道春は一旦、京の自宅に戻ることにした。

2013年8月23日金曜日

目覚めた龍

 秀忠は、大坂城で戦のどさくさに逃亡した
豊臣勢の残党狩りをする一方、豊臣秀吉が豊
国大明神として祀られている京・豊国神社の
取り壊しを崇伝に命じた。
 民衆をも巻き込んだ残忍な戦と精神的支柱
だった豊国神社の取り壊しは、幕府に対する
不満を増大させ、将来に対する不安と絶望が
広がった。そこで、秀忠はすかさず一国一城
令を発した。
 秀吉の天下統一後も、戦に備えた強固な城
が各所に造られ、諸大名の権勢を競い合って
いたが、一国一城令により、大名の居城だけ
を残し、防御の要の城が次々に取り壊されて
いった。
 それを目の当たりにして、民衆は始めて戦
がこの世から完全になくなったのだと実感し
た。
 更に、秀忠は武家諸法度を崇伝に起草させ、
伏見城に諸大名を集め布告した。
 武家諸法度は十三ヶ条からなり、教養を身
に着けることや生活態度を戒め、築城の禁止
と修築の届出、家臣の登用などにも配慮して
謀反に目を光らせ、結婚の許可や衣装、輿に
乗れる者の条件などまで幕府の指示に従うよ
うに命じている。
 これにより、諸大名の改易や領地転封が頻
繁に行われた。それを恐れた領主は、率先し
て質素倹約の生活を実践したため、領民もそ
れに習い、法度の効果が身分をこえて末端に
まで広まった。
 一方、家康は、禁中並公家諸法度を、これ
も崇伝に起草させ、二条城で公布した。
 禁中並公家諸法度は十七条からなり、公家
だけでなく天皇までも行動が規制され、幕府
の管理下に置かれた。
 世間はここにきてようやく、徳川家が天皇
をも超えた存在になったことを知った。
 これらの起草で発言権を強めた崇伝は、秀
忠に進言し、かねてから朝廷に特別扱いされ
て対立していた大徳寺、妙心寺の行動を規制
する寺院諸法度を布告させた。そして、自ら
が宗教界を統制する任に就いた。
 道春はこうしたことに加わることもなく、
もっぱら雑用をして、八月に家康が駿府に戻
るのに同行した。
 家康は、武家諸法度の「武芸や学問に励む
こと」や禁中並公家諸法度の「天子の習得す
る第一は学問なり」を自ら実践するように、
道春を傍らにして論語を読み質疑した。
 政務は完全に秀忠が取り仕切るようになり、
その厳格さは家康以上と世間は戦々恐々とし
ていた。
「道春、そなたは以前、秀忠を眠れる龍と言っ
ておったが、どうやら龍が目覚めたようじゃ。
道春はどう思う」
「はい。私もそのように思っております。今
は上様のやり方に、厳し過ぎると言う者もお
りましょうが、新しいことを行うのですから
無理もないこと。そのうち慣れましょう」
「そうじゃな。しかし、息苦しいのはような
い。気を緩めるところは緩めてやらねばな」
「大御所様の仰せのとおりにござます。物を
上から抑えつければつぶれましょうし、川を
せき止めれば溢れます。物は掌にのせて動か
し、川は少しずつ流れる向きを変えてやるの
がよろしい。同じように人も命じるより、そ
うしたいと思わせることが、肝要ではないで
しょうか」
「それにはどうすればよいか」
「はっ、私は先の大蔵一覧を開版させていた
だいた時、作業にあたった者たちが、朝鮮に
負けないものに仕上げようと、おのおのの技
量を極めていた姿を見て、人は目指すものが
決まれば、それに向かって努力するのではな
いかと思いました」
「目指すものを決めてやるのじゃな」
「はい。大きくは天下の行く末、小さくは民
の役割を示すことにございます」
「ふむ。それが秀忠にも分かればよいが」
「お分かりになりましょう。なによりも今、
上様がご自分の役割を見つけて、おおいに励
まれておられますから」
「では、わしも自分の役割を見つけるとしよ
う」
 家康は、老いてもまだ自分の能力を極めよ
うと、武芸や学問に励んだ。その姿を見せる
ことで、戦乱の世の次にくる、民衆の生き方
を指し示した。

2013年8月22日木曜日

自然の力

 道春は、六月末になってようやく刷り上っ
た大蔵一覧の全十一冊を十部、弟子たちに運
ばせて、家康のもとにやって来た。
「おお、道春、待ちかねたぞ」
「はっ、お待たせして申し訳ありません。な
んとか百二十五部刷り上り、これに十部お持
ちいたしました」
「どれ、はよう見せてくれ」
「はっ」
 家康は大量に積まれた大蔵一覧の中から一
冊を取り、めくって見た。
「おお、これは見事じゃ。朝鮮の活字と遜色
ない。いや優っておるかもしれんな」
「恐れ入ります。皆がそのお言葉を聞けば喜
びましょう」
「早速これに朱印を押し、寺に奉納しよう」
「はっ」
「ところで、道春は戦のことは気にならんの
か」
「いえ、気にはなりますが、大御所様のお顔
を拝見して、それだけで十分にございます」
「そうか」
「……お話いただけるのなら聞きとうござい
ます」
「おお、そうか、そうか。いやな、大変であっ
た。一時は自刃も考えたほど豊臣勢に攻め込
まれた。そこをまた正成に助けられたのじゃ」
「ほう、正成殿が」
「そうじゃ。孫の忠昌をよう補佐してくれた。
正成こそ武勇と知略に長けたまことの勇将。
わしも以前は目をつけておったが、間違って
はおらんかった。もっと早よう仕官させるべ
きじゃったな」
「正成殿がそのお言葉を聞けば、泣いて喜び
ましょう。私の今があるのも正成殿のおかげ
にございます。もともと私にはたいした能力
はなく、優れた家臣に恵まれていたこと。こ
れで大御所様にも、お分かりいただけたので
はないですか」
「それはどうかな。優れた家臣が何の取り得
もない主君を慕うことはあるまい。そう考え
れば、秀頼もあれだけの勇猛な浪人たちに最
後まで忠義を貫かせたことは、あなどれない
能力がある主君に成長していたということか。
それとも淀の力か。まあどちらにしても、こ
たびの戦は二人にいいように振り回され、操
られていたように思う。挙句の果てには国松
という難題まで押し付けられた」
「秀頼の子が、生きていたのですか」
「そうじゃ。国松と奈阿が城外で見つかり、
わしのもとに来た。道連れにしてくれれば良
かったものを……」
「大御所様は、以前から吾妻鏡をよく読んで
おられましたが、そこに答えはありませんで
したか」
「ふむ。源頼朝と義経を生かしておいたから
平家は滅亡した。仇討ちを止めるには、まず
子から殺すということは分かる。だからわし
も国松を斬首にした。しかし、千に泣きつか
れて奈阿は生かした。これが良かったのかど
うか」
「この世から戦や仇討ちをなくすには、人の
力ではなく自然の力であたらなければ解決し
ないのではないでしょうか」
「自然の力」
「台風や地震は、老若男女の区別なく殺しま
す。そこには慈悲や人の思いが入り込む余地
はありません。今の神は人の都合のいいよう
に振る舞いますが、自然はそうはいきません。
自然こそが本来の神のありようです。こたび
の戦は、秀頼や淀に操られたのでも、大御所
様や上様のご意志でもなく、自然が戦を終わ
らせたのではないでしょうか」
「それが自然の力か。しかし、それを民が理
解できるであろうか」
「問題は、台風や地震が過ぎ去った後をどう
するかと同じように、この後にかかっている
のではないでしょうか」
「戦がなくなったことを世に示すということ
じゃな」
「はい」

2013年8月21日水曜日

武士の終焉

 松平忠昌も部隊を城内に向かわせようとし
たが、稲葉正成に止められた。
「若様、ご覧ください。豊臣勢は敵味方かま
わず殺し合っております。これはもはや戦で
はありません。あの中に入っては、出るのが
難しい」
「ではここに留まろう。しかし、奴らは何を
考えておるのじゃ」
「豊臣勢に多く残って味方しているキリシタ
ンは、その教義により自ら命を絶つことを戒
められております。それで、味方を殺し、自
分も殺させているのかもしれません」
「淀と秀頼は、それを分かっていてキリシタ
ンを集めたのであろうか」
「それだけではないでしょう。誰彼かまわず
斬るのは敵味方を確認する間合いが必要あり
ませんから……。もしや、これが、真の遁甲
の陣なのかもしれません」
「とんこう」
「はい。本来、遁甲の陣は、敵を陣中に招き
入れて殲滅する陣形なので、うかつに攻撃で
きません。窮地にあっても反撃することがで
きる陣形なのです。うかつに手出しが出来な
い。だから遁れることができるのです。しか
し、今、目の前で起きているのは、誰かを逃
がすための犠牲になっておるように思います」
「それは淀と秀頼か」
「おそらく」
「では、我らは淀と秀頼を捕まえようぞ」
「それはもはや手遅れかと思います。すでに
遁れておるか、捕まらない手をうっておりま
しょう」
「そのようなことができるのか。淀と秀頼、
恐ろしい者らじゃな」
「家臣に死をいとわず戦わせる。それでこそ、
名君と言えるでしょう。あっ、これは失礼。
敵を褒めてしまいました」
「よい。正成の言うとおりじゃ。わしも肝に
銘じよう」
 大坂城は炎に包まれ、その下は地獄と化し
た。
 いよいよ武士の時代が消え去ろうとしてい
た。
 徳川勢が大坂城に突入した様子を見守って
いた秀忠のもとに、千が現れた。
「千、無事であったか」
「父上様、もう戦はおやめください。これ以
上のむごい仕打ちは無益にございます」
「会ってそうそう何を申すか。それより、秀
頼と淀はどうした」
「山里曲輪の糒倉におります。でも近づいて
はなりませぬ。近づけば、火薬に火を点ける
と申しておりました。そのこと、御爺様にも
お知らせせねば。私を御爺様の所に行かせて
ください」
「いや、お前はここに残れ。父上のもとには
別の者を行かせる」
「では、私はこの場で舌を噛んで死にます。
私が死ねば、何もかも闇に葬ることになりま
しょう」
「お前、まだ何か隠しておると言うのか」
「では失礼いたします」
「いや、待て。分かった。父上のもとに行け」
 千は秀忠に礼をして、すぐに家康のもとに
向かった。
 命からがら生き延びていた家康は、千の無
事な様子を見て、泣いて喜んだ。
「千、生きておったか。良かった良かった」
「御爺様、国松と奈阿はすでに別の場所にか
くまわれております。今、戦をお止めになら
なければ、徳川の負けとなりましょう」
「そなた……。あい分かった、分かった。ちょ
うどよい。もうすぐ日が暮れるから戦は止め
じゃ」
「御爺様……、ありがとうございます」
 徳川勢は一旦、荒れ果てた大坂城から退去
し、城の事情に詳しい片桐且元に山里曲輪の
糒倉の場所を聞いて部隊を包囲させた。
 糒倉の中には、大野治長とその母・大蔵卿
局、毛利勝永、勝家の親子、そして、真田幸
昌と残った侍女らが淀の着物や秀頼の甲冑な
どを身につけ、大量の火薬に囲まれて息をひ
そめていた。
 外で徳川勢の将兵がざわついているのが聞
こえると、治長がニヤリと笑って言った。
「どうやらうまくいったようだ。ここを取り
囲んでいる」
 勝永も安堵して言った。
「いよいよ最後の大仕事ですな」
「しかし、攻撃してこないところをみると、
まだ千の方様の説得が続いているのかもしれ
ん」
「では今宵一晩、待ちますか」
「気を抜かず待つしかありませんな」
 それを聞いて幸昌がつぶやくように言った。
「早く父上のもとに参りたい」
 横にいた勝家がなだめるように言った。
「そのようなことを言うては、そなたの父上
様が怒りましょう。我が子なら家康、秀忠の
首を取って参れ、とな」
「そう言うかもな。無茶をやって見せる父上
であった」
 勝家が、幸昌の耳元でささやいた。
「お互い、良い父上のもとに生まれましたね」
 二人はくすくすと笑った。

 翌日

 千の説得も空しく、家康は糒倉へ攻撃の準
備を命じた。それを見透かすように、糒倉は
突然、爆発、炎上して崩れ落ちた。
 すぐに火は消されて、淀と秀頼の遺骸を捜
したが、散らばった複数の遺骸の損傷が激し
く特定はできなかった。
 家康は、秀忠に戦の後始末を任せ、京・二
条城に戻った。

