2013年8月22日木曜日

自然の力

 道春は、六月末になってようやく刷り上っ
た大蔵一覧の全十一冊を十部、弟子たちに運
ばせて、家康のもとにやって来た。
「おお、道春、待ちかねたぞ」
「はっ、お待たせして申し訳ありません。な
んとか百二十五部刷り上り、これに十部お持
ちいたしました」
「どれ、はよう見せてくれ」
「はっ」
 家康は大量に積まれた大蔵一覧の中から一
冊を取り、めくって見た。
「おお、これは見事じゃ。朝鮮の活字と遜色
ない。いや優っておるかもしれんな」
「恐れ入ります。皆がそのお言葉を聞けば喜
びましょう」
「早速これに朱印を押し、寺に奉納しよう」
「はっ」
「ところで、道春は戦のことは気にならんの
か」
「いえ、気にはなりますが、大御所様のお顔
を拝見して、それだけで十分にございます」
「そうか」
「……お話いただけるのなら聞きとうござい
ます」
「おお、そうか、そうか。いやな、大変であっ
た。一時は自刃も考えたほど豊臣勢に攻め込
まれた。そこをまた正成に助けられたのじゃ」
「ほう、正成殿が」
「そうじゃ。孫の忠昌をよう補佐してくれた。
正成こそ武勇と知略に長けたまことの勇将。
わしも以前は目をつけておったが、間違って
はおらんかった。もっと早よう仕官させるべ
きじゃったな」
「正成殿がそのお言葉を聞けば、泣いて喜び
ましょう。私の今があるのも正成殿のおかげ
にございます。もともと私にはたいした能力
はなく、優れた家臣に恵まれていたこと。こ
れで大御所様にも、お分かりいただけたので
はないですか」
「それはどうかな。優れた家臣が何の取り得
もない主君を慕うことはあるまい。そう考え
れば、秀頼もあれだけの勇猛な浪人たちに最
後まで忠義を貫かせたことは、あなどれない
能力がある主君に成長していたということか。
それとも淀の力か。まあどちらにしても、こ
たびの戦は二人にいいように振り回され、操
られていたように思う。挙句の果てには国松
という難題まで押し付けられた」
「秀頼の子が、生きていたのですか」
「そうじゃ。国松と奈阿が城外で見つかり、
わしのもとに来た。道連れにしてくれれば良
かったものを……」
「大御所様は、以前から吾妻鏡をよく読んで
おられましたが、そこに答えはありませんで
したか」
「ふむ。源頼朝と義経を生かしておいたから
平家は滅亡した。仇討ちを止めるには、まず
子から殺すということは分かる。だからわし
も国松を斬首にした。しかし、千に泣きつか
れて奈阿は生かした。これが良かったのかど
うか」
「この世から戦や仇討ちをなくすには、人の
力ではなく自然の力であたらなければ解決し
ないのではないでしょうか」
「自然の力」
「台風や地震は、老若男女の区別なく殺しま
す。そこには慈悲や人の思いが入り込む余地
はありません。今の神は人の都合のいいよう
に振る舞いますが、自然はそうはいきません。
自然こそが本来の神のありようです。こたび
の戦は、秀頼や淀に操られたのでも、大御所
様や上様のご意志でもなく、自然が戦を終わ
らせたのではないでしょうか」
「それが自然の力か。しかし、それを民が理
解できるであろうか」
「問題は、台風や地震が過ぎ去った後をどう
するかと同じように、この後にかかっている
のではないでしょうか」
「戦がなくなったことを世に示すということ
じゃな」
「はい」