2013年8月17日土曜日

顔面蒼白

 家康は、武士の戦い方にこだわり、織田信
長以前の戦い方に逆戻りさせていた。それに
気づいたのは稲葉正成だった。
 この戦に正成は、松平忠昌の補佐役として
付き従っていた。
 忠昌は、この年に十九歳で元服したばかり
の初陣で、緊張から顔面蒼白になっていた。
 正成の主君だった小早川秀詮は、関ヶ原の
合戦の時に十九歳だったが、幼い頃から豊臣
秀吉の戦に連れ出され、朝鮮出兵では、勇将
に引けをとらない戦いぶりをしていたので、
悠然としていた姿が印象に残り、それと忠昌
をどうしても比較してしまう自分に苦笑いし
た。
 正成は、忠昌の騎乗する馬に自分の馬を寄
せて声をかけた。
「この霧は、もうじきはれましょう。そうす
れば地に横たわる兵の遺骸がよくご覧になれ
ます」
「そっ、そうか」
「我らもいずれ遺骸になる身、観念すること
が肝要です」
「そうじゃな」
「もうじき、大御所様の本隊に追いつくはず
なのですが……」
 その時、前方ですでに布陣を始めている家
康の本隊が見えた。
 この前の戦で家康の本隊は、茶臼山に布陣
したが、この戦では、その手前の平野・天王
寺口に布陣の準備をしていたのだ。
 これを見た正成が、今度は顔面蒼白になっ
た。
 余裕が消えた正成に気づいた忠昌が声をか
けた。
「どうした正成」
「えっ、ああ何でもありません」
「嘘を申すな。心配事でもあるのか」
「はっ、この大御所様の布陣はよろしくあり
ません。これでは桶狭間になります」
「桶狭間」
 永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦が起き
た時、正成はまだ生まれていなかったが、乱
世の武士として当然、頭に叩き込んでおくべ
き戦だった。
 天下取りにもっとも近いといわれた今川義
元は、急速に力をつけてきた尾張の織田信長
を芽のうちに摘んでおこうと、大軍を率いて
駿府を発ち、尾張に進攻した。
 この時、徳川家康も義元に付き従う弱小の
身だった。
 迎え撃つ信長には、義元の大軍に比べ、十
分の一程度の二千人ぐらいの兵力しかない。
しかし、義元が桶狭間山の麓辺りで休息する
という情報を手に入れると、奇襲することを
決意した。
 信長は、義元の首一つを討ち取ることだけ
を部隊に命じて攻撃を開始した。
 信長の家臣は単独で戦地に赴くことも多く、
命令を待って行動する者はいない。それに比
べ、今川軍のほうは、軍の規律がしっかり守
られていて、義元や部隊長の命令で一糸乱れ
ずに行動するといった態勢になっていた。
 軍隊と軍隊の戦いなら今川軍のほうが圧勝
するはずだが、信長は義元一人を殺す二千人
の暗殺者という発想をした。
 暗殺者は単独行動するので、規律などない。
どう行動するかも予測はできない。
 今川軍の兵卒は、織田軍に攻撃されている
とは分かっても自分が攻撃されているわけで
はなく、規律により命令がなければ勝手に持
ち場を離れることはできない。
 指示待ちの状態で、あっという間に義元が
殺されたら、後は烏合の衆とかすだけだ。
 不意をつかれた義元の部隊は、戦闘体制も
整わない中で混乱し、義元は、斬りかかって
きた服部一忠をかわしたが、その間に近づい
た毛利新助に討ち取られ、信長に敗北した。
 この戦が今川家を衰退させ、信長が天下統
一に邁進するきっかけになった。
 正成の目の前には、皮肉にも義元と同じ駿
府から発った家康が、茶臼山の麓に布陣した
様子が、義元の大敗と重なって見えていた。
(大御所様は桶狭間の二の舞を演じるつもり
か。それとも、自分ならあんな無様な負け方
をしないとでもお考えなのか)
「正成、この戦が桶狭間と同じ結果になると
申すのか」
 正成は、忠昌の問いで我に帰った。
「はっ。豊臣勢が茶臼山に布陣したとなると、
この戦、どう転ぶか分かりません。豊臣勢は
決死の覚悟で、大御所様の御首ただ一つを狙っ
てきましょう」
「では、我らは御祖父様をお守りせねば」
「それはなりません。大御所様の大軍が混乱
すれば、若様の部隊もその中に巻き込まれ、
身動きが取れなくなります。ここは大御所様
の本隊から離れ、向かってくる豊臣勢の側面
か、背後からつくしかありません」
「そうか、あい分かった。正成、我らの部隊
をそなたが最も良いと思う布陣先に先導せい」
「ははっ」
 正成は、忠昌の部隊を家康やその隣の岡山
口に布陣した秀忠から遠ざけ、先の戦で布陣
した河内枚方に先導した。そこは戦闘の最前
線となっていたが、豊臣勢には忠昌の部隊を
攻撃する余力はなかった。
 豊臣勢は徳川勢に比べ、三分の一程度の兵
力で最後の決戦を挑もうとしていた。
 最初に動いたのは、徳川勢の本多忠朝の部
隊だった。
 忠朝の部隊は、毛利勝永の部隊が布陣して
いた天王寺に向かい、鉄砲衆に銃撃させた。
これに対して、勝永の部隊も鉄砲で応戦し、
銃撃戦となった。
 勝永は、向かってくる鉄砲衆を引きつけ、
一斉射撃させて撃退した。これで部隊の気勢
が上がり、勝永は部隊の編成を変えることを
決め、子の勝家と山本公雄を一部隊とし、浅
井井頼と竹田永翁を一部隊として二つに分け、
それぞれを徳川勢の最前線に出撃させた。そ
して、勝永の部隊も忠朝の本隊に向かい反撃
を開始した。
 忠朝の本隊は、決死の覚悟で向かってくる
勝永の部隊に浮き足立ち、忠朝は討ち取られ
た。
 そこにやって来た徳川勢の小笠原秀政、保
科正光の部隊と勝永の部隊は混戦になった。
 徳川勢が勝永の部隊に集中し始めたのを見
た茶臼山の真田幸村は、眼前の松平忠直の陣
に突撃を開始し、豊臣勢の大谷吉治、渡辺糺、
伊木遠雄の部隊も後に続いた。
 岡山口の本陣で、二手から攻撃してくる豊
臣勢を凝視していた秀忠は、前田利常、藤堂
高虎、井伊直孝の部隊を出撃させ、本格的な
戦闘を開始した。
 この動きを見た豊臣勢の大野治房の部隊は、
前田利常の部隊を迎え撃ち、密かに奇襲部隊
を秀忠の本陣に向かわせて、秀忠の動きを封
じた。
 家康は、本陣近くに待機していた旗本の部
隊も次々に援護に出撃させざるおえなくなり、
防備が手薄になってきた。