2013年8月20日火曜日

説得

 二の丸の一室で千は静かに座っていた。そ
の手には小さな菩薩が握り締められていた。
 しばらくして、大野治長が入って来て千の
前に座り、一礼して言った。
「千の方様、どうか、お父上のもとにお戻り
ください。もはやここには秀頼様はおられま
せん」
 千は怒りとも悲しみともつかない気持ちで
身体が震えた。
「秀頼様は生きておられるのですね。私は置
いて行かれたのか。最後まで、私は秀頼様の
妻とは認めてもらえなかったのですね。その
上、生き恥をさらせとは、よく言えたもの」
「そうです。千の方様を秀頼様の奥方とは誰
も思うておりません。ここで死なれては、豊
臣家は千の方様を人質にとって殺したと、末
代まで物笑いの種になりましょう。生き恥を
さらす勇気もないお方を、誰が秀頼様の奥方
と認めましょうや」
「それは詭弁じゃ。私は秀頼様と添い遂げる
つもりでいたのに」
「秀頼様も同じ気持ちにございました。だか
らこそ千の方様に、恥をさらしてでも生きて
ほしいと願っておられるのです。天下を治め
た豊臣家の奥方として、その気概を後世に伝
えてこそ、秀頼様のお心にそうのではないで
しょうか」
「私は秀頼様なしでは生きていけぬ。ただ、
お側にいたいだけなのに……」
「そうしてさしあげられなかったのは我らの
罪。申し訳なく思っております。今となって
は死んでお詫びするしかありません」
「そちには妻や子はおらんのか」
「おります。一緒に死ぬ覚悟でおります」
「それはうらやましい」
「あっ、いえ、申し訳ありません」
「そちも、動揺することがあるのじゃな。ま
あよい。言いたいことを言えば気が晴れまし
た。これ以上申してはわがままが過ぎるでしょ
う。そちの言うとおりにします」
「はっ、恐れ入ります。もしできましたら、
大御所様にほんの少しの間、攻めるのを思い
とどまっていただければ、秀頼様が逃げ延び
やすくなります。それに、山里曲輪の糒庫に
は、火薬が仕込んであります。近づけば火を
点けますので、くれぐれも近づかないように
と、お伝えください」
「分かりました。それはそうと、子らも、秀
頼様と共に行ったのですか」
「いえ。お子はすでに城外の安全な場所に移っ
ておられます」
「そうでしたか。私が産んだ子ではないが、
母子にかわりはない。どんなことをしてでも
助けねば。これで少しは生きていける」
「それは……。いや、よろしくお願いいたし
ます」
「では参りましょう」
 千が二の丸を出ると、堀内氏久が待ってい
た。
 治長は、千が堀内氏久に伴われて大坂城を
後にするのを見送った。
 千と堀内氏久が大坂城を出るのと入れ替わ
るように、戦っていた豊臣勢が戻ってきた。
 大野治長は真田隊の兵卒を見つけると声を
かけた。
「信繁殿はどこじゃ」
 兵卒は無言で泣きながら首を横にふった。
 治長は、その表情だけで十分察しがついた。
「そうか。ご苦労じゃが、山里曲輪に幸昌殿
がおられる。知らせに行ってくれ」
 兵卒は一礼をして、山里曲輪の方に向かっ
た。それを見送った治長の目に、毛利勝永、
勝家の親子が戻ってくるのが見えた。
 落胆した治長にうれしさがこみ上げてきた。
しかし、真田幸村の悲報を伝えなければいけ
ないと思うと、目が潤んできた。
「勝永殿、信繁殿が……」
 勝永は、疲れた顔をしていたが足取りは軽
く、治長に近づいた。
「戻る途中で聞きました。泣いてなどおれん。
すぐに徳川勢がやって来ますぞ。もはやこれ
まで、そちらの手はずはどうですか」
「整っております。では、始めます」
 治長は、台所で待っていた大角与左衛門の
所に急いだ。
「与左衛門殿、始めてくだされ」
「あい、分かった」
 与左衛門が下働きに命じて、台所の周りに
置いた柴に火を点けさせると、勢いよく燃え
上がった。
「ではわしらはこれで行きます」
「達者でな」
 与左衛門たちは、向かって来ていた徳川勢
のもとに走り、予定通り火を点けたことを叫
んだ。
 大坂城内から煙が上がり、やがて二の丸、
三の丸から炎が見えると、徳川勢は一気に城
内になだれ込んだ。

2013年8月19日月曜日

秀頼脱出

 大坂城の城内にある台所の周りは、大野治
長の部隊が警護していた。
 台所の中には、通路を掘った時の土が残さ
れ、よく見なければ台所とは分からない荒れ
た状態になっていた。そこに、治長、淀、秀
頼と真田幸昌が入った。
 淀、秀頼は、すぐに上に着ていた物を脱ぎ、
町人のような姿になると、秀頼が、治長と幸
昌に話した。
「これで今生の別れじゃ。皆には何もしてや
れなんだ。幸昌の父も今頃、決死の戦いをし
ている。しかし、わしや母上は、その者らに
謝ることはせん。皆は天下の礎となるために
死に、その魂はわしや母上の中に生きている
からじゃ。必ずその魂を後世に引き継ぐ。こ
れがわしに天から与えられた使命じゃ。幸昌
には納得できんかもしれんが言うておきたかっ
た」
「上様、ご心配、ご無用にございます。この
幸昌も武士の子、武士の役割が終わったこと
は分かっております。私も若年ながら、武士
の端くれとして死ねる栄誉に間に合ったこと
をうれしく思います」
 治長が感心して、たまらず幸昌に声をかけ
た。
「よう言うた幸昌。それでこそ真田信繁の子、
いや、一人前の武士じゃ」
 秀頼は胸が熱くなった。
「これで生きていける。では、さらばじゃ」
 そう言うと、秀頼は通路に入って行った。
その後に続き、淀が通路に向かった。少し行
くと突然、立ち止まって振り返り話した。
「治長殿、幸昌殿、今日、この日が私たち母
子の命日。そなたらはいずれ極楽に昇り、私
たちは地獄に落ちる。二度と会えぬが、皆の
ことを思えば耐えられる。永遠に忘れません。
では行きます」
 治長が名残惜しそうに言った。
「淀様、お達者で。通路は埋め戻しますから
二度と戻れませぬぞ。振り向いてはなりませ
ぬぞ」
 淀は相槌を打って、通路に消えた。
 治長は頃合いをみて、兵卒らを呼び入れ、
通路を埋め戻させた。
 秀頼と淀は、狭い通路を抜け、以前からあっ
た坑道にたどり着くと、腰まで浸かるほどの
水が溜まっていた。そこを更に出口へ向かい、
水の中を潜って淀川に出た。
 淀川には、小さな荷船が停泊していた。
 秀頼と淀が水面に浮き上がってくると、船
上で待っていた人夫たちに引き上げられ、荷
物にまぎれた。
 荷船は、何事もなかったように海に出ると、
大きな帆船に向かった。

 大野治長と真田幸昌が台所から出ると、台
所頭の大角与左衛門がやって来ていた。
 治長が声をかけた。
「与左衛門殿、こっちじゃ」
 与左衛門は治長に気づいて、側に来て言っ
た。
「こちらは準備が整いました。そちらも終わっ
たようですな」
「ああ、こっちも無事に済んだ。ご苦労様」
「いよいよ、最後の総仕上げですな」
「問題は千の方様が言うことを聞いてくださ
るかじゃ」
 この頃には、前の戦で破壊された二の丸、
三の丸などはすぐに再建されていた。その二
の丸に、千は引きこもり、秀頼から離された
怒りを募らせていたのだ。
 与左衛門は苦笑して言った。
「とにかく二の丸から出ていただかないと、
台所に火が点けられませぬ。このままでは大
御所様に疑われますぞ」
 与左衛門は徳川方に寝返り、台所に火を点
けて、それを一斉攻撃の合図にする役目を担っ
ていたのだ。
「分かっておる。何とか説得しよう。幸昌殿
は山里曲輪の糒倉(ほしいぐら)に向かって
くだされ。中には与左衛門殿が仕込んだ火薬
があるから、私が行くまで誰も絶対に入れぬ
ように」
「はい、分かりました。では」
 幸昌は糒倉に向かい、治長は二の丸に向かっ
た。そして、与左衛門は台所に火を点ける準
備を始めた。

2013年8月18日日曜日

二つの牙

 勝永と幸村の部隊は、離れていてもまるで
意思が通じているかのように、一方が抑える
と一方が前進して、徐々に家康の本陣に近づ
き、どちらが先に突撃してくるか分からない
行動をしていた。
 勝永の部隊が、徳川勢の酒井家次、相馬利
胤、松平忠良の部隊と交戦していると、幸村
の部隊は、松平忠直の部隊を敗走させ、先に
家康の本陣に突撃した。
 ここまで劣勢になるとは思っていなかった
家康の本陣は、士気が低く、混乱が混乱を呼
んで大軍が逃げ惑う烏合の集と化した。
 こうなると家康を護ろうとする者もなく、
家康は一兵卒のように雑踏の一部になった。
 幸いだったのは、家康が甲冑を身に着けて
いなかったので逃げやすく、雑兵と見分けが
つかず、見つかりにくかったことだ。
 幸村の部隊に続いて、勝永の部隊も家康の
本陣に突撃して家康を探した。
 この事態にようやく気づいた徳川勢は、一
斉に家康の本陣に駆けつけたが、勝永と幸村
の部隊はまだ反撃する余裕さえ見せた。
 地べたに這いつくばって泥まみれの家康は、
もう逃げきれないと死を覚悟した。
 稲葉正成は、これほど早く、家康の本陣が
豊臣勢につかれるとは思っていなかった。
 できれば初陣の松平忠昌を出陣させたくは
なかったが、そうも言ってられなくなった。
「若様、これが戦です。数の上では優る徳川
勢が、少数の豊臣勢に追い立てられておりま
す。それは、死を恐れる者と死を覚悟した者
の違いです。これから若様の部隊も出陣しな
ければなりませんが、今の徳川勢と同じよう
に、死ぬ覚悟がまだありません。どうか、兵
らに若様のお言葉を賜りたい」
 忠昌の顔には動揺がなく、やる気で高揚し
ていた。この時には正成が何を期待している
のかもすぐに察した。
「あい分かった」
 忠昌は馬に乗ると、待機していた部隊に向
かって叫んだ。
「者共、よう聞け。我らはこれから、命を捨
て大御所様をお助けする。命が惜しい者は、
かまわん、この場に留まれ。この忠昌と共に
戦う者は、縁があれば再びあの世で会おうぞ」
 そう言って、すぐに馬を走らせた。
 その後に正成が続いた。
 忠昌の背中の方から、雄たけびとも怒号と
もつかない声が響き、死を覚悟した忠昌の部
隊が出陣した。
 家康は、土にまみれた百姓のようになり、
本陣の混乱から抜けると、短刀を手にして切
腹する場所を探していた。
 幸村と勝永は、家康を見つけることができ
ず、怒りと焦りが交差していた。こうしてい
る間にも、徳川勢が盛り返してきていた。
 幸村が気づいた時には、茶臼山が徳川勢に
攻めとられていた。そこで、無念だったが包
囲されるのを避けるため、止むを得ず撤退を
開始した。
 そこに、徳川勢の各部隊に混じって、忠昌
の部隊も駆けつけ、正成は幸村の部隊が弱気
になっているのを見透かし散々に攻め立て、
二十七人を討ち取り、忠昌も二人を討ち取っ
た。
 幸村の部隊が崩壊していくのを見た勝永の
部隊も、徳川勢の藤堂高虎、井伊直孝の部隊
に反撃されるようになり、撤退を始めた。
 幸村は、命からがら天王寺の辺りに逃げ延
びた。
 やがて生き残った幸村の部隊の兵卒も追い
つき、近くの安居神社に向かい、境内で傷の
手当てをしていた。
 そこを徳川勢が追い討ちをかけ、幸村はこ
こに絶命した。
 勝永の部隊は、退却していた途中で、追っ
て来た高虎の部隊に反撃する余裕を見せたが、
流れを変えることはできず、援軍に駆けつけ
た豊臣勢の明石全登の部隊に助けられて、大
坂城に入った。
 秀忠の本陣で、秀忠の動きを封じていた大
野治房の部隊も、幸村の部隊が退却したのを
知ると、じりじりと後退し始め、やむなく大
坂城に戻った。
 正成は、忠昌を死なせずにすんだことにほっ
として力が抜けた。
 そんなことにはおかまいなしの忠昌は、初
陣を華々しく飾ったことに興奮し、善戦した
兵卒らをねぎらっていた。
 態勢を立て直した徳川勢は、次第に大坂城
に集結していった。

 幸村は、これより前、家康の本陣に突入す
る時に、子の幸昌を大坂城に向かわせていた。
 大坂城には、淀、秀頼と大野治長の部隊が
待機していた。
 治長も淀と秀頼が遁れることは承知して、
その時を待っていたのだ。
 幸昌は、三人の前に着くとひざまずいた。
「家康本陣への攻撃が始まりました」
 治長が応えた。
「あい分かった。淀殿、秀頼様、行きましょ
う」
 二人は無言で幸昌に一礼して、治長の向か
う後に続いた。
 役目を終えた幸昌は、父のもとに戻ろうと
したその時、治長が声をかけた。
「幸昌、そなたも来い」
 幸昌は一瞬迷ったが、秀頼の手招きで従う
ことにした。

2013年8月17日土曜日

顔面蒼白

 家康は、武士の戦い方にこだわり、織田信
長以前の戦い方に逆戻りさせていた。それに
気づいたのは稲葉正成だった。
 この戦に正成は、松平忠昌の補佐役として
付き従っていた。
 忠昌は、この年に十九歳で元服したばかり
の初陣で、緊張から顔面蒼白になっていた。
 正成の主君だった小早川秀詮は、関ヶ原の
合戦の時に十九歳だったが、幼い頃から豊臣
秀吉の戦に連れ出され、朝鮮出兵では、勇将
に引けをとらない戦いぶりをしていたので、
悠然としていた姿が印象に残り、それと忠昌
をどうしても比較してしまう自分に苦笑いし
た。
 正成は、忠昌の騎乗する馬に自分の馬を寄
せて声をかけた。
「この霧は、もうじきはれましょう。そうす
れば地に横たわる兵の遺骸がよくご覧になれ
ます」
「そっ、そうか」
「我らもいずれ遺骸になる身、観念すること
が肝要です」
「そうじゃな」
「もうじき、大御所様の本隊に追いつくはず
なのですが……」
 その時、前方ですでに布陣を始めている家
康の本隊が見えた。
 この前の戦で家康の本隊は、茶臼山に布陣
したが、この戦では、その手前の平野・天王
寺口に布陣の準備をしていたのだ。
 これを見た正成が、今度は顔面蒼白になっ
た。
 余裕が消えた正成に気づいた忠昌が声をか
けた。
「どうした正成」
「えっ、ああ何でもありません」
「嘘を申すな。心配事でもあるのか」
「はっ、この大御所様の布陣はよろしくあり
ません。これでは桶狭間になります」
「桶狭間」
 永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦が起き
た時、正成はまだ生まれていなかったが、乱
世の武士として当然、頭に叩き込んでおくべ
き戦だった。
 天下取りにもっとも近いといわれた今川義
元は、急速に力をつけてきた尾張の織田信長
を芽のうちに摘んでおこうと、大軍を率いて
駿府を発ち、尾張に進攻した。
 この時、徳川家康も義元に付き従う弱小の
身だった。
 迎え撃つ信長には、義元の大軍に比べ、十
分の一程度の二千人ぐらいの兵力しかない。
しかし、義元が桶狭間山の麓辺りで休息する
という情報を手に入れると、奇襲することを
決意した。
 信長は、義元の首一つを討ち取ることだけ
を部隊に命じて攻撃を開始した。
 信長の家臣は単独で戦地に赴くことも多く、
命令を待って行動する者はいない。それに比
べ、今川軍のほうは、軍の規律がしっかり守
られていて、義元や部隊長の命令で一糸乱れ
ずに行動するといった態勢になっていた。
 軍隊と軍隊の戦いなら今川軍のほうが圧勝
するはずだが、信長は義元一人を殺す二千人
の暗殺者という発想をした。
 暗殺者は単独行動するので、規律などない。
どう行動するかも予測はできない。
 今川軍の兵卒は、織田軍に攻撃されている
とは分かっても自分が攻撃されているわけで
はなく、規律により命令がなければ勝手に持
ち場を離れることはできない。
 指示待ちの状態で、あっという間に義元が
殺されたら、後は烏合の衆とかすだけだ。
 不意をつかれた義元の部隊は、戦闘体制も
整わない中で混乱し、義元は、斬りかかって
きた服部一忠をかわしたが、その間に近づい
た毛利新助に討ち取られ、信長に敗北した。
 この戦が今川家を衰退させ、信長が天下統
一に邁進するきっかけになった。
 正成の目の前には、皮肉にも義元と同じ駿
府から発った家康が、茶臼山の麓に布陣した
様子が、義元の大敗と重なって見えていた。
(大御所様は桶狭間の二の舞を演じるつもり
か。それとも、自分ならあんな無様な負け方
をしないとでもお考えなのか)
「正成、この戦が桶狭間と同じ結果になると
申すのか」
 正成は、忠昌の問いで我に帰った。
「はっ。豊臣勢が茶臼山に布陣したとなると、
この戦、どう転ぶか分かりません。豊臣勢は
決死の覚悟で、大御所様の御首ただ一つを狙っ
てきましょう」
「では、我らは御祖父様をお守りせねば」
「それはなりません。大御所様の大軍が混乱
すれば、若様の部隊もその中に巻き込まれ、
身動きが取れなくなります。ここは大御所様
の本隊から離れ、向かってくる豊臣勢の側面
か、背後からつくしかありません」
「そうか、あい分かった。正成、我らの部隊
をそなたが最も良いと思う布陣先に先導せい」
「ははっ」
 正成は、忠昌の部隊を家康やその隣の岡山
口に布陣した秀忠から遠ざけ、先の戦で布陣
した河内枚方に先導した。そこは戦闘の最前
線となっていたが、豊臣勢には忠昌の部隊を
攻撃する余力はなかった。
 豊臣勢は徳川勢に比べ、三分の一程度の兵
力で最後の決戦を挑もうとしていた。
 最初に動いたのは、徳川勢の本多忠朝の部
隊だった。
 忠朝の部隊は、毛利勝永の部隊が布陣して
いた天王寺に向かい、鉄砲衆に銃撃させた。
これに対して、勝永の部隊も鉄砲で応戦し、
銃撃戦となった。
 勝永は、向かってくる鉄砲衆を引きつけ、
一斉射撃させて撃退した。これで部隊の気勢
が上がり、勝永は部隊の編成を変えることを
決め、子の勝家と山本公雄を一部隊とし、浅
井井頼と竹田永翁を一部隊として二つに分け、
それぞれを徳川勢の最前線に出撃させた。そ
して、勝永の部隊も忠朝の本隊に向かい反撃
を開始した。
 忠朝の本隊は、決死の覚悟で向かってくる
勝永の部隊に浮き足立ち、忠朝は討ち取られ
た。
 そこにやって来た徳川勢の小笠原秀政、保
科正光の部隊と勝永の部隊は混戦になった。
 徳川勢が勝永の部隊に集中し始めたのを見
た茶臼山の真田幸村は、眼前の松平忠直の陣
に突撃を開始し、豊臣勢の大谷吉治、渡辺糺、
伊木遠雄の部隊も後に続いた。
 岡山口の本陣で、二手から攻撃してくる豊
臣勢を凝視していた秀忠は、前田利常、藤堂
高虎、井伊直孝の部隊を出撃させ、本格的な
戦闘を開始した。
 この動きを見た豊臣勢の大野治房の部隊は、
前田利常の部隊を迎え撃ち、密かに奇襲部隊
を秀忠の本陣に向かわせて、秀忠の動きを封
じた。
 家康は、本陣近くに待機していた旗本の部
隊も次々に援護に出撃させざるおえなくなり、
防備が手薄になってきた。

2013年8月16日金曜日

戦ふたたび

 道春は、駿府城の家康に呼ばれていた。
「道春、以前に崇伝が持って来た大蔵一覧は、
大蔵経の事項がよう整理されて調べやすい。
これを開版して寺に寄進しようと思う。銅活
字は大方出来ておるからそれを使って、百部
か二百部を刷ってくれ」
「ははっ」
「わしはこれから、大坂に向かう準備をする。
道春はそれに専念してくれ」
「はっ、すぐに取り掛かります」
「以上じゃ。下がってよい」
「はっ」
 道春は一礼して下がった。
 二人の間には、言葉を交わさなくても心に
通じるものがあった。
(大御所様がいよいよこの世から戦をなくさ
れる。大坂は地獄になるが、誰にもその意味
が理解できんであろう)
(道春め、何も聞こうとせんかった。そなた
を生かす、わしの心が読めたか。小賢しい奴
じゃわい)
 駿府城内は、大坂への出陣で慌しくなった。
それを横目に見ながら道春は、版木衆の校合、
字彫、植手、字木切の職人ら十八人と清見寺、
臨済寺の僧、六人を集めて作業の準備を始め
た。
 道春も戦に加わりたいと思わずにはいられ
なかったが、家康から後のことを託された気
持ちも痛いほど分かり、作業に専念した。
 銅活字やそれを使って刷るための道具は、
豊臣秀吉の時代に、文禄の役で朝鮮の漢城か
ら持ち帰った物があった。しかし、家康は、
慶長十年(一六〇五)から、円光寺の元佶長
老や円光寺学校の校長となった僧、元信を監
督として、浜松海岸に漂着した福建人、五官
の貨幣鋳造技術を利用して銅活字の鋳造を始
めた。
 道春が大蔵一覧の開版を命じられた頃には、
八万九千字余りの活字が出来ていたが、更に、
一万三百字余りを鋳造する必要があった。
 大蔵一覧は全部で十一冊あり、一字一字活
字を拾っていく地道な作業が続いた。

 家康は、慶長二十年(一六一五)四月十八
日に京・二条城に入った。
 四月二十一日には、秀忠も二条城に到着し、
諸大名も次々に集結した。
 先に動いたのは豊臣勢で、大野治房の部隊
が、以前から徳川勢に寝返って大和郡山城を
守っている筒井定慶を攻撃した。そして、こ
れを落城させると、続いて徳川勢の物資調達
地だった堺を焼き討ちした。
 これに対して、徳川勢の浅野長晟の部隊が
反撃に向かった。
 それを知った大野治房は、浅野長晟の部隊
の背後で一揆を起させた。
 民衆には、徳川家の強引なやり方に不満が
募り、徳川不人気が浸透していた。そのため
劣勢の豊臣勢でも味方したのだ。
 浅野長晟の部隊は、やむなく泉南・樫井に
留まった。
 大野治房は攻撃を試みたが、戦法のまずさ
から部隊の統率が乱れ、岡部大学、塙団右衛
門、淡輪重政らが先陣争いをおこない単独行
動したため、次々に討ち死にした。
 やがて敗退した大野治房は大坂城に戻った。
 これを知った家康は、豊臣勢の結束の弱さ
を見て取り、この戦を短期で終結させる自信
をもった。
 この頃の家康には、重たい甲冑を身に着け
るだけの体力はなくなり、軽装のまま五月五
日に二条城を発った。
 伏見城にいた秀忠も、大坂・河内に向かっ
た。
 豊臣勢の真田幸村、毛利勝永、後藤基次は、
河内の途中、国分で徳川勢を迎え撃つ策を決
めた。
 この頃、辺りは濃霧がたちこめ始めていた。
 基次は、藤井寺で幸村、勝永の部隊を待っ
ていたが、予定の刻限になっても来ないため、
先に出発した。
 この時、幸村、勝永の部隊は、秀頼と淀を
遁れさせるための通路を、大坂城内の台所の
中に掘っていた。
 通路が掘り終わった頃には、霧が濃くなっ
ていた。
 幸村、勝永の部隊はやっと出発したが、濃
霧に阻まれていたのだ。
 基次が国分に到着した時には、すでに徳川
勢が待機していた。
 基次は、幸村、勝永と同じように、徳川に
内通しているのではないかと、豊臣勢から疑
われていたため、ここで引き返すわけにはい
かず、討ち死にする覚悟で戦う準備を始めた。
これに迎え撃つ伊達政宗、水野勝成の部隊が、
一気に攻めてきたため、基次は討ち死にした。
 しばらくして到着した豊臣勢の明石全登、
薄田兼相の部隊も敗れ、兼相が討ち死にした。
 国分で豊臣勢の敗色が濃くなった頃、よう
やく毛利勝永の部隊が到着した。それに続い
て真田幸村の部隊も到着した。
 幸村は、残っている豊臣勢の救出に向かっ
た。そこに、伊達政宗の部隊から出て来た片
倉重長の鉄砲隊が銃撃した。これに幸村の部
隊が応戦し、重長の鉄砲隊を退けた。
 一方、河内から大坂城に向かっていた家康
のいる本隊は、濃霧の中から突如現れた豊臣
勢の長宗我部盛親、木村重成、増田盛次の部
隊と遭遇した。
 すぐさま徳川勢の中から、藤堂高虎の部隊
が迎撃に向かい、霧の中での混戦が続いた。
 一時は高虎の部隊が劣勢になったが、徳川
勢の井伊直孝の部隊が援軍に駆けつけて、重
成が討ち死にするなど、今度は豊臣勢のほう
が劣勢となり、盛親らはやむなく大坂城に引
き返した。
 盛親らの撤退の知らせを聞いた幸村、勝永
は、こちらも撤退することを決め、勝永の部
隊が徳川勢を引きつけている間、幸村は残っ
ていた豊臣勢を大坂城に撤退させた。
 これらの戦いで双方に多数の損失があった
が、どちらも最終決戦と覚悟を決めて正面か
らぶつかり合うことを望んでいるようだった。

2013年8月15日木曜日

秀頼の本心

 再び戦になることが誰の目にも明らかになっ
た頃、秀頼は、真田幸村と毛利勝永を密かに
呼んだ。
 その居場所には淀もいたが、聞き役に徹し
て、最後の采配を秀頼に任せ、四人だけの密
談は静かに始まった。
「幸村殿、勝永殿、城はご覧の有様。もはや
勝ち目のないことはお分かりのことと思う。
ご両人には豊臣家のために、過分のお働きを
していただいた。この秀頼にはその恩に報い
る術がない。かといって、手ぶらで徳川に下
ることもできまい。どうかこの秀頼の首と母
上の首を討ち取り、ここに残した軍資金と一
緒に徳川へ下ってはもらえんだろうか。それ
でご両人の助命にはなろう」
 幸村は、怒りとも悲しみともつかない表情
で応えた。
「お恐れながら申し上げます。こたびの戦、
最初から勝ち目はございませんでした。それ
でもあえて我らを集め、戦をしたのは何故で
すか。この期におよんで徳川に助命を請うな
ど、天下の物笑いになれとおっしゃられるの
か」
 その言葉に勝永も付け加えるように言った。
「この勝永も幸村殿と同様。そのような浅ま
しい考えでこの地に留まっているのではござ
いません。まだ我らをご信用いただけないの
ですか」
「いや、ここに集まった方々の忠義を疑う気
持ちは微塵もない。戦を甘く見ていたわけで
もない。これは豊臣家の、天下統一を果たし
た亡き太閤様の子の意地じゃ。その意地はと
おした。それがご両人の命を賭してのお働き
を見て悟ったことじゃ。これ以上の戦は我欲
であり、多くの民を苦しめるだけではないか
と思ったのじゃ」
 幸村が反論した。
「我欲は徳川ではござらぬか。豊臣家が築い
た天下泰平の世を掠め取ろうとする極悪非道。
それが、民を苦しめている元凶にございます」
「その天下泰平も、父上の朝鮮出兵により夢
と散ったではないか」
 続いて勝永も反論した。
「お恐れながら、朝鮮出兵は、かの地にも天
下泰平を広めんがためにおこなったこと。そ
れを認めた五大老の一人、家康殿にも責任が
あるのではないでしょうか。家康殿はそれを
あえて見逃し、その隙に、おのれの領地を広
げておられた。これを盗人と言わず、なんと
言うのですか」
「いや。ご両人のお気持ち、よう分かりまし
た。秀頼の軽薄を恥じるばかりです。しかし、
なぜご両人はそこまで豊臣家のことを思って
おられるのか。父上はご両人にどれほどのこ
とをしたというのですか」
 幸村が、やっと表情を和らげて応えた。
「私にではなく領民にです。秀吉公は、地獄
のような乱世から領民を救い、生きる術と希
望をお与えくださいました。その恩は、子々
孫々伝えられるべきものでございます。領民
の恩は領主の恩。その恩に報いるのは領主の
務めにございます」
「この勝永も、幸村殿と同じ気持ちにござい
ます」
「領民のために、ご両人は命を賭すと申すの
か。……父上は良い家臣に恵まれたから天下
統一できたのじゃな。よし、ご両人には隠し
立てせず、秀頼の本心をお話いたします」
 幸村と勝永は、姿勢を正して秀頼の本心を
聞いた。
「ここが死地であることには変わらない。討
ち死に覚悟で出陣し、徳川勢に一矢報いるの
も一案。ご両人とならそれも悔いはない。し
かし、それでは徳川家を喜ばせるだけで、残っ
た領民には恨みと苦難が残り、新たな乱世を
生み出すかもしれん。すでに、一揆が起きて
いるところもあると聞く。天下泰平の世を乱
さないためには、徳川勢に一矢報い、更に、
徳川勢を出し抜いてこの地から密かに遁れる
ことではないだろうか。もといこの秀頼、た
だ生き延びたいがために言っているのではな
い。徳川家に従わぬ者が、この世のどこかに
いるということで、天下を安穏と治めさせな
いためじゃ。ただし、わしは千と子らを残し
ていく。豊臣家は二度とこの世に現れない証
じゃ。こたびの戦で多くの血を流すことにな
る。その報いは、わしと母上が生き地獄に身
をおくことで、すべて受けるつもりじゃ。こ
れがわしの本心。ご両人に卑怯者とののしら
れてもよい。わしは秀吉公のような神にはな
れん。ただの人じゃ」
 幸村がしばらく考えて口を開いた。
「卑怯者なのは、我らかもしれません。殿に
重荷を背負わせて戦をしようとしているので
すから。しかし、よくそこまでお考えになら
れました。このお方を徳川勢に殺させるわけ
にはいかん。なあ、勝永殿」
「はい。まことによう本心を明かしていただ
いた。これで、我らは心置きなく戦えます。
ところで、もうすでに遁れる術は整っておる
のですか」
「いや、それが完全には整ってはおらん。こ
の城の地下には淀川に通じる坑道がある。そ
の坑道までの通路をどこに掘るかが、まだ決
まっておらんのだ」
 勝永が察して言った。
「それは、私にお任せ願えませんか。密かに
掘るには多少の時間はかかりましょうが、我
らの兵には石見銀山にいた者もおり、穴掘り
には慣れております。早急に通路を掘ってご
覧に入れます」
 幸村が付け加えた。
「それには、わしの兵も手伝わせよう」
「勝永殿、幸村殿。秀頼、礼を申します」
 秀頼は目を潤ませ、二人に深々と頭を下げ
た。それに続いて淀も泣きながら頭を下げた。
 幸村が淀を見てニヤリと笑い、照れくさそ
うに言った。
「ほれた。いやぁ、殿にほれもうした」
 勝永は天井を見上げるように潤んだ目で言っ
た。
「ほんに、私もほれました。参りましたな」
 幸村と勝永は、秀頼に全てを話させた淀の
賢母ぶりにも感服していた。

2013年8月14日水曜日

和睦

 徳川勢は、秀忠が幸村から罵声をあびせら
れたことを知ると、兵糧攻めの気の抜けた状
態から一気に闘争心が高まった。
 幸村は、味方の豊臣勢からの疑いをはらす
には徳川勢と戦うしかないと策を練った。そ
して、幸村の曲輪の近くにあった丘、篠山に
伏兵を送り、前田利常の部隊が城攻めの準備
を始めると、神出鬼没の攻撃をして妨害した。
 これが更に、前田部隊の闘争心をあおり、
本多正重、山崎長徳らが利常の命令をきかず、
夜になって篠山を攻めた。しかし、その時に
はすでに幸村の伏兵は撤収していた。
 朝方になると、今度は曲輪から真田部隊の
攻撃を受けた。
 幸村をあなどり、勢いに乗っていた前田部
隊は、自然の流れに巻き込まれるように曲輪
に殺到した。そこを真田部隊の鉄砲衆に、一
斉射撃され多数の兵を失った。
 銃声を聞いた井伊直孝、松平忠直の部隊は、
攻城戦が始まったと勘違いして、居ても立っ
てもいられず出撃した。
 しばらくすると大坂城内で爆発音が鳴り響
いたため、ますます徳川勢の気勢が上がり、
各部隊が外堀に殺到した。そこを、待機して
いた豊臣勢に反撃され大敗をきした。
 気づいた家康が退却を命じたが混乱してし
ばらくは収拾がつかないほどだった。
 このことがあって兵による城攻めは戒めら
れた。それに代わって、大量に用意された大
砲による昼夜をとわない砲撃で豊臣勢を眠ら
せず、疲労困ぱいさせる策にでた。
 大坂城内にまでとどく砲弾に、豊臣勢の士
気は低下していった。そして、誰もが自刃を
覚悟し始めた頃、家康の方から和睦の誘いが
あった。しかもその条件は「大坂城の本丸の
み残し、二の丸、三の丸は取り壊す。そして
大野治長、織田有楽から人質を出すこと」だ
けだった。
 これを知った幸村や後藤又兵衛らは、最終
決戦をすることを訴えた。
 浪人たちには行き場所はどこにもなかった
からだ。しかし、淀はすぐに次の戦があるこ
とを悟った。そこで、集まった浪人たちには
このまま雇い入れておくと告げて納得させ、
和睦を受け入れることに決めた。
 徳川勢では、勝戦に向かっていての和睦に
敗戦気分が漂っていた。しかし、家康は上機
嫌で将兵の労をねぎらってまわった。
 道春は、撤退準備がすすむ茶臼山から大坂
城を見ていた。
 所々からまだ煙が出ている無残な城の姿に、
秀吉の老いた姿が重なって見えた。それと同
時に、淀が秀吉の遺志を成し遂げようとして
いる壮絶な姿も見てとった。
 気がつけば家康が山を下っていた。
(大御所様は関ヶ原での失敗から多くを学ば
れた。始めは攻めておいて後に退く。淀殿は
誘いに乗ったが、難しいのはここからだ)
 和睦が成立した翌日から、秀忠は大坂城の
外堀の埋め立てを命じた。
 徳川勢が真田部隊に苦しめられた曲輪が真っ
先に破壊され、その廃材や土塁などが外堀に
投げ込まれた。
 外堀は短期間に埋め立てられ、徳川勢は次
に三の丸を取り壊した。それが終わると今度
は、豊臣勢が取り壊す取り決めだった二の丸
も壊し始めた。
 これに大野治長が抗議したが、あっという
間に取り壊され、内堀も埋め立てられた。
 家康は、取り壊しの途中で京・二条城に入
り、しばらくして駿府に戻った。
 秀忠は、全てが完了したことを見届けると、
京・伏見城に留まった。

 慶長二十年(一六一五)

 道春は京の自宅に、父、信時と弟、東舟を
迎えて新年を穏やかに過ごした。
 大坂城は本丸だけとなり、祭りの櫓のよう
な、無防備で心もとない状態となっていた。
 城内で秀頼は、不安にさいなまれ落ち込ん
でいたが、淀は更に自信を深めていた。
 豊臣勢の損失は多かったが、ほとんどの浪
人が留まり、団結力が強くなり、かえって統
率がとれるようになったからだ。
 大坂の民衆はおおいに盛り上がり、圧倒的
な大軍の徳川勢に一歩も引かず和睦に持ち込
んだ秀頼に拍手喝さいした。また、秀頼がキ
リシタンを受け入れたことで幕府に弾圧され
ていた宣教師や信者が集まり、食糧などの物
資の支援も途絶えることがなかった。
 戦続きで殺し合いに麻痺していた民衆は、
この戦を祭りの喧嘩程度にしか思っていなかっ
たのだ。
 その様子に毛利勝永は顔を曇らせた。
(地獄でも暮らしていれば慣れるのか)
 勝永は、子の勝家と供に大坂城に入ってい
た。関ヶ原の合戦では、毛利秀元の与力とし
て南宮山に布陣したが、毛利部隊は動かず、
これが豊臣家の立場を悪くしたのではないか
と後悔していた。
 勝永親子は、秀頼の招きでこの戦に加わっ
たが、関ヶ原の合戦でのこともあり秀頼の側
近からは、その忠誠心が幸村と同じように疑
われていた。
 その幸村も子の幸昌と来ていて、戦いに対
する考え方などで意気投合し、行動を供にし
ていた。
 幸村と十歳年下の勝永は、兄弟のようでも
あり、お互いに唯一の理解者として打ち解け
た。それはまるで、大谷吉継と石田三成が復
活したようだった。

2013年8月13日火曜日

真田家

 真田幸村は、大坂城の外堀の東に自ら築い
た曲輪で、徳川勢の攻撃に備えていた。その
徳川勢の中には兄の信幸がいた。

 二人のふるさとである信州は、本能寺の変
の直後、北条家と徳川家の対立する戦地とな
り、父、昌幸は徳川家を頼り、信幸を人質に
送った。
 やがて豊臣秀吉が権力を握ると昌幸は、孤
立を深める徳川家に領地を奪われるのではな
いかと不信感を抱いた。そこで秀吉に幸村を
人質に送って支援を求めた。
 家康が居城、上田城に攻めてきた時は父と
兄弟が一丸となって防戦し、秀吉の命で救援
に駆けつけた上杉景勝の力添えもあって、家
康を撃退した。
 ところが、秀吉が家康を家臣に加えてしまっ
た。そのため信幸は、家康の重臣、本多忠勝
の娘を嫁にとり、幸村は、秀吉に重用されて
いた大谷吉継の娘を嫁とした。そして、秀吉
のおこなった小田原城攻めでは、再び父と兄
弟が一緒に戦い、上野、武蔵で武功を上げた。
 そんな融和な日々も、秀吉が亡くなると一
変した。
 豊臣家内部の分裂に乗じて、家康が主導権
を握り、上杉景勝を征伐する動きにでると、
昌幸、幸村親子は恩義のある景勝に味方し、
上田城に籠もった。それに対して信幸は家康
に味方し、徳川勢が上杉征伐に向かうための
重要拠点であった居城、沼田城を守った。
 この時、上田城を攻めたのが秀忠で、質素
な小城の様子と簡単に攻め落とせるとあなど
り、また、家康から与えられた最強の武器で
ある大砲の威力も試したいと、通り過ぎるこ
ともできたものを攻撃し始めた。
 これに対して昌幸、幸村親子の城外から撃っ
て出る神出鬼没の戦法に、秀忠の部隊は翻弄
され、気づいた時には主戦場である関ヶ原に
は到底間に合わない状態となっていた。
 上田城では、三万人を超える秀忠の大軍を
足止めさせたことで、関ヶ原での勝利を確信
したが、その後の知らせで味方の西軍があっ
けなく敗北し、幸村の義父、大谷吉継は自刃
したという知らせを聞き、昌幸、幸村親子は
落胆した。
 一時は自刃することも考えた昌幸、幸村親
子だったが、信幸が家康に懇願したことで、
高野山山麓にある九度山に幽居されることで
命は救われた。
 父、昌幸が亡くなった後も幸村は、辛い日々
を耐えていたが、豊臣秀頼が浪人を集めてい
ることを知り、密かに下山して、大坂城に入っ
たのである。

 幸村は、義父、大谷吉継の無念をはらそう
と闘志をみなぎらせ、義父から受け継いだ智
謀を遺憾なく発揮する機会を得たことを喜ん
でいた。
 幸村の曲輪に、突然、三万人を超える徳川
勢の大軍がゆっくりと迫って来た。
 警戒していた物見の兵卒が慌てて幸村を呼
びに行った。
 幸村は、一緒に守備していた長宗我部盛親
と現れ、目の前に溢れる敵の軍勢を悠然と眺
めた。
 盛親が目を凝らして言った。
「あの旗指物は葵か。秀忠がじきじきに出向
いて来たのか」
 幸村は大軍を凝視して、黙ったまま応えな
かった。
 そのうち大軍は整列して止まると、中から
一騎がゆっくりと進み出て、曲輪に近づいて
来た。
「あれは秀忠ではないか」
 盛親が唖然として幸村を見た。
 幸村はそれに黙ってうなずくだけだった。
 周りの兵卒たちがざわつき、鉄砲を準備し
始めた。それを見て、幸村が始めて叫ぶよう
に言った。
「待て。鉄砲を納めよ。これは挑発じゃ。相
手にしてはならんぞ」
 秀忠の乗った馬は、曲輪の前で止まり、秀
忠は幸村らに向かって叫ぶように言った。
「幸村殿、お久しぶりじゃのう」
 盛親が怪訝な顔で、幸村に聞いた。
「幸村。そなたの名は信繁ではないか」
「幸村はわしのあだ名。田舎者ということじゃ」
 幸村は苦笑いした。
 秀忠は続けて言った。
「こたびはそなたの兄、信幸殿が病により参
陣しておらん。その代わりに子の信吉殿と信
政殿が参陣された。立派になられておるぞ。
では、また上杉征伐の時のようによろしく頼
む」
 そう言って秀忠は、ゆっくりと戻り始めた。
 盛親が不信そうな顔をして黙った。それを
見た幸村が動揺して、秀忠に向かって叫んだ。
「待て秀忠。そのような挑発にわしはのらん
ぞ。おのれは戦って勝てんから、このような
戯言で、わしらが仲違いすることを狙ってお
るのだろうが、わしはおのれの首を獲るまで
戦い続ける。正々堂々と戦え。前に家康は戦
で糞を漏らしたそうだが、おのれは飯ものど
を通らず、糞も漏れんのだろう」
 幸村の罵声はなおも続いたが、秀忠は片手
を上げて、それに応えるように立ち去った。
 盛親は哀れむような顔で幸村を見ていた。
 幸村は、われにかえると完全に孤立したこ
とを悟った。そして、徳川勢に一矢報いる方
策を一心不乱に考えるのみと迷いを断った。

2013年8月12日月曜日

真相

 秀忠は、関ヶ原の合戦に間に合わなかった
負い目を、この戦で払拭しようと、神経をと
がらせていた。その雰囲気に、周りの家臣も
ここだけは士気が高い。
「何者じゃ」
 秀忠の陣屋を警護していた兵卒に怒鳴りつ
けられて、道春はとっさに身をすくめ、無抵
抗の姿勢を示した。
「上様に、道春が大御所様のお言葉を伝えに
来たと、お伝えください」
 それを聞いて少しひるんだ兵卒は「しばし、
そこで待っておれ」と言って秀忠のもとに向
かった。
 少しして、血相を変えて戻ってきた兵卒に
入るように促された。
 陣内で床机に座った秀忠の前に通された道
春は、立て膝で座り頭を下げた。
「おおぅ。道春、面を上げよ。久しぶりじゃ
な」
「はっ。上様にはご健勝のご様子で、なによ
りでございます。早速ですが大御所様のお言
葉をお伝え申し上げます。『上様には城の近
くにご出馬いただき、真田にそのご勇姿をお
見せするように』とのお言葉にございます」
「なに。そうか。やっとわしの出番がきたか。
父上はわしの気持ちをよう察してくれた。よ
し、すぐに出馬しよう」
「では、私はこれで失礼いたします」
「まあ待て。この挑発で真田はどうでる」
「お恐れながら、真田は上様に罵声を浴びせ
ましょう」
「そうじゃろうな。その罵声に、わしは耐え
られるかのう」
「上様が耐えられないほどの罵声が真田から
でるようなら、真田の負けにございます」
「なるほど、そういうことも言えるな。なら
ばわしは、おおいに罵声を浴びてこよう」
「はっ、上様のその勇敢なお姿が必ずや、こ
の戦の剣が峰になり、お味方の奮闘を促しま
しょう。まこと、常人には真似のできないこ
とにございます」
「道春はのせ上手じゃな」
 秀忠は高笑いしながら出て行った。
 秀忠のその後ろ姿を見送る道春は、しばら
く見ないあいだに貫禄がつき、計り知れない
器の大きさを現し始めたことに驚嘆し、頭を
下げた。
 道春は、秀忠の陣屋をあとにすると、そこ
から東、河内枚方の稲葉正成の陣屋に向かっ
た。
 秀忠の陣屋とは比べものにならない、帷幕
が張られただけの質素な陣屋で、正成は道春
を迎え入れた。
 床机に座った正成の前に、道春が立て膝で
座り、頭を下げて言った。
「大御所様からのお言葉を、お伝えに参りま
した」
 その言葉を待っていたかのように、正成は
すぐに立ち上がった。
「それでしたらどうぞこちらに」
 道春は、正成に促されて場所を入れ替わり、
立った道春の前に、正成が立て膝で座り、深々
と頭を下げた。
「それでは、大御所様からのお言葉を、お伝
えいたします。『こたびの、大阪方による謀
略阻止に稲葉殿の大いなる働きがあったとの
こと。家康、この戦の勝利を確信した。おっ
て褒美を与えるゆえ、これからも存分に働い
てもらいたい』以上です」
 そう言うと道春は、すぐに元の場所に戻ろ
うとした。
「まま、もうしばらくそのまま、そのまま、
腰掛けてください」
 道春は少しためらったが、しかたなく床机
に座った。
「今は大御所様の名代ですから、それでいい
のです。また、こうして、あなた様の鎧姿に
お目にかかれるとは……」
 二人は感無量で目頭をあつくした。
「正成のおかげじゃ」
 道春の口調は自然と小早川秀秋に戻ってい
た。
「いえ。あなた様のお働きによるものです。
それはそうと、こたびは兵糧攻めにするのが
上策。しかし、出撃準備をするようにとのふ
れがきましたが、これはどういうことでしょ
うか。何かご存知ありませんか」
「こたびは兵糧攻めはせん。しばらく戦った
後で、和睦するようじゃ。大御所様は関ヶ原
の合戦で多くを学ばれた。力ずくで押し通す
よりも、一歩引くことで、相手をこちらの意
のままに動かす。わしらがそうしたようにな」
「……では、再び大戦をすることになるので
すか」
「そうじゃ。それが最後の決戦じゃ」
「なぜ、そのようなことに」
「一つには大御所様の体調じゃ。長期の戦に
はもう耐えられん。それに、正成には、これ
の本当の意味が分かるじゃろう」
 道春はそう言って、持参していた白紙に「国
家安康、君臣豊楽」と書いて正成に渡した。
「それは東山方広寺の梵鐘に刻まれた銘文じゃ。
それを『大御所様の名を分かち、豊臣家を君
主として繁栄を願っている』と読み取って騒
ぎ、こたびの戦となった。どうじゃ正成」
「確かに、大御所様の名を分けていますが、
豊臣が逆になっております。これは豊臣の滅
亡を意味するのでは。……家康が国を安泰に
し、豊臣を滅ぼすことは、君の望むところ……。
これは、帝の勅命ではありませんか」
「そうじゃ。前の帝は突然、今の若い帝に譲
位された。あるいはそのことに、これが関係
しているのかもしれん」
「もしかすると大御所様が前の帝に、この勅
命を迫り、それを拒否されて今の帝に譲位さ
れたということですか」
「そうだとすると、大御所様はすでに帝をも
動かす力を手に入れたことになる。それどこ
ろか、大御所様は帝になろうとされているの
ではないだろうか。西の帝と並び立つ東の帝
になり、いずれは、西の帝をも手中にするお
考えかもしれん。帝を替えるには帝になるし
かない。それが大御所様のお考えになる易姓
革命なのかもな」
「そんなことをすれば、世は乱れましょう」
「だから世を乱さないための、この大戦なの
じゃ。武士をことごとく殺し、その力を奪う。
この世で二度と戦をしないための最後の戦じゃ」
「このこと、淀殿は気づいておられるのでしょ
うか」
「淀殿は、梵鐘に刻まれた銘文を考えたのは
南禅寺の文英清韓長老だと信じている。だが
『国家安康、君臣豊楽』に騒いだ崇伝殿は南
禅寺金地院の僧だ。おそらく大御所様に命じ
られて、清韓長老にこの銘文を入れるように
伝えたのであろう。だから淀殿は大御所様の
仕組んだこととは、思いもよらないだろうが、
帝が清韓長老に託した勅命であると、考えて
おられるように思う。その覚悟を決めての戦
じゃろう。ただし、たんに勅命を受け入れた
だけではないようにも思う。淀殿は、太閤様
のやり残したことを成し遂げようとしている
のではないだろうか。正成は朝鮮出兵を武士
の力をそぐためとは感じなかったか」
「今にして思えば、そのようなこともあった
のかもしれません。朝鮮に行った諸大名は、
ことごとく衰退しております。では、淀殿が
多くの浪人を集めたのも、それら武勇の者を
道ずれにして死ぬということですか」
「淀殿は死なないだろう。それが浪人たちを
戦わせる闘志の支えになっておるからな。大
御所様と淀殿の思惑は違うが、目指すところ
は一致しているように思う。これからは力だ
けの武士の世は終わり、知恵を働かせる策士
の世になるのかもしれん」
「では、私がこたび手柄をたてたことはまず
かったのでは」
「それはもう過ぎたこと。これからは、あま
り力を見せつけぬことじゃ」
「はっ」
「おお、もうそろそろ戻らねば、正成殿、命
を粗末にせず、目立たないように」
「道春殿もお気をつけて」
「あっ、そうそう、忘れるところでした。兄
の知らせで、お福殿が奥の総取締役になって
おるそうです」
「それは困りました。まだあれも目立たぬほ
うがよいのですが」
「成り行きですからしかたありません。どこ
のおなごも強うなってかないません」
「そういえば、道春殿も妻をめとり、子がで
きたとか」
「正成殿は相変わらず地獄耳ですね」
「恐れ入ります」
 外で、ときの声と供に銃声が鳴り響いた。
その音に道春がすかさず言った。
「催促鉄砲じゃ。さあ戻ろう」
「私も出馬いたします。目立たぬように」
「ではな」
 二人は名残惜しむように会釈して別れた。

2013年8月11日日曜日

大坂城、集結

 大坂城には、北、西、東に川があり、特に
大和川と淀川の合流する北側は、そのまま大
きな堀として本丸の近くを流れていた。そし
て川の内側には、二重の堀が渦を巻くように
設けられ、敵の侵入を防いでいた。しかし、
この城には南側からの攻めに弱いという欠点
があり、豊臣家の呼びかけに応じた真田幸村
は、すぐさまそれを補うために堀から張り出
した曲輪を造った。
 幸村の他に集まった十万人の浪人たちの中
には、長宗我部盛親、後藤又兵衛、毛利勝永、
明石全登など、勇猛な武将も多く、関ヶ原の
合戦で苦杯をなめた恨みをはらそうと、闘志
をもやす者も多数いた。そのため、進軍する
徳川勢を先制攻撃することも話し合われたが、
淀の側近、大野治長らの主張する城の外に数
箇所の砦を築き、籠城する策が押し通された。
 更に豊臣勢は防御のため、淀川の堤を壊し、
城の周りを水に沈めて徳川勢を近づきにくく
しようと動いた。
 それを察して駆けつけた本多忠政、稲葉正
成らがこれを阻止して徳川勢の到着を待った。
 二十万人の大軍となった徳川勢は、ゆっく
りと大坂城を四方から包囲していった。その
中には、福島正則や黒田長政など、これまで
永く戦ってきた武将は加わらず、その子らが
参陣して世代交代が進んでいた。
 道春にとっては、小早川秀詮のことをあま
り知らない者が多くなっていたため動きやす
く、それも家康が連れてくる気になった理由
の一つと理解した。
 大坂城の南にある茶臼山に布陣した家康は、
少し疲れたように床机に腰をおろした。その
側に、医者で僧侶の片山宗哲がすぐに近づき、
脈診をした。
 この時、七十三歳の家康の身体には、過酷
な戦だったが、天下を子孫に引き継ごうとす
る執念が、信じられない生命力を保たせてい
た。
 道春は、崇伝と供に大坂城を眺めていた。
 城の周りを徳川勢の掲げた無数の幟や将兵
が身につけた旗指物がキラキラと錦に輝いて
いた。これは、かつて九歳の時に豊臣秀吉と
見た小田原征伐の光景と同じだった。
 崇伝が独り言のように言った。
「これでは勝負になりませんな」
 誰の目にも徳川勢の圧勝としか見えない光
景だった。
 道春は冷めた口調で応えた。
「そのようですね。私たちが記するべきこと
もあまりないように思いますが」
「それでよいではないか。まだ寺にある古記
録の写本がやりかけだから、早々に帰って、
続きをしましょうぞ」
「はい」
 崇伝は冬の風が急に寒く感じ、身震いして
立ち去った。しかし、道春は一点を見つめた
まま動こうとはしなかった。それを見た家康
が道春の側に近づいた。
「大御所様。お休みにならなくてよろしいの
ですか」
「なあに、大丈夫じゃ。道春、皆の布陣はど
うじゃ」
「これまで各部隊が城外の砦を落とし、城を
包囲したところまではお見事としか言いよう
がありません。しかし、こうなっては誰もが
兵糧攻めと思うて、長期戦の構えをいたしま
しょう。そうなれば士気が落ちます」
「そうなのじゃ。それで、道春ならどうする」
「お恐れながら、私にこのような大戦の先行
きなど、読むことはできません」
「何を申す。道春はかつて、伏見城、佐和山
城の攻略に加わっておろう。その経験をふま
えて申してみよ」
「……。では、申し上げます。あの岡山に布
陣しておられる上様のお姿を真田幸村に見せ
ることです。上様には先の上杉征伐で、真田
との遺恨がおありです。幸村は戦うためにこ
こにやって来ており、籠城して死ぬことなど
考えておりませんでしょう。上様をあなどっ
ている幸村は、上様の悠然とした姿を見れば、
必ず挑発してきます。それが部隊の士気を高
めましょう」
「よい読みじゃな。わしもそれを考えて、秀
忠を真田の曲輪近くに布陣させたのじゃ。ど
うじゃ、そちが秀忠にそれを伝えに行っては
くれぬか」
「はっ」
「それから、稲葉が大手柄を上げておるそう
じゃ。行って、わしが礼を申しておったと、
伝えてまいれ」
「はっ」
 道春は、すぐに立ち去り、秀忠の布陣した
岡山に向かった。

2013年8月10日土曜日

法師武者

 道春は、駿府の自宅で弟子らと供に旅支度
で慌しくしていた。
 側で叔勝に立つ練習をしている亀が、不満
そうな顔をして見ていた。
「なぜ旦那様が戦なんぞに行くことになった
のですか」
「私は戦の様子を書きとめるために行くのだ。
崇伝殿も行かれるが一人ではこの大戦を観る
ことはできまい」
「そのようなことは他の者でも、後から聞い
て書いてもよいではないですか。危のうござ
います」
「それでは大御所様が納得せん。心配はいら
ん。こたびは芝居の顔見世のようなものじゃ」
「そうなのですか。無事で帰って来てくださ
いね」
「ああ、叔勝をよろしく頼む」
 叔勝は無邪気に笑って、道春にだっこをせ
がんでいた。
「いまはだめじゃ。だぁめ。母を頼んだぞ」
「そのようなことを言われたら不安になりま
す」
「すまんすまん。もう分かったから、側でご
ちゃごちゃ言われると仕度が進まん。外で遊
んでおれ」
「はぁい」
 亀は、しぶしぶ叔勝を連れて外に向かった。

 慶長十九年(一六一四)十月十一日

 家康は駿府を出発し、二十三日に京・二条
城に入った。
 同行した天海、崇伝、道春は、南禅寺金地
院に入り、「年代略」「神皇系図」などの大
量の古記録を他の僧侶も加わり、五十人で写
本する作業に専念した。
 十一月十日には、秀忠が江戸から到着し、
伏見城に入った。これにより、家康は十一月
十三日に大坂に向けて出発することにしてい
たが、天海、崇伝がともに日が悪いと凶を託
宣したので、十五日に延期し出発した。
 道春は、崇伝と医者で僧侶でもある片山宗
哲と一緒に、家康の側につき従った。
 十七日に奈良から住吉に向かう時、家康は、
道春、崇伝、宗哲に武具を身に着けるように
命じた。
 崇伝、宗哲の鎧姿は、着慣れていないとす
ぐに分かる着心地の悪さをみせていた。それ
に比べ、道春の鎧姿はしっくりしていた。
 崇伝が体をゆすりながら何気なく言った。
「道春殿は似合いますな」
 道春は、とぼけて返事をした。
「そうでしょうか。自分ではよく分かりませ
ん」
 しかし、本心は、久しぶりの鎧に気分が高
揚し、笑みがこぼれそうになってくるのを隠
すのがやっとだった。
 家康と大勢の家臣団の前に、三人が鎧姿で
現れると、家康がニヤリと笑って言った。
「どうじゃ。我らのもとには三人の法師武者
がついておるぞ」
 辺りがドッとざわつき和やかになった。
 これは、家康が好んだ能、幸若舞の「堀河
夜討」の一節に「我らが手に三人の法師武者
あり」を再現し、大戦を前に、士気があがる
のを狙ったものだった。
(道春め、鎧を着ると生き生きしおって。あ
やつにまた頼ることになったか)
 家康の目には、緋色の羅紗地の陣羽織をま
とった小早川秀詮と道春がだぶって見えてい
た。

2013年8月9日金曜日

豊臣家の誇り

 深夜、大坂城の一室だけに灯りがともって
いた。
 豊臣秀頼とその母、淀は、二人っきりで会
い、淀は、懐から片桐且元の密書を取り出し
て秀頼に読ませた。
「大御所様は『国家安康』『君臣豊楽』の本
当の意味がお分かりになったようです。こち
らの望みどおり、決戦を受けてくださいます。
それに念を押すように、戦をもって戦を制す
るとは。道春様はどうやらこちらの意図を見
抜いておられるご様子。私のことも知ってい
ます」
「母上は、道春というお方をご存知なのです
か」
「以前、道春様は、藤原惺窩先生のお弟子さ
んとの知らせがありました。そして、私のこ
とを知っているお方といえば、辰之助様以外
には考えられない。辰之助様は秀秋と名乗ら
れ、もうこの世にはおられないと聞いており
ました。それがまだ生きていらっしゃったと
は」
 淀は声を潜めて泣いた。
「秀秋。母上がよく思い出で語られていた、
あの小早川秀秋殿のことですか」
「そうです」
「しかし、それがなぜ分かったのですか」
「それはその密書の後の方に書かれています。
『武士は武士らしく戦って死ぬことを選ぶよ
うに千の方に説得させる』と。これは『千の
方を連れて行くな』ということです。そして
『堀を埋めれば、新たに抜け穴を掘るのは短
くてすむので、監視を怠らないように』とは、
抜け穴は堀を避けよということです。この道
春様の二つの疑念は、私たちが遁れるための
条件にございます」
「では、千は連れて行けないのですか」
「はい。それに、子らも連れて行けません」
 秀頼には、側室との間に嫡男、国松と娘、
奈阿がいた。
「なぜです、母上」
「千の方は秀忠様のお子。もとよりお返しす
るつもりでした。それは上様もお分かりのは
ず。子らを連れて行けなくなったのは、抜け
穴を通れぬからです。それに、こたびの戦で
多くの者が死にます。私たちだけ無傷で遁れ
ることはできません。これから行く末は、生
き地獄にございます。子らを千の方にお預け
すれば、国松は無理としても、奈阿は、ある
いは生きる術もございましょう」
「ならば、秀頼も子らと一緒に死にまする」
「それはなりません。私たちのために死ぬ者
にとって、私たちを生かすことが大儀なので
す。それを無にして死ぬるは大罪。この戦、
負けたとしても、私たちが生き延びれば、豊
臣家のために戦った者たちの意地は勝ちます。
勝たせてやらねばならないのです」
「なぜ豊臣家なのですか。なぜこの秀頼なの
ですか」
「誰も恨むでない。この母を恨みなさい。さ
れど、この母は、そなたの父上が成し遂げよ
うとしたことを最後まで貫き通します。それ
が豊臣家の誇りであり、そなたを産んだこの
母の誇りなのです」
「母上様……」
 秀頼は母の膝へ泣き崩れた。

2013年8月8日木曜日

本当の泰平

 しばらく二人の興奮が冷めるのを待ち、家
康が落ち着くと且元に聞いた。
「ところで、わしにはどうも解せぬことがあ
る。こたびの豊臣家の浪人集めじゃ。あまり
にも多くはないか」
「はっ、それは、もっとものご懸念。お恐れ
ながら、方広寺の一件で大御所様のお怒りに
ついて、世間に触れ回ったところ、思いのほ
か浪人が多く集まったものと思います。しか
し、これは兵糧攻めにするには好都合ではご
ざいませぬか」
「それなのじゃが。わしは兵糧攻めをせんつ
もりなのじゃ」
 且元と道春は、意外といった顔をした。
「もちろん、あの大坂城の構えを考えれば、
兵糧攻めが上策じゃろう。先に、難攻不落と
言われた小田原城を秀吉公と兵糧攻めにした
が、あの時は、北条を屈服させれば良かった。
しかし、こたびは屈服させただけではすまん。
豊臣家を討ち滅ぼさねばならんのじゃ」
「お恐れながら、それならばこそ兵糧攻めに
して、秀頼、淀の命と引き換えに他の者を許
すと申せばよいのではないですか。小田原城
攻めの時も、そのようにされたのは大御所様
のご尽力ではないですか」
「確かにそうじゃ。それで天下統一もなった。
一時の平安にもなった。しかし、それはうわ
べだけのことじゃ。その後、諸大名の力は益々
盛んになり、領民を力でねじ伏せる恐怖の治
世じゃ。秀吉公はそれをあおるように、朝鮮
出兵を強行された。その結果はどうじゃ。出
兵した諸大名の領地は荒れるにまかせ、東と
西との関係を悪化させただけじゃ。わしはな、
本当の泰平の世を見てみたい。それを子や孫
に残したい。関ヶ原での合戦はその大一歩で
あった」
「恐れ入りました。大御所様の遠大なる計。
且元の小心、恥じいるばかりにございます。
願わくばこの先、どのように大坂城を攻めら
れるのか、大御所様のご内心をお聞かせいた
だきとうございます」
「よかろう。まず、短期決戦にでる。そして
頃合いをみて和睦の使者を送る。その和睦の
条件は、城の堀を埋めるということだけじゃ。
それが成り、堀が埋められれば再度出兵し、
最終戦を仕掛ける。もし和睦が成らん時は、
城に毒を霧のようにして放つ。毒は蛇や蜂、
百足(むかで)の毒を集めたものじゃ。これ
を使うとしばらくは誰も城に近づくことがで
きん。犬や猫を放って様子を伺い、後に城を
取り壊す」
「これは前代未聞。そのようなことをすれば、
誠にお恐れながら、大御所様のご威光が失わ
れるのでは」
「わしの威光など、どれほどのものか。わし
はな、天下泰平がなるのなら、どのような雑
言もあびるつもりじゃ。わしひとり、鬼畜と
なってすべてを背負って、あの世に行くつも
りじゃ」
 且元は感激して言葉にならず、また泣き始
めた。
 道春も、さすがにこの策略のすごさに、家
康の大器で押しつぶされそうになる思いで頭
をたれた。
 片桐且元は落ち着くと言った。
「大御所様、この戦について、道春殿のお考
えを聞きとうございます。いかがでしょうか」
「おぅ、そうじゃな。道春、そなたの存念を
遠慮のう申せ」
「はっ。では、申させていただきます。お恐
れながら、大御所様の心の内、わたしのよう
な俗人には驚嘆するばかりにございます。お
そらくこれが、この日本で最後の大戦となり
ましょう。毒をもって毒を制するという言葉
がございます。戦をもって戦を制するのも道
理にかなっております。なんとしてもこれを
成就させなければなりません。しかし、二つ
の懸念があります。大御所様のお考えには、
秀頼様あるいは淀殿のご決断も必要です。今、
籠城して城を枕に討ち死に覚悟でおられるの
に、堀を埋めるという和睦がなりましょうや。
和睦を拒み、なおも籠城して毒により多くの
者が死ぬことにでもなれば、これは戦ではな
く、たんなる惨殺。この後の幕府への反感は
増しましょう。男なら武士は武士らしく、戦っ
て死ぬことを選びましょうが、淀殿はおなご。
それが懸念の一つです。もう一つの懸念に、
淀殿がはたして戦い続けるお覚悟があるのか。
大坂城には、幾つかの抜け穴があるはず。こ
れらは大御所様も登城されたことがあり、ま
た、片桐殿がこちらにつかれたことで、すべ
て知られているのは分かっているはずですか
ら、すでに埋めておりましょう。もし和睦を
受け入れ、堀を埋めれば、新たに抜け穴を掘
るのは短くてすみます。そこから秀頼様、淀
殿が抜け出し、どこかにお隠れになられると
したら、将来に不安の種となりましょう。こ
の二つをどう始末するかにかかっておるよう
に思います」
 家康と且元は、しばらく黙って考え込み、
家康が応えた。
「千。そうじゃ、秀頼に嫁がせた千がおる。
淀殿がおなごなら千もおなご。千に説得させ
れば、淀殿もおなごとして母として、堀を埋
めることに同意するかもしれん。どうじゃ」
 且元と道春は深くうなずいた。
「抜け穴については、怠りなく監視するよう
に、秀忠に申し伝えよう。道春、そちの懸念
はこれでなくなったか」
「ははっ。恐れ入りましてございます」
 三人は戦の話を離れ、和やかな中にも緊張
感のある会話を続け、打ち解けた。
 この直後、且元はこの時の会話の内容を密
書にして淀に伝えた。

2013年8月7日水曜日

人心掌握術

 道春は、駿府の自宅で赤子をあやしていた。
 三十歳を過ぎて、亀との間に男子、叔勝(よ
しかつ)が誕生したのだ。
 小早川秀詮の時に別れた妻との間にできた
子らとは、二度とふれあうことはできない。
それだけに、この叔勝を抱くことの喜びはひ
としおだった。
 亀が別の部屋から声をはった。
「旦那様、もうそろそろ、お城においでにな
らなくては、ならないのではないですか」
「おお、もうそんな頃合いか。分かった。す
ぐに仕度をする」
 亀が、手ぬぐいで手を拭きながら部屋に入
り、叔勝を道春から受け取った。
「はよう、はよう。大御所様に怒られますよ」
 まだ幼さの残る亀だったが、叔勝を産むと、
とたんに母親の強さを見せ始めた。
「心配いらん。このところ大御所様は、吾妻
鏡ばかり読んでおられる。今日もそれを側で
見ているだけじゃろう」
「お仕事のことはよく分かりませんが、お待
たせするのはよくありません。ささ、お仕度
を」
「分かりました」
 道春は残念そうに叔勝と別れ、仕度をして
自宅を後にした。そして、駿府城に着くと、
いつものように吾妻鏡を用意して待っていた。
そこに、家康とその後にもう一人が入って来
た。
 道春は、すぐに平伏したので、家康の他に
誰かの足元しか見えなかった。
「道春、面を上げよ」
 道春が顔を上げると、家康の前に片桐且元
が座っていた。
「道春、片桐且元殿じゃ。先の方広寺の一件
で、ここに来た時、天海、崇伝らと供におう
ておろう」
「はい。その節は、お顔を拝見するだけで、
お言葉を交わすことはかないませんでした。
道春と申します。以後、お見知りおきを、よ
ろしくお願いいたします」
「こちらこそ、再びお会いできて光栄にござ
る。あの時は天海殿、崇伝殿に詰問されて、
道春殿のことは気がつかなんだ」
「お恐れながら、片桐様は、あの賤ヶ岳の七
本槍のお一人の片桐様ですか」
「いかにもそうでござるが、それは昔のこと。
今は見てのとおりの老いぼれにござる」
「片桐殿、そなたが老いぼれならわしはどう
なる」
 家康がいたずらっぽく聞いた。
「これは失言。誠に申し訳ございません」
「よいよい。これから老いぼれ同士、手を携
えて天下泰平のため、最後のご奉公をしよう
ぞ」
「ははっ」
「道春。片桐殿はのう、豊臣家から逃げてこ
られたのじゃ。先の方広寺の一件、わしは何
の疑念もないと言うたのに、淀殿がそれを逆
手にとって、世間に、わしが因縁をつけてい
ると触れ回った。それだけなら、わしは何も
とがめるつもりはない。現に、方広寺の梵鐘
はそのまま寺に納まっておる。しかしじゃ。
淀殿は、交渉役にしたこの片桐殿を責め、命
まで奪おうとしたのじゃ。片桐殿がどれだけ
豊臣家のために心血をそそがれたことか。わ
しは悔しい。老いぼれたというて、ぼろ草履
のように扱うとは……」
 家康は言葉を詰まらせ、声を出して男泣き
した。それにつられて且元も泣き出した。
 道春は、それが芝居だとは分かっていたが、
心をかき乱され、つられてもらい泣きしそう
になった。それでもかろうじて冷静さを装っ
た。
 且元は心底、感動していた。
「大御所様。わたしのような者のために、わ
がことのようにお心を傷め、お嘆きいただく
とは……。この且元、大御所様にこの余生い
くばくもない命、捧げまする」
「なにを申される片桐殿。そなたはわしより
も長生きして、この徳川家のために力を貸し
てほしいのじゃ」
「もったいなきお言葉。恐れ多いことにござ
います」
 道春は、家康が古狸などと陰口を言われ、
警戒されながらも、多くの者から慕われてい
るのが、この時、分かったような気がした。
そして、この迫真の芝居を自分に見せること
で、裏切ることのないように諭しているのだ
と感じた。それと同時に、いよいよ大坂攻め
が始まるのだと心を引き締めた。

2013年8月6日火曜日

知恵者

 しばらくして、駿府に方広寺の梵鐘に刻ま
れた銘文の弁明に来たのは、銘文の作者、南
禅寺の文英清韓長老と方広寺の作事奉行を務
めていた片桐且元だった。
 豊臣秀吉の家臣だった且元は、天正十一年
(一五八三)の賤ヶ岳の戦いで武勲をあげた
ことで、賤ヶ岳の七本槍といわれた福島正則、
加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、
糟屋武則といった面々の一人に加えられたほ
どの人物だ。
 関ヶ原の合戦には参加しなかったが、家康
に人質を出したため、後に、大和竜田、二万
八千石の所領を与えられ、豊臣家の家老に任
命されていた。
 方広寺の梵鐘に刻まれた銘文に問題がある
と知らされ、且元は青ざめた顔をしてやって
来たが、駿府で待っていた本多正純と崇伝に
は、意外にも快く迎えられた。
「文英長老、片桐殿、ご足労いただきかたじ
けない」
 正純は深々と頭を下げた。
 崇伝は、南禅寺金地院を開いていたてまえ、
南禅寺の長老である清韓に軽く会釈した。し
かし、清韓は表情を変えず、目も合わせなかっ
た。
 正純は、険悪な雰囲気に弱り顔になりなが
らも話を続けた。
「こたびは方広寺の梵鐘のことで問いたいこ
とがあり、ご足労いただいたのですが、それ
はこちらの思い過ごしでした。このことで大
御所様には、何の疑念もないということです。
しかし、こうしたことが起きるのは、徳川家
と豊臣家がお互いに行き来が乏しく、心を通
わせることができないからではないかと大御
所様は嘆いておられます。そこで、秀頼殿に
は、駿府の近くに移ってもらいたい。そうお
伝え願えまいか」
 且元は、徐々に威圧するような正純の言葉
に身をすくめながら答えた。
「おおせのことはごもっともと思いますが、
それならば、秀頼様か淀殿が度々、駿府に赴
けばすむのではないでしょうか」
「おお、それもよい考えにござる。しかし、
問題はそれだけではない。今、ようやく朝鮮
との交流が始まり、関係が修復されつつある。
上様はいずれ明との交流も再開したいと思っ
ておられるのだ。その時、秀頼殿が大坂城に
おいででは、何かと不都合なのです。そのこ
とを表向きの理由にすれば、朝鮮出兵した諸
大名に不満が芽生えよう。それはなんとして
も避けたい。このことは内密で、何とか説得
してもらいたい。このとおり、よろしく頼み
ます」
 正純は深々と頭を下げた。
「ははっ。この且元、微力ながら最善を尽く
してまいります」
 且元は、正純よりもさらに深く平伏した。
 清韓と崇伝は、あらぬ方向に話しがいき、
立場を失って気が抜けていた。
 大坂城に戻った片桐且元は、豊臣秀頼と淀
に報告した。
「こたびの方広寺の一件は、大御所様には何
の疑念もないとのことにございます。しかし、
今後、このような些細なことでいさかいにな
らぬように、秀頼様には駿府の近くにお移り
いただけないかとのことにございます」
 秀頼よりも先に淀が質問した。
「国替えせよ、ということか。且元は大御所
様にお会いしたのか」
「いえ。お会いすることはかないませんでし
た。お話しを伺ったのは、本多正純殿からで
す」
「それで、そなたはなんと返答したのか」
「はい。それならば、秀頼様か淀殿が度々、
駿府に赴けばすむのではないでしょうかと返
答いたしました。しかし、正純殿は、先の朝
鮮出兵のことを持ち出し、朝鮮、明との関係
修復には、秀頼様の大坂城退去が必要とのこ
とにございます」
 秀頼が目を見開いて驚き、且元に聞き返し
た。
「今になって、私に父上のしたことの責任を
とれというのか」
「は、はい」
 淀が秀頼をなだめるように言った。
「まあ、且元を責めてもしかたのないこと。
それに、それはただの口実。大御所様に会う
ことができた大蔵卿局には、朝鮮出兵の話し
はなかったが、同じようなことを言われたよ
うじゃ」
 大蔵卿局は、淀の乳母だったこともあり、
今は淀の相談役として側に仕えていた。
「しかし、こちらが戦の大義名分を与えてやっ
た方広寺のことは軽くいなし、別の難題を突
きつけてくるとは。それもまるで戦を避けろ
と言わんばかり……。まさか……。且元、最
近、大御所様の近くに誰か知恵者が加わって
おらなんだか」
「はあ。それでしたら、正純殿と一緒に崇伝
と申す僧侶がおり、どうやらこの者が、梵鐘
の銘文の意味を曲解したと思われます」
「いや、その者ではない。銘文の本当の意味
を解いた者がおるはずじゃ。且元、すまぬが
そなたを駿府に送り込む。なんとしても大御
所様の側にいる知恵者を見つけ出し、その者
の様子を探ってもらいたい」
「ははっ」
 淀は、この問題を世間には、「家康は方広
寺の梵鐘に刻まれた銘文のことで難癖をつけ、
秀頼様を大坂城から追い出そうとしている」
と触れ回らせた。そして、その交渉にあたっ
た片桐且元の立場を悪くし、大坂城から遠ざ
けた。
 且元は、大蔵卿局の子で淀とは幼馴染の大
野治長らに命を狙われていると、家康のもと
に泣きつき、駿府に身を寄せることになった。
 しばらくして、淀のもとに且元から、家康
の側には道春がいることが伝えられた。

2013年8月5日月曜日

方広寺梵鐘

 これまで道春は、京と駿府を行き来してい
たが、駿府での仕事が多くなったため、妻の
亀と供に駿府に移住することにした。
 江戸では、弟の林信澄が正式に秀忠の側に
仕えることになり、名を永嘉と改め、道春と
同じように剃髪して東舟という号を賜った。
これにより、江戸での情報が手に入りやすく
なり、竹千代のお守役として影響力を増して
いた福との連絡もしやすくなった。
(全ては正成の考えていた通りになった。正
成は今頃、何をしているだろうか)
 道春は、こうなることを見通していたかの
ような、かつての家臣、稲葉正成の知略にあ
らためて感心した。
 その正成は、美濃にあって着々と出世の道
を歩んでいた。
 武士が出世するには、戦で手柄をたてるの
が一番手っ取り早い。
 今の世は、天が正成に味方するように、徳
川家と豊臣家の間で戦になるという噂がちら
ほら聞こえてくるようになっていた。
 戦になった時、主君を誰にして盛りたて補
佐するかも重要だ。そこで正成は、家康の次
男で越後の松平秀康の子、忠昌を主君と決め、
度々会う機会をもうけ、信頼を得るようにつ
とめた。
 忠昌は、正成の武勇伝と世の中の情勢を聞
くのを楽しみにするようになり、「今後、何
かがあればすぐに参じるように」と命じた。
 正成は、小早川秀詮の筆頭家老として補佐
していた頃を懐かしく思った。
(かつては秀詮様の家臣となったことを恨ん
だこともあったが、思えばあの頃が一番、や
りたいことを存分にやらせていただいた。今
頃、秀詮様はどうなさっているのであろうか)
 一心同体のようにすごした日々は、正成と
今は道春となった秀詮に、くしくも同じこと
を考えさせるようになっていた。
 今は道春の側に正成のような逸材が家臣に
つくような身分ではなくなったが、それに代
わって、崇伝が何かと近づいてきた。
 もっとも、同じような仕事をしていたので
よく会うのは当然なのだが、それにしても人
懐っこい犬のようだった。
 崇伝の出世にとって、最大の障害は南公坊
天海だったが、当面の障害である道春に近づ
き、仕事を引き継ぐかたちで道春にとって代
わり、天海に挑もうとしていた。そして、そ
の機会が訪れようとしていた。

 駿府城内で家康は、側近の本多正純と談笑
していた。そこに小姓が入り、「崇伝がお目
通りを求めております」と告げた。
 今まで目立たない存在だった崇伝の急な用
件とは何か、興味がわいた家康は目通りを許
した。
 崇伝は、今まで見せたことのない精気に満
ちた顔で、堂々と入って来た。そして、挨拶
を済ませると、手に持っていた紙を広げた。
それは何かの拓本だった。
「この拓本は、こたび秀頼様が再建された、
東山方広寺の梵鐘に刻まれた銘文にございま
す。こちらをご覧ください。『国家安康』『君
臣豊楽』とあります。これは、お恐れながら、
大御所様の名を分かち、豊臣家を君主として
繁栄を願っていると読み取れます」
 それを聞いた正純が血相を変えた。
「なんじゃと、許せん。断じて許せん。これ
までの大御所様のお心遣いをなんと思うてお
るのか。その梵鐘、即刻叩き壊してくれる」
「まあ待て正純。崇伝、よう見つけてくれた。
確かにそうとも読めるが、軽々に判断するこ
とはできん。まずは豊臣家の真意を知る必要
があろう。正純、手配せい」
「ははっ」
 正純が立つと、崇伝も礼をして一緒に立ち
去った。
 まだ血相を変えたままの正純と、その後ろ
に勝ち誇ったような顔の崇伝が廊下を行くと、
ちょうど家康のもとに向かう道春とすれ違っ
た。
 二人のただならぬ雰囲気に道春は、廊下の
はしにより、頭を下げた。
 家康は拓本をながめながら思案していた。
そこに道春がやって来たので手招きをした。
「道春、今、呼びに行かせようと思っておっ
た。ちょうどよい。これをどう思う。方広寺
の梵鐘の拓本じゃ」
 家康は拓本の「国家安康」「君臣豊楽」の
部分を指差した。
 それを見た道春は、正純と崇伝の様子が変
だった原因がこれだと分かり、とぼけてみた。
「お恐れながら、文字通り、この国の平安を
願ったものだと思います」
「そうか。崇伝は、この国家安康はわしの名
を分かち、君臣豊楽は豊臣家を君主として繁
栄を願っていると言っておった」
「おお、それは崇伝殿の言われたことに間違
いありません。で、大御所様にはなにか違っ
たお考えでもおありなのですか」
「いや、そうではない。しかし、これをもっ
て軽はずみに事を起せば、豊臣家の思う壺で
はないかと考えておった」
「さすがわ大御所様、大局を見ておられる」
「下手な世辞はよいから、道春の存念を申せ」
「はっ。大御所様のご明察のとおり、これに
より事を起せば、世間の笑い者になるだけで
しょう。もし、徳川家への恨みを刻むのなら
『徳川』の文字か、お恐れながら、今の将軍
である上様の『秀忠』の文字を分つと思いま
す。親が子に自分の名の一字を与えることは
よくありますが、それも名を分つことにはな
りませんか。それに、方広寺は秀吉公が建立
した寺。それを承知で、大御所様は再建を薦
められたのではないですか。仮に豊臣の文字
が刻まれたとしても、何の問題もありません。
大坂には独特な洒落の文化があります。これ
は洒落です。笑いとばしたほうが世間は大御
所様の心の広さを尊ぶと思います。梵鐘に名
が刻まれることは名誉ではないですか」
「やはりそうであろうか。しかし、わしに戦
いを挑んできているようにも思うのじゃ。道
春が以前言っておった淀殿の兵法。これがそ
の布告とも思えるのじゃ」
「あるいはそうかもしれません」
 二人は、淀が相当手ごわい相手だと身をひ
きしめた。
 それからすぐに多数の僧侶が集められ、道
春も加わって梵鐘に刻まれた銘文の解釈につ
いて議論がおこなわれた。そしてこのことが
世間にも知れ渡った。

2013年8月4日日曜日

デウス号

 道春は、淀の動向も気になったが、それよ
りも重大な仕事を任されていた。
 この頃、日本は明や朝鮮との国交が先の朝
鮮出兵の影響で思わしくなかった。
 必要な物資が手に入りにくくなったことも
あり、貿易の相手国を求めて船出していた。
そうした最中の慶長十四年(一六〇九)に、
東南アジアのポルトガルが拠点にしていた港
で、日本人がポルトガルの船員に殺されると
いう騒動があった。その報復として、長崎に
寄航しようとしていたポルトガル船、マード
レ・デ・デウス号の船長、アンドレ・ぺッソ
アを詰問しようと待ち構えていた。しかし、
それを事前に知ったペッソアは、長崎から引
き返そうとした。そこで、肥前の日野江城主、
有馬晴信が船を出して襲撃すると、火薬の積
んであったデウス号は爆発炎上して沈没し、
乗組員三百人が水死した。
 このことを抗議し、賠償金と長崎奉行の解
任、国交の正常化と貿易の再開を要求して、
ポルトガル大使、ドン・ヌーノ・ソトマヨー
ルが駿府にやって来たのだ。
 道春が、この抗議に対する返答の書簡を起
草することになった。
 返答によっては、日本がポルトガルの属国、
最悪の場合には植民地になりかねない。
 道春の心中に石田三成の姿がよぎった。
 今思えば三成は、家康がオランダの船、リー
フデ号の航海士として乗船していたイギリス
人、ウイリアム・アダムスを軍事顧問とした
ことから、将来、諸外国に日本が侵略されか
ねないと思い、合戦をすることを決意した。
そのアダムズは今、三浦按針と名乗り、平戸
にオランダ商館を開設していた。
(諸外国の脅威が去ったとはいえないが、ポ
ルトガルが抗議している反面、国交の正常化
と貿易の再開を願っているということは、ま
ずは争わず、この国の金銀、産物を得ようと
する企みか。それはこの国とて同じこと。前々
からポルトガルが扱っている生糸を大御所様
は欲しがっておられた。そもそもこの騒動の
発端は、ポルトガルの船員が日本人を殺した
ことにある。こちらには非がないことを諭し、
ポルトガル人に、どの程度の思慮分別がある
か探る書簡がいいかもしれない)
 道春は、「ポルトガルが騒動の発端となり、
その後の対応のまずさから、ゼウス号が沈む
ことになったことを責め、要求された賠償金
と長崎奉行の解任を拒否した。しかし、国交
の正常化と貿易の再開は許す」といった内容
の強気の書簡を起草した。
 これにより騒動は治まり、貿易が再開され
た。そして、道春には外交文書の起草の仕事
が度々、任されるようになった。

 ポルトガル船、マードレ・デ・デウス号の
沈没騒動は、道春が始めて起草した外交文書
により、ポルトガルとの紛争は回避した。し
かし、これに関連した別の事件が発覚した。
 デウス号を沈没させた有馬晴信には、幕府
の目付けとして本多正純の重臣、岡本大八が
同行していた。この大八が晴信に、「幕府は
ポルトガル船を沈没させた功績の褒美として、
晴信殿の旧領地を戻そうとの動きがある」と
偽った。それを確実なものとするためと、正
純に働きかける金子を要求した。
 これを信じた晴信は、大八に金子を渡した。
 しばらくして、大八は家康の朱印状を偽造
して晴信に見せ、話が進んでいるように思わ
せて、さらに金子を要求した。こうして六千
両もの大金を懐に入れた。
 なかなか旧領地を戻すという知らせがこな
いことに疑念がわいた晴信は、正純にこのこ
とを話し、事件が明るみになったのだ。
 すぐに大八は詰問され、言い逃れとして、
「晴信が長崎奉行の長谷川藤広を殺害しよう
と企んでいる」と言い出した。
 今度は晴信が詰問され、デウス号への対応
で、藤広と意見の対立があり、殺害する気は
なかったが口走ったことを認めた。
 二人への処罰は、大八が火刑、晴信は流罪
の後、切腹を命じられたが、晴信はキリシタ
ンだったため、家臣に首を斬らせた。
 大八もキリシタンで、詰問された時に、幕
府内に多くのキリシタンがいることを白状し
た。
 家康はこの時はじめて、幕府内でキリシタ
ンの影響力が強くなっていることを知り、キ
リシタン禁教令を出し、京の教会を破壊させ
た。
 道春は、キリシタンのハビアンと論争した
ことを思い出していた。
 ハビアンは、今は棄教してキリシタンを批
判するようになっていると噂されていた。
 幕府がキリシタンを警戒するようになった
ことで発言権を増したのは崇伝だった。
 以前に亡くなった相国寺の承兌長老に続い
て、円光寺の元佶長老も亡くなり、天海と双
璧をなす存在として勢力を拡大していった。
 道春は、人の欲を抑えられない宗教に(武
器を使わない戦もあるのか)と、空しさを感
じた。

2013年8月3日土曜日

淀の兵法

「兵法……。これのどこが兵法にかなってお
ると言うのじゃ。己の味方になる者たちを殺
いておるということじゃぞ」
「それで誰が疑われ、世間がどう見るかにご
ざいます」
「もしや……。もしやこれは、秀吉が得意と
した世間に徳川の悪行を吹聴するやり方か」
「はい。そうとしか思えません。このところ
幕府は度々、城普請をしており、諸大名の負
担が増しております。その一方、豊臣家は、
寺社の修復、造営を盛大におこない、秀吉公
が建立した方広寺大仏殿の再建もそのひとつ
です。このどちらを世間は歓迎するでしょう
か」
「そうか。築城は戦の準備と受け取られ、寺
社の復興は天下泰平を願うおこないと思う。
いともたやすく豊臣家の評判は高まる。それ
でさらにわしらを苦境に追いやり、豊臣家の
支持を集めようとしておるのか」
「はい。大御所様、ご明察のとおりにござい
ます」
「しかし、清正や幸長、義久までもが暗殺さ
れるとは……」
「いえ。これは暗殺ではないと思います。自
ら命を絶ったのではないかと」
「ええ……、それは、それはどういうことじゃ」
「淀殿には、なにやら人を惹きつけるものが
ございます。これは、おなごだからというこ
とではなく、多くの家臣が主君のために命を
なげだすようなものにございます」
「まやかしか。道春、そなたは淀殿の兵法を
どう見る」
「秀吉公が淀殿に伝えた兵法は『遁甲』では
ないかと察します」
「遁甲……。明に伝わる、遁れる兵法のこと
か」
「そうにございます。遁甲の極意は攻めるこ
とにあります。死を覚悟して一歩も退かず、
攻め続けるように見せかけることこそ、遁れ
やすくなるのです」
「しかし、遁甲というのは変貌自在な陣形の
こと。こたびのことにどう関係していると言
うのじゃ」
「確かに、明で伝わっている遁甲はそうです
が、信長公が、それとは違った遁甲を実践さ
れておりました。大御所様も付城はご存知で
は」
「おお、知っておる。信長公はよく敵の城の
周りに、いくつも砦を造り、囲っておった」
「そうなのです。信長公は、領地の周りに多
くの敵をかかえ、それを一度に相手にされて
いました。その時に、付城を敵の拠点となる
城の近くに造り、その城を囲います。これを
それぞれの敵におこない、うかつに攻撃でき
ないように警戒させます。大事なのはここか
らで、それぞれの付城には多くの兵がいるよ
うにみせかけ、その実、大半の兵は別の戦場
に駆けつけて戦い、終わるとすばやく移動す
ることにあります」
「そうじゃそうじゃ。信長公はそのような戦
い方をされておった。……そうか、それを実
際にやっておったのは秀吉公ということか」
「その通りにございます。秀吉公は、いかに
早く付城を造り、瞬時に移動するかを考える
役目にございました。皮肉なことに、それが
いかんなく発揮されたのは、秀吉公が備中の
高松城を水攻めにしていた時に起きた、本能
寺の変にございます」
「ふむ、そう言われれば、あの時の秀吉公の
京に退きかえす早さはまさに付城の戦い方と
同じじゃった。それにあの時は、たしか毛利
と勝ちに等しい和睦をした上での帰陣じゃっ
たと聞いておる。これが攻めの姿勢か。秀吉
公は摩訶不思議なことをやるお方じゃと恐れ
をなしたものじゃ」
「それこそが遁甲にほかなりません。秀吉公
は高松城を水攻めにしてすぐに、大半の兵を
京に向かわせていたのです」
「その遁甲を淀殿に伝授したというのか」
「はい。秀吉公は戦になると度々淀殿を呼ん
でおりました。それはたんに好きなおなごだ
からではありません。実戦を見せて兵法を教
えるためにございます」
「しかし何ゆえ、わしに刃向かって遁れよう
とするのか」
「それは、刃向かっているのではなく、大御
所様の誠実なことが分かったからではないで
しょうか。このまま豊臣家が残れば、少しで
も世が乱れると幕府への不満に乗じて、かつ
ての豊臣の世になることを望む者が現れるか
もしれません。そうなれば、源平の時のよう
な乱世になり、大御所様の心遣いを、無にす
ることになりかねません。そこで、豊臣家と
豊臣恩顧の諸大名をこの世から消し去ろうと
しているように思うのですが」
「そのようなことを……。淀殿はそのような
ことを考えるお方なのか」
「それは、もうじき分かるのではないでしょ
うか」

2013年8月2日金曜日

秀頼と淀

 後陽成天皇の第三皇子、政仁親王が天皇に
即位すると、家康は武家の守るべき法令三ヵ
条を定め、諸大名に誓わせることに決めた。
 この法令三ヵ条は、道春が起草したもので、
「征夷大将軍である徳川の命令に従い、法度
に叛いた者をかくまうことを禁止し、謀反を
企てる者を抱えることを禁止する」とあった。
 この時、法令三ヵ条に対する誓書の提出を
促したのは主に西の諸大名で、豊臣家に味方
することをけん制する狙いが誰の目にも明ら
かだった。
 このことを豊臣秀頼に事前に伝わるように
した。そして、秀頼に上洛し、家康と会うこ
とを命じた。
 秀頼は、若い後水尾天皇の後見人のように
なった家康に叛くことはできず、二条城で会
うことになった。
 これより前の慶長八年(一六〇三)に秀頼
は、秀忠の娘、千と婚姻していたため、祖父
に会うという気安さがあった。しかしこれに
は、いまだに残る豊臣恩顧の諸大名が神経を
とがらせ、加藤清正や浅野幸長らが秀頼の警
護にあたった。
 二条城に現れた秀頼は、十九歳の凛々しい
若者となり、家康は複雑な思いだった。
「秀頼様、やっとお会いできましたな」
「大御所様、その様をつけるのはおやめくだ
さい。私は大御所様を祖父と思うております。
大御所様におかれましては、ご健康そうでな
りよりです」
「そ、そうか。秀頼殿も立派になられた。と
ころで千はどうじゃ。息災にしておるか」
「はい。良き妻をめとり、秀頼は幸せ者にご
ざいます」
「おお、そうか。これからも仲ようの。何か
困ったことがあれば、なんなりと遠慮せず申
されよ」
「ははっ。ありがたきお言葉。これからも父
上様を見習い、仲むつまじく暮らしていきた
いと思います」
「父上とな。それは……」
「上様にございます」
「おお、そうかそうか。良い心がけじゃ。な、
これも何かの縁。以前、太閤様とわしは刃を
交えたこともあったが、天下統一という夢で
結ばれて、それを果たすことができた。今度
は秀頼殿と秀忠が、天下泰平という夢で結ば
れて、末永く続くように精進してほしい。そ
れがわしの願いじゃ」
「ははっ。この秀頼、若輩者ではございます
が、上様の手足となり犬馬の労も惜しみませ
ん」
「よくぞ申された。これでわしも憂いを残す
ことなく、余生を過ごせる。このとおり礼を
言う」
 家康は深々と頭を下げた。
「大御所様、どうか末永くご健勝で、この秀
頼を、お見守りください」
 秀頼は、家康よりも深く平伏した。
 こうして家康と秀頼の対面は何事もなく終
わり、豊臣恩顧の諸大名もほっと一安心した。
 二条城で秀頼との対面が何事もなく終わっ
て、一番ほっとしていたのは家康だった。
 これで安心して秀忠、竹千代に征夷大将軍
を継承させることができ、自分は身を引き、
余生をすごせると信じていた。
(この乱世をよく生き抜いたものだ)
 家康はそう思わずにはいられなかった。と
ころが、それを一変させる事態が起こった。
 しばらくして、家康のもとに秀頼と対面し
た時に警護していた加藤清正と浅野幸長が亡
くなったとの知らせが入り、その後も島津義
久、堀尾吉晴など豊臣恩顧の諸大名の死の知
らせが続いた。
 この偶然続いたとは思えない死に、諸大名
の誰もが真っ先に疑ったのは家康だった。
 以前、小早川秀詮が狂い死んだのは家康の
毒殺という噂が、一時広まったことを誰もが
思い出した。
 道春も、相次ぐ豊臣恩顧の諸大名の死には、
家康が関係していると思っていた。ところが、
家康が異常なほど狼狽し、それが演技には見
えなくなり、もしやと思い始めた。
「道春、わしではない。こたびのことは、わ
しは何もしておらん。秀忠にも何も命じてな
どおらん。あれにも問いただしたが、けっし
て謀(はかりごと)など企ててはおらん。な、
信じてくれ。これは天罰か。そなたを殺そう
とした報いか」
「それは違います。大御所様、落ち着いてく
ださい。ただ、正直を申せば、私も大御所様
を疑っておりました。でも今は違います。こ
れは淀殿の策略です」
「淀殿……」
「はい。これは淀殿が戦を仕掛けてきたのだ
と思います」
「そ、それは何故じゃ。わしと秀頼殿とは何
も争うことなどなく、縁者として仲良くして
おるではないか」
「私には、おなごの考えることは分かりませ
んが、もしかすると、それが怖いのかもしれ
ません。淀殿は、秀吉公直伝の兵法を心得て
おります」

2013年8月1日木曜日

易姓革命

 道春はこの頃、家康に度々、「易姓革命」
について問われることが多くなっていた。
「道春、明では古代から、天が徳のなくなっ
た君主を革め、新しい君主に変えるというが、
その天命をだれが聴くのじゃ」
「それは君主が悟り、自ら位を譲ることがあ
り、また民衆の不満を聴いた徳のある者が、
力によって君主を変えることもあります」
「では、天は武力をもって戦をすることも認
めるというのじゃな」
「それはそうですが、徳のない者が君主を変
えたところで、天は味方いたしません。先の
織田信長公を自刃に追い込んだ明智光秀が良
い例です」
「なるほど、すぐに見放されるということか。
では、徳があるかないかはどうして分かる」
「良い政(まつりごと)をしていれば、世は
乱れることはありません。仮に世が乱れたと
しても、一時的なことですぐに鎮まります。
そこには徳があるからです。しかし、世の乱
れが永く続き、それを鎮めることができなけ
れば、それは徳を失ったと言えるのではない
でしょうか」
「今はどうじゃ」
「はい。今は大御所様により乱世を終わらせ、
その後、すぐに上様に征夷大将軍の位を譲ら
れたことで、世は鎮まっております。これは
ひとえに大御所様のご威光と上様の徳があっ
たればこそと推察いたします」
「そうではない。この永い乱世が続いたこと
は帝の徳がないからとは思わぬか」
「帝……。まさか、大御所様は……」
「わしや秀忠は、帝の家臣にすぎん。この国
の君主は帝であろう」
「お恐れながら、帝は天照大神がこの地に現
れたお姿であり、天そのものにございます」
「そうだとしたら、今までの君主は帝が決め
たことになるが、そのようなことは、信長公
や秀吉公の時にはなかった。わしとて同じこ
と。秀忠に位を譲ったのは、わしの意思じゃ。
それを後で位を認めるというやりかたは天で
はなく、家臣を束ねる君主のごときじゃ」
「しかしそのようなこと、帝がお認めになる
でしょうか。この世が認めるでしょうか」
「そこじゃ。今は秀忠と秀頼のどちらが君主
かはっきりしない。君主不在の状態じゃ。こ
うしたことが起きたのは、帝が天ではなく君
主であり、君主が家臣を束ねる徳がないから
じゃと思わんか。それを帝に悟らせ、自ら位
を譲らせたいのじゃ」
「もしや、お恐れながら大御所様は、君主に
仕える家臣の地位を代々、受け継ごうとされ
ているのですか」
「そうじゃ。徳川は武家の棟梁として君主で
ある帝に仕え、政務をおこなっている家臣に
すぎん。けっして、信長公や秀吉公のように、
君主のごとき振る舞いをすることはせん」
「ははっ。恐れ入りました」
 道春は、家康の知略のすごさを思い知った。
 それから間もなく、後陽成天皇は、四十一
歳という若さにもかかわらず、十五歳の第三
皇子、政仁親王(この後、後水尾天皇)に位
を譲ることになった。
 家康が京でおこなわれる即位の礼に行く時、
道春も同行した。
 この出来事は嵐の前触れにすぎなかった。